絶え間ない文
この時代の結婚はしばらく和歌のやり取りが必要です。よってすぐには結婚しませんので、その間に語り手さんの恋愛事情を。
語り手さんも、お相手の従者も、オリジナルのキャラクターです。この従者さんには今後、兼家さん側の事情をちょっとだけ語ってもらう予定です。
これをはじめにして、またまたもおこすれど、返りごともせざりければ、また、
おぼつかな音なき滝の水なれや 行く方も知らぬ瀬をぞ尋ぬる
これを「今これより」と言ひたれば、知れたるやうなりや、かくぞある。
人知れず今や今やと待つほどに 返り来ぬこそわびしかりけれ
とありければ、例の人、「かしこし。をさをさしきやうにも聞こえむこそよからめ」とて、さるべき人して、あるべきに書かせてやりつ。それをしもまめやかにうち喜びて、繁う通はす。また、添へたる文見れば、
浜千鳥あともなぎさにふみ見ぬは われを越す波うちやけつらむ
このたびも、例のまめやかなる返りごとする人あれば、紛らはしつつ、またもあり。「まめやかなるやうにてあるも、いと思ふやうなれど、このたびさへなうは、いとつらうもあるべきかな」など、まめ文の端に書きて添へたり。
いづれとも分かぬ心は添へたれど こたびはさきに見ぬ人のがり
とあれど、例の、紛らはしつつ。かかれば、まめなることにも、月日は過ぐしつ。
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『このやり取りをはじめとして、またまた文が届けられますが、前の文があんな風でしたから、わたくしはお返事もしないでいました。するとまたもや、
おぼつかな音なき滝の水なれや 行く方も知らぬ瀬をぞ尋ぬる
(実に心もとない、音無しの滝の水のように音沙汰のない人ですね。私は逢瀬の行方を……逢っていただける方法も知らないまま、あなたに尋ねるばかりです)
と、謝るどころかこちらの返事がない事を責める歌が届きました。』
「まったく、あの人と来たらどうしようもなく強気なのですわ。最初の文のやり取りがあれほど奇妙であったのに、どう考えたらわたくしが返事をすると思ったのでしょう」
お方様はお顔を背けたままそうおっしゃる。さっきの私の言葉に照れたままでいらっしゃるのだろう。それともお歌のキツさを恥じてらっしゃるのかしら?
確かにあれはお方様の本音であっただけに、言葉がきつくなっている。求婚でもなんでも、声が古びるまで勝手に喚いてなさいって意味だもの。
「よく、殿も性懲りもなく文を贈ってきましたねえ」思わずそう言ってしまう。
「何ですか? 私の方が悪かったとでも言いたいのですか?」
「いえ、いえ、そんな! 無茶な求婚をしたのは殿の方ですし。ただ、殿も権門の家の方ですから、若いのにあのようにはねつけられて、よくお心が折れなかったものだと」
「それがあの人の気質なのです。一度自分が気に入ったものは、どうあっても我が物にしないと気が済まないのでしょう。だから平気で謝る気配もない文を届けて来たのです。いつだって一方的で、こちらのことなど考えても下さらないのだから」
お方様はそう、すねたようにおっしゃる。
「でもこの時は、殿はこちらの考えなどお見通しだったようですし」
「だからタチが悪いのです。いっそ、本当に女心を知らない察しの悪い人だったら良かったのに」
お方様は憎まれ口が止まらなくなっていらっしゃる。私は反論をやめて、また日記に目を落とした。
『ひょっとしたらこの方は恐ろしく察しが悪いのかとも思い、こちらは不快がっているのだと理解していただくために、
「今はお返事できません。後でこちらから差し上げます」
と婉曲な断りを言って文遣いを返しましたが、そんなこと知っているといわんばかりに、
人知れず今や今やと待つほどに 返り来ぬこそわびしかりけれ
(人に知られることなく、今か、今かと待っているほど、お返事がいただけないことが苦しいのです)
と書かれた文が届きます。それを見た母が、
「高貴な方のお返事を無視するなど、畏れ多く子供じみたことはやめましょう。世間にも大人らしい態度だと思われるような、お返事をするのがよろしいでしょう」
というので、こういうことに長けた侍女に、礼儀に沿った文を書かせて届けました』
「あの時母上があのようにおっしゃらなければ、私はあの人を無視することもできたのですが」
お方様はまだ憎まれ口をはさんでくる。
「いいえ、それはなかったと思います。たとえお母上様が何もおっしゃらなくても、いずれお方様は殿にお返事を返していらっしゃったと思います。お方様は強引で情熱的で、こちらの考えに察しの良い殿に、御好意を持っていらっしゃったのですわ。お母上はお方様の想いをくみ取って下さったのでしょう」
私がそういうとお方様は黙り込んでしまわれた。亡きお母上のお方様に対する愛情はとても深いものがあった。お方様もお母上のお心とその行動に納得するところがあるのだろう。どんなに娘を心配しようとも、その意思を尊重する……。そんなご愛情を示される方だった。
そしてその意をくんで、私は殿にお方様に代わってお返事を差し上げたのだ。
『そんな形式的な文にもかかわらず、こちらの心のうちを細々と探って見当をつけては喜んだようで、その後もしげしげと文遣いを通わせます。また、添えられた文を見ると、
浜千鳥あともなぎさにふみ見ぬは われを越す波うちやけつらむ
(浜千鳥のふみ跡すら渚に見えないとは、私を超えて足跡を消してしまう波のせいでしょうか? ふみあと……私の書いた文のあとさえ見えなくなるような波がかかっている。私以上に気にかかっている人がいらっしゃるのでしょうか?)
