お方様の日記
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かくありし時すぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり。かたちとても人にも似ず、心だましひもあるにあらで、かうものの要にもあらであるも、ことわりと思ひつつ、ただ臥し起き明かし暮らすままに、世の中に多かるそらごとだにあり、人にあらぬ身の上まで書き日記して、めづらしきさまにもありなむ、天下の人の品高きや、と問はむためしにもせよかし、とおぼゆるも、過ぎにし年月ごろのこともおぼつかなかりければ、さてもありぬべきことなむ多かりける。
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『このようにも時というものは過ぎ、世の中をとてもはかなく頼りなく、とにもかくにも思うに任せず、浮き草のごとく世を漂うばかりの女がおりました』
……はかない? お方様が?
私はお方様が書き始めた日記の冒頭から、読んでいて唖然としてしまった。これほどお方様に似合わない表現って、ないんじゃないかしら?
でも、まだ全くの読み始めなので、言いたい言葉を飲み込んで続きを読む。
『これから語るのは恥ずかしながら、わたくしというつまらない女の事でございます。
わたくしは姿かたちも人並みの人に似ず、たいして美しくもなく、一見心落ち着いて見えるだけの知恵や分別がありそうでも、実はたいした事も無く、こんな役立たずにいることもどうしようもないと思いつつ、ただ寝て起きるだけのような暮らしをしております』
「お方様。この表現はお方様にはあまりにそぐわないんじゃないでしょうか?」
私はいい加減限界を感じて、抗議の声を上げる。
私が女房(侍女)としてお仕えしているこの方は、右大将道綱様の御生母であり、歌人の藤原倫寧様の娘でいらっしゃる。そしてお方様が「あの方」とお呼びしている藤原兼家様の妻でもあるので、このお邸の北の方様として私たちの間では「お方様」とお呼びしている。
私はお方様の乳母子(乳母の産んだ子)なので、女童(女児の小間使い)の頃からの傍付きで、お方様の御気性はよく存じ上げている。
その私が断言できるのは、『はかなく』やら『ことわりと思ひ』なんて、この方にはぜーったい! 似合わないってこと。これじゃまったくの捏造だわ。
まあ、私たち女が書いたり読んだりするものなんて、別に空想的で誇張されていてもかまわないのだけど、今回はちょっと納得いかない。なぜならお方様自身から、
「今の世に広められている物語の類は、あんまり嘘が多すぎます。在中将業平殿の古物語(伊勢物語)も世の殿方たちに都合のいい、いい加減カビが生えたくだらないものだけれど、最近の物語でさえも嘘と幻想ばかり。あんなものが人々にもてはやされているなんて馬鹿げています!」
と、抗議の声を上げたのが始まりだからだ。
「いえいえ。そうはおっしゃってもそのための物語ですから。現実にはあり得なくても、そんな世界も美しいだろうと皆想像することを楽しんでいるんで」
私たち侍女はそういってお方様をなだめるが、お方様の不満は抑えきれない。
「今の女性たちはそう言うことばかりしているから、浮ついたふわふわした心持でいるのです。おかげで歌の名手と声の高かったわたくしまでもが、今流行りの『落窪』の姫のように、なよなよして男のすることを何でも許してしまうような女に思われてしまっています。そして高貴な人の妻はそうあるべきだと世の中にまかり通っているのです」
お方様はそういって憤慨している。いや、世の人はお方様をそんなになよなよした女性だなんて思ってないんじゃないかしら? それに物語はやはり面白い読み物だ。私も夢中になって読んだ口なのでついつい、
「えー、でも物語に書かれた歌も美しく、情緒的だと思いますけど……」
