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君に似た面影に似た  作者: ツナ缶
4/4

これにて終了になります。

だいぶぼかしてますが、表現上きついシーンがあるかもしれません。読み手の想像力次第っちゃそれまでですが。




 一番年下であるということ。それは私にとって、紛れもなく救いだった。単純に、その輪の中で劣っていても許されるからだ。一つ年が下の年代なのだから、もちろんみんなより一年間分生きていない。年を、重ねていない。その積み重ねがない分、晃ちゃんや美織ちゃん、誠お兄ちゃんよりも劣っていて当たり前。そんな卑しい免罪符が、ずっと私の中にはあった。そうして自分を、慰めていた。

 泣いて、慰められていた。年下だから。劣ってるから。

 そうやって、自分を高めようともしないくせに、晃ちゃんに好かれる美織ちゃんを羨ましく思っていた。

「下ばっか見てると、頭ぶつけるぞ」

「え?」

 突然背後から聞こえた声に、慌てて顔を上げる。すると視界に一杯の緑色が広がって。

「ひぁっ!?」

 咄嗟に体を逸らして避ける。気づかないうちに木の枝に近づいていたようだ。驚いてうるさくなる鼓動を感じながら、後ろを振り返る。

 晃ちゃんが、いた。笑いを堪えるように、口元に手を当てて。

「……すごい声だったな」

「……うん」

「あと、今のは僕が声をかけたから、顔面に当たりそうになってたよな。ごめん」

「うん……まぁ、でも。頭に当たるのも嫌だし」

 どちらにせよ、私の注意不足が一番悪い。情けないやら恥ずかしいやら、そんな感情が胸に渦巻いて、私は思わず頭を掻いて、笑った。

「……どうしたの?」

 漏れた呟きは、そんな質問だった。内容が足りてない。主語もない質問に晃ちゃんは私と同じように、頭を掻いて笑う。

「どうしたのっていうか……うん、どうもしてないかな」

「……当分、ここには来ないと思ってた」

 なんとなく、そう思っていた。ここにはずっと美織ちゃんがいる。いつまでも。私たちの記憶通りの美織ちゃんが、私たちの記憶通りに振舞ってくれる。そんな優しい、残酷な場所だ。

 逃避か、決別か。どちらの選択にせよ、もっと時間がかかると思っていた。

「自分から呼んだんだから、そりゃ来るだろ」

 無遠慮な物言いが後ろから聞こえて、私は振り返った。まず目に入ったのは、浮かぶ白い煙。

「歩き煙草なんてするような奴になってしまったのか、誠お兄ちゃん」

「うるせぇ。おまえがその呼び方するな」

 私はまた、人が近づいてくる気配に気づけなかったのか。いつのまにか誠お兄ちゃんが、火のついた煙草を口に咥えながら立っていた。

「佐奈に嫌われるぞ。こいつ煙草苦手なんだから」

「昨日佐奈にはフラれたばかりだからな。傷心にはこいつが手放せない」

「開き直って吸うのもどうなんだよ」

「煙草をやめたら俺を好きになってくれるわけでもないし」

 ……なんか、私を置いて私に関する会話をしながら、二人して廃工場に入っていこうとするのは、いったいどういうつもりなんだろう。

「ごめん、ちょっと話についていけないんだけど」

 私が不満げにそう口にしながら二人の後についていくと、二人とも同時に振り返った。そして、二人同時に笑う。

 ……何度も見た光景だ。口を開けば言い合いばかりなのに、私をからかおうとするときばかりチームワークが良い。

 そうして、私をからかって、私が怒ったりして、その様を、美織ちゃんが窘めるのだ。二人とも子どもっぽい。そんな風に口にして。

 口では勝てない二人を無視して通り過ぎ、私は先に廃工場の中に入った。高原の乏しい廃工場の中は、割れた窓から差し込む日の光だけがひたすらに明るい。まともに掃除なんてしていないから、その光に照らされた埃や砂が見えて、不衛生極まりない。決して良い環境ではない。けれど見慣れた、懐かしい光景。

 何も言わず、目も合わさず、私たちはいつもの場所に座った。まるでそれが当然のことのように。私は、キャスターが壊れて動かない椅子に。誠お兄ちゃんは所々塗装が剥げた事務机に。晃ちゃんは、落書きだらけの長机に腰かけた。四角形になるように置かれた、各々の定位置。一つだけ空いた、背もたれが壊れて動かない椅子には、誰も座らない。

 そこは、美織ちゃんの場所だった。

 私たちが四人、この廃工場で集まって話や喧嘩をした、いつもの在り方の、名残だ。

「……何年ぶりだろうな」

 誠お兄ちゃんが目を細めて呟く。主語のない言葉でも、いったいそれが何を指しているのか、私にも晃ちゃんにもわかった。

「あんたが勝手に外国に行く前だから……まぁ、二年前じゃないか?」

 晃ちゃんはわざと、勝手にと言葉をつけた。別に私たちの間で、進学先の相談をしなければいけなかったわけではない。でも、一言ぐらいあると思っていた。誠お兄ちゃんは私たちの誰に相談するでもなく、自分で決めて、気づけば外国の大学への道のりを手にしていた。

