逢わぬ恋 逢えぬ恋
秋つ方になりけり。添へたる文に、「心さかしらづいたるやうに見えつる憂さになむ、念じつれどいかなるにかあらむ、
鹿の音も聞こえぬ里に住みながら あやしくあはぬ目をも見るかな
とある返りごと、
「高砂の尾上(小野へ)渡りに住まふとも しかさめぬべき目とは聞かぬを
げにあやしのことや」とばかりなむ。
また、ほど経て、
逢坂の関や何なり近けれど 超えわびぬれば嘆きてぞ経る
返し、
越えわぶる逢坂よりも音に聞く 勿来をかたき関と知らなむ
など言ふ。
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それでも季節が秋を迎えるころには季節のもの悲しさに後押しされたのか、お方様も殿のお文にご自分でお返事を書くようになられていた。
『秋のころになりました。あの人からのいつものお文に添え書きがありました。
「あなたのお心が、私の愚かな男心をあしらう賢さを身につけられたように見えるのは、辛いことです。想いが届くことを念じていますが、どうなることやら。
鹿の音も聞こえぬ里に住みながら あやしくあはぬ目をも見るかな
(眠りを妨げる鹿の鳴き声も聞こえない都暮らしをしていながら、不思議にもまぶたを合わせる事が出来ない目を見ています。あなたに会えなくて、眠れないのです)」
と書かれています。私はお返事として、
「高砂の尾上わたりに住まふとも しかさめぬべき目とは聞かぬを
(鹿の多く住むという高砂の尾根の上に移り住んだとしても、そんなにしかと目が覚めるとは聞いたことがないのですが)本当に不思議ですね」
とだけ、書いて差し上げました』
助政も頻繁に文遣いとしてやってくるので、私と助政も会う機会が増えていく。助政は殿のお方様への想いの真剣さを私に語り続けるが、私は
「姫様は何事にも一途で真剣になられる方なの。いくら権門のお家柄でも、決してそのお心を軽んじていいってことはないはずよ。若君が強引な求婚をなさっていなければ、今でもとても多くの方々が姫様をお求めになっていたはずですもの」
といってくぎを刺す。
「そこは心配いらないさ。若は本気で姫君に入れあげているから。ただの戯れなら門前で随身に戸を叩かせるなんて派手な真似はしない。有名歌人の娘で評判の美人の顔に泥を塗るような真似をしてみろ。いくら権門の家の子息だって、世間の非難は免れまい」
「それはそうでしょうけど」
「若はそんな軽々しい人間じゃないんだ。正直戯れの恋も多いが、そういうお相手の時は最初から俺がこっそりと文をお持ちする。親もきっちりと丸め込んで、余計な苦情を言わせないだけのことはする。若は御兄弟の中でも殿(師輔)やご長男の伊尹様からのご期待が大きい。若自身もそれを自覚してらっしゃるから、それほど無責任なことはしないんだよ」
「そうはいっても殿方のなさることですもの。あなたの言うことだってどこまで信頼していいのか分かりかねるわ」
「だから俺ともなかなか逢ってくれないんだな」
助政はそういって口をとがらせる。助政は文遣いなので頻繁に会ってはいるが、逢う……逢瀬を交わすことは稀だった。
「最初の夜の後二晩続けて通っても、お前は姿を見せてくれなかった。おかげでお前の母親に随分責められたよ。『結婚の意思のない娘に安易に言い寄った』と」
「あら。ホントのことじゃない」
「冗談じゃない。俺だって軽い気持ちでお前に言い寄ったわけじゃない。ここの姫君につてを求めるだけなら、もっと気楽な下働きの女相手でもよかったのに」
……正直、ちょっとだけ胸が痛んだ。男が三晩続けて通って契りを結べば、世間から結婚した通い夫として認められる。私は母子ともども邸勤めで父との関係も途絶え、何の後ろ盾もない。私にとって助政に寄りかかるうまみがないように、助政にとっても私が女である以外のうまみはない。それでも助政は私との関係を通りすがりで済ませない意思を見せた。
だが、私は姫への文遣いである彼を完全な通い夫にすることにためらいがあった。助政が私との関係を利用して若君を姫様に近づけようとするかもしれないし、安易な逢瀬となった挙句姫様を一夜でお見限りになって、お戯れや愛人扱いにされてはたまらない。
助政の誠意を疑いたくはないが、私は自分の恋よりも姫様の侍女としての心を優先させた。……というより、乳母子としての情が勝ったというべきか。
「まあ、本音が出たわね。そうやってあちこちの邸で、主従ともども『戯れの恋』とやらを繰り広げているんでしょ。ウチの姫様はそんな扱いをしていいような方じゃないの。本当に情の厚いお方なんだから」
