倫寧、旅立つ
時は、いとあはれなるほどなり。人はまだ見馴るといふべきほどにもあらず。見ゆるごとに、たださしぐめるにのみあり。いと心細く悲しきこと、ものに似ず。見る人も、いとあはれに、忘るまじきさまにのみ語らふめれど、
「人の心はそれにしたがふべきかは」
と思へば、ただひとへに悲しう心細きことをのみ思ふ。
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『時節は、とてもしみじみとした悲しみを感じるころ。わたくしはまだあの人を「見馴れた」と言い切れるほど深く心を結んだとも思えずにいました。あの人と逢う度に、ただ涙が湧いてくるばかりです。とても心細く、悲しいことと言えば、他に似る思いはありません。そんなわたくしの様子を見ているあの人も、とても同情してくれて、あなたを忘れられるはずがないなどと言ってはくれますが、よく考えれば他に妻もいる多情な人だけに、
「あの人の心が私に言ってくれた優しい言葉に、本当に従ってくださるのかしら?」
等と考えてしまい、ただひとえに悲しく、心細い思いにばかり駆られてしまったのです』
確かにあの時は時節が悪かった。倫寧様の任官が決まったのは秋の司召しの時のこと。秋というのは誰もが何かもの悲しく、人恋しくなるもの。ましてこの時お方様はご新婚だった。その殿にすでに妻子がいらっしゃったのも、お心をもろくさせた一因だった。
その秋が終わり季節は冬に移ったばかり。十月(旧暦、現在の十一月頃)はちょうど日に日に寒さが身に染みて、秋の人恋しさが冬のもの悲しさへと変化するころ。感傷的になるのはお方様ばかりではないだろう。
でも、それを差し引いてもお方様は極度に寂しがりが過ぎる。邸の中の末姫様ということでご両親からのご愛情を深く受けて育たれたし、都中から称賛されるほどの美貌にも恵まれて、常に人に囲まれて、愛され続けて当然なご環境だったせいだろう。
愛されて当然……逆を言えば愛が足りない状態に耐えることなどできないのだ。いつもあふれかえるばかりの愛を受けていたため、ほんのわずかに愛が足りないだけでもお心を保つことができなくなってしまわれる。そのお方様をこれまで誰よりもいつくしまれたお父上様が旅立たれるのだ。お心が揺れるのも仕方ないこと。しかし……。
「お方様。このお考えは、お心のうちにしまっておかれても良いのではありませんか?」
私は思わず口を出した。いくら遠い過去のこととはいえ、ご新婚早々にこれほど殿のお心を疑っていたと世間に公表するのは、殿にとってはいたたまれないのではないだろうか?
「あら。だって本当にあの時わたくしは、とてもとても心細かったのですよ。わたくしは父の任官が陸奥という世の果てだと聞いて、まるで胸が引き裂かれるような思いでしたのに、あの人と来たら大国への任官が喜ばしいことのようにおっしゃるのですもの」
こういう世間知らずなところは、お若いころからちっとも変っていらっしゃらない。お方様が長くきらびやかな暮らしをしてこられたのは、繰り返しお父上様の任官が良国に恵まれたからなのだ。それをいくら申し上げても、お方様には今一つピンと来ないようだが。
この時の任官にはおそらく殿のお家の力も働いたのだろう。良家の婿の通い先に殿の御実家がお目をかけて下さったであろうことは、私たち侍女や姉姫様でさえも想像できた。
だが古風でそう言うことには懸命に耳をふさぐ、お母上様の影響を受けたお方様には理解できないらしい。今でもそのお顔にはご不満が表れている。
「でも、こちらに書かれているほど、殿の御愛情は心もとないものなどではありませんでしたよ。お父上様のご出立まで、それはこまめに通ってくださって……」
「けれどもわたくしにはそれほど深いご愛情には見えませんでしたもの。父の任地への旅立ちはご経験があるでしょうにと簡単におっしゃって! あの人にはわたくしと父との深い絆が全く理解できていらっしゃらなかったのよっ!」
ついにはお方様が私の言葉を途中でひったくってしまわれた。
あーあ。これでは当時はもっと、お方様は殿を困らせたに違いない。おそらく殿だってお父上様の任官にはお心を砕いてくださっただろうに。せっかく大国に任官できて喜んでもらえるかと思えば、こんなに嘆かれたのではたまったものじゃない。さらにそれを、長い年月を経ても書き記されてしまうなんて……
「殿も、お気の毒に……」
私はこっそりと小さくつぶやいたのだが、語尾がかすかにお耳に届いたようで、
「何か言いましたか?」
と、お方様のとんがり声が飛んできた。
「いいえ、何も」
お方様の執念深さに、私は心のうちで殿にご同情してしまう。
*****
今はとて、皆出で立つ日になりて、行く人も塞きあへぬまであり。とまる人、はたまいていふかたなく悲しきに、
「時たがひぬる」
と言ふまでも、え出でやらず。また、ここなる硯に、文をおし巻きうち入れて、またほろほろとうち泣きて出でぬ。しばしは見む心もなし。見出で果てぬるに、ためらひて、寄りて、
「何ごとぞ」
と見れば、
君をのみたのむたびなる心には ゆくすゑ遠く思ほゆるかな
とぞある。
*****
『今は時が来たと、皆が旅立つ日がやってきて、旅立つ人である父も涙を塞き止める事が出来ない御様子でした。ここにとどまる人でしかないわたくしは、増して、増してや、言いようもなく悲しくて、
「予定時間が変わってしまいます」
