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君に似た面影に似た  作者: ツナ缶
3/4

2と3の間には書かなかったというか放置していた期間がざっと1年半ぐらいありまして、ここから自分でも「え、このキャラこんな性格だったっけ」みたいなことが多々ありました。

もし違和感とか齟齬とかあったら、お手数ですが一言書いていただけるとすごく喜びます。気味悪いほど喜びます。


「幽霊。なんて言い方をするから、余計に混乱したんだな」

 苦笑いを浮かべながら、誠お兄ちゃんが口を開く。誠お兄ちゃんが座っている場所は、これまでとまったく同じ場所だ。古ぼけた事務机の上。そこに、片足を立てて、座っている。何度も見た光景に、懐かしさを憶える。

「どういう原理か未だにわからないけど。あいつ、美織は観測した人間の記憶を反映しているんだ。観測者の記憶を読み取って、そのとおりに映し出す。記憶も、思い出も。だから、他に誰かかがいるとダメなんだ。像がブレて、見えなくなる」

 誰もが同じ人物像を、あいつに抱いているわけではない。そう小さく呟いて、誠お兄ちゃんは美織ちゃんを、今は霧のように曖昧に映るものを見る。

「おかしいなって思ってたんだよ。見た目は俺が向こうに行く前と全然変わらなかったし、美織が知らないはずのことをズバズバと言い当てやがった。鋭い、とかじゃなかったんだよな。俺の記憶を反映してるんだから、そんなの当たり前のことだったんだ」

「……私たちが話していたのは、本当の美織ちゃんじゃなかったんだね」

「そうだ」

 短い肯定の言葉。冷たいような物言いでも、そこに厳しさは見えない。

「本当の美織ちゃんは、もう死んでいて」

「晃希が言っていたとおり、あいつはただの過去だ」

 その事実に気づいたあと、晃ちゃんはこの場を去って行った。俯いたまま、何も言わずに。

 笑っていたのか、泣いていたのか。それすらも、わからない。

「……私、ずっと美織ちゃんに慰めてもらってたの」

 いつも、この灰工場での私の低位置の丸椅子に座ったまま、膝の上で拳を握る。

「学校の講義が辛い時とか、うまくいかない時。どんな些細なことでも、辛いな、苦しいなって思ったらいつもここに来たの。晃ちゃんと被らないように」

 毎日欠かさず、なんて頻度ではなかった。けれど決して少ない数。私はここに足を運んだ。

 ここに来て、美織ちゃんに優しい言葉をもらった。

「ねぇ、記憶ってさ。そんなに、確実なものなのかな」

 握りしめた手に入っている力は、なんだろうか。不甲斐なさなのか、悔しさなのか。

 たぶん、そういった感情全てだ。

「私が美織ちゃんに抱いていた理想とか、想像とか。そういうものも、反映してしまってるんじゃないのかな」

「……可能性がないとは言えないな」

 髪の毛を乱暴に掻いて、誠お兄ちゃんはため息とともにそう言った。

「記憶ってのは個人の主観に強く影響を受ける。年月が経ってしまったものほど、思い込みや、思い出せない部分を無理矢理補填したりして、事実とは変わってしまうこともあるだろう」

 何度も、何度も思い返した。美織ちゃんと過ごした日々。笑ったこと、泣いたこと。その全てを鮮明に思い出せる。その記憶はきっと正しいはず、なのに。

 自信が、持てなかった。それらが決して間違ってなんかないと言い張れる根拠も、結局は私の記憶なのだから。自分の言いように捻じ曲げて、作り変えた部分がきっとどこかにある。

「美織ちゃんがね、何度も私に言うんだ」

 この廃工場に来るようになって、幽霊か幻覚なのか、正体のわからない美織ちゃんと話せるようになってから。何度も、何度も。

「いつ、晃希に告白するの?って」

 笑いながら、からかうように。生前と変わらない、いつもの温和な笑顔で。

「ねぇ、誠お兄ちゃん。美織ちゃんはさ、そんなこと、私に言うと思う?」

 私の問いかけに誠お兄ちゃんは少しだけ黙って、やがて苦笑しながら口を開いた。

「思わないな」

 強い、断定の言葉。予想していた答えとはいえ、少しだけ、心に響く。

「あいつはそんな殊勝な人間だとは思えない。嫌なことは嫌だって物怖じせずに言うし、自己主張の強い我侭だ」

「誠お兄ちゃんは、美織ちゃんをそう思ってたんだ」

 少し驚いてしまった。美織ちゃんの人間像を吐き捨てるように口にする誠お兄ちゃんの物言いには、嫌悪感が少なからず感じ取れた。実の妹のことなのに。いや、実の妹、だからだろうか。

「あいつは、おまえらが思ってるほど頭は悪くねぇよ。狡猾で、嫌らしい部分だってたくさんあった。気づいてなかったかもしれないがな。女ってのはほんと、猫を被るのがうまいよな」

 容赦のない物言いには、内容こそ美織ちゃんを悪く言っているようにも聞こえたけど、どこか信頼のような、温かいものが混じっているようにも思えた。誠お兄ちゃんと美織ちゃんは、私たちの中で誰よりも近しい間柄だった。私たちが四人で集まって遊んでいた時間と、それが終わって家に帰ってからの時間。ずっと、ずっと多い時間だ。私と晃ちゃんが知らない美織ちゃんの姿を、たくさん知っているのだろう。

「どう、なんだろうね」

「おまえだって、美織がただの天然だなんて思っていなかっただろ?」

「……うん」

 頷きたくなかったけど、頷いてしまう。確かに、私は美織ちゃんのズルい部分、卑怯な部分を知っている。晃ちゃん以上に。晃ちゃんが知りえない形で、見てきた。

 けど、どうなんだろう。それが、美織ちゃんなのだろうか。ズルくて、卑怯。そういった部分があった、というだけで、それが大本にはならない。一面のみが全体を表すわけでもない。

