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ルビの振り方がよくわからないから書いてないですが、登場人物の名前は
西城晃希、小日向美織、藤倉佐奈、小日向誠です。
毎度毎度人物名は適当かつ思いつき。
*
美織が死んだ時のことを、僕は鮮明に憶えている。目に焼きつくほど眩しい夕日があったことも。トラックに轢かれた美織の姿も。でも、その後僕がどうしたのか、何もかも僕の頭の中には残っていなかった。
告別式も、火葬場にも行った憶えがなかった。僕が憶えていないだけで、僕の姿はその場にあったらしい。告別式には学校の制服を着て、ご焼香を上げ、納骨までも全て参加していたと、美織の両親から聞かされた時は、僕はおかしくなってしまったんだと納得してしまっていた。
けれどそれ以上に、これ以上なく、僕の頭はおかしくなってしまったんだと判断するしかない出来事が起きた。
「晃希? どうしたの? お腹痛い?」
「……なんでもないよ。どこも痛くないから心配するな」
廃棄された工場内は、昔からの遊び場だった。僕と美織と、美織の兄である誠、そして一つ年下の佐奈。その四人で遊ぶ場所はいつもこの廃工場だった。廃棄されて数年経つけれど、他に開発の手がかかることはなく、忘れられた場所としてそのまま残っている。幸い不良の溜まり場になることもなく、誠が一人で外国の大学に行ってからも、僕たちはよくここで集まって、勉強や他愛のない話をしていた。
美織がこの世からいなくなったことを思い知らされる日々の中。僕は勉強にも手がつかなくなり、あまりの憔悴っぷりから佐奈ですら僕の元を離れていった。そして、女々しく美織との思い出を振り返るように訪れたこの廃工場で、僕はありえないものを見つけた。
「だって、晃希がそうやって真面目そうな顔してる時って、大抵がお腹痛い時じゃない」
腰の高さまで伸びた癖のない栗色の髪。誰もが振り返る美人、とまではいかなくても整った顔立ち。白いワンピースの上に淡いピンク色のカーディガンを羽織り、掃除して綺麗にしてある椅子に座って笑う、目の前の女の子。
……確かに、トラックに轢かれた死んだ、小日向美織そのものだった。
「そうかもな」
美織の言葉を否定せず、肯定する。そのことが意外だったのか、美織は目を見開いて椅子から立ち上がり、僕の傍にやってきて手を伸ばしてきた。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
彼女の心配そうな声色。そして、暖かな手のひらの感触。感じる熱に、僕は目頭が熱くなるのを感じて、顔を背けて俯いた。
ここに、いる。傍に立って、目が合って、触れられて、暖かい。
死んだはずの美織が、僕の前に立って、いる。
「大丈夫、だよ」
声が上擦らないように気をつけながら、それだけ口にする。それでも美織は納得せず、訝しげな態度を崩さない。僕の俯いた顔を見ようと膝を曲げる。だけど、その頃には僕の目はいつも通りのはずだ。涙なんて少しも滲ませず、鼻の頭にツーンとする刺激もない。
美織がこうして僕の前に現われて、もう一年になる。毎日欠かさず会うというのに、毎日欠かさず涙を目に溜めてしまう。情けないと思っても、どうしても溢れ出しそうになる想いは止められなかった。
「お腹が痛いんじゃないよね……何か辛いことでもあった?」
昔から、美織にごまかしは通用しなかった。こっちがどれだけ巧妙に、努力して隠しても、彼女はすぐにそれを気づき、引き剥がしてしまう。そういうことがうまい女の子だった。人のことに聡く、敏感で。それなのに、自分のことになると鈍感で間が抜けてて。いつも僕たちはそんな彼女に助けられていた。彼女の兄である誠も、佐奈も、僕も。いつだって彼女が中心だった。真ん中にあった。
それなのに。
「……なんで」
「ん?」
笑顔のまま、美織が首を傾げる。僕が口にする言葉を待っている。変わらない仕草。何度も何度も見てきた、彼女の優しさ。
「なんで、僕なんかを庇ったんだよ」
その笑顔が少しだけ、本当に少しだけ、引きつる。予想外の言葉だったのかもしれない。言うべきじゃないのかもしれない。
ただ、これだけは聞いておかないといけなかった。例え目の前の彼女が僕が見る幻覚でも、万が一本当に美織自身だとしても。
「なんで、おまえが死なないといけなかったんだよ……」
一年が経った今でも、いや、何年経とうが、絶対に納得なんかできないこと。
膝を曲げた美織が、困ったように指先で頬を掻く。何度見てきたかわからない苦笑いを浮かべて。
「……なんで、だろうね。わからないや」
馬鹿でごめんね。なんて的外れなことを美織は言う。それを否定する言葉を口にしようとしても、唇がほんの少し動くだけで、言葉にならない。そもそも、何と言うつもりだったのかもわからない。
違う、なんて短い否定でもよかった。馬鹿とか、そんなことは関係ないよと言ってやれればもっとよかったかもしれない。けど、そんな言葉を美織は喜ばないだろう。励まされることも、慰められることも望んじゃいないだろう。安い言葉で喜ぶ単純な女の子ではなかった。確かに馬鹿だけど、間抜けだけど。
嘘は、通用しなかった。
「晃希にもわからないこと、わたしがわかるわけないじゃない」
困ったように笑って、美織は言った。いつだって、ごまかすことはしなかった。嘘も吐かず、それこそ馬鹿正直にわからないことはわからないと言った。
どうしようもないほどに、美織は、美織だった。目の前にいる美織は、僕が知ってる、僕が今まで関わってきた美織そのものだった。
「晃ちゃん!」
突然名前を呼ばれ、僕は顔を上げる。声の主は目の前にいる美織ではなかった。声も違うし、僕の呼び方も違った。
「ほら、呼ばれてるよ」
美織が指差した方向に扉があり、その向こうに声の主がいるのだろう。会ったのは、つい一ヶ月ほど前だっただろうか。同じような毎日を過ごしているせいか、月日の感覚が曖昧になっている。
「今日はここまで、かな」
「……ごめん」
「晃希が謝ることじゃないでしょ」
おかしいなぁ、と笑う。口に右手の人差し指の側面を当てて笑う見慣れた仕草。
「それじゃね、また、明日」
「また……明日」
何百回も繰り返した別れの言葉を口にして、美織の姿が薄れていく。扉が開く音がする頃には、美織の姿はどこにもなかった。
まるで初めからどこにも存在していなかったかのように。僕の頬に触れていた感触すら、今ではもう思い出せない。
廃工場の床を靴がする音が聞こえる。椅子などの座る場所の掃除はしていても、土足で入り込む場所の床まで逐一掃除などしていられない。砂が靴と床の間をする音が何度も聞こえた後。
「久しぶりだな、晃希」
「……道理で、足音が一つ多いと思った」
俯いて、顔も見ないでもわかる。佐奈ともう一人。久しく会うこともなかったが、声は少しも変わってない。
「元気にしてたか、誠兄ちゃん」
「何年前の呼び方してんだ、馬鹿」
「自分で言ってみて、予想以上に気味が悪かったよ」
軽口を叩いて、ようやく顔を上げる。
「久しぶり、誠。ちょっと太ったんじゃないか?」
「脂っこいものばっか食わされるからな。おまえは、痩せたな」
「食欲が湧くような生活してないから、さ」
言葉尻を強く言いつつ、勢いづけて椅子から立ち上がる。そのまま僕は二人の横を通り過ぎた。佐奈だけは振り返ったようだ。誠は、微動だにしてないだろう。見なくても、なんとなくわかった。
「なぁ、今まで誰と話してたんだ?」
そんな質問が聞こえる。意地の悪い質問だなと思いつつ、誠らしい質問だなとも思い、少し笑ってしまう。
「……幻覚だろ」
「昔から夢見がちだったもんな、おまえ」
「あんたには負けるよ、アメリカンドリーム野郎」
背後から鼻で笑う声が聞こえて、それに満足して僕は歩き出す。
「こ、晃ちゃん! どこ行くの!?」
「バイトだよ」
靴が砂で床を削る音を立てながら、廃工場を出て行く。
友人との久しぶりの再会なのに。僕は一度も、二人と目を合わせることすらできなかった。
*
「アメリカンドリーム野郎、か。あいつもよく憶えてたなぁ」
くっくっ、と肩を揺らして笑う誠お兄ちゃんに、私はどうしても違和感を覚えてしまう。目つきに出てしまっていたのか、私と目が合った誠お兄ちゃんが笑うのをやめてどうした? と聞いてきた。
