②(消滅した家)
桑田家は、町外れの山寄せに在る大きな農家である、主人の隆夫婦には、子共が二人いて上の子が男の子下が女の子である。
二人の子は、利発で教育熱心な父親は、二人に最高学府の教育を受けさせた。
当然の事ながら地元の工場に勤める父親の給与だけでは賄い切れずに父親は、代々伝わる農地を手放す事となる。
「お父さん、私達の代で、ご先祖様から預かった大切な田圃を放して良いの」
「仕方ないだろう、子共の為に放すのならご先祖様も承知してくれるはずだよ、それに子共が成長した後は、私達の行く末も安泰というべきだろう」
と夫は、妻を説得し桑田家の一番良い田圃を二か所も売り、そのお金を子共の教育に注ぎ込んだのである。
月日は流れ二人の子共も大学を卒業したが二人共故郷には、帰らず東京で就職した。
田圃を二か所も放したとはいえ、代々続く桑田家である。
広い屋敷に夫婦で住んでいたが主人の隆も地元の工場を定年まで勤めて退職し、農業に従事しながら悠々自適の生活で普段は、身体に障害を持つ女房の精神的・肉体的な支えに成りながら、夫婦共仲良く元気で農作業に従事していた。
主人は、酒が大好きな好々爺だったが、その夜も酒を飲み妻より早く布団に入り、それっきり起きてこなかったのだ。主人が突然に亡くなったのである。
年老いた女房は、夫の異変に気付くと、慌てて不自由な身体で朝早く隣家に駆け込んだのである。
「定さん・定さん、ちょっと来て、お爺さんが変なの」
「まぁー幸子叔母さんそんなに慌てて如何したの」
「お爺さんが、お爺さんが動かないの」
隣家の主婦の定が寝室に入いり布団の中の主人を確かめるともう冷たくなっていた。
「叔母さん、もう駄目よ、冷たく成って居るわ」
定の言葉を聞いた幸子は、その場に崩れる様にしゃがみ込み頭を抱えると
「お爺さん、どうして私を残して逝ってしまったの」
と言いながら泣き崩れた。その姿を見た定は、幸子に声が掛けられなかった。
この隣家の老夫婦の日常を間近で見ている定に取って、いかに幸子が夫の隆に依存して生活をしているかを見聞きしているだけに幸子の悲哀が理解出来る様な気がした。
定が嘆き悲しむ幸子を慰めていると、定の亭主もやって来て、その状況を見るなり
「救急車、救急車、電話、電話」
と慌てながら出て行った、程なく救急車とパトカーが来て集落は、大騒ぎになったが、事件性が無い。
と言う事で騒ぎも静まり隣組の連中が集まり葬儀の打ち合わせを始め出した。
程なく隣町に住む幸子の兄の幸一が駆け付けたが幸子は、幸一を見るなりに
「兄さん、私しゃーこれからどうして生きて行けば良いの、お爺さんがいなければ何も出来ないのに」
と言って幸子は、幸一に取りすがりながら泣くばかりであった。
幸一と隣組の話合いで葬儀は、葬祭ホールで行う事を決め葬祭ホールの吉田事務員に連絡した。
桑田家から連絡を受けた吉田こそ私は、桑田家に出向いた。
そこには、四十代の女性と八十代の男性の二人が居て私が座敷で
「このたびは、ご主人様が突然の事で御悔み申し上げます。又本日は、お電話有難うございます」
と挨拶すると男性が
「葬儀屋さん、このたびは、隆さんの葬儀について御世話になります。其処で相談だが御存知の様に桑田家の親族は、娘の高子とわしだけで娘の亭主は、仕事の都合上出席が出来なくて」
「失礼ですが、他の御子さん達は、どうされますか」
「うん隆さんには、二人子供が居るが、今兄の文雄の方は、現在海外に居て、とても葬儀には、帰れない。妹夫婦と伯父さんで頼みます。と言う事で、吉田さん宜しく頼みます」
隆の葬儀が葬祭ホールで行われたが親族も参列者も少なく寂しい葬儀だった。隣組の連中は
「おい、文さんは、どうしたんだい。親の葬式に帰って来ないのかい」
「徳さん、知らないのかい文雄さん一家は、今海外に居て帰れないそうだよ」
「高ちゃんは居たけど旦那は、居なかったね」
「高ちゃんの旦那も仕事で出席出来ないんだってよ」
「へぇ―皆、偉い人なんだね」
「そればっかじゃー無いよ、高ちゃんの家族も近々アメリカに移住するそうだよ」
「そうなったら、ここの婆さんは、どうなるんだい」
「さぁー老人ホームでも入るんだろう、何代あの身体だもの高ちゃんが連れて行くわけなかろう、子供もあまり頭の良い子も考えもんだね」