「でも、女の子って、たぶんみんなそれなりにズルいと思うよ」

 御幣があるかもしれない。でも私の周囲は、もちろん私も、ズルくない人間かと聞かれれば頷くことはできないように。美織ちゃんが持っていたズルさを、罵ることはできない。

「好きな人の前では良い子のフリはするし、平気で嘘を吐くよ。美織ちゃんのそれだって、可愛い方だよ。もっと形振り構わない子だっているんだから」

 裏切られたし、傷つけられもした。でも、それを悪いことだって言い張れるほど、私だって良い子ではない。

 自分の想像で故人を捻じ曲げ、自分を慰めていたのだから。

「……おまえも、そうなのか」

「え?」

 誠お兄ちゃんは、私を見ないで俯いていた。

「おまえも、晃希の前だとそうなのか?」

 それは、私が晃ちゃんのことが好きなのだという、前提の上での質問だった。

「うん」

 今更、恥ずかしいなんて感情は湧いてこなかった。誠お兄ちゃんも、さっきまで私と美織ちゃんとの会話を聞いていただろうし、きっと、美織ちゃんが生きている頃からバレていただろう。

 晃ちゃんが好きで、でも美織ちゃんに敵わないとわかって身を引いていた弱い自分の姿なんて、今更恥ずかしがれない。

「だから、自分で想像した美織ちゃんに背中を押してもらうような真似を、平気でずっとしてきたいんだよ」

 そのくせ、私はずっと二の足を踏んでいた。美織ちゃんを捻じ曲げ、自分を慰めてでも、晃ちゃんに手を伸ばさなかった。傷ついて、立ち止まったままの晃ちゃんを見ていただけだ。その日々が辛くて、遠い大陸で頑張っている誠お兄ちゃんを巻き込んで。

 考えれば考えるほどに、私は、自分勝手だ。弱いくせに、目標だけは立派。

「これからどうするんだ?」

 膝を抱えている私に、誠お兄ちゃんが先を問いかける。

「わかんないよ」

 だって、結局は何も変わらないんだ。美織ちゃんが幽霊じゃなくても、ただの過去の再現でも。晃ちゃんは離れない。離れてなんてくれない。死が二人を別ったとしても、現に晃ちゃんは美織ちゃんを選んでいた。

「なぁ、どうして、俺を呼んだんだ」

「え?」

「俺に、何かできると思ったのかよ」

 責めるような声色ではなかった。それどころか、誠お兄ちゃんはなんだか、今にも泣きそうな顔をしていて。

 初めて見た表情で、もう一度誠お兄ちゃんが口を開く。

「俺はさ、おまえらの輪の中に入れないから、日本を出たんだよ」

 初めて聞くような、泣きそうな、心細い声。

「晃希と美織は二人だけで完結していた。四人で集まっても、あいつらだけはお互いがお互いを見ていたんだよ。視線も、心も。いつだって、向かい合っていたのはあいつらだけだ」

 否定したい気持ちはあった。けれど、することはできなかった。

「その二人の間に入り込めないで、それでも笑っているおまえの姿を、見ているのが辛かった。だから、逃げたんだよ。逃げて、一人になったんだよ」

 誠お兄ちゃんの言葉の意味を私は混乱する頭で理解しようとして、できなかった。弱音、泣き言。そういった人の弱い部分を表に出す誠お兄ちゃんの姿なんて、見たことがなくて。

「そんな俺に、何を期待してんだよ」

 何を言えばいいのか。どんな表情をすればいいのか。何もわからず、私は俯いてしまう。

 頼っていた。期待していた。誠お兄ちゃんならきっと、私にはできないアプローチで晃ちゃんを説得できるんじゃないか。そんなことを身勝手に、期待していた。

 いつも飄々としていて、色々なことを一人でこなしてしまう誠お兄ちゃんは、何にも縛られてなどいないと思っていた。

「晃希をどうにかして欲しいっていうなら、俺に期待しても無駄だぞ。俺は、別にあいつがあのままでも構わない」

「そんなこと」

「そうすれば、いつかおまえもあいつを見限るだろ?」

 挑発的な声色と表情を浮かべ、誠お兄ちゃんが私を見る。口元をニヤリと曲げ、さも嘲るような笑顔を浮かべていても、そこにはどうしても、嫌な感情は見えなかった。

 聡くない、馬鹿な私でもわかるほどに、誠お兄ちゃんはうまくない嘘を吐く。

「見限れないよ」

 だって、今が、今こそが、私が少なからず望んでしまっていた状況なのだから。

 美織ちゃんではなく、私が晃ちゃんの傍にいる。誰よりも、傍に。たとえ、心が通じ合っていなくても、そんな状況はどれだけ幸せなんだろうと思っていた。

 実際はただ幸せなことばかりではなかったけど、それでも、心が落ち着くと思ってしまった時が、いくつも、何度もあって。

「ごめん、なさい」

 誰に対しての謝罪だろうか。美織ちゃんか、晃ちゃんか。目の前にいる誠お兄ちゃんにか。

 いや、たぶん、その全員にだ。

「おまえに謝られる筋合いはないんだけどな」

 そう言って苦笑する誠お兄ちゃんの優しさに、私はどれだけ甘えてきたのだろう。

 美織ちゃんをズルいなんて言う資格は、やっぱり私にはない。

「晃希のことは諦めないのか?」

「諦めないよ」

 この先、晃ちゃんがどんな理由で立ち直れるかなんてわからない。何がきっかけで何が起こるかなんて、美織ちゃんが突然死んでしまったように、想像なんてできない。

 けれど、もし、これから晃ちゃんが何かをきっかけに立ち直れるようになったとして、それが私以外の理由によるものなんて、そんなものは嫌だ。美織ちゃんに負けるのはいい。そもそも勝てると思っていなかった勝負だ。仕方のないことだって割り切れる。