「なんか、意外だな、って。もしかしたら、晃ちゃんのこと殴っちゃうかもって心配してたから」
「あいつがあからさまに凹んでたら、殴ってたかもしれないけどな」
「凹んでなかったの?」
「どう、だろうな。あいつ昔から隠し事がうまいからな。それに気づけるのは美織だけだったろ?」
言葉として口に出すことができなくて、私は頷いた。美織ちゃんとは対照的に晃ちゃんは嘘を吐くのがうまかった。そして、美織ちゃんはその晃ちゃんの嘘を見抜くのがうまかった。
そういう、二人だけの繋がりが、他にもたくさんある。
いや、あった、だ。もう、それはなくなっている。なくなっている、はずなのだ。
「誠お兄ちゃんは、晃ちゃんを怒ってないの?」
「俺にその資格はないだろう。妹の葬儀にも駆け付けられなかった兄なのに」
それは仕方ないよ、と口にすることがどうしてかできなかった。実際、どうしようもない事情があったのだろう。それを責めることはできないし、そもそも私に誠お兄ちゃんを責める権利があるとは思えない。
その権利を持つのは、きっと。
「……見え、る?」
私はゆっくりと、あるところを指差す。指差した方向には、既に誠お兄ちゃんの視線が向かっていた。
「ああ。薄っすらと、何かが」
靄。そう表現するのが一番正しいかもしれない。綺麗に整えられた椅子の上。いつもこの廃工場に集まる時の、美織ちゃんの定位置。そこに、薄っすらとした靄がかかっていた。向こう側の景色が歪んで、揺れているからこそ、そこに靄があるとわかる。
でも、そこから感じる雰囲気や、何ともいえない暖かさは、美織ちゃんがいた頃から感じていた、その感覚そのままで。
「美織、なのか?」
動揺を隠せない声色の質問に、私は頷く。そうか、と短く呟いて誠お兄ちゃんは一度深く息を吸い、吐いた。たったそれだけの動作で、誠お兄ちゃんの顔つきが変わる。真っ直ぐと目の前の靄を見据えている。
「二人いると、ああやって靄にしか見えないけど。一人だけだと、ハッキリと見えるようになるの。ちゃんと話せるし、ちゃんと、美織ちゃんなの」
「非科学的な、と言いたいところだけど」
「……話してみる?」
誠お兄ちゃんは両手の手のひらを上に向け、大仰に首を振った。恐がっているようには見えない。口元はこんな状況でありながら笑っている。
「いや、まだやめておく。何を言いたいのか、何を言われたいのか。まだ自分の中で形になってない」
「ここに来るまでに考えておけばよかったのに」
「考え損だったら思考の無駄だし」
しれっとそう口にする胆力は、相変わらずだ。要はこれまで全く信じていなかったのだろう。美織ちゃんとまた話ができるなんて夢物語。確かに人伝で聞くだけで全部まるっと信じてしまうのもどうかと思うし、人によっては怒るだろう。だから、晃ちゃんは誰にも言わない。
「……晃ちゃん、ずっと恐がってたの」
「あいつが? 美織を?」
「ううん。そうじゃないの」
晃ちゃんが美織ちゃんを恐がるわけがない。例え幽霊だとしても……ゾンビだとしても。それぐらいで晃ちゃんは揺るがない。揺らいでなんてくれない。
「自分だけが見てる、幻覚なんじゃないかって」
彼がこの場所で、こんな不思議な状況を見つけたのは美織ちゃんの葬儀が終わってすぐのことだったらしい。ふと立ち寄ったこの廃工場で、彼は見つけたのだ。生前と全く変わらない姿で会話し、意志の疎通が取れる美織ちゃんを。
「あいつは、今でも」
「うん。今でも晃ちゃんは、自分が幻覚を見てるんだって思ってる。私にも見える、話せたよって言っても信じてくれない。私がごまかして、嘘を吐いてくれてるんだって思ってる」
「だから俺を呼んだのか?」
「誠お兄ちゃんの言葉なら、信じてくれるかなって」
「むしろ俺の言うことにこそ、あいつは反発すると思うぞ。典型的な天邪鬼だからな」
そうかもしれない。晃ちゃんと誠お兄ちゃんは、事あるごとに衝突を繰り返していた。喧嘩というほど大げさではないけど、意見が合ったのは一度もないかもしれない。
「……ごめんね、無理言って帰って来てもらったのに」
「佐奈が謝ることじゃないだろ」
苦笑いしながら誠お兄ちゃんが手を上げる。その手は、懐かしい軌道を描きながら私の頭の上までやってきて。
「もうそんな年じゃないか」
短い溜息を吐いて、誠お兄ちゃんは手を引っ込めた。
「別に、いいよ?」
皆より年下の私は、よく頭を撫でられていた。年下扱いという感じでもなく、子ども扱いというわけでもなく。身長が四人の仲で極端に低かったこともあったと思う。頭が撫でやすい位置にあったのだろう。そうして頭を撫でられることは、私は決して嫌いじゃなかった。
「おまえが良くても、俺が良くないんだよ。お互い、もう子どもじゃないんだからさ」
「……子どもじゃ、ないのかな」
子どもじゃないのなら、いったい今の私は何なのだろう。大人、なのだろうか。違う気がする。年齢的には、確かに大人の部類に入るだろう。けれど、自分がそれで大人か、と聞かれると首を縦に振れない。何かが邪魔をする。
大人というのは、もっとスマートで、賢いものじゃないのかな。少なくとも、同年代の男の人に頭を撫でられたがった私は、大人ではないだろう。きっと。
「俺は家に帰るとするかな。佐奈は、どうする?」
「……話して行こうかな」
そっか、と短く返事して、誠お兄ちゃんは歩いていった。少しも尾を引いてない。死んでしまった妹(幽霊かそうじゃないかは置いといて)に会える機会だというのに。薄情だな、なんて初対面の、誠お兄ちゃんを良く知らない人は思うかもしれない。私でも一瞬、そんなことを考えてしまった。けど、それは違う。たぶん、誠お兄ちゃんは。
「やっぱり、兄さんは恐がりよね」
誠お兄ちゃんが廃工場から出て行ったその瞬間、懐かしい声が耳に響いてきた。驚くことはなかった。私はゆっくりと、さっきまでは靄にしか見えなかった何かがあった位置へと向き直る。
「ああやって飄々としてるけど、ほんとは内心ビクビクオドオドしてるんだよ。兄さん、昔っから女の子苦手だから、佐奈と二人っきりで状況も相当気恥ずかしかったんじゃないかな」
「……そうかもね」
いつしか靄は消え、もういないはずの女の子がそこにいた。椅子に座り、ニヤニヤと意地悪そうに笑いながら私を見ている。
交通事故に合い死んでしまった、小日向美織は、こうして平然と目の前に現れる。晃ちゃんの前にも、私の前にも。
何も変わらず、いつも通りに。
「でも、誠お兄ちゃんもアメリカに何年も暮らしてるんだし、女の子への免疫も上がってるかもよ」
「いやいや、それはないと思うよ。兄さんのそれは筋金入りだもの。何年経っても治らないわよ、あれは」
「実の兄のことなのに、辛辣だね」
「実の兄のことだから、辛辣に言えるのよ」
そう言って、美織ちゃんは笑う。にこやかに、楽しそうに。それを見て私も笑った。にこやかに見えるのか、楽しそうに見えるのか。それはわからないけど。
笑った、とは思う。
「……みんなで、話せたらいいのに」
楽しそうな雰囲気を崩してしまうことを、私は思わず言ってしまった。私の言葉を聞いて、美織ちゃんはやっぱり笑顔を曇らせる。
「ごめんね。みんながいると、どうしてもわたしは出てこれなくて」
「美織ちゃんが謝ることじゃないよ」
目の前にいる美織ちゃんが幻覚なのか、幽霊なのか、そういう『現象』なのか。どれも確証がなくてわからない。けれど、ハッキリしていることがいくつもある。
「一人一人としか話せないけど、わたしは十分楽しいよ?」
単身でなければ、私たちは美織ちゃんと話せない。二人以上でこの場所にいても、見えるのは気味の悪い靄だけだった。一人で廃工場にいる時だけ、美織ちゃんはハッキリと見えるようになり、会話もできる。それはすごく悲しいことだった。
「寂しい、けど。こうして話せることだって、すっごく幸せなことだって思うもん」
もう二度と、私たちは四人で集まることはできない。そのことを、何度も突きつけられている気がした。
「そう、だね」
「ほら、せっかく会ったんだから、悲しい話題はやめよ? 最近学校はどうなの? 保育士になるのって、やっぱり大変?」