 裏切られた。なんて、大袈裟な言葉を用いるつもりはないけれど。少なからず、私は衝撃を受けたことを憶えている。

 晃ちゃんのほんの少しだけ責めるような口ぶりにも、誠お兄ちゃんはそ知らぬ顔を浮かべていた。

「相談して難色示されようと、行くことは決めてたからな。無駄なことはしねぇよ」

「美織には話したのか?」

 晃ちゃんは少しも気負いもせず、美織ちゃんの名前を口にしていた。

「話したよ。めちゃくちゃ、反対された」

 苦笑を浮かべ、言葉を続ける。

「怒られたし、泣かれもした」

「……美織ちゃん、泣いたんだ」

 意外、だと思った。そんなに強く美織ちゃんが反対の意を示すだなんて、思っていなかった。

「今だから言うけどな。あいつは、俺と佐奈が付き合うようにってずっと画策してたんだよ。そうしたら、俺たちは丸く治まると思ってたんだ」

 ……遠慮、というか、なんというか。そういうのが一切取っ払われた物言いに、さすがに私も晃ちゃんも閉口してしまう。

「……死人に口なしって言うけどさ。そういうこと言うか? 普通」

 呆れた感情を少しも隠そうとしない晃ちゃんを、誠お兄ちゃんは鼻で笑う。

「口出されないから言うんだろうが。いっぱいあるぜ、美織のそういう話」

 ニヤリと、性格の悪さが滲み出てるような笑みを浮かべた誠お兄ちゃんは、どこか懐かしくも感じて。

「せっかく揃ったんだ。そろそろ始めようぜ」

「何を?」

 私は質問すると、誠お兄ちゃんの笑みが更に濃くなる。それを見て、晃ちゃんは深々とため息を吐いた。

「思い出話兼、暴露大会だよ」





 この幼馴染三人にそれぞれ小日向美織という少女について語らせると、誰一人として同じ意見は出ないだろう。三人とも別の誰かを話しているかのように、まるで別人としか思えないイメージを、経験を語る。

 しかしそれは、決してこの三人が小日向美織という少女の在り様を理解できなかったわけではない。むしろ各々が感じた少女の姿に嘘偽りなどないのだ。

「小学校の頃にさ、美織が体調を崩して遠足に行けなくて、それで全然関係ないのに晃希も駄々をこねて休んだことあったろ?」

 誠の質問に、晃希は露骨に顔をしかめてみせた。幼い頃の幼稚な感情を持ち出され、気恥ずかしさと悔しさが顔に出る。

「美織、あの時仮病だったんだぜ」

「あ、それ知ってる」

 佐奈がその事実を肯定してみせると、晃希は口をぽかんと開けて呆けていた。

「たしかその日、美織ちゃんお気に入りの髪飾りをなくしちゃってて、それを付けて遠足に行くのを楽しみにしてたものだから嫌になっちゃったんだよね」

「そんな身勝手な理由なのに、仮病を信じて心配した晃希がわざわざ家まで来たもんだから、後にも引けなくなったんだよな」

 思わずついた嘘が、どんどん形を変えて飛び火して、幼い美織に後退を許さなかった。お気に入りの髪飾りを付けて遠足に行きたかった。言葉にすれば、それだけのいじらしさ。

「その場その場で適当な嘘をつくから、後になって慌ててることが何度もあったよな」

「それでも晃ちゃんには気づかれなかったんだから、すごいよね。演技力というか……晃ちゃんの盲目っぷり、というか」

 意趣返しのつもりなのか、茶目っ気を含んだ目で佐奈は晃希を見た。その珍しく意地悪げな視線を、晃希は苦笑を浮かべ受け取る。

 ああ、なるほど。確かに、盲目だった。

「……嘘とか、つけたんだな」

 虚心とか、見栄とか、そういったものとは無縁だと思っていた。自分というものを取り繕うことを、しないと思っていた。

 晃希にはありのままの姿を見せていると、ずっと、思っていた。

 今更、明るみに出る事実に傷つくことなどない。そういった感傷は昨日の内に済ませていた。

 晃希は頭を下げ、俯く。下げた頭の中には、たくさんの想いが渦巻いていた。

 過去を。記憶を。思い出を。彼女と生きてきた軌跡を。懐いていた夢を。

 未来を。

 脳内でグルグルと渦巻く感情に、胸までも苦しくなる。届かないものを考えた。もうなくしてしまったものを想った。触れられない熱を思い出した時、苦しさを飛び越えて痛みとなって心臓に突き刺さる。悲しみだけじゃない。自分自身への怒りが血流に乗り全身に駆け巡った。

 感傷は、済ませていた。でも後悔や苦悩が身の内から消えたわけではない。

 これからもずっと、燻り続けているのだろう。毎日、ふとした拍子に。唐突に。気づけば、そっと心の横に立っているのだろう。何食わぬ顔で、どれだけ悩んで、苦しんで導き出した答えを胸にしていようとも。後悔やそれに付随した苦悩は傍に在り続ける。

 それでも。

「……なぁ」

 それでもいいと、思えた。

「他にも、何かないか?」

 続きを欲しがられるとは思っていなかった誠と、佐奈の目が見開かれる。

「なんでもいいんだ。教えてくれ。僕も、話すから」

 僕が知らない美織を。僕が知っている美織を。僕が知りえなかった美織を。僕が知りえた美織を。

 君たちの知らない美織を。君たちだけが知っている美織を。君たちだけが知りえなかった美織を。君たちだけが知りえた美織を。

 誰ももう、それが正しい、本当の美織の姿だと、確認できない思い出を。

「たくさん、話そう」

 晃希は笑う。何日、何ヶ月ぶりだろうか。苦笑でも、歪んだ笑みでもない。ただの笑顔。その笑顔を見て、誠も笑う。佐奈は俯き、自身の目に涙が溜まるのを感じていた。ずっと見たかった笑顔だ。何日、何ヶ月も。その笑顔を望んでいた。俯いた顔を上げ、佐奈も笑う。