「そうだね、幸子婆さんも、どうするのかね」
「こればかりはもぅー御天道様でも分らないだろうって」
「それにしても、桑田家は、どうなるんだろう、住む人が居なくなって」
すると一人の男が声をひそめ
「ここだけの話なっ、昨夜高子さんが伯父さんと話していたのだけど家を大和不動産に売るらしいよ、勿論田地田畑付きで」
「すると家屋敷は、どうなるんだい」
「あの古家だよ勿論更地だろう」
全員それを聞くと黙って仕舞った。其処に居た年寄り連中には、明日は我が身と身に沁みたのである。集落も桑田家と同じ様な老人世帯が多数なのだ。
葬儀も無事に済み、隆の遺骨は、御寺の桑田家の墓に納めた。
少ない親族も隣組の人も帰り桑田の家に幸子と娘の高子、幸子の兄の幸一だけが残った。すると高子が母親に
「お母さん、お父さんが亡くなって、これからどうするつもりなの」
「私しゃー出来ればこの家に住みたいのじゃが」
「悪いけどお母さん、その身体では、一人暮らしは無理よ、お父さんがいなかったら何も出来ないでしょ、昨日兄さんと話をしたのだけど、お母さん私達と一緒に住みましょう」
幸子は、娘の申し出に幸一の方を見ると幸一は、腕を組んだままだった。すると高子は
「伯父さんも、そう思うでしょ、ねっお母さん私達と同居と言っても僅かの期間よ」
「高子、それは如何いう意味だ」
「伯父さん、私達一家は、アメリカに行くのよ」
「それは、主人の都合かね」
「そう、あの人近々アメリカに転勤するの、家族で話し合って全員でアメリカに移住する事を決めたのよ」
「そうすると幸子は、一人になるのかね」
「伯父さん、その点は大丈夫よ、私の家の近くに特別養護老人ホームの良いのが有るから、お母さんには其処に入って貰うのよ」
「そんなに簡単に入れるものかね」
「大丈夫よ、此処に来る前に予約オッケーを貰って居るから」
「手回しが良いんだね、幸子お前は、どうなんだ」
「兄さんも、私に老人ホームに行けと言うのかい」
「そうでは、ないけど、お前本当に一人で生活出来るのかい。その身体では、無理な事は判るがこの際子共が言う様に施設に入った方が良いのではないか」
「伯父さんも、そう思うでしょ、お母さん我儘云わないで、施設には、同じ年代の人達だから、すぐに慣れるわよ、新天地に行く様なものよ」
幸子は、幸一と高子に説得され渋々老人ホーム行きを承知した。
「それから、お母さん東京に来る時の荷物は、このカバン一つにしてね、必要な物は全部こちらで揃えるから」
「高子や、このカバンだと、お爺さんの位牌と仏具しか入らないよ」
「それでいいのよ、この家に在る物は、全部処分するつもりよ」
「処分するって、この家もかい」
「そうよ、お兄さんと相談して売る事に決めたわ」
「お前も賛成したのかい」
「勿論よ、だって私達家族もアメリカに移住するのよ、向こうで家を買う心算だから」
高子の話を聞いて幸子は、もう何も云わなかった。
もう何を言っても無駄だ。
子供達は、決めている。生まれ育ったこの古家より異国の地の新しい世界に目が向いているのだ。
次の日葬祭ホールに娘と費用の支払いに行き幸子は、ホールで世話に成った吉田に一つお願いをした。吉田は快く幸子の依頼を引き受けてくれた。
後日私は、桑田幸子の訪問を受けた。
「吉田さん、先般お願いしていた事、明日都合付きますか」
「エッ、あっそうか良いですよ、お婆さん明日九時にお邪魔しますから」
「御免なさいねぇー、無理ばかり言うて」
といって帰って行った。実の所私は、桑田のお婆さんから頼まれていた事を、すっかり忘れていたのだ。
桑田家の葬儀が済み親子でホール利用料の精算に来た時に私は、幸子婆さんから相談を受けたのだ。
「吉田さん、私しゃー、貴方にお願いが有るのだけど」
「なんでしょ、私に出来る事なら」
「貴方コンピューターが使えます」
「コンピューターですか、どの様な物です」
桑田のお婆さんは、両手で輪を作り私に
「これくらいの大きさの物ですけど」
「あぁノートパソコンですね、だいたい判りますけど」
「お爺さんが使って居た物だけど私しゃー、判らないし使えないから」
「でパソコンから何を調べるのです」