 でも、他の誰かに負けることは、我慢できない。

「俺が言うのもなんだけど、晃希は本当にめんどくさいぞ」

「知ってるよ。幼馴染だもん」

 頭が良くて、いつもグループの先頭を走っていた。誠お兄ちゃんは良い気分はしないだろうけど、グループのリーダーのような存在だった。けれどなまじ頭が良かった分、頑固な面があった。自分の考えを曲げない、芯の強さと言ってしまえば聞こえの良い、短所とも言える一面。

「それでも、好きなんだよ」

 誠お兄ちゃんの目を見て、言い切る。私と目が合った誠お兄ちゃんは短くため息を吐く。いつもの姿だ。年下組三人が無茶をして、それを見たときの「仕方ないな」という呟きのあと、吐かれるため息。

「女ってこえぇな。たった二年で、こんなにも変わるのか」

「嫌いになった?」

「馬鹿。惚れ直したわ」

 表面上の軽口に、どうしても胸の痛みを覚えるけれど。それは、意地でも表に出さない。

「晃ちゃんのところに、行くね」

「……ああ」

 短い返答を聞いて、私は歩き出す。薄暗い廃工場を出ると、日の光が薄い雲を貫いて、目に届く。眩しさに少しだけ目を細めて、そのときにどうしても、ちょっとだけ、涙が零れてしまった。

 たぶん、いや、絶対。このまま誠お兄ちゃんの傍に行けは、私は幸せになれる。きっと、確実に。誠お兄ちゃんは本当に良い人で、立派で。彼の傍にいればきっと大切にしてもらえるだろう。今よりもずっと、笑っていられるだろう。

 でも、それでも。

「私は、晃ちゃんの傍にいたいんだ」

 美織ちゃんがいなくなる前から。美織ちゃんがいなくなった今でも。

 それだけは、変わらずにいた想いなんだ。





 初めて、バイトを変わって欲しいと頼んだ。僕と同じ時間帯に普段からシフトを入れている、僕とは違う大学に通う学生は、彼が都合が悪い時にシフトを入れ替えたり代わりに出ていたりとしていたからだろうか、快く引き受けてくれた。そっちから頼んでくるなんて珍しいね、と笑い声交じりの声を聞いて、僕はもう一度ありがとうと答えた。通話を切って、携帯をポケットにしまう。手ぶらになった今になって、ようやく僕は美織の墓前に何も持たずにやって来たことに気づいた。

 花でも持って来るべきだった。そう考えて美織が好きだった花を思い出そうとして、それに思い至らなかった。好きな花の話なんて、したことがなかったかもしれない。花屋の店先に並んだ花々を見ても、どれなら美織が喜んでくれるのかわからなかっただろう。綺麗で、美しいなら、きっと美織はどんな花でも喜んでくれそうだ。たぶん、きっと。口では文句を言いつつも、受け取って、喜んで、笑ってくれただろう。

 それが、僕の知っている美織だ。僕が知っていて、僕がそう思っていた美織の姿だ。

「……久しぶり、だな。美織」

 廃工場に浮かび上がる朧げなものじゃない。本当の美織は今、ここにいる。この墓の下にいる。

 肉は焼かれ、骨だけになってしまった。僕の頭の中の存在じゃない。本当の美織が。

「おまえは、ここに居るんだよな」

 ……いや、居るわけじゃない。在るんだ。目の前でトラックに轢かれ、死んでしまった。美織という存在はそこで終わっていて。もう二度と、僕の目の間に現れるはずがなかった。

 そう、なかったんだ。

 墓前に供えられた花は、まだ活き活きとしていた。墓石も汚れているようには見えないし、周囲に雑草も生えていない。

 僕が廃工場に通うように、誰かが、美織に会いに来ているのだろう。それを、一緒に考えていいのかわからないけれど。

 同じでは、ないと思う。

 形がどうあであれ、意思の疎通ができてしまう以上、僕の方がずっと悪辣だ。

 話ができて、笑い合える。それがどれだけ嬉しくて、離れ難いことか。自分のせいで失ってしまった人が笑ってくれているだけで、どれだけ救われたか。

「言い訳だなんて、わかってるんだけどさ」

 それが立ち止まって良い理由、なんていえない。そんなことは僕だってわかっていた。

 わかっていた、けど。

「……ここで会うのは初めてだね」

 いつのまにか、夕日も沈み始めていた。オレンジ色の夕焼けが僕と、色とりどりの花束を持った佐奈を照らし出す。

「まぁ、初めて来たからね」

 ここに来ようとさえしなかった。葬式を終えた足で向かった廃工場で、僕の記憶を写し取った美織と出会った。だから、ここに来る理由がなかった。

 墓参りという行為で、美織が死んでいることを思い出したくなかった。そんな、理由が大半だ。

「この花は、佐奈が?」

「ううん。たぶん誠お兄ちゃんだよ」

 慣れた手つきで、佐奈は持ってきた花束を他の花瓶に挿した。二人が持ってきた花束で、墓石の周りが彩られる。

 その華やかさが、美しさが、なんだかとても悲しく映った。

「佐奈は、よく来るのか」

「よくってほどでもないかな」

 墓参りだというのに、僕は線香も持っていなかった。火を当てられ先端が赤く灯った線香から昇る煙を見ていると、ふいにいつかの記憶が蘇った。

「憶えてるか? 線香の匂いが好きだって言ってた、美織の話」

「……うん、憶えてるよ」

 親戚にも不幸があまりなかった美織の家では、仏壇がなかった。僕の祖父は幼い頃に亡くなっていて、僕の家には小さいながらも立派な仏壇があった。そこから立ち込める線香の匂いが、美織は好きだった。そんな理由を抜きにしても、真剣な表情で美織は僕の祖父に手を合わせてくれていた。孫の僕にだって思い出が少ない相手にも関わらず。