 三人は、話をした。たくさん、これまで伝えてこなかった想いを。伝えたかった気持ちを。思い出を。共通の記憶を。一人で抱えてきた過去を。自分だけの、美織を。

 共感があった。反感があった。知っていた事実でも、捉え方で齟齬が生まれた。知らなかった事実を、そう簡単に真実だと受け入れることができなかった。

 たった一人の女の子の話だった。それなのに、話題は尽きなかった。

 性格の悪い、口うるさい妹。

 尊敬する姉代わりであり、決して敵うことのなかった恋敵。

 幼馴染であり、誰よりも、自分よりも大切だった女の子。

 間柄により、見せる顔が違った。そんなことは当たり前のことなんだと、口にするまでもなく三人はわかっていた。自分自身が、その女の子に対して見せる顔が誰にでも見せる顔と違うように。その女の子だって、相手によって見せる顔は変わる。当たり前のことだ。

 血も繋がり、性格もどこか似ている兄には、反感めいた幼い心情を。

 同じ男を好きになり、それでも年下で大事に想っていた妹代わりには、複雑な感情を。

 自分を隠し、偽ってまで大事に想われたい男には、彼が好ましく想ってくれている、誇張した振る舞いすらできるほどの、愛情を。

 どれが正解などない。間違っているものなど一つもない。

 育ててきた思い出が。抱えた想いが。そのどれもが全て。余すことなく不必要など欠片もなく全てが全て。

 小日向美織という、女の子だった。

 どれだけ話し込んでいたのだろうか。語り合いは、差し込んできたオレンジ色の陽光に遮られた。時間はすでに夕刻となり、薄汚れた廃工場を照らしている。

 何度も。何度も見てきた光景だった。暖かい色と感覚に包まれた廃工場は、ひたすらに懐かしく、尊く。



「楽しかったね!」


 近くで、彼女の声が聞こえた。



 彼らはゆっくりと、視線を移す。彼女がいつも座っていた、定位置に向けて。

 笑顔の少女が、そこにいた。

 小日向美織は三人の共通の思い出を写し取り、そのままの暖かさで、笑っていた。

 肩まで伸びた栗色の髪。好んで着ていた、淡いピンクのカーディガンに、薄い水色のワンピース。三人が揃って遊んでいた頃の、少しだけ幼い美織の姿。

 一緒にいて、一緒に笑って、一緒に怒って、一緒に泣いた。焼きついた記憶の形。

 その光景は、幻想は、思い出は。すぐにぼやけて、靄のように、消えた。

 一瞬だけ見えた、まるで幻のような光景。三人の思い出が、記憶が重なったからこそ見えた、三人が共通して懐いていた、彼女の笑顔。

「っ、うっ、あぁ……」

 耐えられるはずが、なかった。

 佐奈は両手で顔を覆い、嗚咽と涙を漏らす。喉が、肩が、全身が。心までも、震えて。

 何度も流してきた涙とは決定的に違う。心の底から湧き上がった。

 決着の涙が、溢れていた。

「美織ちゃん、美織ちゃん……!」

 溢れ出る感情そのままに涙を流す佐奈に、残った二人は何も言えなかった。言葉を漏らせば、自分も同じように感情が溢れ出しそうだった。我慢する必要などどこにもなかったけれど、二人は唇を噛み、堪えていた。

 嬉しかった。悲しかった。悔しかった。楽しかった。

 小日向美織と過ごした日々は、三人にとって代え難く、どこまでも尊く。

 どこまでも、遠くなっていた。

 夕日が、思い出の場所を照らす。眩く。暖かく。

 もう誰も座ることのない、彼女がいた定位置すらも。

 そこにいた少女の面影に似た暖かさだけが、あった。





 まだ目を赤く腫らした佐奈が、顔を上げる。涙の跡は残っていても、表情は晴れやかで、瞳は少しも揺らいでいない。

「……一人で、大丈夫?」

 まだ泣いた跡を残す顔で、そんな暖かい言葉を投げかけてくる佐奈に、僕は笑ってみせた。

「大丈夫だよ。というか、一人じゃないと駄目なんだ」

 僕がそう返すと、佐奈は目をつむり少しだけ黙った後に。

「ごめんね」

 何も悪いことなんてしていないのに、そう口にする。見当違いの謝罪だと、否定することも笑い飛ばすこともできたけど、しなかった。代わりに、軽く息を吐く。

ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、体を軽くする。

錯覚染みた感覚を覚えて、僕は再度口角を上げ、笑ってみせる。

 うまく、笑えているだろうか。下手糞な笑みではないだろうか。内心の不安を、恐怖が無様に滲み出ていないだろうか。

 本当は、これから自分のする行いが、決して僕自身の望みではないという言外の感情を、悟らせてやいないだろうか。

「晃希」

 必死に笑顔を張り付かせていた僕の名前を、誠が呼びつける。

「頼んだ」

 短い、たった一言。珍しい……いや、初めて言われた言葉だ。頼む、だなんて言われたことも言ったこともない。

「うん」

 僕は下手糞な笑顔をやめて、頷いてみせた。まっすぐに目の前の兄貴分の目を見返す。一瞬にも満たない視線の交差の後、誠は鼻で笑って、歩いて行った。

 頼んで、頼まれた。ならもう、僕たちに話すことはない。思い出話は済んだ。ならば、きっと残された話は、これからの話だけだ。

 これからのことを話すために、僕は今からこれまでに決着をつける。

 僕と誠の短いやり取りを黙って見ていてくれていた佐奈に、僕は返さなきゃいけないものがあって、それを佐奈に向けて差し出す。

「これ……」

「美織の机の中にあった」

 差し出したのは、佐奈が昔、僕に宛てたラブレター。封も切られていない。数年経ったような劣化の跡も見えない。大事に、大切にしまわれていたそれを、佐奈は震える手で受け取った。封筒を持つ佐奈の指先に力が入り、紙面が少しだけ歪む。

