婚儀
まめ文、通ひ通ひて、いかなるあしたにかありけむ、
夕ぐれのながれくるまを待つほどに 涙おほゐの川とこそなれ
返し、
思ふことおほゐの川の夕ぐれは 心にもあらずなかれこそすれ
また、三日ばかりのあしたに、
しののめにおきける空は思ほえで あやしく露と消えかへりつる
返し、
定めなく消えかへりつる露よりも そらだのめするわれは何なり
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『その後もわたくしたちは儀礼的な文を幾度となく交し合っていました』
どの程度までを『礼儀を重んじる文』というのかはわからない。実際こういう文は最初の頃は相手の人柄を探ることが目的だ。
それも本人はもちろん、文を贈る使用人たちの態度や手際、体裁は整っているか?
常識的であるか?
相手を不快にさせる要素がないか?
など長く信用するに値するかどうかが判断される。仮にも貴族同士の縁談なのだから、そう言うことへの意識が低いようでは先々お互いが苦労する。本人同士の価値観を重視するのは当然としても、取り巻く人間の意識が大きく違ってしまうのも問題があるのだ。
また不思議なことに、本人の価値や思想というのは末端の使用人などにも表れてしまう。それこそ従者にさらに使われる者や、牛飼い童や使い走りの童たちにも主の心は反映される。むしろ末端の者ほど主の本音が出やすいのはなぜなのだろう?
主人がきちんとしていると、使用人のしつけも行き届いている。だが主人がいい加減だと文遣いもそれなりの身の随身(護衛)を使っているにもかかわらず、手順も踏まずにいきなり童に文を押し付けたりする。それでは幼い童が途中で文を失くしたり、渡すことすら忘れてしまってもかまわない程度の文だと公言しているようなものなのに。
きちんと手順を踏んで乳母や傍周りの侍女に案内を頼んでいても、本人がこちらを見くびっているとすぐにわかる。文を贈る案内を乞うた者がいくら体裁を取り繕っても、直接文を運んだ童が主人の威光を笠に着て、子供らしからぬ横柄な態度をとったりする。
しかもそういう相手ほど大して位も権威もなく、いくら世間が褒めようとも所詮は受領の娘なのだから、自分程度で手を打つだろうと高をくくっているのが透けて見えるのだ。
お方様に多くの文が寄せられたことにより、私もそうした人間性を見極める目がそれなりに育っていた。殿も最初こそはこちらの肝を抜くような行動をとられたが、お方様のお歌を受け取った後は打って変わって紳士的な態度をとっていらっしゃった。
それだけではなく、文遣いの助政の態度がとても物慣れていて、気づかいの良い、見苦しさを感じさせない所作で、受け答えも丁寧だったのだ。初めの文の届け方が大胆だったために、てっきり立場もそう悪くない者を案内役に使われるのかと思っていたが、軽い身の上でありながらも礼儀作法の行き届いた助政が現れたので、こちらも警戒を解く事が出来た。いくらすでに求婚を表ざたにしているとはいえ、本来色恋ごとはしのびやかに行われるもの。それは恋の情緒としてももちろんの事、互いの家に対する心遣いとしても重要なのだ。
恋というのはごくごく内輪での個人的な事だが、高貴な方となるとそうとも言っていられない。人目に立つ立場の人ほど恋も注目を浴びてしまう。しかし恋文を交わし合う以上、文は人から人へと手渡されていく。その途中でどんなことが起こるとも限らないし、人の口に戸は立てられない。挙動が人目を集めるような華やかな立場の人では、万が一文の内容が漏れた時が怖い。口が軽いのは論外だ。
互いを知り合うためなのだから、文には個人的であまり外には出したくないことも書かれてしまう。そんな文に責任を負う立場の人がこちらに威圧を感じさせるようでは、安心してやり取りができない。かといって見苦しいほどかしこまる者でも対応に困る。主人から遠い存在で、肝心の主人のことがよくわからないようでも文遣いとしては失格だ。
その点、助政は上手に文遣いをこなしていた。しかも彼は殿の最初の妻である時姫様の時からずっと、殿の恋の使いを続けていた。どおりで物慣れていたわけだ。助政や殿は口をそろえて、
「時姫は後ろ盾を得るために若い時に必要な恋だった。その後の恋はすべて通りすがりのはかない恋ばかり。本心から求めた姫はこちらの方が最初だった」
と言っている。まあ、どこまで本当かは分かりかねるが、当時はそれだけ真剣だったのだろう。助政が案内役の私を直接口説いてきたのも私を気に入ったこともあるのだろうが、殿が間違いなくここに長く通うであろうとの目算があったに違いない。
そういう私も助政のことを言えない。助政を見て殿が本気でここに通うだろうと見当がついたから、私も助政とそういう関係になったのだし。
実は私は殿が派手派手しく邸の門前を叩かせた時から、助政に注目していた。あの時門を通された後も、他の従者たちは皆殿を恐れてうろたえていた。邸の奥深くにいらっしゃったお方様には見えなかっただろうが、庭にたたずむまだ若君と呼ばれていた殿は縮こまっている従者たちとは対照的に、御簾越しにも実にすっきりとした立ち姿で悠然と微笑まれていた。
そんな中で文を携えて現れた助政は冷静で、恵まれた美しい顔に似合う、つつましくも好ましい態度で文を渡してきた。あの無粋な紙に書かれた悪筆な文にもかかわらずである。私たちは助政の態度で、この文がこちらをうかがう真剣なものだと合点がいったのだ。