 横から盗み見た真剣な表情を、目を閉じた横顔を、その大人びた雰囲気を。今でも、はっきりと思い出せた。

「美織ちゃん、喜んでくれるかな」

「……喜ばないよ」

 つい突き放すような口ぶりをしてしまう。まずいと思っても、その先に続く言葉も止められなかった。

「喜ぶとか、もうそういうのはないんだよ」

 どこにもいないし、何も感じ取ることはない。幽霊なんて存在しない。魂なんてどこにもない。ここにあるのは、美織だった物だ。線香の匂いが立ち込める自分の墓に、何も感じ入ることなんてない。

「……死んじゃったら、もう何もかもなくなるって思ってるの?」

 佐奈の問いかけに、僕は頷いた。いや、頷いたというよりも、佐奈の顔が見れなくて俯いただけかもしれない。ちゃんとした、明確な意思によって導き出された答えが返せたわけでもない。

「じゃあ、どうして今でも、美織ちゃんが好きなの?」

 思わず、顔を上げてしまう。目の前にはいつもよりもずっと、大人びた表情で僕を見る佐奈がいた。瞳はまっすぐに僕を見ている。いつものどこか頼りない雰囲気なんてどこにもなかった。何も言えずにいる僕に、佐奈はもう一度口を開く。

「死んだら何もかもなくなるって思ってるなら、どうして今でも美織ちゃんが好きなの?」

 まざまざと矛盾を突きつけられて、僕は何も言い返せなかった。否定も、反論も、肯定も。当たり前だ。僕の中にだって、明確な答えなんてないのだから。

 死んでしまったら何もかもなくなる。口で、頭でそう思っておきながら、こうして美織の墓前に来ている。毎日のように、廃工場に通った。死んだら何もかもなくなる。それは事実だ。わかってるのに。

 いくら好きだと。愛してると。一緒にいたいと泣き叫んでも。届きはしないのだからそれは存在しないのも一緒だとわかっているのに。

 僕は、美織を想うことをやめられない。

「意地悪な質問だったね」

「そんなこと、ないよ」

 むしろ、佐奈には言われても文句は言えなかった。誰に言われても、文句が言えるような立場じゃないけれど。

 わかっている。わかっているつもり。そんな予防線を子どもみたいに張り巡らせていた。言い訳でしかない。どうしようもない。なんて末尾につけて話を終わらせようとする、卑怯な言い回しだ。でも、それが事実だ。

「……助けられて、代わりに死んだあいつのために、他にどうしたらいいかわからなかったんだ」

 助けられたのだから、頑張れ。助けられたのだから、幸せになれ。そんなことをたくさん言われてきた。嫌になるほど。わかっていた。それで、わかっていたつもりだった。理解はできていたつもりだった。頑張ろうと思っていた。志望校に受かって、講義にもちゃんと出席して、偉くなって、立派になって。色々なことを、頑張ろうと思っていた。

「でも、頑張った先に、美織がいないってこと、日に日に、思い知らされて」

 何のために頑張っていたのか。何のために、幸せになろうと思ったのか。

 誰と頑張ろうと思っていたのか。誰と、幸せになろうと思っていたのか。

 知らず知らずのうちに自分の中で掲げていた目標は、もうこの先では成し遂げられないと、気づいてしまった。

「わかってたんだよ。廃工場の美織に逃げているってことぐらい。幽霊だろうが幻だろうがなんだろうが。美織の形をしたものに逃げてるってことぐらいわかってたんだ」

「……晃ちゃんは、逃げてなんていなかったよ」

「死んでしまった好きな人の幻影に、毎日会いに行くことが、逃げじゃないならなんなんだ」

「美織ちゃんをあの廃工場で一人にしたくないから、会いに行ってたんでしょ?」

 図星だったつもりなんてない。そんなこと欠片も思っちゃいなかった。本当だ。

 でも、二の句を継げずに、僕は立ち尽くす。

「晃ちゃんは頭が良いから。たぶん、もっと前から気づいてたんじゃないの?」

「……何に」

「廃工場にいる、美織ちゃんの、正体」

 幽霊でもなく、幻覚でもなく。観測者の記憶を読み取って浮かび上がる、そういった不可思議な現象。

「でも、確証がなくて、もしかしたら本物の美織ちゃんなのかもしれないって思ったら、一人にするなんて耐えられなかった」

 そんな優しい考えなんかじゃない。首を振って否定し、言葉でも否定する。

「違うよ。だって僕には、確証があったんだから」

 たぶん、誰も知らないかもしれない。僕と美織が何気ない気持ちで話していた、一つの会話。憶えている。一言一句。間違いなく言える。

「幽霊なんてなりたくない。死んでるのに生きてる人を見続けるなんて、私には羨まし過ぎて耐えられない……って、言ったんだ」

 幽霊となった友人が、主人公の前に現れる映画を見ていた時だった。自分はもうすでに死んでるのに、生きてる友人の傍に漂い、色々なことを手助けする。そんな友人役の姿を見て、美織はそう言った。人が少ない上映会場だからといって、手を上げ指を指す行為を咎めて、僕は美織の手を取って下げた。少しの間だけ、映画館の暗闇の中で握りしめた彼女の手。その温もりだって、今でも憶えている。忘れることなんて、できない。