「っ…………」

 佐奈はそれを胸に掻き懐いた。黙って、少しだけ肩を震わせて。

 取り上げられていた。でも、捨てられていなかった。大事に残されていた。

「想像……これは、想像なんだけど」

 震えた声で、でも涙は見せない瞳で、佐奈が口を開く。

「うん」

「計画的でもなんでもなく、ただ、たまたま、魔が差して、美織ちゃんはこれを盗ってしまって……」

 確証がない、想像だけの経緯を、必死に口にする。

「逆の立場なら、たぶん私も、同じことをしてしまっていて……」

「うん」

 美織の魔が差してしまったという経緯も、全ては想像で、妄想に過ぎない。でも、なんだかその光景は、簡単に頭に浮かんで。

 それは僕が知らなかった美織の姿だった。でも、思わず持ち去ってしまった佐奈の気持ちを捨てることも、どうすることもできずに、大事に残してしまうその姿は。

 僕の知っていた、優しい心を持った美織の姿そのものだ。

 佐奈と目が合う。そこには、やっぱり涙なんて見えない。

「気持ちは、変わってないから」

 そう言い放ち、僕が返したラブレターを、佐奈はまた僕に差し出す。

「……うん」

 僕は頷き、受け取る。正しい経緯によって、ようやく届いたラブレター。

 彼女は、僕に笑いかけた後に。

「……ありがとう」

 薄い靄に向けて、そう告げた。

 振り返り、歩いてこの場を去っていく佐奈を、僕は黙って見送っていた。

どれだけ、いったいどれだけの感情を、想いを込めた言葉だったのだろう。それを迷いなく告げ、去っていく佐奈の背中を僕は目で追う。

 彼女に恥じない、彼女が想ってくれた、その感情に恥じない人になるために。

 そして僕は一人になった。廃工場には僕以外の誰もいない。

 誰もいないからこそ、ここはすぐに「二人」になる。

「佐奈たち、行っちゃったね」

「……そう、だな」

 美織はいつものように、当然のように、僕の傍に立っていた。

 髪は腰の高さまで伸びて、服装は見慣れた制服で、三人で見た時の姿より、少しだけ大人っぽくなった。

 僕が見た、僕だけが見た、最後の日の美織の姿だ。

 栗色の髪が、夕日に反射して煌びやかに光る。その眩しさに目を細めて、僕は美織を見つめた。

「……どうしたの。そんなおかしな顔して」

「ただの、真顔のつもりなんだけどな」

 なんてことのないいつもの口ぶりに、少しだけ安心してしまう自分が、心の中にいて。

「久々に三人が揃って、どうだった?」

「……そうだね。楽しかったよ。どうせなら、おまえも入ってこれたらよかったのに」

「それはできないよ。知ってるでしょ?」

 微笑みながら、美織は僕を見ていた。

「もう私は、みんなと一緒にはいられないんだよ」

「……そんなこと、言うなよ」

 自分でわかっていたことでも、それを美織から言われるのとは違う。

 違う、けれど。それを言わせているのも、僕だ。

「私のいろんな話を聞いて、どうだった?」

「……信じられなかったよ」

 誠や佐奈と話したことは、全部嘘偽りのない、真実だってことぐらいわかってる。それを全て認められないほど、信じられないほど、自分がわからずやでも狭量でもないつもりだ。

 でも、納得というのは、それとはまた別の部分で。

「僕にとっての美織は、馬鹿で、考えなしで、楽観的で」

「……ひどい言われようなんだけど」

「でも、そんな君が好きだったんだよ」

 君がそんな風に、何も考えてないような朗らかに笑ってくれているから。僕はそれを支えようと、努力してこれた。

立派な人間になって、どこか抜けたところのある女の子を支えられる人間になろうと思えた。

 僕の突然の告白に、美織は顔を赤くして、俯いた。

「あ、はは……突然言われるとその、驚くね?」

 顔を真っ赤に、顔を手で扇いだりして。ごまかすためか、わざとらしく笑ってみたりして。

 ……想像だ。妄想だ。これは、僕が思い描いていた美織の形に過ぎない。

 顔を赤くして、目も泳いで、ごまかすための拙い笑顔も、その愛らしさも、全部。

「もっと早く、言っていればよかったって思うよ」

 だから、揺れ動くな。感情を、心を震わせるな。ここにいる美織は、本当の美織じゃない。僕の想像で妄想で、都合の良いように作り変えた偽者だ。

「……もっと早く、言ってくれたらって、私も思うよ」

 伏し目がちにそっと僕の手に触れた暖かさも、柔らかさも、優しい声も。

「そうしたら、私もちゃんと答えられたのに」

 砕けてしまえと思うほど、奥歯を強く噛みしめた。皮も肉も突き破れろと、空いた手を握りしめた。後悔という感情に形を与えたら、僕なんて塵一つも残らず潰されているだろう。