「それはお前もそうだろう? お前は情の厚い主人の下で主従の信頼を結びながら育った。だからきらびやかな従者の中でも俺なんかの好意に応えてくれたし、自分の主人を大切に思っている。ここの姫君がそれだけ情に厚い、情け深い方だってことだろう。俺はそこに期待しているんだが」
「期待?」
「男の世界には女には想像がつかないほど厳しい出世競争があるんだ。俺は若のお情けにすがるしがない身だが、若には何とか厳しい競争を乗り切ってもらいたい。そんな時に情の深い妻の存在は大切だと思う。きっと若を支えてくれるんじゃないかってね」
言っていることに嘘はなさそうだ。そして私が自分のこと以上に姫様に心を尽くすように、助政も若君に心を尽くしているらしい。
「だったらなおさら、若君のお心を確かめさせていただくわ。こうして文を交わし合っている以上、姫様にもご結婚の意思はあるのだから」
高貴な方々は最初の逢瀬まで互いに会うことはない。だから文のやり取りは婚約した証だし、それが途絶えればあっけなく解消される。姫様が文にお返事を差し上げた以上ご結婚の意思はあるのだから、若君からの文が途絶えるようなことは避けなければならない。
「若にはせっせと文を書いていただくさ。俺も欠かさずここへ通うよ。だから若のお心はもちろん、俺の心ももっとよく知ってくれ。……なあ、今夜、いいだろ?」
助政はそういって誘ってくるが、私は、
「何言ってんの。お二人が無事にご結婚できるまで、逢う気はないわ。『戯れの恋』じゃないってことを、ちゃんと見せてもらわないとね」
私はツンとしてそういいながら、
「はい、これが姫様からの『鹿の音』のお文のお返事」
といって文を渡すとその場を離れ、邸の奥へと引っ込んでしまう。助政がその気ならば、こっちもせいぜい気持ちを煽って懸命になってもらわなくっちゃ。姫様にも、私にも。
『また、しばらくして、
逢坂の関や何なり近けれど 超えわびぬれば嘆きてぞ経る
(世にいう逢坂の関とは何なのでしょう? 近くにいるあなたと私が逢うために超えなくてはならない試練とは、どういうものなのでしょうか? 私はその関を超えられないばかりに、悲しみを嘆いて過ごしているのです)
とおっしゃるのでお返事に、
越えわぶる逢坂よりも音に聞く 勿来をかたき関と知らなむ
(越えられないとおっしゃる男女を妨げる逢坂の関よりも、世の噂にはもっと厳しい「なこそ」来てはいけない関があるといいます。それこそが本当に固く守られた関なのだと知ってください)
などといいます』
「さすがはご求婚中だけあって殿のお歌も情熱的ですけど、お方様のお返事も改めて読みますとお見事ですね」
若い日の思い出から意識を戻し、殿とお方様の歌のやり取りを読み上げながら私はほっと息をついた。本音のところはお方様の方がさらに一枚上を言っている気がする。
殿の詠んだ鹿の恋鳴きに自分を重ねる技はよくある投影だが、逢えぬ思いをまぶたも合わせられないほどの眠れぬ想いに例えるとは情熱的でこった歌だ。それに『しかさめぬべき』とさらりと返されたお方様もさすがである。これは双方技量が拮抗している。
その次にかわされた関の歌は殿の『逢坂の関』『わびぬれば』『嘆きて』と良く使われる言葉の羅列だが、それだけに素直な心情とも思える。技巧を捨てた心の歌。むしろ切なる思いは伝わりやすく、恋の歌にはふさわしい。
しかしそこに返すお方様の歌が絶妙である。『逢坂の関』に対して『勿来の関』で返していること自体鮮やかなのだが、そこに込めた意味が見事だ。
あなたが私に逢うための困難よりも、もっと厳しい困難がこの世にはある。この縁を安易に考えないでとたしなめつつも、なこそ……来るな、とは言っていないのです。私たちには結ばれる日が来るのですよと、こちらも期待して待っていることをさりげなく伝えている。これはとても優しいお歌なのだ。相手に合わせた返歌にこれほどの技術と真心を込める。ここはお方様のお歌の方が勝ったように思えた。
「歌は、心を映すのです。それだけわたくしもあの人の愛情への期待が高かったのでしょう。本当にあの頃は楽しかった……」
殿の情熱に技巧的な歌で返すあたり、お方様もまだこの頃は恋に対しては憧れの方が強かったのだろう。
「お二人とも純粋に、恋心を楽しまれていらっしゃったのでしょうね」
私はお方様の歌に感服しながらそう言った。わが主人ながらほれぼれする。
「そうね。人が恋を本当に楽しめるのは、出会ってしまう前なのかもしれませんね」
お方様も遠い目をしてそうおっしゃる。きっと、まだ見ぬ殿にあこがれていた純粋なお心の思い出に、浸られていらっしゃるのだろう。