言葉尻を上げて、なんだか質問みたいになる喋り方は美織ちゃんの癖のようなものだ。人によっては真剣味がないとか、ふざけてるように聞こえるかもしれないけど、私は美織ちゃんのこの喋り方が大好きだった。話す人のことにしっかりと意識を向けてくれているのがわかって、気分が落ち着く。ちゃんと話を聞いてくれてる。そんな気がする。
「大変、だね。知識は、なんとかなるんだけど、実技が大変。ピアノって、絶対弾けないといけないわけでもないのに、どうしても一つのステータスみたいになっちゃってて」
「佐奈ちゃん、昔から不器用だもんね」
「……ズバッと言わないでよ」
幼い頃からの付き合いは伊達じゃない。絵でも音楽でも、昔から私はこと芸術という分野に関して言えば、幼馴染四人組の中でも相当にひどいものだった。練習に練習を重ねてるつもりでも、どうしたって指が思う通りに動いてくれない。元々あがり症な気もあってか、演奏の試験のたびに、胃の辺りがキューっと痛む。
ああ、そういえば。明日がその試験の日じゃないか。
「……楽しい話題にするんじゃなかったっけ」
「う、ごめんごめん。まさかそんなに落ち込むとは思わなくて」
「……まぁ、私が悪いんだけどさ」
ピアノが弾けないからといって保育士になれないわけでは決してない。それはわかってる。だからといって、弾けないに越したことはない。一つ技能を持っているだけでも職場の環境や状態というのは大きく変わる。先生たちはそれがわかっているからこそ、私に対しても厳しく指導に当たってくれている。それに答えられない自分が、やっぱり不甲斐ないのだ。そう思うと気分はどうしても落ち込む。
「じゃあ、もっと楽しい話にしよっか」
美織ちゃんが椅子から立ち上がる。スッと、音がしないような繊細な所作。そうして私の傍までやってきて、口に手を当て私の耳元でそっと囁く。
「晃希には、いつ告白するの?」
唇を少しだけ、ほんの少しだけ噛んだのは、きっと見られてないと思う。
「……全然楽しくないよ、その話題」
「恋バナは総じて楽しいものよ。それがどんな状態や環境であれ、ね」
そう言う美織ちゃんの顔は、きっと本心から言っているのがありありとわかるほどのニコニコな笑顔で。
「……告白なんて、できないよ」
だから私も、本心で返答する。
「どうして」
「晃ちゃんが好きなのは、今だって美織ちゃんだもん」
もっとたくさんの理由があったけど、一番最初に口に出たのはそんな理由だった。美織ちゃんの顔が見れなくて、私は俯いたまま再度口を開く。
「毎日ここに来て、美織ちゃんと話してるのが良い証拠じゃない。いつだって、昔から、晃ちゃんは美織ちゃん一筋だったもの」
言ってみて、なんて子ども染みた言い方なんだろうと思う。けれど、本心だ。
「私に、入り込む余地なんてないよ」
「でも、わたしたちには未来がないよ?」
思わず顔を上げて、美織ちゃんを見る。彼女は、笑っていた。
「このまま一緒にいても、わたしたちは幸せになれないよ」
少しも悲しみを滲ませない、綺麗な笑顔だった。
「なら、わたしは佐奈に晃希を幸せにして欲しいなぁって思うよ。他の誰かに任せるなんて、そんなこと考えられないぐらい」
「そんなこと、言わないでよ」
決心、なんて大層なことをしていたわけじゃない。あわよくば、なんて厭らしいことを考えていたのも否定なんてできない。けど、割り切っていた。ちゃんと、心の中では整理ができていた。
「私に、晃ちゃんは奪えないよ」
どれだけ私が望もうとも、決して晃ちゃんは私になびかない。晃ちゃんが懐く美織ちゃんへの愛情は、ちょっとやそっとじゃ無くなったりしない。
例え、死が二人を別つとしても。現に晃ちゃんは、美織ちゃんを想い続けている。
「……難しいよねぇ」
口元に人差し指を当てて、美織ちゃんは苦笑いをしていた。この表情を、私はどこかで見たことがある、気がする。近いうちに、それも美織ちゃんが浮かべたわけではなく。
「まぁ、急がなくてもいいよ。けど、いつかは決めて欲しい、かな」
その表情のまま美織ちゃんは歩き出し、またいつもの定位置、美織ちゃんが座ってきた椅子に腰を下ろす。
「わたしも、いつまでここにいられるかわからないしね」
椅子をポンポンと叩きながら笑う美織ちゃんに私は何も言えなかった。肯定も、否定もできなかった。
今更、わかった。
美織ちゃんの苦笑い。それは私が実習中に聞き分けのない幼児に向けた、苦し紛れの笑顔と一緒なんだ。
*
私見だけど。日本とアメリカが持つ雰囲気に、そう違いはないように思えた。文化や生活環境はもちろん違う。そういう意味では、国が持つ独特の雰囲気というのは確実に存在するだろう。だが、それはきっと、『日本で長いこと暮らしていた故に感じる差異』なんだ。日本で長く暮らしていた記憶があるからこそ、その違和感に気づく。
考えてみれば当たり前の話だった。その記憶なければ、そもそも雰囲気を感じ取ることすらできない。記憶は、つまり『自分』という単語に置き換えてもいい。自分があるからこそ、判断する能力を持てる。それこそが基準だからだ。その基準を持たなければその判断すらできない。アメリカで住んでいた場所は、然程アメリカ『らしさ』に溢れてはなく、緑もあれば車もある。そのための必要な道路や環境もある。それなりの町並みが揃い、それなりの人口によるライフラインが整っている。言ってしまえば、故郷と然程変わらない。もちろん市街地や大都市に出れば話は違うが、それは日本でも同じだろう。
そういう意味で、俺は俺の中にこれまで培ってきた記憶を元に判断し、日本とアメリカにそれ程の差異はないと思った。
日も落ち、街灯の明かりと、家々で灯る蛍光灯やLED電球の明かりだけの光で保たれた視界の中に映る町並みを眺めながら歩く。
懐かしい、という感情が浮かぶのは少々気が早いようにも思えた。たった二年だ。二年間という月日が短いのか長いのか。その判断は人によるだろうが、俺にはまだそんな大した長さじゃないように思う。もちろん俺の人生の総年数で言えば、大層な数字だろう。感覚の問題だ。この二年間は余りにも充実していて、月日の流れなど感じなかった。一年が経ち二年が経ち。気づけば日本では四季が二週もしていることに気づいた時には思わず「マジか」と呟いてしまったほどだ。それほど、俺にとって二年は短く、光陰矢のごとしとはよく言ったものだと関心できてしまうほど、早く過ぎ去っていた。
……けれど、その考えは誤りだったのかもしれない。
佐奈には家に帰ると言ったが、俺は一度も家路に着くことはなく、久々の故郷をただブラブラと歩いていた。むしろ自宅から遠く遠く離れるような道ばかり選んですらいた。感覚に任せ、行ったことある道も行ったことのない道も歩いた。幸い故郷で迷うことはなかったにせよ、いつしか時間は過ぎに過ぎ、左腕の手首に巻いてある腕時計を見ると時刻はすでに夜の9時を指していた。
「……何時間歩き回ってるんだよ、俺」
考えようとして、そもそも自分が歩き始めた時刻すらよく覚えていなかった。足の疲労から考えて、相当長い間歩き回っていたかもしれない。いや、大学では研究で椅子に座ってばかりの毎日だった。そのせいで筋肉も衰えているだろう。それを考えると……なんて、無駄な思考を頭を振って消し去る。
どちらにせよ。きっと、もう誰もいないだろう。
そう考えて、ようやく自分の足に目的を与える。辺りを見れば、目的地からそう離れていない場所に俺はいたようだ。同じような場所をウロチョロしていたかもしれない。そんな滑稽な自分に苦笑しながら、俺は歩き出す。
目的地は、通い慣れた廃工場。
「まぁ、さすがに電気が通ってないわな」
廃工場の入り口にある電灯のスイッチを入れても、当然ながら明かりは点かない。俺がいない二年間でもしかしたらあいつらがこの廃工場に電気を通す、なんて荒業をしているかもしれない、とは本気で思っていなかったが、少々拍子抜けだ。二十歳近くになっても、あいつらは健全に昼間の間、太陽が昇っているような時間だけここに集まっていたのだろう。
俺がいなくても、三人は集まっていたのだろう。
「仲間外れにされてるような気分だった?」
暗闇に目が慣れていなかったこともある。明かりの乏しい室内をなんとか見ようと目を凝らしていたこともある。だが、それを差し引いても、俺は驚き過ぎだった。
「美織、なのか」
「……兄さん、しっかり尻餅ついておいて、顔だけは真面目ってなんかシュールだよ」