 潰れてしまえと、どれだけ思っても。握られた右手の暖かさを、僕は手放せない。

「今私がどんな風に答えても。きっと、晃希はちゃんと受け止めてくれないよね」

「……当たり前だろ」

「全部自分の想像で、妄想なんだからって。受け入れられないで、振り払っちゃうよね」

「───だって、それは本当のことだろう!?」

 声を、荒げてしまう。

「今の君は全部僕の記憶を反映した偽者だ! 想像で、妄想で……僕の理想も入り混じった捏造だ! そんな君を受け入れたら、それは……!」

 本物の、僕を庇って死んでしまった、本当の美織への、侮辱に過ぎない。

 幽霊ならば、どれだけよかっただろう。紛れもなく、美織そのものだったらどれだけよかっただろう。

 でも目の前の存在は、決して違う。幻覚ではない。それは僕たち三人で証明した。でも、本当の美織じゃない。想像と妄想で捏造した、ずっと性質の悪い存在だ。

 彼女がかけてくれる言葉の数々を、彼女が受け入れてくれる反応の数々を。素直に受け取ることなんてできやしない。

 しては、いけない。

「……それじゃあ」

 もう一度、美織は僕が振り払った手を握ってきた。

「想像、してみて」

「何を……」

「生きていた頃の私が、晃希をどう思っていたのか」

 僕の手を、美織の両手が握りしめる。美織の胸の高さまで上げられた手は、確かに、暖かく。柔らかく微笑む美織を見ると、もう一度彼女の手を振り払うことなんてできなくて。

「何を想って、何を大事にしていたのか。晃希が一番わかってくれてるから」

 美織の顔が見れなくて俯いた僕の耳に……こんな、優しい言葉が、聞こえる。

「そんなことを言わせてるのも、僕だ」

「私なら、言ってくれるって思ったんでしょ?」

「そうやって捻じ曲げた、偽者だ」

「信じて、くれないの?」

 思わず、顔を上げる。目に飛び込んでくるのは、まっすぐ僕を見る瞳。僕の奥底を見ているような目で、美織は優しく笑う。

「一度だってその想像を、お兄ちゃんや佐奈ちゃんが否定した?」

「─────」

 それはあまりにも、僕にとって都合の良い言葉。

「その想像が間違ってるって、一度でも、晃希を責めた?」

「それは……」

 一つも、一度も。否定されたことなんてない。それどころか、肯定されることばかりを。

「だからといって、それはあまりにも僕にとって都合が───」

「好きだよ」

 耳朶を打つその言葉に、僕は何も言えなくなる。言葉が浮かばず、ただ、目の前の女の子が放ったその四文字に、心を奪われる。

 彼女の言葉が、手に触れる温もりが、優しい眼差しが。

 その美しさを、僕は素直に受け止めていいのだろうか。

「想像、して」

 再度、優しく耳朶を打つその言葉が頭を駆け巡る前に、僕は彼女を抱きしめた。

「美織……」

 知らない感触だ。感じたことのない温もりだ。僕は彼女を両腕で抱きしめたことなんてないし、彼女の首筋に、彼女が僕のために伸ばしてくれた栗色の髪に顔をうずめたことなんてない。

 想像だ。想像の産物だ。経験と、人伝から得た情報を基に構成された、捏造に過ぎないはずなのに。

「美織……!」

 鼻腔をくすぐる、彼女の髪の香りは……紛れもなく、あの時のままで。

 隣を歩いていて、ふと感じた、あの時の、ままで。

「髪、伸ばしたんだよ」

「うん……」

「晃希のために、伸ばしてあげたんだよ」

「うん……!」

 他愛もない、冗談のような約束。それを律儀に守り続けてきた彼女が、僕は、ずっと、ずっと───

「好きだ……!」

「うん」

 耳元に聞こえる。彼女の優しい声が、響きが、愛しさが。

「ずっと、ずっと……好きだ……!」

「うん」

「ずっと言いたくて、言えなくて……いつでも言えるからって、先延ばしにして……!」

 誰よりも傍にいた。そう確信を持っている。その確信が持てるぐらい、傍で生きてきた。

「中学を卒業したら、高校を卒業したらって……怖気づいて、いつでも、この想いは伝えられるって、確証もないのに信じきって……」

 誰も保障なんてしたことのない未来を、勝手に確定したものだと思い込んで。

 言葉にしなくても、想いは伝わってるはずだって、勝手に決め付けて。

「挙句に、君を……死なせて」

「うん」

「死なせてしまった君の分まで生きようとか、そんなことを生意気にも思って。でも、それすらもできなくて。俯いて……また、君に縋って……」

 言葉にすれば、なんて無様。しなくたって、あまりにも滑稽な。

 何を言えばいいんだろう。何を口にすればいいんだろう。言いたいことばかりだ。言えないことばかりだ。目の前の過ぎてしまった過去にどれだけの言葉を並べても、それは意味のないことで。そんなこと、頭では理解していたはずなのに。