と、よけいなことを言ってしまう。お方様はむっとして、
「あれは虚構の世界の情緒です。あれを真に受けていたら、女の人生は魂がいくつあっても足りません。歌というのは生の感情を表現すべきもの。生身の人間を相手にした魂の声と技術の融合であるべきです。それなのに今どきの人の好みはわかりやすさや空想ばかりに偏って……。小一条の左大臣(藤原師尹)様からご依頼があった屏風歌など、あれやこれやと想像して作るように注文を付けておきながら、わたくしの歌は二首しか採用されませんでした」
などと世の価値観に八つ当たりをする。
「そりゃ、屏風歌というのは屏風に描かれた絵を見て想像した歌を詠むものですから。絵の内容が分かりやすくないと、採用しにくいでしょう」
私はお方様に冷静になっていただこうとそう申し上げたつもりなのだが、
「そういう歌の扱われ方が間違っているのです! 女の人生の嘘ばかりが取り上げられて、現実の緊張と傷の中から生まれる歌の重要性を軽んじてはいけないのですっ」
といって感情を逆なでされたようだ。これ以上お方様に反論して御不興を買うわけにはいかないので、
「さようでございました。お方様はそういう魂のこもったお歌を詠む名手でいらっしゃいますものね」
と持ち上げ、お方様の様子を確認して、私はお方様の書いた物を読むのだ。
『世の中でもてはやされている古い話、物語などの端をちらりと読んでみれば、その多くがくだらぬ嘘や絵空事ばかりなので、人並みでもない身の上のわたくしなどが書いた日記ではありますが、真実起こった出来事としては珍しがっていただける内容かとも思い、
「天下に名高い人の妻は、本当のところどのような気持ちでお暮らしなのかしら?」
等と問う人がいた時の例えにでもなるのではないかと思い、筆を執った次第でございます。何しろ過ぎ去った年月に起こった出来事なので記憶も定かではありませんし、特別に書かなくてもよいようなことまで書いてしまいました』
「そうですね。お方様はいろいろご心労を重ねてまいりましたもの。夢物語では思いつかない気づきというものを、若い人に知らせて差し上げるのもご親切なお心と思います。それにしても、やっぱりお方様ご自身のことは随分……へりくだられていらっしゃいますけど」
本音を言えばへりくだるなんてもんじゃない。だってこの人、自己主張の塊だもの。
「そうでしょうか? このくらいは謙遜のうちにも入らないでしょうに」
そう言いながらもお方様は扇を優雅に開き、口元を隠される。そのしぐさは心憎いばかりに美しい。扇は顔に近いところで使う調度なので邸勤めや宮仕えの女性などは華やかできらびやかなものを好むが、お方様は人妻らしく色や模様を抑えた……けれどもとても上質なものを優雅に使いこなす。その方がお方様の美しい目元を引き立てるのだ。しかし今、その口角は自然と上に上がってしまっておられるに違いない。
「いいえー。ご謙遜がすぎるくらいでございましょう。お方様は世の人々に『本朝三大美人の一人』と称えられるほどの御容姿をお持ちですし、御装束の染や仕立てさせる腕前も評判ですし。お歌の才能ではあの清少納言様も
たきぎこることは昨日に尽きにしを いざ斧の柄はここに朽たさむ
(薪を用意するような大変な法事は、昨日までに無事に終えました。さあこれからは斧の柄が朽ちるまで、功徳をゆっくり満喫いたしましょう)
というお方様の読まれたお歌を絶賛なさっていらっしゃいます」
この歌は小野殿と呼ばれる方の母上が普賢寺という寺で法華八講というありがたくも華やかな仏事をおこなったとき、それを聞いたお方様がその方へのお祝いのために詠んだ歌である。
法華八講には最も華やかな行事に薪の行道という薪や捧げものを手に行進する行事がある。華やかなだけに豪華な仏具や装束、お供物の用意はとても大変で、薪の行道のいわれとされる「お釈迦様が仙人の下で薪を用意した苦行」に劣らず、手抜かりのない準備が必要なのである。