打ち付けた尻の痛みに顔をしかめながら、俺はなんとか立ち上がる。そして、暗闇の中にハッキリと浮かび上がる、妹の姿をこの目でしかと見てしまった。
「……なんて、非科学的なんだ」
「二年ぶりの妹との再会を、そんな言葉で片付けないでよ」
「二年ぶりの『死んだはずの』妹との再会だ。その要素が加わるだけで、状況は大きく変わる」
「相変わらず頭固いねー。そんな小難しく考えなくてもいいのに」
「……おまえが柔軟なだけだ」
信じていなかったわけではない。ただ、科学者を志す立場として、何も確証もなく鵜呑みにするわけにはいかなかった。こうしてしかと目で見た状態であっても、どこかに科学的根拠を見出そうと躍起になって思考を回転させる自分がいる。
「何はともあれ。久しぶり、兄さん。アメリカで彼女はできた?」
「できてないって、メールでも言っただろう」
「そのメールが送られたの、わたしが死んでからでしょ?」
「……そうだったか」
そうだな。確か、そうだった。美織が死んだ日、俺は大学で、研究発表の前だった。
妹の、唯一の兄妹の訃報を受けた時、俺は何と思ったのだろうか。
ただ。そう、ただ。実感はなかった。それだけはよく憶えている。
「おまえは、死んだんだよな」
「うん。そうだよ」
生前と全く変わらず、呑気にそんな重大な事実を口にする。自分の置かれた状況をわかっているのだろうか。
「それなのに、なんでおまえはそんな落ち着いているんだよ。おかしいじゃないか。自分が今どういう状態なのか、本当にわかってるのか?」
「そんなのわからないよ。考えたって、わたしにはわからない。だから考えるのはやめてる」
「それでいいのか」
「いいのかって言われても。わからないものはわからないんだもん。そうするしかないじゃん」
口を尖らせ、いじけるような素振りする妹の姿を見て、俺がその代わりかのように頭を抱えた。意味がわからない。こんな幽霊がいるだろうか。いや、そもそも幽霊なんているわけがない。魂などという実証すらされない物体を科学者が認めてたまるものか。なら、目の前に見えている妹の姿は何なのか。
「……なるほど。確かにこれは、幻覚と称したくなる」
「本人の前で、よくそんなこと言えるよね」
「俺がおまえに対してそんな配慮するような、デリカシーのある男だとでも思ったのか?」
「……そうだよね。うん。期待したわたしが馬鹿だったよ」
受け答えも、生前の美織と少しも変わらない。本格的にこれはいったいどういうことなのだろうか。
「なぁ、体に触らしてくれないか?」
「エッチ」
「性的な部分に触るつもりはねぇよ。手でもいい」
渋々ながら美織は自身の手を俺に伸ばした。その態度に少々腹立たしさを感じつつも、俺も同様に手を伸ばす。そして、触れた。
触れられて、しまった。
「……いつまで触ってるのよ」
指の一本一本の感触を確かめている途中で、バッと手が振り払われてしまう。その力強さも、しっかりと俺の手は感じられた。
「なんだ、わたしの体に触れていいのは晃希だけー、ってことか?」
「そうよ。って答えれば満足かしら」
「いや。それを録音して晃希に聞かせて、ようやく満足だ」
「……ほんっと、性格悪いよね、兄さん」
俺の手が触れた部分を自身の服でゴシゴシ拭う辺り、おまえも性格悪いと思うがな。
もし、晃希だけが美織の姿を見ている……なんて状況だったら俺は迷わず「それは幻覚だ」と結論を出すだろう。だが、佐奈までもその嘘に付き合うとは思えないし、あいつが嘘を吐き続けることは不可能だ。そんな器用な奴じゃない。それに、現に俺の目前にもこうして美織の姿はある。俺までも幻覚を見ている。そんな結論は癪だ。これまで培ってきた俺の頭脳が、そんな欠陥を持っているとは考えたくない。
「……ねぇ、どうして、帰ってきたの?」
「どうしてって。妹が死んだってのに、墓参りの一つもしない兄なんて人でなしにも程があるだろ。それに、佐奈にも呼ばれたし」
「研究が然程忙しくもないくせに妹の葬式のために帰国しない兄は、人でなしじゃないの?」
心臓が、一瞬でも止まったような気がした。
「忙しかったよ。本当に」
「ならいいけどね。別に責めるつもりもないしー」
「……おまえも大概性格悪いよな」
「まぁ、兄さんの妹ですし」
その返答で納得できてしまう自分がいるのが、それはそれでおかしな話だ。
「久しぶりにみんなと会って、どうだった?」
「どうもなにも、懐かしいな、って思ったぐらいだよ。劇的に変わった様子なんて、特になかったからな」
自分で言っていて、なんて白々しい嘘なんだろうと思う。変わっているところばかりだ。二人とも、笑顔がない。苦笑い程度の笑みしか、俺はまだ見ていない。
「佐奈、もっと可愛くなったよね。どう? 一緒にここまで来て、ドキドキしたでしょ?」
「いつ罵倒されるか、なんてドキドキしてたな」
妹の命日にも帰ってこない、不出来な兄として責められることを俺は恐れていたのだろうか。いや、期待していたのだろうか。半々、ぐらいだろう。俯いた先には靴の爪先が薄っすらと見える。光源がほとんどない廃工場の中でも、自分の足元程度なら見ることができた。
「ねぇ、兄さん」
呼ばれ、顔を上げる。
「兄さんの取った手段は、すっごく効果的だったよ」
妹の笑みは、薄っすらとしか見えなかったけど。そこに、きっと何らかの強い意志を感じた。
「……そう、か」
まいったな。責められたいと思っていたのに、いざ責められるとこんなにも辛いのか。自然と手先が震える。
「ちゃんと家には帰ってよね。お父さんもお母さんも、兄さんのこと心配してるだろうから」
「……わかってるよ」
忠告、なのだろう。美織は俺が今日家に帰らないことを知っていたかのようだった。もう近くのビジネスホテルの予約を取っていることすら読み取られて、それでも家に帰れと忠告するような口ぶりだった。
いったい、どういうわけなんだろうか。
どうして、そんな何度も、俺の心が読めているかのような言動ができるのだろうか。
「おまえ、そんな鋭い奴だったか?」
俺がそう問うと、美織は白々しく、まるでドラマに出てきそうな妖艶な愛人を演じるかのように、人差し指を下唇に這わせ。
「女は恋をすると変わるものなのよ」
などと、妖艶に言ってみせた。
「……なるほどな」
考えが変わった。
確かに、二年は短くないようだ。
見た目は全然、変わってないくせに。
*
田舎、というほど寂れてはないにせよ。隠れるように立っているわけでもないあの廃工場が不良の溜まり場にならないような町だ。深夜の人の出なんて数える程しかいない。そんな町にある24時間営業のコンビニでの深夜業に、二人もシフトに入れる必要なんてない。一人いれば充分だ。
「ありがとうございました」
おそらく今日最後になるかもしれない客が店内から出る間際、そう声を上げる。自分でも、なんて抑揚のない声なんだ。とは思うも、だからとって元気よく応対するつもりは毛頭ない。そんな気力もなければ、深夜のコンビニに暖かな接客態度を求めて来店する客もそうはいないだろう。そういう意味で、このコンビニの夜勤は僕のバイトとして充分過ぎるほど好条件だった。
「さむ……」
ドアが開いた時に入った風が、暖房で暖まった店内を冷たく撫でる。強い寒気に身を震わせ、僕は品出しのための準備に取り掛かることにした。バックヤードに押し込んでいた深夜の内に並べる商品が詰まったカゴを持ち、店内に戻る。接客でもない限り、この手の作業は無心でできる。普段なら何も考えず、ただただカゴから商品を掴み棚に陳列していくだけの作業でも。今日だけは、そうもいかなかった。
「……何も変わってなかったな、あいつ」
二年ぶり、だっただろうか。それだけの期間一度も顔を見なかった幼馴染の姿を思い出す。多少、体つきが変わったように思う。身長も伸びていたかもしれない。研究ばっかやっていると聞いたのに、日本にいたことよりもずっとたくましく成長しているのは、いったいどういうことなのだろうか。
対して、自分はどうだろうか。身長は、然程変わってない。体重はむしろ落ちたぐらいだ。当たり前だ、と自分の中の何かが言う。美織が自分のせいで死んだというのに、呑気にうまい物を食べるなんてできなかった。一時期、何も食べ物を受け付けず全て吐き戻し、このまま死んでしまう……死ねるんじゃないかと思ったこともある。