「ごめん、美織。好きだ、好きだよ……!」

「うん」

 僕の腕の中で、美織が優しく頷いてくれる。その優しさに後押しされるように漏れ出てくる言葉は、あまりにも、独りよがりで、身勝手で。

「君が、大好きだった……!」

「……ありがとう」

 感謝される筋合いなんてどこにもないのに、美織はまっすぐに僕を見て、心から口にする。

「私も、晃希が大好きだったよ」

 今更過ぎる答え合わせが、今、終わった。

 涙で滲んだ視界に、夕日の光が薄く入り込む。

 あの日に似た、夕焼けの光が、美織を照らしている。

「───っ!」

 涙を拭い、僕は前を見据える。夕日に照らされた彼女の姿を、ぼくはしっかりと見つめる。


「さようなら」


 それは、あの日に伝えられなかった言葉だ。

 突然の出来事に翻弄されて、何もできなかった僕が、彼女に言えなかった別れの言葉だ。

 奥歯を噛みしめ、次第に強くなるあの甲高く不快な音を思い出す。

 あの時の、あの光景を。あの出来事を、あの瞬間を、想起する。

 夢で何度も見た光景は、簡単に脳裏を過ぎる。思い出さないように努めていた記憶は、その努力を嘲笑うかのように、さも当然のような顔をして目の前に形創られていく。

 夕日に照らされた帰り道。腰の高さまで伸ばされた栗色の髪がなびく。優しげな瞳が僕を見ている。唇が、微笑みを形作る。

 ドン、と衝撃が僕の体を押した。全身に力を込めれば容易く耐えられるはずの衝撃に、僕は尻餅をつく。

 そうして、助けられた記憶を、欠片も残さず、再現する。

 ありもしない未来を夢想して、楽観して、平気な顔して先送りにしていた僕への罰かのように訪れた、あまりにも、あまりにも理不尽な。

「───さようなら」

 別れを告げる美織を収めた視界に、銀色の塊が横からやってくる。



 ─────目を、逸らすな。



 無骨な金属の塊は少しもスピードを落とさず、美織を巻き込んで、ぶつかって、潰、して───。



 全身を揺らすほどの轟音を上げて。目の前でもう一度、美織が、死んだ。

「う……ぁ……」

 膝から力が抜けて、崩れ落ちる。

 頭が痛い。全身がざわつく。心臓の鼓動の感覚が痛いくらいで、いくら吸い込んでも息苦しい。最後の轟音が、いつまでも離れない。

 嘔吐感がこみ上げてきて、耐え切れずそのまま胃の中のものを全部吐き出した。地面についた両腕が、両足が震えて起き上がることもできない。耳鳴りがいつまでも止まずに、視界はいつまでも明滅を繰り返す。

 でも……でも。



 目だけは決して、逸らさなかった。



「はっ、ぁ……ぅぁ……」

 震える手足は未だに言うことを聞かない。

 立ち上がることすら、できないけど。

 最後まで目を逸らさずにいたからこそ、見えた美織の最後の姿がある。

「……なに、笑ってんだよ」

 トラックに轢かれ、飲み込まれていくその瞬間から最後まで。潰れ、歪んでいくその表情は、一切の曇りのない笑顔で。

 自分の身を挺して、僕を助けて、笑っていやがった。

 憶えていた。記憶に残っていた。焼きついていた。

「やっぱりおまえ、馬鹿だよ……!」

 ずっとわかっていたことだ。知っていたことだ。確信を持って、断言できる。

「美織ぃ……!」

 情けない声で名前を呼んだ。もう廃工場に、僕の呟きに答えてくれる者はいない。

 馬鹿で、楽観的で、でも本当は賢くズルかったはずの小日向美織は、もうどこにもいない。

 彼女に似た面影に似た、暖かな夕日だけが、立ち上がれない僕に降り注いでいる。

 あの日と同じ暖かさで、未だに崩れ落ちたままの僕の背中を、暖めていた。





 指先が鍵盤から離れたと同時に、全身の力が抜けた。

「───()けた」

 思わず呆けたように呟いてしまう。でも、そんな時間的余裕があるわけではない。驚きを意識の外に追いやって、私はピアノの前から離れる。

ゆっくりと、パチパチという音が聞こえる。それは私の拙い、けれど最後まで目立ったミスなく弾ききった演奏に向けた拍手だ。その音に誘われるように視線を向けると、私と同じ試験を受けた他の学生や、先生が、私を見て拍手をしながら笑みを作っていた。