そのご苦労をねぎらいつつ、素晴らしい仏事の成功を称え、お祝いする心を薪を割る斧の柄に例えて、主催者の長きにわたる繁栄を表わした歌。実に凝っていて清少納言様でなくても感心せずにはいられない名歌である。
ちなみに清少納言様は「随筆」という個人の体験や心の吐露を書き綴るというこれまでにない形の書き物を世に出した方で、今大変話題となっていらっしゃる。そんな方に褒めていただけば、お方様の自尊心がくすぐられないはずはない。もちろんこの歌を持ち出せばお方様のご機嫌がすこぶる良くなることを私は知っている。私の言葉にお方様はそのお顔をすべて扇で隠してしまわれると、
「まあ、はしたない。自分の主人をそのように褒め過ぎるのは恥ずべきことですよ。もう少し冷静に判断なさい」
と言いながらもお方様のお声は明るさが増している。扇のうちではさぞご自慢のあまり、相好を崩していらっしゃることだろう。
「清少納言の君の姉上は我が兄上の妻となっていますからね。義理の妹であるわたくしへの評価も、甘くなっておられるのですよ」
と、おっしゃる言葉の半分も本気ではないはずだ。なんだかんだ言ってもお方様は世の人々に、
「家庭的で美貌にも恵まれ、歌才に優れた、なよやかでつつましやかな女性」
という評価をいただけることが得意でならないのだ。だから真実を語るといって書き始めた日記でさえも、ほとんど捏造のようなご本人像を描いていらっしゃる。
しかしお方様は間違っても、よく打たれたなよやかな絹のような方ではない。お心の底にはそういう気持ちも持っていらっしゃるけど……そして、ご自分のそういう部分を気品ある妻にふさわしいと考えて、好んでいらっしゃるけれど……お方様の魅力は実はそこじゃない。おそらく殿もそう思っておいでのはず。
お方様の本当の魅力は気が強くて意地っ張りで、癇癪もちで少し我儘、自尊心の高さからご自分の弱さやご愛情を隠そうとされて、ついついご不満や憎まれ口が先に口や歌に出てしまうところ。でも隠しきれないほどのご愛情が溢れ出てしまう……そんなお可愛らしさにこそあるのだと思う。
でも、お方様を噂程度にしか知らない人ならばこの文章を真に受けて、
「やはり、浮名の多い権大納言(兼家)殿の妻では、気苦労も多く悲嘆にくれがちでお心弱りすることが多いのでしょう」
と思うかもしれない。実際お方様は気苦労の連続で、不誠実な殿にいつも苦しめられてばかりいるし。
「……もう、殿への愛情は冷めてしまったみたい」
と口癖のようにお方様がおっしゃるのも、あながち嘘とは言えない。少なくとも昔と同じお心の御愛情ではなくなってしまっているのだと思う。
気の強い方だから殿とお逢いになっても口を開けば喧嘩になるし、無視をすれば気まずくなる。逢えなければ心細いし、逢えば永遠にそばにいて欲しくなる。 けれども殿の妻はお方様一人ではないし、殿方のお心というのは雲をつかむように頼りない……。そんな中で期待して苦しい思いをするのなら、愛が冷めた心で形ばかりの夫婦としていつかのおいでをお待ちすればいい。お方様はきっとそんなお考えなのだろう。長く仕えた私にはそのお気持ちが痛いほどよくわかる。でも。
そのお心の深いところで、お方様は今でも殿を恋しく思っていらっしゃるのだと思う。殿をお待ちする純粋なご愛情を、大切になさっているのだと思う。
「それにね、ここにも書いたように日記に自分のこれまでを綴っていると、どうしても書かなくてもよいようなことまで、書いてしまうのよ」
お方様はそういって困ったようにはにかんだ表情をなさる。こんな素直なお顔をなさるお方様は、本当にかわいらしいと思う。お方様の美しさは姿かたちばかりではなく、こうした本物の女らしさを兼ね備えたところにある。
お方様ご本人の思惑とは違って、人々はこうしたお方様の御気性と表情を含めたうえで、本朝三大美女の一人と褒め称えているのである。