でもその前に、僕はあの廃工場で美織に会った。幻覚だろうと何だろうと、もう一度美織に会えたことがたまらなく嬉しかった。なんとか生きる気力を取り戻した僕は、次に自分の見ているものが、本当は何なのか知りたくなった。そして佐奈を廃工場へと連れて行き、その真偽を確かめた。結果は、誠がわざわざ帰国してくる程のことだった。
……正直、今でも疑いは晴れない。佐奈のことだ。僕のことを案じてくれて一芝居打ってくれているのかもしれない。演技なんて、不器用な佐奈ができるとは思えないが。それに、そんな優しさに、誠を付き合わせるだろうか。
どちらにせよ、真偽はわからなかった。でも、わからなくてもいいとすら思っていた。美織が以前のように僕の前で笑ってくれている。それが、幻覚だろうが幽霊だろうが、なんだって嬉しかった。生きる気力になった。大学にも通わないただのフリーターだけど、なんとか生きていけるだけの理由になった。
……もう、それでいいじゃないか。今が、強く何度も心から望んだ願望が叶った今なのだから。
これ以上、望むものなんてなかった。
そんなことを考えながら商品を次々と陳列していくと、急にドアが開く音と共に、冷たい風が体を撫でていった。突然の来客と寒気に身が竦みながら、慌てて声を上げる。
「い、いらっしゃいませっ」
「……声、裏返ってんぞ。どんだけ緊張してんだよおまえ」
店内に入ってきた客の姿を見て、ドッと体に重りが乗っかったような疲れを感じる。店内には監視カメラが敷かれているというのに、思わず僕は頭を抱えて蹲ってしまった。
「何しに来たんだよ……」
「買い物だよ。コンビニに他に何を求めるんだ」
飄々とした様子で、誠は買い物カゴを手に取り店内を歩き回る。客の後ろを店員が付いて回る様子はしっかりと監視カメラで撮られていて、後から店長にどんな文句をつけられるかわからない。僕は陳列作業を再開して、声を上げる。
「こんな時間まで何してたんだよ。久々の帰郷なんだから、家でのんびりしてろよ」
「今日はホテル予約してる。んで、腹減ったからコンビニに寄っただけ。まさかおまえがいるとは思ってなかったよ」
「……嘘くせぇ」
大方、佐奈から僕がこのコンビニで働いていることを聞いたのだろう。何しに来たのか。それも大体予想はできる。
「僕を笑いに来たんだろ」
店内に僕の声が響いてから数秒、無音になる。しばらくしてから誠が「はっ」と鼻で笑う音が聞こえた。
「どうしてそう思ったわけ?」
「あんたのことだから、それぐらいやりそうだと思った」
誠以上に性格も底意地も悪い人間を僕は知らない。小さい頃からいつもそうだった。僕の小さなミスや間違いを、ここぞとばかりに突いてくる。随分と苦渋を呑まされたものだ。
「……最初はその予定だったがな、今は違う」
誠がレジに向かうのに合わせ、僕もレジに付く。今誠が言った言葉の意味を考えながら、誠が置いた買い物カゴの中身を手に取り、バーコードを読み取る。
「美織に会ったよ」
手から落としたのが、おにぎりで良かった。弁当や割れ物だったら、取り替えないといけなかったかもしれない。
「へぇ」
「良かったな。おまえだけが見える幻覚じゃなくて」
それならそれでも、良かった。なんて言えるわけがなく、僕は誠が買った商品を無言で袋に詰めていく。そんな僕の態度も度外視して、誠は嬉しそうに言葉を続ける。
「どういう原理かわからないけど、俺にも見えたし、話せたよ。なんなんだろうな、アレ。幽霊なのか。それとも俺まで幻覚見てるのかね」
「知らないよ、そんなの」
「それで。おまえはそれにいつまで捕らわれるつもりなんだ?」
思わず、顔を上げる。誠の表情は真剣そのもので、僕の顔をしっかりと見据えて答えを急かしていた。
「アレがなんであれ、もう美織は死んだんだぞ。それなのに、おまえは何をしてるんだよ。大学にも行かず、フリーターのまま。これからどうする気なんだよ。佐奈は頑張ってるぞ。保育士なんてあいつには向かない職業でも、必死に勉強してる。俺だって、このまま向こうの研究所に配属されることが決まってる。おまえはなんだよ。俺たち四人の中で一番優秀だったおまえは、いったい何やってるんだ」
次々と投げかけられる正しい言葉に、僕は何一つ返せなかった。俯いたまま、レジ作業を続ける。レジ台に置かれていた千円札を手に取ろうとすると、誠はそれをすかさず取った。目の高さまで千円札を上げ、僕を見る。
「お客さん。しっかりお金は払ってもらわないと」
「その前に質問に答えろよ」
「お会計する気がないのでしたら、警察呼びますよ」
「逃げるなよ」
レジ台に拳を叩きつけた。鈍い音が強く、店内に響き渡る。袋に詰められた商品が揺れる。
「じゃあ、どうしろっていうんだよ」
握り締めた拳は、どうしても、解けなくて。
「僕だってわかってるよ。このままじゃいけないって。美織は死んで、もう未来がなくて、なら僕だって先に進まないといけなくて。美織自身も、そう望んでくれてるってわかってるよ。そんなのわかってるんだよ」
俯き、生気のない顔で廃工場に毎日通う日々が正しいわけがない。そんなのわかってる。自分が一番理解できている。
「けど、無理なんだよ。できないんだよ。だって、僕はいつだって、美織のために、頑張ろうって思ってて」
勉強して点数を上げて、それを褒めてくれる、喜んでくれる美織の笑顔が好きだった。努力を認めてくれる美織の姿を見たかったから、これまでだって頑張ってきた。頑張れてこれた。辛いことも苦しいことも、乗り越えてきた。
そうやって笑って、認めてくれる美織がいる『未来』があるから、頑張ってこれたんだ。
「けど、これからいくら頑張ったって、そこに美織はいないんだ」
「だからって、これからのおまえが頑張らないままで生きていられるような世界じゃねぇよ」
「じゃあ、あんたは仮に佐奈が死んだとしたら、同じように頑張って生きていけるのかよ」
またレジ台が揺れる。さっきよりも音は強く、鈍く響く。でも、僕の拳は少しも痛くはない。当然だ。叩きつけられたのは、僕の拳じゃない。
痛むのは、心だけだった。
「仮定の話にすり替えるなよ。俺は、現実の話をしているんだ」
「僕だって現実の話をしているんだ」
下ろしていた視線を上げる。僕と目が合って少し、ほんの少しだけ怯む誠の瞳が見えた。
「美織が死ぬなんて、僕は少しも思っちゃいなかった。そういうことがあるって知ってたし、起こらない可能性だってあることはわかってた。けど、考えられなかった。結び付けられなかったんだよ。なぁ、おまえはどうなんだ。佐奈が死んでしまっても頑張れるって、今この段階で考えてみてくれよ」
泣き言のような僕の独白に、誠は無言でレジ台に千円札を置く。僕も無言でそれを手に取り、レジ作業を終わらせる。
これで、僕たちの間に、これ以上向かい合う理由はなくなった。
「おまえなら、答えてくれると期待してたのに」
店を出ようとする背中に向けて、そう言ってみる。
「……それは、ご期待に添えず、残念だ」
久々に勝てた口喧嘩だというのに、胸の中は虚しさで一杯だった。
*
我ながら、子供の頃からひどく出来の悪い子だったと思う。
不器用で頭の回転も悪く、周囲の子からはよくからかわれた。いじめ、と言うほど大げさなものでもなかったけど、そういったものの標的になることも日常茶飯事だった。
私には両親がいない。母は元々体が弱く、このまま出産したら母子ともに危険な状態になりますという医師の宣告を振り払い、私を産みその末、母は亡くなった。命のリレーのように、母の命はそのまま出来の悪い私へと受け継がれたような形だ。享年二十歳。
父はそれでもめげず、私を男手一人で育てようとした。母とは同い年で、幼い頃からずっと一緒に育ってきた。いわゆる幼馴染だったそうだ。母の体の弱さも知り、それでも私を産もうとした強さも知っていたからこそ。残された私を一人でも立派に育てようと努力したのだろう。
けど、現実は優しくなかったのだろう。交通事故だったらしい。地方の新聞にも確かに記載されていた。飲酒運転のトラックが歩道へ侵入、父は私を乗せたベビーカーを蹴るように足で遠ざけて、亡くなった。享年二十一歳。
二人とも、自分の命を犠牲にするように、自分の命を受け継ぐように、私を産み、生かした。