 ───やればできるじゃない、とでも言いたげな笑顔。

 嘲笑でもない笑みを見てようやく、私は成功を胸の中で実感として噛みしめることができた。

 自販機の横に置かれた長椅子に座っている私は、その光景を思い出して、思わず笑ってしまう。手に持っていた紙コップの中にある、暖かなコーヒーの熱が気持ち良い。

 達成感や、劣等感。半々ぐらいでごちゃ混ぜになった心境は、若干の心地よさと気怠さを併せ持っていて、そう簡単に体から抜けることはなさそうだ。

「あら、珍しいじゃない」

「わっ!」

 声をかけられたことに驚いて、持っていたコーヒー入りの紙コップを落としそうになる。が、手を離れる寸前を、伸びてきた手が代わりに持って支えてくれた。

「……今のは、突然声をかけた私が悪いってことになるのかしらね」

「いえ、その……私が悪いです」

 なんだかここ最近、私は声をかけられるだけで一々驚き過ぎな気がする。元々が小心者とはいえ、大人としか扱われない年になってきてもこの様だ。

 情けなさやら虚しさを抱えたままお礼を言って紙コップを受け取り、中身を一口啜る。味わい慣れていない苦味とほんの少しの甘みが口の中に広がった。

「その、何が珍しかったのでしょうか」

「ん? ああ、あなたがここにいてコーヒーを飲んでいるってことがね」

 質問に答えながら、先生も自販機で買い物を済ませ、私の隣に腰かけた。

「あなた、試験が終わった後いっつも、すぐに帰るか、練習室に篭りきりなるじゃない? だからここでこうして、一服してるのが珍しいなって」

「……そうですよね。珍しいですよね」

 失敗した恥ずかしさで、先生の言葉通りいつもすぐに帰るか、練習室に篭ってひたすら反省会をするかのどちらかだ。

「今日のあなた、文句なく良かったわよ」

「ほ、ほんとですか!?」

「ええ。音が外れてるところもわかりやすかったし、運指がもたついていることも多かったわね」

「文句だらけだ……」

 一瞬で裏切られたのはよくわからないけど、先生の笑顔からはどうも私を怒ってるような感情は伺えなくて、余計に混乱してしまう。

「何言われようとしてるかわからないって顔してるわね。ゾクゾクする」

 ……どうしてこう、私の周りには、私をからかうことに躊躇しない人ばかりなんだろう。

「でもね。あなた、今日は笑えていたのよ」

「───え?」

 再度呆けた私を見て、先生の笑顔がより濃く、強くなる。

「完璧でミス一つない演奏なんて求めちゃいないわ。あなたたちはピアニストになるわけではないもの。求めてるのは一つだけ、笑顔で楽しく」

 言葉通りの笑顔で、先生が私を見て口にする。先生の指先は架空の鍵盤を叩くかのようにリズミカルに、軽やかに。

「私たちが演奏を聞かせる相手は子どもたち。その子たちの目を見て、一緒に歌って、楽しく遊ぶ。それが問題なくできる程度の技量ぐらいしか、私は教えてないつもりよ。まぁ、あなたのはこれまでそのレベルにも至ってなかったんだけど」

「それは……はい」

 ぐうの音も出ない内容に私が俯くと、その頭に、覚えのある感触が当たる。

 頭を撫でられる感触を、私は一生忘れることはできない。

「今日のあなたは、それができていた。頑張ったわね」


 ───このためにわざと私を俯かせたのかと思うぐらい、タイミングの良い言葉。


 今日の演奏中、一つだけ思い出したことがあった。将来の夢を話し合った思い出。

 私が将来は保母さんや保育士といった、子どもと一緒にいる仕事をしたいと話した時の、美織ちゃんの笑顔が浮かぶ。

『佐奈ちゃんが保母さんか。それは簡単に想像できるね』

『子どもと同レベルで遊んでるのが簡単に想像できるって?』

『違う違う違う。何それ、兄さんか晃希にでも言われたの? 最近佐奈ちゃん、露骨に卑屈だよ。そうじゃなくて。そういう優しい風景が、佐奈ちゃんにぴったり合うなって話』

 その時の笑顔を、頭に思い描いて。そんな光景を、思い出して。

『私も、そんな人になってみたいな』

 そうやって、私を羨んだ美織ちゃんの姿も、脳裏に浮かんで。

「……はい」

 その時懐いた気持ちの嬉しさが先行して、表情に出てしまっただけだろう。それでも、隣にいる人には評価に値したのだろうか。

 私の返事に満足したのか。先生は何も言わずにもう一度頭をポンと叩いて、立ち上がり去って行った。私はその背中に頭を下げる。

「……嬉しい、な」

 普段あまり飲まないコーヒーの味をもう一度味わう。苦手だったわけじゃない。苦味よりも甘味の方が好きだから、コーヒーとかよりもココアとか甘味の強いものを選んでいただけだ。子ども舌って言ってしまえばそれまでの、単純な理由。

 じゃあ、今の私は、コーヒーの苦味に安堵を覚える自分は、大人なのだろうか。

 ちょっとしたことですぐに驚いて、慌てて。すぐに涙腺を緩ませて、涙を流して。

 晃ちゃんが美織ちゃんに別れを告げてから、もうすぐ一ヶ月経つというのに、未だに連絡を取れていない、私は。

 一度だけ、顔を合わしたことはある。誠お兄ちゃんが大学に戻る前に、二人で見送りに行った時だ。駅の改札で別れた誠お兄ちゃんは、特に込み入った話をするでもなく、平然とした顔をしていた。最後まで弱みを見せようとしない辺り、私から見ても、まだまだ二人は子どもっぽいところがあるなと思う。

 憂いはなくなった、と。誠お兄ちゃんは何も気負うことなく、笑いながらそう言って旅立った。何が憂いだったのか、それを問いただすことは私も晃ちゃんもしなかった。自惚れみたいで自分でも恥ずかしいけど、たぶん、間違っていないだろうなって答えが胸の中にあって。

 頼りになるお兄ちゃんのあまりに晴々とした別れの笑顔が、ずっと背中を押し続けている。

「……よし」

 腕時計を見て時刻を確認し、私はわざと声に出して気合を入れる。夕方で、これから……夕食に誘ってみるには、悪くない時間。携帯の電話帳を開いて、私の人生の中で、心の中で、大半を占めてしまっている人の名前を画面に映し、再度、息を深く吐く。