「そんなことを言ったあいつが、笑顔で僕の傍に現れ続けてくれるなんて、少しも思っちゃいなかった」

 すぐに、美織じゃないってわかった。

「一番美織を捻じ曲げていたのは、僕だ」

 それでも、彼女と話をしたかった。本当の美織じゃない。僕の記憶によって創られた存在でも。会って、言葉を、意志を交わしたかった。

「……私が知ってる美織ちゃんと、晃ちゃんが知ってる美織ちゃんって、まるで別人なんだろうなって、美織ちゃんが生きてる頃から思ってた」

 佐奈の持つ柄杓から流れる水が、美織の墓石を濡らす。

「誠お兄ちゃんがいなくなって、私たち三人だけになって……私、次第に顔を出しづらくなったの、知ってた?」

「……まぁ、ね」

 確信はしてなかった。でも、僕たちの間には、決して不快ではないけれど、気まずさのような感情が漂っていた。

「二人の仲が良い姿を見てるのが辛かった……っていうのも本当のことだけど。何より、美織ちゃんが怖かった」

 怖い。その感情が意味する言葉に、一瞬、戸惑ってしまった。

「……怖い? 美織を?」

「ほら。その反応がもう、私が知ってる美織ちゃんと晃ちゃんの知ってる美織ちゃんが違う証拠だよ」

 笑いながら佐奈はもう一度、柄杓に水を汲んで墓石にかけた。雫が音を立てて付近の砂利に流れていく。

「私が晃ちゃんにラブレター出してたの、知ってた?」

「え?」

「ごめん。わかってて聞いた。晃ちゃんは知らないよ。だって、美織ちゃんが持って行っちゃったから」

 恨み言を話しているようには見えない。佐奈は笑顔のまま、過去を思い出して、話をする。

「高二の冬だったかな。晃ちゃんの下駄箱に入れたんだ。ちゃんと晃ちゃんが手に取ってくれるか不安で隠れて見てたの。そしたら美織ちゃんが来て、晃ちゃんの下駄箱を開けて……持って行っちゃった」

 びっくりしたなぁ、なんて、笑いながら口にする。

「どういう理由で晃ちゃんの下駄箱を開けたのか。どういう理由で私のラブレターを持って行ったのか。聞きたいことも言いたいこともたくさんあったけど。何も、聞けなかった。怖かったし、もし理由が私の想像していたとおりだったら、美織ちゃんのこと、嫌いになっちゃいそうだったから」

 それは懐かしむ思い出としては、悲し過ぎると思った。それでも笑顔で口にする佐奈に、僕はなんて言えばいいのかわからなかった。言葉が浮かばない。口も開けず、目も向けられず、僕は俯いた。

「美織ちゃんって、けっこう卑怯だったんだよ。意外と頭良くて、計算高くて、ズルかった」

 貶す言葉の割に、丁寧で、優しげな声色。糾弾にも似たような言葉を、笑顔で。

「そういう美織ちゃんを、晃ちゃんは知らなかったよね」

「……ああ」

 知らなかった。見たことも、聞いたこともない美織だ。僕が好きだった美織は、そんな女の子じゃない。いつもどこか抜けていて、天然で、馬鹿っぽくて。それでも、優しくて、温かくて。

 それが僕の知っている美織だ。今佐奈が語った美織の姿は、想像もできない。信じられないし、信じたくない。

「でも」

 俯いたまま、拳を握りしめる。手のひらに爪が食い込んでもいいと思うぐらいに。強く、強く。

「そういう美織も、知っていきたかった」

 隠してる部分も、知らなかった部分も。僕だけが知らなくて、僕が知ろうともしなかった部分も。見ないふりをしてきたわけじゃないけど、知ることができずにいた、部分を。

 幼馴染としての二人じゃなくて、恋人として、夫婦として、家族として。長く長く関わっていくにつれて、見えてくるような色々な一面を。

 これから、時間をかけて、ゆっくりと、知っていきたかったんだ。

 受け止めて、噛みしめて。もし仮に、佐奈が見てきた美織こそが本当の美織だというのなら。

 そういった部分も、好きになっていきたかったんだ。

「そっか」

 柄杓と水の入った桶を地面に置いて、佐奈が両手を上に伸ばす。あーあ、と口にして、夕日に顔を向けて伸びをする。オレンジ色の明るい夕日は目に眩しくて、佐奈の顔が見えない。泣いて、いるのかもしれない。そう思った。でも、振り返った佐奈は。

「ほんと、頑固だよね。晃ちゃんって」

 思わず言葉に詰まってしまうぐらいに、晴れ晴れとした笑顔を浮かべていた。

「泣くと思った?」

「……正直、ね」

「泣かないよ。だって、もう胸を貸して、泣かせてくれる優しいお姉ちゃんはいないんだもん」

 いつだって、佐奈が泣いた時は美織が慰めていた。自分の胸に佐奈の顔を招いて、優しく頭を撫でていた。幼い頃から何度も見た光景だ。

「晃ちゃんの前でなんて、絶対泣かない」

 晴れ晴れとした笑顔。それでも、今にも泣きそうな目で、震える口元で、そんなことを言う。

「……置いていかれてばっかりだな」

 美織が死んだことで、僕たちの環境はガラリと変わった。当たり前のことだ。人が一人死ぬということは、簡単なことじゃない。

 家族ぐるみで仲の良かった僕の両親と美織の両親は、結果として疎遠になった。僕のせいで娘を失ったことによる責任や、そういったものは関係ないといくら口にしてもらったところで、当人たちの本心はわからない。もう長らく、仲の良かった母親同士の、思春期特有の聞きたくない気恥ずかしさを感じる会話も耳にしていない。週末には父親同士が、どちらかの家で酒を酌み交わしていた。そんな光景も、ずっと見ていない。