誇りだと思っている。なんて立派な両親だろうと周りからも言われるし、自分でもそうはっきりと確信してる。人間として、親として、一番尊敬してる人物は誰かと聞かれたら私は真っ先に両親の名前を口にするだろう。
でも私は。だからこそ私は、自分を尊敬できない。死んだ両親と近い年になり、未だ誰にも尊敬されず、何一つ誇るものがない私を、私自身が何より許せなかった。
二十歳になり、社会から大人として見られるようになった。お酒も飲めるし、煙草も吸える。社会的責任なんて言葉を自分一人で背負うようにもなった。いつまでも子供のようにいられないし、泣いて周囲に助けを求めるなんてできない。私はもう、大人なのだから。
そう強く意識したせいか、指先に不必要な力が入ってしまった。動かしすぎた指は本来押す必要のない鍵盤を押し、なんとかメロディーとして聞こえてはいた旋律を乱した。一度の失敗から、坂を転がり落ちるように失敗は続く。そのせいで不安定になった心は正確な判断を下せるわけもなく、頭の中も真っ白で次の動作に移れない。
「もういいわ、やめて」
混乱していた頭が瞬時に落ち着き、落ち込んだ。思わずがくりと体から力が抜ける。そのせいで鍵盤に置いていた指も沈み、ドーンと歪んだ音が教室中に響いた。そんな間の抜けた失敗を見られ、また落ち込む。周りから失笑や、私を小馬鹿にするような言葉が聞こえたけど、今更怒る気力も権利もない。
力なく椅子から立ち上がり次の奏者のために早く場を離れる。
「失敗したのは仕方ないけど、そんな誰から見てもわかるぐらい露骨に落ち込まないで」
「……はい」
しっかり返事しなきゃいけないのに、私の喉はかすれたような音しか発してくれなかった。
先生が軽くため息を吐いて、私から目を背ける。次の奏者の演奏が始まった。もう先生の意識は出来の悪い生徒の私には向いてない。
今奏でられている曲目は私と同じもの。だけど、その指先が奏でるメロディーも、音質も何もかもが私とは違うように聞こえる。きっと錯覚なんだろうけど、弱気になってる私の心はこの感覚が間違っていないという事実を突きつけてくるようだ。
最後まで淀みなく、演奏は無事終わった。私の時は失笑と小さな罵倒が、たった今見事な演奏を終えた彼女には高く重なり響く拍手という本来の意味通りの賛辞が送られていた。耳が痛くなったような錯覚を覚えて、私はこの場から逃げ出したくなった。
「ちゃんと聞いておきなさい」
鋭い声色で、先生が私に言った。あなたが目指すべき姿だと、叱咤してくれている。けれど私には、その心遣いでさえ耳に痛くて。
「美織ちゃん……」
今はもういない、一つ年上の幼馴染の名前を呟いた。
それでも、耳に感じる痛みは止まらなかった。
自分に向かない仕事を目指している自覚は、常に心の中にあった。偉そうに自己分析せずとも、これまで生きてきた過程から簡単に理解できるほど、私は、人前に立つことに向いていない。人の前に立ち、先導していけるような人間じゃない。それは、痛いほどわかっていた。
「それで、そんな沈んだ顔をしてるの?」
美織ちゃんは私の顔を覗き込むようにして、心配そうにしている。整った眉が曲げられ、不安そうな表情でもすごく愛らしい。顔を下げた際に揺れる長い黒髪も、美しくて。
「……情けないよね」
今の言葉は、いったいどれを指して言ったのだろうか。自分の、どの部分を情けなく思ったのだろうか。ああ、違うな。部分じゃないや。きっと、全部だ。
どうして、私じゃなくて、美織ちゃんだったのだろう。良く聞くフレーズを頭の中で浮かべそうになり、慌てて頭を振ってそれを掻き消す。
代わってあげられたら。そんな過程は、意味がないことはよくわかっている。
「もう今日の講義はないの?」
「うん。今日は午前中でお終い」
午後から講義は、都合よく講師の体調不良により休講となった。晃ちゃんは夜勤明けだから夕方頃まで寝ているだろう。誠お兄ちゃんには連絡してみたけど、電話は繋がらなかった。たぶん、まだ寝ているか、別の用事を済ませているのかもしれない。
どちらにせよ、美織ちゃんと話せるのは一人だけだ。一人だけが、交代交代で話すことしかできない。
「そっか。じゃあたくさんお話しよ。昨日佐奈ちゃんが帰ってから誰も来なくて、ずっと暇だったんだ」
美織ちゃんが私の手を掴んで、笑顔でお願いをする。その様も、私にはとても可愛らしく見えてしょうがなかった。
憧れなんだ。死して尚、その気持ちは強まっていく。いや、むしろ、死んでしまったからこそ、なのかもしれない。美織ちゃんは、わからないけれど、ずっとこのままだ。擦れることなく、衰えることなく、綺麗なまま、ずっと。
ずっと綺麗な、触れられる思い出として、晃ちゃんの前に在り続けられる。
「そっか、美織ちゃん、暇だったんだ」
「うん。一人だと、何もすることないから」
「私は、ここのところずっと忙しいよ。試験も近いし、人よりもずっと勉強して、努力しないと追いつけなくてさ。大変なんだ」
自然と口から漏れる言葉を、まずいと、それはおかしいと思っても、どうしてか自分で止めることはできない。
「美織ちゃんだったら、きっと簡単だったんだろうなぁ。きっと簡単に、今私が苦労してることとか、全部笑顔で片付けられちゃうんだろうなぁ」
わかってる。そんなことはないってわかってる。わかってるのに、口から嫉妬がいくつも、止め処なく漏れ出る。ピアノが上手く弾けなくて笑われたのは、私の努力が足りないからだ。試験に慌てふためくのも、私の頭が悪いからだ。努力も、それに懸ける気概も足りないからだ。わかってる。わかってるんだ。わかってるのに。
「晃ちゃんだって、きっと、簡単に、立ち直らせて」
いつのまにか頬を伝っていた涙に驚き、私はようやく、口を閉じれた。でも、言ってしまった言葉は戻らない。
「……ごめん」
俯いたまま、そう謝る。起きてしまった事実は変わらないし、今の現状に悪態を吐くのは、美織ちゃんへの暴力だ。言葉による、理不尽だ。
「謝らなくたっていいよ」
優しく笑う美織ちゃんを、私は見続けられない。すぐに目を逸らす。
「美織ちゃんって、私を怒ったことないよね」
「そうだっけ?」
「そうだよ。喧嘩だってしたことがない。私が間違ったことを言っても、優しく諭してくれる。逆に、私が怒っても、美織ちゃんは困ったように笑うだけで」
私が一方的に言葉をぶつけて、それでも、美織ちゃんは黙って聞いて、その上で、優しく、あやすように諭してくれる。
「そうされる度にね、ああ、私ってほんと子どもだなぁ、って思ってた」
思い知らされていた。美織ちゃんは少しも悪くない。実際に子ども染みた精神しか持たない私がいけないのだ。
「……ねぇ、美織ちゃん」
「ん?」
「私に、晃ちゃんは支えられないんだよ」
ああ、これも、泣き言だ。弱音以外の、何物でもない。
「晃ちゃんはさ、美織ちゃんしか見てないんだもん」
「そんなことないよ」
私がそう言っても、きっと美織ちゃんは否定する。予想していた、いや、いつものことだ。いつもそうだったから、今回もきっとそうだろう。単純なことだ。
「そんなこと、あるんだよ」
だから、私はもう一度強く言葉にする。今度は、それを否定する言葉はなかった。
「ねぇ。どうして、死んじゃったの。美織ちゃんが晃ちゃんを連れて行っちゃうのなんて、私覚悟してたよ。そうなってもいいって、むしろ、そうなるのが正しいって本気で思ってた。なのに、なんで。なんで死んじゃうのよ。晃ちゃんを、置いて行くのよ」
連れて行ってよ、とは言えなかった。言ってしまったら、きっと私は自分を許せなくなる。涙を流してしまう。
「置いて行くなら、なんで、また、晃ちゃんの前に現われるのよ」
ああ、ひどい。なんてひどい言葉を、私は吐いているのだろう。
「連れて行くこともしないで、ずっと、手を繋いでる二人を、私にどうしろって言うのよ」
二人の間に入り込みたいと、これまで何度思っただろうか。大好きなお姉ちゃんと、大好きな男の子の間に入り込んで笑っていたいと、何度、何度も。叶わないって知りつつも、心の底でその気持ちはずっと燻っていて、消えることはなくて。
「どうにかしてよ。連れて行くのか、置いて行くのか。早く、どっちかにしてよ。でないと、私、もう、おかしくなるよ」