 歩き出している。みんな、自分の足で。

 私を置いてけぼりにしてるわけじゃない。蔑ろにしてるわけじゃない。

 追いついてくることを待っているわけじゃないけれど、追いつけないわけじゃない。


 無機質な呼び出し音が二度三度鳴り。

『もしもし、佐奈か?』

 望んでいた相手の声が聞こえ、安堵感と焦燥感が一気に駆け巡る。

「もっ、もしもし!? 佐奈です!」

『う、うん。だろうなとは思ったけど……なんでそんな慌ててるの?』

「ごめん……ちょっと、落ち着かせて……」

 徐々に安堵感に打ち勝っていった焦燥感を、一度ため息と一緒に無理矢理吐き出して、私はもう一度電話口に声をかける。

「急にごめんね。今時間大丈夫かな?」

『うん。ちょうど講義も終わったところだから』

 晃ちゃんの声と、遠くから人の声や物音がガヤガヤとした響きが聞こえる。

「……大学、行ってるんだね」

 私の声に混じってしまった安堵の感情に気づいたのか、晃ちゃんの声がそれを覆うように優しく返ってくる。

『うん。なんとか、通えてるよ。時折、なんか、泣きそうになったりするけど』

 繕うことのない、紛れもない弱音を、きっと見慣れた苦笑で呟いているのだろう。

「そっか……うん、よかった」

『それで、何か用?』

「え、あ……うん」

 何度目か自分でも数えるのが馬鹿らしくなるぐらい、再度息を吐いて、心を落ち着けて。

「そ、その。その、ね!」

『うん』

「ごっ、ご飯! 食べに行かないっ!?」

 おそらく真っ赤になってしまっているであろう顔で、目をつむったまま、そう言い切った。

『……佐奈、声、でかいよ』

「ご、ごめん!」

 もう、ほんと、さっきから何をやってるんだろう。

 自責の念に駆られて打ちひしがれていると、電話口から晃ちゃんの名前を呼ぶ、男の人の声が聞こえた。大きな元気の良い声だ。お友達だろうか。

 聞こえてくる単語は飲み会だとか、何時に集まるだとか。そういう、これからの約束を確認するための言葉。

「……先約、あったみたいだね」

『ああ……まぁ、でも』

「ううん。約束を優先してあげて。私は、いつでも大丈夫だから」

 落胆している心がない、わけじゃない。でも、それよりももっと、心の中には別の感情が揺れて、漂っている。

「私は、晃ちゃんがそうやって、元気でいてくれているのが、一番嬉しいから」

 電話口から聞こえてくる、何人かの元気な声。きっと、晃ちゃんの友達なのだろう。何人いるのかな。女の子は、いるのかな。そんな浅ましい不安も、ないわけじゃないけど。

『……ちょっと、待ってて』

 私が返事をする前に、晃ちゃんが電話の向こうで声を上げる。

 ごめん、今日行けなくなった。ごめんってば。仮は今度返すから。なんて、晃ちゃんの明るい声が聞こえる。

「……いいの?」

『うん。いいんだ』

 また、耳に元気な声が聞こえてくる。なんだよ、彼女かよ。なんて、からかうような声。

 そして。


 違うよ。そういうのじゃない。


 きっぱりと否定する。晃ちゃんの声も聞こえる。

 ……うん、事実だ。私と晃ちゃんは、そんな関係じゃない。まだとか、これからとか、そういう未来を匂わせる言葉を頭に付けたい願望は……持ち合わせちゃってるかもしれないけど。

 ぎゅっと力を込めて握ってしまった携帯電話。胸の痛みは、慣れたもののはずなのに。

『でも───』


 その後続いた言葉を、私は一生忘れない。


『それじゃあ、駅で待っててくれるか? 僕も、すぐ行くから』

「───うん」

 ああ、ちゃんと頷けたかな。裏返ってしまってなかっただろうか。不安だけど、聞き返すなんて恥ずかしい。

「それじゃ、また後で」

 それだけ、なんとか意識して声を震わせないように言って、私は通話を切った。

「…………はぁ」

 ため息が漏れる。携帯電話をしまう手が震える。真っ赤になってしまっているであろう顔を両手で包んで、蹲りたいのを我慢する。

 もう一度深く、深く息を吐いて、私は空を見上げた。

 夕日が、空をオレンジ色に染め上げていた。冬の冷たい空気に反して、その光は暖かい。

「───ありがとう」

 その暖かさに、私は美織ちゃんを思い出してお礼を言う。

 これまで私を支えてくれていたこと。嫌いになってもおかしくないのに、嫌わずにいてくれたこと。奪ったラブレターを、捨てずにいてくれたこと。私の拙い夢を、羨んでくれたこと。

 晃ちゃんを、守ってくれたこと。

 あなたの分まで、なんて言うのは、あまりにもおこがましい気がして、口が裂けても言えない。どんなに言葉を尽くそうとも、それは私を慰める材料にしかならずに、美織ちゃんの本心に届きそうにない。

 でも、それでも。

 それでもいいと、思えた。

「……美織ちゃんのこと、ほんと、悪く言えないなぁ」

 自分でもびっくりするほど、自分のズルい部分を見つけてしまって、苦笑する。

 駅までの道を歩き出す。晃ちゃんの待つ場所に向かう。何を食べようか、どんなことを話そうか。ラブレターを読んでくれたのかどうか、聞き出すことができるだろうか。

 まぁ、でも。それよりも。

 今度こそ、声をかけられても驚かないで、笑って迎えてみたいなって、思った。



 夕日は、暖かい。

 それはとても、あなたによく似ていた。




終始ナヨナヨした感じになりましたが、やっぱりこの手の話で一人称だと必要以上に暗くなりますね。

あまり暗くなりすぎないよう、ところどころふざけたりもしてみましたが、逆に雰囲気を壊しているんじゃないかとも思ったりなんだりしちゃったり戦々恐々としています。

稚拙になりますが、読んでいただきありがとうございました。

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