この男が文遣いなら、若君のお人柄はそんなに悪くない。彼にはそう思わせるものがあった。お気楽に使う者とはいえ、この男に若君はかなりの信頼を寄せていると思えた。
もちろん若君には他にも信頼のおける従者がいる。乳母兄弟もいれば右兵衛での役目柄重く扱う人もいる。しかし、そういう関係のほかに身近に信用できる人間がいるというのは、その人の人柄だろう。邸の雰囲気も良いものがありそうだった。
助政が使うお使いの童も、礼儀正しく素直だった。向こうで大人たちに可愛がられているのがよくわかる。私はそういう向こう側の家の雰囲気共々助政を好もしく思ったのだ。
それでも私は助政を簡単に通い夫にはしなかった。殿とお方様は綿密に文を通わせ、その文はすでに『儀礼的』なものではなくなっていた。互いの恋心を寄せ合うための文である。そして八月(旧暦)も中頃になると、
「九月になると忌み月となり日が悪くなります。十日後の夜更けに若君がこちらに参られてもよろしいでしょうか?」
と、助政がお方様の乳母である私の母に聞いてきた。
「……結構でございます。必ず、お越しください」
こうしてお方様のご婚儀が決まった。もちろんその夜に私と助政が逢う約束もだ。
『そして、どんなことがあった次の朝だったでしょうか。
……こちらに書き現すことなどできませんが、感慨深い夜を明かしたのちの朝に、
夕ぐれのながれくるまを待つほどに 涙おほゐの川とこそなれ
(時が流れてついにあなたに逢える夕暮れを待っている間に、感激に涙があふれて、大井川の流れのようになってしまった)
という後朝の歌をあの人が贈って下さいました。お返事に、
思ふことおほゐの川の夕ぐれは 心にもあらずなかれこそすれ
(私も大井川の水ように思うことが多い夕暮れには、泣く事が出来ても心はあなたのもとへ行き、上の空となっているのです)
という歌を返しました』
お方様は無事に殿と結ばれた。その夜はお方様のお父上である倫寧様も大変に上機嫌で、
「我が家にこれほどの『むこがね』を得る事が出来るとは思わなかった。全くわが娘ながら、素晴らしい縁を結んでくれたものだ」
と、お方様の姉君に通っていらっしゃる、藤原為雅様に話しかけていた。その手にはしきたり通りに兼家様の沓がしっかりと抱かれている。これは婿が途中で帰ったりしないためのまじないなのだ。
「私も右大臣殿の御子息と相婿になれて、鼻が高い。本当に結構なご縁ですが、私のこちらでの肩身が狭くならなければよいのですが」
などと笑顔でおっしゃっていた。相婿とは同じ家の姉妹に通う婿同士の事。だが同じ婿君でも右大臣殿の御子息と比べるなど普通はなくて当然だ。これは婿の立場が揺らぐことがないのを承知の上でのご冗談である。しかしお方様の母上だけは、
「あの姫は何事にも一途で真っ直ぐですが、少し度が過ぎるところもあります。あちらには先に通われている方がおりますし、お子様もいらっしゃるし。今後、節度を持った考えを身につけられれば良いのですけど」
と、母親らしい心配をなさっていらっしゃった。だが、
「大丈夫ですわお母さま。今までは姫として皆から過剰に褒め称えられていて、少しばかり我儘になってしまっただけの事。あの娘はもともと利口な娘ですもの。これから人の妻として周りからも落ち着いた目で見られるでしょうし、わが身をわきまえる心も育つことでしょう。これからきっと、良い妻となってくれますわ」
と、お方様の姉上に諭されると、「そうですね」といってやはりうれし気なお顔をなさっていた。この日は皆が幸せな心に包まれていて、夜更けてから助政と逢った時には私も感慨深いものがあった。もちろん、私たちの逢瀬のためにも若君がここに通う背を押すようにしっかり言い含めることも忘れなかったが。
ましてやこの夜に初めてお逢いになられたお方様と殿のお心は、いかばかりのものがあったのだろう。大井川のお歌を交わし合った感慨は、お二人だけが知る大切な思い出であるのだろう。
『また、三日目ごろの朝に、
しののめにおきける空は思ほえで あやしく露と消えかへりつる
(夜明けに身を起こして、空に日が昇ることも信じられず、あなたと離れると不思議にもわが身が露と共に消えるような思いで帰っていくのです)
という歌をいただいたので、
定めなく消えかへりつる露よりも そらだのめするわれは何なり
(あなたが不思議に消えてしまう露のようだとおっしゃるならば、その露のようなあなたを心細く頼るわたくしは、何だというのでしょうか)
と、お返事しました』
翌日の夜も、その翌日の夜も私は助政と逢った。当然殿とお方様も。お二人は正式にご結婚をされた。正式に契った証となる三日目の夜に召しあがる「三日夜餅」のお世話などは乳母である私の母がしたようだが、その夜の三日夜の宴は大変華やかに行われた。私や助政も来客の対応等に追われ、宴が果てた時にはかなり疲れていたのだが、それでも助政が約束通りに三日目の夜も私と逢ってくれたのは、私にとっても良い思い出だ。
翌朝も私たちは「楽しかった、また逢おう」と気楽なやり取りだったが、お方様と殿はすでに別れを名残惜しむ御心境となっていらした。
互いを消えゆく朝露に例えた後朝のお歌を見れば、どれ程睦まじい時を過ごされたことかと、そのご心情が察せられる。