 僕が向かってくるトラックに注意を払えなかった。言葉にすればたったそれだけのことで、僕はたくさんの人生を捻じ曲げた。僕に全ての責任があるわけではない。悪いのは無茶な運転をしたトラックの運転手だ。でも、怨みをぶつけようにも、そいつだってもういない。美織を轢き殺し、自身も死んだ。残された当事者は、僕だけだ。

 誰も、僕を責めようとしない。それは紛れもない優しさだ。ならばこそ、僕はさっさと立ち上がって、前を向いて、しっかりと生きていかないといけない。

 僕をかばって死んでしまった、美織の残像を置いて。

 彼女の面影に似た、僕の過去そのものを置いて。

 それが正しいことなんだって、ずっと前からわかっていた。

「……ごめん」

 僕は俯く。顔を見られたくなかった。目の前の、ずっとか弱いと思っていた少女に、自分の情けない顔を見られたくなかった。

「ごめん、なさい」

 でも、謝罪の言葉だけはどうしても、どうしたって口から漏れてくる。情けない、嗚咽交じりの声だ。

 誰も僕が悪いなんて言ってはくれない。責めてもくれない。そんなことないのに。僕が周囲に気をつけて、横から突っ込んでくるトラックに注意を払えていればよかった。それだけだ。美織よりも早く気づけばよかった。それだけだ。それだけで、今もきっと美織は隣にいてくれた。傍で微笑んでくれた。仕方のないことなんかじゃない。責めて欲しかった。詰って欲しかった。いつも優しい美織のお母さんや、お父さんに、心から糾弾されたかった。娘を自分の注意で失わせた、情けない男を。いつまでも引きずって、座り込んだまま、停滞を重ね続けてきた、弱い男を。

 いつまでも、彼女の面影に似た、僕の記憶の中の彼女に会いに行くような、無様で滑稽な僕を。

「……うん」

 優しい声の、頷き。それだけだ。佐奈も、それだけしか返してくれない。責めてくれない。わかってる。わかってるんだ。それも優しさだってことぐらい、僕だってわかってる。

 でも、僕は。

「ごめん、なさい……!」

 とても、浅ましく思うけれど。謝って、許されたかったんだと。涙を流しながら、思った。

 佐奈は責めない。ずっと、涙を流し、謝り続ける僕を見ていた。

 見ていて、くれていた。






 美織が死んだと聞かされた時、俺はあと数分で研究発表が始まるのを待っていた。

 現実的で重大な事柄が控えている心境で、唐突に聞かされた非現実な展開。実の妹が死んだ。その事実をすぐに受け入れることができなかった。まるで遠い別の何かのように思えた。だからこそ、非現実的な事柄にしか思えなくて、何一つ心が波立つことがなかった。平然と、整然と。何の狼狽もなく電話を受け、すぐに研究発表の場へと向かった。

 その平常心のまま、何事もなく発表を終え、ふとその緊張感から解放された時。

 ようやく事の重大さを。美織の存在が消えてなくなったこと。日本に暮らす、他の幼馴染たちの存在のことを考えた。

 美織がいなくなる。それは俺にとって、中心がなくなるということだ。晃希も、佐奈も。美織がいなかったら俺は出会うことがなかった人間だ。だからこそ、小さい頃集まる約束は美織がいたからこそ俺の耳に入ってきたし、俺のその輪の中に入れてもらえた。

 繋がりが絶たれた。そんな気がした。美織がいなくなった輪の中に、俺は入れてもらえるのか。そんなことを不安に思った。実の、たった一人の妹を亡くした身でありながら、考えたことはまず我が身のことだった。自分がもう一度あの輪の中に入れるのか。くだらないことを真っ先に心配した。そんな輪なんて、もうとっくの昔に瓦解してるというのに。

 そんな自分にひどい嫌悪感と憎悪を抱きつつも、俺は美織の葬式にも帰れず、黙々と研究と勉強に励んだ。

 そして、佐奈から連絡があった。晃ちゃんに会って欲しいと。会って、話をして欲しいと。改善を求められたのでもなく、ただ、停滞をやめたかったかのように。

「女って、ほんと自分勝手だよな……」

 日本から、晃希のことを想い続ける佐奈から逃げて、別の国で頑張ってきた。忘れようと、別の女と関わったこともある。別の女に懐いた情欲だけで振り払えない勘定が、心の底で沈殿していた。砂のような泥のようなそれは、別の何かが入ると途端に浮き上がって、視界を悪くさせる。今は何も残せてない。全部宙ぶらりんのまま、人間関係の面倒くささを思い知っただけだった。

 両親の反応も、思っていたよりも淡泊だった。別に仲が悪かったわけでもない。普通の、よくある家庭環境だ。下の妹の方を可愛がって、手のかからない長男はほったらかし。俺自身、その環境が気楽だったし、文句もなかった。

 妹の葬式にすら駆けつけられなかった兄を、さすがに責めるかなとは思っていたが。

「まさか……何も言われないとは思わなかったな」

 優しさなのか。無関心なのか。どちらにせよ気楽であることには変わりないので、文句はない。

 荷物を、半ば倉庫と化していた元自室に置いて、俺は美織の部屋に入った。生前と変わって……るのか、正直わからない。元々妹の部屋に何度も入るような間柄でもなかった。どんなレイアウトだったかなんて憶えてない。それでも、埃の被ってない学習机や、ちゃんと整理されたままの形に残された小物。そういった、何も手を付けなければ変わるわけがないものを、変わらないようにしている努力が垣間見える。