「それは、又後で、貴方の都合の突く日でかまいません。急がないから」
「お婆さん、私は何時でも良いですから連絡を呉れますか」
と言って親子は、帰って行ったのだが、それから当分連絡が無く私は、完全に忘れていたのだ。
翌日私は,桑田家に出向いた。
「今日は、桑田さん、吉田です。いらっしゃいますか」
と玄関で声を掛けると奥の方から
「少し待ってね、今開けるから」
と言いながら玄関を開け
「まぁ、まぁこのたびは、無理を言ってすみません、どうぞ上がって下さい」
と言い私を奥の座敷に案内し
「ここが、お爺さんが日々使って居た部屋なの、吉田さん。お願い、ここで捜し物をして頂きたいの」
「お婆さん、私に何を捜せと」
「実を言うとね、私しゃーこの家を出て行かなければならないの」
「どうして、何処に行くのですか」
「娘がね、身体の不自由なお婆ちゃんを一人で置いて置くのは、心配だから私の家に来て一緒に住みましょ。と言うけど良く話を聞くと娘達は、近く海外に移住するの、私は娘の家の近くに在る老人ホームに入る事になっているのよ」
「この家は、どうなさるつもりです」
「もう、この家も田地田畑も娘夫婦が不動産屋さんと話をしていて、この家にも十日程しか住めないの」
「お婆さん、娘さんは、この家を、どうするつもりですか」
「娘夫婦と不動産屋の話だと、この様な古家は、更地にするそうよ、私に取っては、主人と過ごした住み家なの、でも娘は、自分が育った我が家を、お母さん、私の所にいらっしゃい。新しい家は、綺麗よ、それにこの古家は、潰して更地にすれば思い出もなくなるわよ、て言うのあの子達は、思い出よりもお金の方が良いのよ、私の育て方が間違って居たのね」
老婆の嘆きに私は、言葉が無かった。私も都会のネオンに憧れて母の思いを無視し、その結果母を孤独死に追いやったと言う思いがあるからだ。
私は、出されたお茶を口にしながら
「で、お婆さん私に何を捜せと」
「私しゃー、こんな身体じゃけん娘の言う通り老人ホームに行こうと決めたんじゃー、娘がこの家から持ち出すのは、お父さんの位牌と小さなカバン一つだけにしなさい。後はこちらで用意するからと言うけど、私しゃー一つだけ、持ち出したい物が有るんです」
と言って私に小さなカバンを広げて見せた。
其処には仏壇に供える小さな食器や線香立てが綺麗に紙に包んで仕舞って有った。
多分彼女は、老人ホームに行っても、亡くなった御主人の膳は、毎日欠かす事は無いだろうと思った。
「それはそうと、お婆さん、その持って行きたい物って何ですか」
「歌ですらぁー」
「エッ、歌ってどの様な」
「それが判らないから、貴方様に捜して欲しいのですじゃー」
「私に判りますかねぇ―」
「それがねぇー、私にもよく判らんのじゃー、と言うのは、お爺さんは、毎夜風呂に入って、その歌を唄い終わらないと風呂から上がって来なかった。私がお爺さんその歌は何の歌と聞いたら、この歌は、誰の歌でも無い。わしの歌じゃーと言うて、私にも教えてくれなかったのじゃー、しかしお爺さんは、機嫌の良い時は、何時も口づさんで居た、私しゃー後十日もすればこの家を出て行かなきゃならない。今迄お爺さんと過したこの家の思出も何もかも無くなってしまう、だからせめてお爺さん
が口ずさんでいた歌を知りその歌を位牌の前で、お爺さんに聞かせたいと思うたのじゃー」
「お婆さんの云われる事は、判りました。でもその歌がパソコンに入って居るとは、限りませんが」
「その点は、大丈夫じゃー、お爺さんは几帳面な人じゃーったから何でも記録しているはずじゃー、しかし私しゃー、コンピューターなんか使えんから」
私は、改めてパソコンを見て見ると、特別の箱にフロ
ッピーが五十枚程入って居て色別に番号を振って居る。作成した本人は、フロッピーの色と番号で管理していたのだと思った。
私は、まずフロッピーを色別に分けて番号の若い順から見て行く事にした。
パソコンを見ていて、お婆さんの云う様に、ここのお爺さんは、几帳面な人だと思った。
地域の行事・集会などの記録や計画・報告書・会計決算書等々が何年にも渡って作成されている。
内容を一々見ていては、時間が掛って仕方が無いので色別で捜す事にした。
先程の黄色いフロッピーは、地域に関する文書だったが青・白・緑と捜していると赤色のフロッピーの中に