いや、もうおかしくなってるのだ。言わないようにしていた気持ちが、想いが、次から次へと溢れている。たくさんの封じていた感情が、漏れてしまっている。
「……ごめんね」
「笑ってないでさ!」
変わらない笑顔のままでいることを、今は許容できなくて。
「何か、謝る以外のこと、言ってよ……!」
謝罪じゃなくて。別の、肯定でも否定でもなんでもなく。ただ、美織ちゃんの言葉が、決断が欲しかった。
「ごめんね」
「だからっ!」
顔を上げて、何も言えなくなる。
「なんて言えばいいか。何を言えばいいのか。全部、わからないんだ」
また、聞き分けのない子どもを前にした、私がよく浮かべるような笑顔をしている美織ちゃんが目に映って。
私も黙って、俯いて、唇を強く噛んでいることしか、できなかった。
*
昼過ぎ。目を覚ました僕は適当な服に着替え、真っ先に廃工場へと向かっていた。睡眠時間が足りてないわけでもないのに、頭がボーっとする。手足の末端まで力が入らないような、そんな倦怠感が全身にまとまりついているかのようだった。
廃工場への入り口の傍で、良く知った女の子の泣き声を聞いている最中もずっと、その気怠さを感じていた。
「……入らないのか?」
扉に寄りかかり座っていた僕を、誠が見下ろしていた。いつのまにやって来たのだろうか。こんな無駄に大きな図体の接近に気づかないなんて、僕はどれだけ呆けていたのか。
「入れるものなら入ってみろよ」
「……いや、やめとく」
誠も僕と同じように、廃工場の壁に背を預け、地べたに座り込んだ。昨日と違い、今日はラフな服装に身を包んでいる。ジーパンのポケットから煙草取り出し、一本加える。その一連の流れは、なんだか様になってた。
「煙草、吸ってたんだな」
「時折、な。研究で行き詰まっていた時とか」
「それじゃ毎日じゃないか」
「なんでわかった」
お互い顔を見ないで話し、お互い、小さく笑う。年だけで考えれば、僕たちはもう子どもじゃない。隣の誠はとっくに煙草を公的に吸えるし、僕だってそうだ。煙草どころか、酒だって飲める。金銭の問題や、その他ありとあらゆる問題を度外視さえすれば、結婚し子どもを育てられる。子どもを育てられるということは、大人なんだ。子どもが子どもを育てることはできない。
でも、自分が大人なんだという自覚は、どうしたって持てやしなかった。至らないところばかりが目に付いて、それら全てが解消されないと大人とは言い張れない気がした。
幼い頃、今の自分の年代を、僕はどう見ていただろうか。ああ、大人だな。すごいな。そんなことを思っていたかもしれない。でも実際、そんなことはない。まだまだ僕は大人じゃない。公的に、法的にもう子どもじゃないと決められても、僕は僕を大人だなんて思えない。
だって、僕はいつだって迷っている。自分のことですら、満足に扱えない。同じ場所で足踏みを繰り返す。そんな簡単な行為ですら、時折足を踏み外して転びそうになっている。
その後も、満足に立ち上がれていない。もしかしたら、ずっと転んだままかもしれない。
「昨日はごめん。言い過ぎた」
「……ああ、俺も、言い過ぎた」
「でも、間違ったことは一つも言ってない」
「それも、俺もだ」
昨日、誠が帰った後のバイト中に感じていた罪悪感を、空虚感を、僕は当分忘れることはできないだろう。感情に任せ、口にするべきではないことを言い続けてしまった。けれど、それを否定することは、今の僕にはできない。
「……間違ったことは言ってないけど。正しいとも思えないんだ」
過程の話をいくらしたところで、未来が確定するわけではない。不確定な要素を挙げて、それに一つ一つ心配していくような生き方ができるほど、時間は優しくない。止まって、待ってはくれない。
誠が煙草を口から離し、深々と息を吐く。真っ白な煙はすぐに空気に溶けて、消えた。その消えた先をぼんやりとした目で追っていると、誠が頭を掻き、口を開く。
「結局、頑張ってるのは佐奈だけなんだよな」
「……あんただって、頑張ってるんじゃないのか」
単身で外国に行き、慣れない風土や環境で勉強をする。それはきっと、少しも努力もしないで続けられることじゃない。
「別に外国じゃなくたって良かったんだよ」
吐き捨てるように言って、誠は煙草の火を地面に擦りつけ、吸殻を携帯灰皿の中に捨てた。その一連の動作も、なんだか様になっていた。カッコいいわけではなくて、慣れているような。こういう動作を続けてきた年季のようなものを感じた。僕の知らない姿だ。たぶん、幼馴染のみんな、誰もが知らない。知る機会がなかった。
「佐奈みたいに、ちゃんといろんなものを背負い続けるのが頑張りってやつだ。俺はそういうのを全部捨てて、向こうに逃げたんだよ。いくら向こうで成果を出しても、俺はそれを頑張りって呼びたくない」
「なんで……」
「おまえのことを好きでい続ける佐奈を見たくなかったからだよ」
逃げたんだ? と聞くよりも前に、鋭い声で答えが返ってきた。
「俺がいなくなれば、おまえらは三人になる。優しくて、甘い美織のことだ。その三人で在り続けようとするだろう。一人だけ仲間はずれにするような真似は、しないだろうと思っていた」
立ち上がり、伸びをする誠の表情は、どうしてか晴れやかで。
「知ってるか? 美織、高二の冬、おまえに告ろうとしてたんだぜ?」
その晴れやかな笑顔を、僕は立ち上がり、右手で殴り飛ばしていた。誠の体が地面を擦り、砂埃が立つ。口の中が切れたのか、誠の口角に赤いものが滲んでいた。それを見ても、僕は握った拳を解けなかった。どれだけ力を抜こうと思っても、爪が手のひらに食い込みそうになっても、解けない。
「……もう一発殴ってもいいか」
「おまえに殴られる筋合いはないんだけどなぁ」
口元を服の袖で拭いながら、誠が体を起こす。表情には、未だに薄っすらと笑みが浮かんでいた。
「佐奈や美織になら、いくらでも罵倒されるし、殴られたっていい。けど、おまえが俺を殴るなよ。俺を、怒るなよ」
笑っていても、目は、目だけは僕を責めているようにも見えた。拳を振るったことを、過去の僕を、視線が責めていた。
「おまえが、とっとと告白すればよかった話だろ。違うか?」
「……そう、だな」
ゆっくりと、深く息を吐いて、ようやく拳から力が抜けた。じわりと、誠の頬骨を殴った痛みを感じる。殴り損ねていたのか、傷むのは薬指と小指の付け根辺りだ。けれど、こんな痛みよりも、ずっと苦しい痛みを僕はこの拳で与えた。
美織の心情や、佐奈の気持ちを度外視して、僕から想いを告げればよかっただけなんだ。それなのに、僕は未来を妄信して、きっとまだ先があるからなんて考えて、胡坐をかいていた。そんな楽観していた僕が、誠に怒る資格なんてない。ましてや、殴るなんて、持っての他だ。
「悪い、誠」
「……まぁ、俺も誰かに殴られたかったところだしな」
砂埃を払った誠は、じっと僕を見た。その目に、非難の色は見えなかった。口元は笑ってるくせに、目は今にも泣きそうなほど、弱々しかった。こんなに、弱かっただろうか、誠は。いや、違うな、僕たちは、だ。殴ったのだって、これが初めてじゃない。殴り合いの喧嘩なんて、それこそたくさんやってきた。痛みに顔をしかめて、涙を浮かべることは何度もあった。だけど、こんなに情けない顔をしていただろうか。僕も、そんな顔をしているのだろうか。
「佐奈は俺のことを殴ってくれないだろうし、美織は、手を出さないでずっと詰り続けるだけだもんな。美織ってさ、怒ると笑うんだよな。ニコニコ笑って、わたしは怒ってないですよーなんて口ぶりで、ずっとネチネチと詰ってくるんだよ。おまえ、それ知ってたか?」
「……いや、知らない」
本当に、そんな美織は知らなかった。怒らせなかったわけでもないし、言い合いの、ちょっとした口喧嘩はしたことがある。その時、美織は笑っていなかった。不満げに唇を尖らせたりして、僕のことを責めるのだ。笑顔のまま詰り続ける美織なんて、僕は見たことがない。
「あいつ、猫被りなんだよ。女なんて大抵そうかもしれないけど。美織は、いつだっておまえにたくさん隠してたよ。笑顔で詰りながら、ティッシュ箱を投げつけてくる美織なんて、おまえ絶対知らなかったろ?」
「知らないよ。そんな美織」