 ……死んでしまった者への不変の愛情か、それとも執着か。

 どちらにせよ、晃希と本質は変わらない。自身が持つ思い出への、救いのない問答だ。

 そうやって、とっくに死んでしまった妹の部屋を眺めていると、ふいに玄関が慌しくなったような物音がした。母親の意外そうに上ずった声。緊張、しているのだろうか。相手は、簡単に想像できた。

「……なんで妹のベットに座ってんだ、あんた」

「座る場所が他になかったんだよ」

 呆れたような声色で、晃希が部屋に入った瞬間にそう言った。

「おまえこそ、女子の部屋に入る前にノックぐらいしろよ」

「もういない相手に、何をお伺い立てろって言うんだ」

 軽い冗談のつもりだった。それでも、晃希の心に少しはさざなみを立ててくれるかと思った。

「あんたの、そうやって人の神経を逆撫でするような発言も、だいぶ慣れたな」

 だというのに、晃希の浮かべる表情に、少しも陰りなんて見えない。

「……決めたのか」

 俺がそう問うと、晃希は笑った。悔しげなのか、悲しげなのか。その中間にあるかのような、曖昧な苦笑。

「決めるも何も。最初から決まってたよ」

 ……そうだ。最初から、選択肢なんてない。選べる道なんて一つしかなかった。

「もう、美織に似た面影に、逃げない」

 俺を見る晃希の目は、よく知っている目だった。前向きで、いつだって力強くて。

 ああ、こいつなら、俺が好きな女が、惚れてしまうのもわかるなって、思ってしまう目だ。

「おまえが望めば、あいつはいつまでもあそこにいるぞ」

 晃希は口を閉じたまま、俺を見る。

「考えてみた。観測者の記憶を反映する存在なら、美織を知っている人間がそこにいる限り、あいつは現れ続ける。俺たちはあの場所にいて、美織を思い出さずにはいられないからな。どうしたって、現れ続ける」

 研究者として、この現象を紐解いてみたい気持ちはあるが、現状自分を納得させるだけの理屈を用意できない。

「俺たちの記憶によって生きているような存在だ。もう美織はいないから、情報が更新されることもない。ずっとあのまま、俺たちの記憶に残ってるまま、あの廃工場にあり続ける」

 それを、悲しいとか虚しいとか。そういう負の感情で捉えるべきなのか。俺だってわからない。何故ならそれは、紛れもなく救いにすらなりえる現象だからだ。死んだものが生前の、自分の記憶の姿のまま、目の前に現れ続けてくれる。

 その環境を、否定するのは簡単だ。第三者からすれば現実から逃げ続けているだけに過ぎない。現実を見ないで、過去に縋りついてるだけだ。そんなこと、晃希だってわかってる。

 でも、縋らずにはいられない。晃希も、佐奈も、認めたくないが、俺だって。

 でも、縋り続けていることは許されないって、わかっている。

「おまえが、美織を消すしかない」

 俺の直線的な言葉ですら、きっと晃希は予想していたのだろう。驚いた様子なんて微塵も感じさせず、ただちょっとだけ目を閉じて、息を吐く。

「わかってる」

 次に目を開いたときにも、生意気にも怯えなんて見えなかった。

「美織が死んだ瞬間を憶えているのは、僕だけだからな」

 俺は死体すら見ていない。佐奈だってそうだ。トラックに轢かれ、原形を失った美織はすぐに骨だけの存在となった。それを見て、美織が死んだと、心から納得できるだろうか。そう、認識できるだろうか。

 本当に美織の死を知り、実感できるのは、美織が死ぬ瞬間をその目で見た、晃希だけだ。

「……偉そうに言ったが、そんな方法で本当にあれを消せるのか、定かじゃない」

 何もかも訳のわからない現象だ。そこに理屈染みた考え方を持ち込んで、どうにかなると太鼓判を押せやしない。でも、可能性はそこにしか感じない。

 一番離れたくないと願う人間が、一番辛い想いをする方法しか思いつけなかった。

「明日、またみんなであの廃工場に集まろう」

 俺の不安を見なかったフリをする優しさか、直視できない弱さか。どっちかなんてわからないけど、晃希が朗らかに笑いながら言う。

「みんなで、美織の話をしよう」

「……ああ」

 思えば、そういう昔を懐かしむ語らいを、俺たちはしていなかった。自分たちの傷を、互いに叩き合う会話しかしていなかった。楽しかった、綺麗な思い出の方がずっと多いはずなのに。

「おまえが調子に乗って、自転車で暴走した挙句川に突っ込んで、頭から血を流して大泣きしてた話とかしようぜ」

「じゃあ僕は、あんたが美織の着替えを見てしまって散々ボロクソに怒られて、女は大袈裟なんだよって愚痴を言ったら佐奈にも小言を言われて、後になって落ち込んだ話とかしてやるよ」

 またしても傷を叩き合うような言葉の応酬をして、俺たちは互いに笑い合った。声を上げたり、腹からでもない、鼻で笑うような、相手を小馬鹿にするような笑い方。

 美織の前で晃希はこんな風に笑わない。佐奈の前で俺はこんな風に笑わない。

 傍にいる相手次第で、人間なんていくらでも顔を作る。表面を繕う。隠したり、曝け出したりする。そんなのは、当たり前のことだ。

「美織は日記なんて書かなかったから、今のおまえにあいつの醜悪さを伝える術はない」

 本当は嫌味っぽくて、ズル賢くて、卑怯な美織をこいつらは知らない。佐奈は多少は勘づいているようだが、そんなのはちょっとだけだ。本当の美織は、佐奈や晃希が知っているような、どこか抜けたところのある天然なんかじゃない。