と書かれています。今度も前と同じく細やかに気の利く返事のできる人に書かせて、形式で紛らわせようとしていたのですが。またもや文が届きました。
「細やかで丁寧なお返事に大変痛み入りますが、この度も代筆らしきお返事に大変つらいものがあります」
などと、きちんと書かれた内容の端に、書き添えられていたのは、
いづれとも分かぬ心は添へたれど こたびはさきに見ぬ人のがり
(ご本人であろうとなかろうとも、真心の添えられた文でした。けれども今度こそは、まだ見ぬ筆跡の人からのお返事を期待しています)
という歌でした。けれども前と同じく代筆で紛らわしてしまいます。そんな風に礼儀通りの文を交わして、月日を過ごします』
こうして殿からお方様へのお文は、絶え間なく届くようになった。代筆はいつも私。お返事のお言葉を考えられるのはお母上様だけれど、文を書いて殿の従者に渡すのは私の役目だった。私はこういう時に必要なそつのない言葉回しを得意としていたし、何より筆跡に自信があった。
幼い時分には、私とお方様でどちらが筆跡を上達させられるか大いに競ったものだった。私は結構呑み込みが早く、筆に込める力加減などもすんなりと身につけてしまった。おかげで文字に幼さが抜けるのも早く、それなりに見栄えも良くなったので私はそれに満足してしまった。主人であるお方様の前では少しばかり力が入ったふりをして、礼を欠かないように気を付ければいいとさえ思っていた。
しかしお方様は妥協という事が出来ない御気性でいらした。筆跡が侍女である私に劣っていることを大変に恥じて、古風なお母上様に長い時間つきっきりで手習いを教えていただいていた。時には寝る間も惜しんで美しい文字の習得に励まれていた。当然私はお方様にあっさりと追い抜かれてしまう。私が礼に気を配る隙などなくなってしまった。
けれど、お方様のお母上の筆跡は古風なもので、少し硬さが感じられるものだった。基本的な文字の美しさでお方様に追い抜かれた私は、心幼かったこともあって筆遣いにさらなる工夫をした。他の大人の女性のように所々を伸ばしたり、かすれさせたりしてみた。その方が女らしく華やかな文字に見えた。
だがお方様は私の筆跡を手本にしながら、さらにその伸ばし方、かすれ加減に細心の注意を払った字を習得された。それは私の筆跡など足元にも及ばないものとなった。当然だ。長い時間をかけて基本を習得された方が、最も美しい筆運びをご自分で会得されたのだ。
そんなお方様と私の筆跡は世間的にも見劣りのしないものだと自負している。もちろん、世の中にはもっと素晴らしい手跡(筆跡)の方もいるが、そういう方は幼い頃から身近に素晴らしいお手本を何らかのつてで手にしていて、さらにご本人に精進するお心が備わっていたのだろう。もしお方様にもそうしたお手本が身近にあったなら、そう言った方々に劣らぬ手跡を身につけていたはずである。
話はそれたが、私はお方様の代筆を続けていた。その文を受け取りに来る「文遣い」の従者もいつも同じ人物。殿の身近に仕える者で、名を助政という。家に名があるわけでもなく、無位無官の男。要は下人に近い立場だが、勢いのいい名家の若殿に気にいられて使われている家来なのだ。
立場で言ったらなんてことない男なのだが、前世で何か功徳でもあったのか、身分に見合わず見栄えがいい。さすがに大事な用など任せられないだろうが、こうした殿の色恋ごとではどうやら役に立つらしい。たしかに恋の使いには、美しい男の方が似つかわしかった。
いや、この男ばかりではない。殿の従者や随身は見栄えの良い、きらびやかな男で占められていた。殿はそういう華やかさを好まれている。だから美人の誉れ高いお方様に求婚し、下人のような男でさえ美しい者を選んでいるのだ。