ああ、でも。想像することはできるだろうか。想像することぐらいしかできないけれど、なんとなく、そんな美織の姿を頭に思い浮かべることはできた。けれど、それは僕の知ってる美織の姿とは、やっぱり違う。想像できて、頭に姿を思い浮かべることはできても。それが美織なんだと、認識できない。繋がらない。
「昨日も、そんな感じに責められたよ。ああいうのが一番俺に効くって、わかってやってるんだよ。そういうところは、ほんと、俺の妹だなって思う」
確かに、誠から聞かされる美織の姿は、本当に誠にどこか似ていて。
「……僕は、美織のこと、なんにも知らなかったんだ」
自惚れていたのではない。けれど、きっと僕が一番、美織に近いところにいると思っていた。幼い頃から一緒で、たくさんの思い出を共有してきた。だから、僕が知っている美織の像が、美織そのものだと思っていた。知らないことばかりなのに。僕と一緒にいない時だって、たくさんあるのに。僕と一緒にいる時の美織が、美織そのものだと思っていた。
美織だけじゃない。佐奈も、誠だってそうだ。佐奈が何か悩みを抱えていることは知ってた。気づいていた。なのに、それが涙を流し、大切な友人を責めるほどだとは思ってもいなかった。廃工場の中から聞こえた佐奈の言葉は、どれも聞いてるだけで心が痛んで、苦しかった。誠の言葉も、重くて、辛くて。けれど、大切なことで。
頭を抱え、僕は廃工場の扉にへたり込むように腰を下ろした。ドンと音が響き、中にいる佐奈にも気づかれたかもしれない。それを気にする余裕がないほど、僕は自分を情けなく思っていた。
「誰かいるの?」
僕も誠も、返事をしなかった。足音が近付き、背を預けた扉の向こうに、人の気配を感じる。それが誰かなんて、考えるまでもない。
「二人とも、いたんだね」
扉は開かれない。だけど、佐奈にはわかったのだろうか。僕と誠は黙ったまま、いや、何も喋ることができないでいた。
「聞いて、たんだね」
「……ごめん」
謝って済む問題ではないけれど、僕の口からは謝罪しか出てこなかった。誠は謝りもせず、煙草をもう一本取り出し、火を着けていた。謝ることに意味がないのだから、誠の振る舞いも間違っていない。
「ううん、いいよ。聞こえるような声で言ってた、私が悪い」
姿が見えなくても、佐奈が微笑んでいるのがわかった。涙で目を腫らしているのかもしれないけど、それは、わからない。ただ、無理してでも笑おうとする子だから。笑っているってことだけは、確信を持って言える。そういう子なんだ。
「晃ちゃんはさ、美織ちゃんのこと、好きだよね」
「……うん」
今更、照れることはない。周知の事実だ。ここにいる全員、そんなことわかりきっている。口にしなくても、今までの態度が、経験が、思い出がそう語っている。
「でも、美織ちゃんはもういないんだよ?」
「……うん」
そうだ。もう、美織はいない。触れられるし、喋れもする。意思の疎通ができる。けれど、美織はもういないんだ。僕の傍には、これから先も、ずっといない。どこかに行くこともできない。夢だった保育士になることもできない。陽の下に出て、歩くこともできない。ずっと、寂れた廃工場の中で、待ち続けることしかできない。僕の傍にはいないから、僕が傍に行くしかない。
美織と一緒にいるためには、立ち止まり続けなきゃいけない。どこにも、行くことはできない。一緒に行くことは、できないんだ。
「わかってるんだったら、立ち上がろうよ。立ち上がって、頑張ろうよ。私が知ってる美織ちゃんはそうやって、願ってると思うよ」
「……俺が知ってる美織なら、そうは願ってないだろうな」
一息で深く吸い、誠は煙草の火を携帯灰皿で押し消した。
「あいつは、人一倍寂しがりやだから、今でも晃希が傍にいて欲しいと思ってるだろう。それが正しいかどうかは置いて。あいつのことだ、内心、傍にいて欲しいって、ずっと思い続けてるはずだ」
「誠お兄ちゃんは、誰の味方なの?」
「おまえらの味方だよ。敵じゃない。ただ、美織がそう願ってると思うって、そういう憶測を晃希に押し付けちゃ駄目だ。決めるのは、全部晃希の意思でだ」
僕を見下ろすほどの距離まで誠が近付いてくる。
「なぁ、晃希。おまえは、どう思うんだ」
僕よりも一回り大きい体が、僕を真上から見下ろしていた。
「……ずっと、疑問に思っていたことがあるんだ」
誠の目から顔を逸らし、俯く。
「僕たちが見てる美織は、いったい何なんだろうって」
話すことができて、触れることもできて。生前となんら変わらない様子で、笑い、泣き、怒る。僕たちが見てきた美織そのもののような、何か。
「……確かめたいことがあるんだ」
それを、ようやく確かめたいと思えるようになれた。
「佐奈。美織に聞いてきてくれないか? 高一の冬、僕とした約束を憶えているか?って」
「どう、して?」
「それで、やっと一つ、答えが出せそうなんだ」
「……わかった」
扉の向こうから佐奈の気配が遠ざかる。突然の僕の言動に、誠が僕を訝しげに見ていた。
「今のは、何なんだ?」
「高一の冬にさ、僕と美織は約束したんだ」
寒い日だったことを憶えている。高校からの帰り道。とても寒いのに、僕はマフラーを忘れてしまった。朝は比較的暖かかったから登校の時は問題なくても、下校時に首周りだけが寒くて辛かったのをよく憶えている。
「寒い日で、僕は美織の長い髪を羨ましがったんだ。その頃あいつは肩の高さまで髪を伸ばしていて、それがあるからわたしは平気、なんて言っててさ」
髪の毛の保温効果なんて高が知れてるのに、僕をからかうがためだけに、寒いのを我慢して暖かいと嘘を吐いていた。寒さで真っ赤になっていた美織の顔が、すぐにでも思い浮かぶ。
「その時ふざけて、美織がこのまま髪を長く伸ばして、僕の首に巻いてあげようか? なんて言ったんだ。冗談のつもりで言ってるのがわかって、だから僕は困らせてやろうとして、本気になってお願いして約束したんだ。美織は慌ててたけど、最後には了承して、それ以来ずっと髪を伸ばしてた」
他愛もない冗談の続きだった。けど、それはいつしかちゃんとした約束になっていた。髪を後ろで縛れば早く伸びるという噂を聞いた美織は、一日中髪を縛り続けていたりもした。ただの冗談のはずなのに、月日が経つにつれて美織も意地になって、髪を伸ばし続けて。
「誠にも一つ、聞きたいんだ。おまえが見た美織の髪は、どこまで伸びていた?」
誠も、僕と同じところに考えが行き着いたのか、手で髪を巻き上げ、俯いた。
「……胸の高さ、までだ」
「……そっか」
聞きたくなかった、予想通りの答えが返ってくる。
「聞いてきたよ」
扉の向こうで、佐奈が声を上げる。僕は扉から背を離し、立ち上がった。そして廃工場の扉を開ける。そこにいるのは佐奈だけで、他には誰もいない。見慣れたテーブルや、椅子が置いてあるだけだ。
「美織は、なんて言ってた?」
「……何か、約束したっけ。って」
首を傾げて考える美織の姿が、容易に頭に浮かぶ。あれ、わたし、晃希と約束してたっけ。ごめん、忘れちゃったよ。そう続けて、苦笑いを浮かべる美織の姿が、簡単に。
でも、それは違う。美織が忘れるわけがないんだ。僕ですら一度忘れてしまった約束で、美織はそれだけで不機嫌になってしまったほどなのに。そんな美織が、その約束を忘れるわけがない。
「……なぁ、佐奈。美織の髪って、どのぐらいまで伸びてたっけ」
「どのくらいって……美織ちゃん、腰の高さまで伸ばして、私たちに自慢してたじゃない。誠お兄ちゃんは、その時にはもう外国の大学に行ってたから、知らないかもしれないけど」
憶えている。約束を律儀に守って、髪を腰に届くほど伸ばして、大変だったんだからと胸を張って。それで僕の首にその長い髪を巻いてくれて、あんまり暖かくないって言った時の美織の不機嫌になった表情を、口ぶりを、ハッキリと思い出せる。
美織の髪に包まれた感触、匂い。近づいてきた美織の横顔も、全部、全部、全部。
「ああ……なるほど、そういうことか。ああ、やっぱり、そういうことかよ」
両手で顔を覆い、僕は膝を地面に着く。指の腹で両方の眼球を強く、潰れてしまえばいいと思うほど強く押し付ける。
「僕たちが見てる美織は、本当の美織じゃない」
この目は、何も見えてやいなかった。
「僕たちの記憶を反映した、ただの、写し身なんだ」
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