と言われるまで、父も出かける事が出来ずにいます。そして、そこにあった硯箱に、父は文を巻いて押し入れると、またほろほろとこらえきれずに泣きながら出て行きました。しばらくはその手紙を見ようという心にもなれません。父を見送る心も果てきってしまったころ、ためらいながらも、硯箱のそばに寄って、
「何が書かれているのかしら」
と文を見てみると、
君をのみたのむたびなる心には ゆくすゑ遠く思ほゆるかな
(あなただけを頼りと思い、旅立っていく私の心には、旅の行く先は遠くとも、あなたと娘の行く末も、長くお願いしたいと思っているのです)
と、書かれていました』
「もう、この日のことを思い出すと、わたくしは今でも心が張り裂けそうになります。あの日の父の涙は本当に悲しげで……心打たれずにいられませんでした」
「それは……そうでしょうね……」
熱く語られるお方様にそう相槌を打つと、お方様は思い出し涙を袖で拭われる。しかし私の相槌はお方様に同意してのものではない。ご不安のあまりお涙を流されたお父上様のお心を察するあまりの言葉である。
なんといってもあの日のお方様の取り乱しようはひどいものだった。お時間を迎えたとき、まあ、お方様の泣かれること、泣かれること。どこからそのお涙が出てくるのかと思うほど臥しまどろんで泣き崩れていらっしゃった。そのまま手足を空にさまよわせるお姿はあまりに度が過ぎて、悲しみの涙を超えて、幼子が駄々をこねて泣きさけぶかのようだった。
確かにお父上様もはらはらと涙をこぼされていたが、それは悲しみの涙と言うより、こうまで父を恋しがる幼子のようなお方様に、多くの不安を感じての涙であったと思われる。
思わず殿に置手紙を残されたお父上様の御心情は、いかばかりであっただろうか。
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「見るべき人見よとなめり」
とさへ思ふにいみじう悲しうて、ありつるやうに置きて、とばかりあるほどにものしためり。目も見合はせず、思ひ入りてあれば、
「などか。世の常のことにこそあれ、いとおかしうもあるは、われを頼まぬなめり」
などもあへしらひ、硯なる文を見つけて、
「あはれ」
と言ひて、門出の所に、
われをのみたのむと言へばゆくすゑの 松の契りも来てこそは見め
となむ。
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『父の文を見たわたくしは、
「これは、あの人に見せるようにと、父が書いた文なのだわ」
と理解すると、そんな風にさえ思う父の心が悲しくて、文箱に戻し、もとから変わらずその場所にあったかのように置き直します。あの人が来ても目も合わせず、沈み込んでいる私にあの人は、
「これはどうしたことですか。こういう別れは世の中に常にあることではないですか。それなのにこうも沈み込まれているとは、まるで私を頼りにできないと思っていらっしゃるようじゃありませんか」
などと言って私をなだめ、あしらいながらも硯箱の文を見つけて、
「これは……なんと」
と感嘆の声を上げると、父が門出のために移ったところへ、
われをのみたのむと言へばゆくすゑの 松の契りも来てこそは見め
(私だけが頼りだというそのお言葉。そのお言葉通りに末永い夫婦の行く末をお見せすることができるでしょう。行く先にある末の松山のような、深い夫婦の契りをご覧になって下さい)
という歌を贈って下さいました』
いやはや。殿のお気持ちがよくわかる。旅への不安としばしの別れに心細さはあるものの、大国の国司となったお父上様に皆が誇りをもって見送った晴れの旅立ちである。
それなのにお方様の悲しみようは、まるで死出の旅立ちを見送った後のようだった。ある意味良家の子息の面目丸つぶれの悲しみようである。
それでもさすがはご新婚。こうも殿はお方様を慰めていらっしゃったのか。それなのにそのお心は、お父上様に甘える心でいっぱいのお方様には届かなかったのだ。正直お方様の心情よりも、殿のお心の方に同情せずにはいられないのだが。
「本当にわが父ながら情の細やかな方で……」
お方様の言葉は勝手に父親自慢へと移っているが、こちらとしては幼子のようなお方様を見守らなくてはならない父親と婿君が、ともに労をねぎらう歌を贈り合っているように思える。末の松山とは想像を超える男女の愛の事だが、想像以上のお方様と連れ添う覚悟を宣言なさっているみたい。
お方様は情に厚いのは良いのだが、殿方にとって大変世話の焼ける女君でもあるのだ。
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かくて、日の経るままに、旅の空を思ひやるここちいとあはれなるに、人の心もいと頼もしげには見えずなむありける。
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『このように、日のすすぎ行くままに、旅の空の下にいる父の気持ちを考えると、わたくしはとても悲しくなるというのに、他に妻のいるあの人の心は、本当に頼もしいとは見えないように思えてしまいます』
もう、ここまでくるとあきれるほかはない。時姫様の存在が引っかかっていたのはわかるが、お方様は父上恋しさのあまり、殿の愛までも見えなくなってしまわれていた。お方様が殿を愛していらっしゃるのは、とても確かなことなのに……。
けれどそこがお方様のお可愛らしさなのだ。私たち侍女はそんなお方様だからこそ、魅力的なのだと思っている。
おそらく当時は殿も、そう思っていらっしゃったのだろう。
……本当に、おそらくだけど。