 でも、本当はそんな人間なのに、隠して、繕って、偽って。

 好きな男に好かれたいと努力をする、いじらしさだってあった。

 そんな、俺が唯一女の子らしいと思う姿を、こいつはもう見ることはない。

「机の中を漁ってみろ。おまえからしたら掘り出し物があるかもしれないぞ」

 そう言ってベットから立ち上がり、部屋の扉を開ける。

「どこ行くんだよ」

「どこって、自分の部屋だよ。ここは俺の部屋じゃないんだから」

 もう入ることはないかもしれない、妹の部屋を見る。

 数年前、俺はこの扉をノックしないで開けた。扉の先には下着姿の美織がいて、当然美織は俺を怒った。高校一年生の頃だろうか。背伸びしたような、まだまだ似合わない大人っぽい下着を着けて、顔を真っ赤にして。

 背伸びしたその下着を、晃希に見せることはなかった。似合わない努力を、健気さを、晃希が知ることはない。

 その事実が、どうしても痛みになって胸に突き刺さるけど。

「じゃあ、また明日」

「うん。また、明日」

 弱みなんてこいつには見せたくないから、俺はすぐに、扉を閉めた。





 普段から、あまり互いの家で遊ぶようなことは少なかった。買い物に行ったり、映画を見たり。世間一般でデートの類になりえそうなことを、僕と美織は日常にしていた。小さい頃から続けてきたことだし、周りに茶化されることもなかったからだ。いつでも二人きりではなく、佐奈や誠と一緒にいることも多かったからだ。二人で遊ぶことも楽しかったし、四人で遊ぶことだって負けず劣らず楽しかった。

 でもいつからか、二人でいることを楽しいだけじゃなく、もどかしさを感じるようになった。お互いに懐いた感情なのかもしれない、なんて、想像しか今はできないけど。

 誠が部屋を出てから、僕は美織の机に向かった。わざわざ誠が口に出して僕に教えるほどだ。きっと、僕にとって何かしら意味のあるものがこの机の中に入っているのかもしれない。

 僕が知らない美織の姿が、あるのかもしれない。

 何気なく開けた一番手前の引き出しから、その証拠が見つかった。

「……本当だったんだ」

 佐奈のことを信じていなかったわけではない。信じたくなかった、だけだ。

 淡い桃色をした手紙を手に取る。宛名は僕で、差出人は佐奈だ。紛れもなく佐奈の字で書かれた僕の名前を、指でなぞる。消えやしない。幻でもなんでもなく、これは佐奈が僕に宛てた手紙だ。

 勇気を出して佐奈が出した、美織が奪い取ったラブレターだ。

 知らなかった事実が目の前に物的証拠として現れて、僕はひどく狼狽した。無様にも、眩暈までした。衝撃の事実なんて言うと安っぽく思えてしまうけれど、僕にとってはそれそのもので。

 裏切られたとか、よくも騙したなとか。そんなことは思わない。これっぽっちも。少しも思いやしない。衝撃はそんなものから伝わって来たんじゃない。

 僕が知らなかった美織の姿が、こんなにも、鮮やかに目の前にある。

 一緒にいれば、美織が死なずに僕の傍に居続けてくれれば。知ることができたのだろうか。優しくて、どこか抜けていて、暖かいだけじゃない。卑怯で、嫌らしい。僕には想像もできないぐらいの、汚い面を持った美織の姿を。

 僕に見せたくないと思った、彼女の別の姿を。

 佐奈と美織の墓の前で、涙は出尽くしたと思っていた。視界が揺らいで、手にしていた佐奈のラブレターに水滴が落ちる。慌てて拭っても、容器の限界を超えたように溢れて、止まらない。なんだろう。さっきまでの涙とは違う。種類の違う涙のように思えた。悲しいんじゃない。悔しいんじゃない。そんな負の感情じゃない。佐奈のラブレターを机の上に置いて、涙を流し続ける瞳を両手で覆う。そのまま僕は床に座り込んだ。足が震えて、立っていることなんてできなかった。唇が震えて、次第に口角が上がっていく。

 嬉し、かった。嬉しかったんだ。僕は、笑っていた。

「は、ははっ。あははっ!」

 涙は止まらない。両手も両足も震えている。笑い声だって、時折嗚咽が混じってひどく聞き苦しい。誠や、美織の両親に聞こえていたらどうしよう。そんなことを考える。けど、止められなかった。

 偽って、騙して、繕って、隠し通した。

 本当の姿を知られたら、僕が彼女を嫌いになるかもしれないだなんて、怯えて。

「なんだ。なんだよそれ。結局、あいつって馬鹿なんじゃないか」

 楽観的で、考えなし。そんなことはなかった。色々考えていたんだ。気楽な性分じゃなかったかもしれない。佐奈のラブレターをこうして、わざわざ大事に保管しているんだ。悩んで、後悔していたこともあったのかもしれない。それすらも隠し通した。僕に気づかれないように、自分を偽って。

 僕が、そんな卑しい美織を嫌いになるかもだなんて、怖がって。

「そんなことで、嫌いになるわけないだろ」

 馬鹿だ。本当に、馬鹿だ。臆病で弱虫なのは裏も表も一緒のようだ。

 どれだけ、本当の美織が嫌な人間でも。どれだけ、君が卑しい人間でも。

「好きに、決まってるだろ」

 そんなことで揺らいでしまうような、僕じゃなかったのに。

 それぐらい、君を愛していたのに。

「好きに、なりたかったよ……!」

 そうして、涙を流し続けた。

 気づけなかった美織の面影を、想って。



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