「還らぬ夢」と標題が付いた項目を見つけ、そこを開くと
「還らぬ夢」
春爛漫の花の宵朧の月に誘われて過した時の喜びは心に残るその思い
夏草茂る清流の水の流れに身を任せ過ごした日々の楽しさは瞼に浮かぶ友の顔
秋の祭りの華やかさ祭囃子に誘われて遊んだ時の嬉しさは身体に残るその音色
冬空に舞う雪の華山里染めし一色に今無き里に影も無く心で燃ゆる囲炉裏の火
老さばらえて見る夢は遠き昔の事ばかり過ぎ去る日々は還らない夢見た後の切なさよ
私は、すぐにお婆さんを呼んだ
「お婆さん、これを見て下さい。これでは、無いですか」
すると幸子婆さんは、パソコンの画面を覗き込むと
「そうじゃー、そうじゃーこれ、これじゃーお爺さんが口ずさんでいたのは」
「これ、どうします、フロッピーを持って行きますか」
「私しゃー、そんな物持っていても役に立たない。吉田さんこれ紙に書けませんか」
「印刷ですか、出来ますよ、しましょうか」
「そうして呉れますかのぉー」
私は、まず詩を印刷して老婆に渡すと、老婆は其れを手にして食い入る様に見つめていた。
私は、再びパソコンに向かい調べ始めた。作詞が有るのなら作曲もしていると思ったからだ。
しかし幾ら捜してもフロッピーの中には、楽譜は、見付からなかった。
「お婆さん、お尋ねしますけど、お爺さんは、その歌をどの様な節回しで唄って居たのです、フロッピーの中に楽譜が無いのですが」
すると老婆は、手にしている紙から顔を上げると
「お爺さんは、わしは、曲なぞ判らん、第一お玉杓子なぞ読めも、書けもせん。と言って居たからのぉー」
「でも、お爺さんは唄って居たのでしょ、どの様な節回しで歌っていました」
「私も良くわからんけど、ゆったりとした節回しで唄って居たのぉー」
「お婆さんは、お爺さんが唄う歌が、どこかで聞いたとか、あの歌と良く似ているとか思いませんでしたか」
「そう言えば、お爺さんが唄って居る時、この歌は、「荒城の月」に似ていると思った事が有るのぉー」
私は、曲作りの出来ない、お爺さんが「荒城の月」の曲に合わせて唄って居たのだと想像した。それにしてもこの歌詞は,老人の心情をよく表していると思った。
「お婆さん、捜し物は、これだけでよろしいか」
「有難う、吉田さん私しゃーこれで心無くこの家を捨てて出て行く事が出来る。たとえ一人に成ってもお爺さんの位牌と思い出の歌があれば、寂しい事なぞ無いから」
そう言って、強がりを言う年寄りの気持ちを思うと、私は、やるせない思いに陥ってしまった。
あの歳になって、住みなれた思い出多い我が家を追われ一人他国で住まねばならない身に成って仕舞った事が、幾許の事か、その中で生前頼って居た夫の位牌と歌詞に心の安寧を求めるのも無理からない事だと思った。
私は、老女がプリントされた歌詞を四つ折りして大切に位牌と一緒にカバンに入れるのを見ると
「お婆さん、そのまま歌詞をカバンに入れるとすぐに破れますよ」
と言って私は、老女から歌詞を受け取るとカバンからクリヤファイルを取り出して納め
「お婆さん、これなら破れませんよ」
とファイルを渡すと
「有難う、吉田さん迷惑ばかりかけて」
と私に礼を言いながらカバンに顔を埋め、さめざめと泣きだした。
老いは、誰しも抗う事の出来ない定めとして、老境に入り身体に障害を持つ老婆の心情は、幾多の人にも理解出来ない悲しみを背負って行かなければならないのかも知れない。
夫婦として長い月日と苦楽を共にした大切な伴侶を突然に失い嘆き悲しむ老婆に老人ホーム行きを進める息子や娘、我が子ゆえに他人に話せない心情その思いも含め私は、その姿を見るのが忍びがたく、早々に桑田家を退出した。
桑田のお婆さんが、娘の所に行って十日程経っと、桑田家の取り壊しが始まり、まもなく更地になった
幾世代も農家として存在した桑田家が消滅し、昔からの集落の風景の中に大きくスッポリと空いた穴の様な更地になった。
桑田家の消滅から一年も経たないのに後地には、十数件もの家が建ち、チマチマした個性のある新築の家が競う様に建ち周囲の風景から異質の空間を持つ一角として異様な雰囲気を醸し出していた。
のどかな田園風景から一つの農家が消滅していったのだった