犬の名前。
犬の名前がミチル。
意図を感じずにいられない名前だ。
人に似た名前っていうのは、それなりの理由があってつけることが多い。
私はそういうの、スキじゃない。
「彼女の名前――」
「え?」
「……え?」
怪訝な眼差しを受けて、そこでようやく自分の失言に気づいた。
な……!
思ってたこと、口から出ちゃってた!?
慌てて口を塞いだけど、もう遅い。
彼はきょとんとした目をしていたけれど、私の言葉の意味を理解すると、彼も彼で焦って「違う」と首を横に振った。
「そんなんじゃないから。彼女いるけど、ミチルなんて名前じゃないから」
「え? じゃ、元カノ?」
絶句する彼の顔を見て、再び失言に気づいて、私は青ざめるばかり。
こ、この口は……!
何で思ったことポンポン出てくるの!?
彼が何か言うより先に、私は「ごめん!」と頭を下げた。
「気にしないで! 初対面の人間のたわごとなんて!」
彼は私の行動にあぜんとしていたけれど、やがて苦笑を浮かべて「元カノでもないから」とつぶやいた。
え? だったら何?
思わず口から出そうになった言葉を飲みこんで、口をふさぐ。
そんな私の挙動の不審さで、彼も言いたいことがわかったようだ。
彼は困ったように目を反らせた。
できれば聞きたい。
気なってしょうがないから。
でも初対面の人間に無理に話させることでもない。
話してくれないだろうか。
そんな期待に満ちた目で見つめていると、初めは気づかないフリをしていた彼も、観念して息をついた。
「笑わない?」
「笑わない笑わない」
即答する私に「本当か?」と不審そうに眺めていたけれど「ウソはつきません。本当です」と澄んだ眼差し(自分比)で見つめて訴えた。
彼は顔を背けてぽつりとつぶやいた。
心なしか、顔が赤くなっている。
「うちの……母親の名前……」
……うわ。
笑わなかったけれど。
つーか、笑えなかったんだけど。
別の意味でどん引きだぁ。
私がすぐ返事をしなかったことと、引きつった表情に気づいて何を考えているのか察したのだろう。
さらに焦って「違う」と言いつのった。
「俺じゃないから。名前つけたの、母親だから」
……本人が本人の名前を犬に?
それもまた奇妙な話だ。
日常生活でややこしくなること請け合いの名前をつけるなんて。
これまた私の表情だけで、言わんとすることを彼は察したらしい。
「ホント、なに考えてるんだか」と苦くつぶやいた。
彼の話によると、その犬も母親が独断で譲りうけ、そうして身の回りのことをしつけたあと、息子にあずけたのだという。
いずれはペットを飼うつもりで選んだペット可のマンション。
しかし、こうなるとは予想外だった。
もともと彼の実家には黒毛のラブラドールレトリーバーがいる。
母親の話によると、そのラブラドールとの折り合いが悪いらしい。
それで新たに加わった家族を息子にあずけたのだ。
「『ミチル』って名前にしか反応しなくて。いい迷惑だよ。彼女も呼べやしない」
かすかに頬を赤くしながら、彼はぶつぶつとごちる彼。
ラブラドールがほかの犬種と折り合いが悪い?
そんなまさか。と、私は内心考えた。
うちの実家にもラブラドールがいる。
人なつっこく、犬にもなついていくから「番犬には向かないなぁ」と家族で苦笑をもらすほどだ。
そう思うと、ピンときてしまった。
母の名前をつけたわけも、その子を彼に押しつけたわけも。
不意に考えついたことに、私は我慢できずに吹き出していた。
失礼だとわかっているけど、止められない。
体を屈してテーブルにつっぷす。それでも笑いは止まらない。
急に笑いだした私に、彼はぎょっとしている。
不審な眼差しを受けているのもわかっていたけど。
ちらりと彼を盗み見すると、困りきった顔で私を見ていた。
ホントにわかんないのかな。母親がどうしてそんなことしたのか。まあ、私の考えも当たってるかわかんないけど。
でも、たぶんそれはさ。
虫よけ。だと思うよ。
……なんて、さすがに言えなくて。
『彼女も呼べない』って自分でも言ってるくらいだから気づきそうなんだけどなぁ。
それにしても。
なんてナイスなお母さん!