ロバート・ブローニングと共に聴くオペラ
ロバート・ブローニング(1812-1889)については、全訳がない。その死の直後、上田敏先生の「海潮音」に取り上げられて以来、漱石や龍之介のネタ元になり、キリスト教の説教師には『宗教詩人』と、小泉八雲の教えを受けた厨川白村からは『人生詩人』と持て囃されたブローニングだが、その反動からか、戦後日本の現代詩人には人気がない。木原孝一『現代詩入門』に『ピパの歌』を引いて曰く「そんな弛緩した精神では、詩を書く意味がない」と、御大層なご意見はしかし、当時の空気ではあった。戦争が終わって新しい日本が再出発しようという時代に、説教師が取り上げたような『宗教詩人』『人生詩人』は、もはや煙たかったのだ。
彼の遺した詩が実際には、宗教を宣べ伝えるどころか宗教者に対して辛辣であったのは、今まで未訳だった「スペイン廻廊での独白」「ヨハネス・アグリコラ」「聖プラッセーデ教会の墓」など数篇を見るだけでも明らかであろう。宗教を素材としたその立場は、『悪の華』を遺したシャルル・ボードレール(1821-1867)と大差ない。時代的にもボードレールより少し前から活動を始め、ずっと長生きして詩を作り続けた人で、特に英米の詩人に対しては、ボードレールに匹敵する存在である。
ボードレールが美術評論家として活動を始めたのに対し、ブローニングは舞台を目指したとされるが、ここで断言しよう。ブローニングの舞台とは、オペラであった。何故ブローニングの詩がしばしば、行った事もないスペインを舞台とするか。オペラの舞台が多くスペインであったからである。では何故、『先の我が公妃』はイタリアのフェッラーラを指定したか。ロンドン初演から間も無いドニゼッティ『ルクレツィア・ボルジア』をネタにしたからである。また何故『ハーメルンの斑な笛吹き』は、3音ずつ笛を吹くのか。下敷きにしたモーツァルト『魔笛』がフリーメイソンの台本であり、フリーメイソンの聖数「3」を象徴したからである。
とまあ、オペラファンならば思わずニヤリとする仕掛けがあちこち仕込んであるので、そうでない真面目なだけの評論家および英文学者に通じなかったことは間違いなく、註釈書にもオペラの影響など全く無視されているのは最早笑うしかない程である。
しかし、ごく限られた人しかオペラを観に行けなかった当時はいざ知らず、居ながらにして各種録音を楽しめる現代にまで音楽を切り捨て、不毛なブンガクをのみ引き摺るのは如何なものか。レッド・ツェッペリン『天国への階段』が(おそらくは無意識のうちに)『笛吹き男』の終わり近くを変形して引用し、傑作を成したのに較べて、ブンガク者共の何といじましいことか。
とはいえ、詩人仲間のうちにもオペラファンは見当たらず。プッチーニ『ラ・ボエーム』描くところの貧乏詩人でもあるまいし、歳は取っても見聞を広める必要は常にあると思うのだが。
まあ『ルクレツィア・ボルジア』に関してはしょうがない事情もあった。その台本はヴィクトル・ユーゴーの戯曲を元にしたのだが、ドニゼッティが頼った台本家は原作者に無断で盗用した。フランス公演でそれがバレたものだから(当たり前だ)、ユーゴーが怒って公演差し止めを訴え、結果『ルクレツィア・ボルジア』としては上演できなくなったりしたのである。加えて派手なベルカント・オペラが次第に飽きられてきた事情もあり、モンセラート・カバリエの当たり役となるまで、ほぼ忘れられた作品と化していた。
往年の名ソプラノにして、フレディ・マーキュリーと組み日本語で歌うというお茶目も披露したカバリエも遂に、2018年10月6日を以て天に召され、今や遺された録音を聴けるばかりである。廃盤とならない事を切に願う。