おかげで殿が訪れると当時は私たち侍女も一斉にボーっとなった。美しい従者たちが何やかやと侍女を口説いてくるのである。こちらも年ごろの姫に華やぎを持たせるために、若く美しい侍女が集まっている。お方様がご新婚の間には、この邸でもあちこちに恋の花が咲いたものだった。かく言う私も助政に、
「こんなにまめやかにここに通って、何度もあなたのお美しい手跡を見てしまっては、あなたに興味を覚えずにはいられません。本来なら姫君のおそば付きであるあなたに、こんなにお近づきになれる身の上ではないにもかかわらず、あなたのことが忘れられなくなってしまったのです」
と、美しい顔でなまめかしく口説かれたりして、心騒いだものだった。
おまけに困ったことに、私にはあまり人並みの結婚願望というものがなかった。幼いころからお方様とずっと邸にいた私は、いまさらそれ以外の生き方をしようとは考えていなかった。私の母は父と結ばれて私を生んだが、お方様の乳母となってからは夫との結婚生活よりも邸勤めに充実を感じたらしく、父の通う足が遠のいても邸に勤め続けていた。どうやら私もその血を継いでしまったらしい。
だから他の人のように親が縁談を持ってくることを待つ気もなく、出世が見込める人との出会いを期待する必要もなく……。それでもいつかは通う男の一人も持つのではないかとぐらいにしか考えていなかった。
そうなると男への期待はぐんと低くなる。けれども若い娘の事、どうせなら平凡で無粋な見た目の男より、やっぱり美しい男の方がいいわけで。
「自分のことではないとはいえ、こんなに何度も近づく私とあなたです。私のあなたへのあこがれは、あなたもとっくにご存知でしょう?」
人の少ない晩。若君の文を渡したいと人のいない邸の端の暗い所に私を呼び出して、御簾越しに文を差し出しながら、助政がそうささやく。
「……嘘ばっかり。若君から言い含められているのでしょう? 姫様がお文をご覧になったかどうか、確かめろって」といってやると、
「若は知っていますよ。姫君がお文をご覧になっていることを。家柄に臆せず若の態度をきっぱりと非難なさるそのご気性。そこに若は惹かれているんですから」
そう言いながら助政は私の手をつかんでしまう。
「手を放してくださいな。あなた、他に女の方がいるのでしょう? わかりますのよ、こんなにきつく香を匂わせて。私の父もそうだったもの」
「他の女の話なんてしないで。あなたには似合わないですよ。くちなしの君」
私はお方様から「くちなし」と呼ばれていた。幼いころはもっと平凡な名で呼ばれていたが、お方様が姫君のころ、
「あなたはわたくしが何にも言わなくても、いろいろ分かっているのね。あなたにはわたくしのことを語る必要がない……くちなしね」
とおっしゃってから、その名を「くちなし」としたのだ。
「……この、煩わしい御簾を、かき上げてしまってもかまいませんよね」
悪い人、何をいまさら。わが手をつかんでいたその手は、とっくに衣のうちを探っている。私も呼び出されたときから期待していた。初めて自分に恋い焦がれたといってきたこの男に。助政はもの慣れた様子で御簾のうちに入ってしまった。
「声を……あげますよ」顔を見られた恥ずかしさから、その気もないのにそういうと、
「では、ふさいであげましょう」
……気づけば他人と呼べない仲になってしまっていた。
翌朝、お方様の母上に文をお渡しして、お方様に「あちらの方々は油断がならない」と御忠告申し上げると、お方様は「そうね、ありがとう」とおっしゃったが、私の様子から我が母には勘づくものがあったらしい。
「姫様の御縁談に必死になっているうちに、わが娘のことに油断してしまった」
と母は嘆いていたが後の祭り。思えば私も若かったのだが、男女の縁などそんなものなのだ。