借金雇用
事務所に戻ると明かりが点いていた。もちろん点けっぱなしで出かけた覚えはない。
総一郎は初香に車に残っているよう指示すると駐車場に停められた車の陰に隠れるように姿勢を低くして事務所の玄関口まで移動する。
懐に利き手を突っ込んで警戒しつつ、倉庫時代は通用口だった鉄扉にそっと耳をつけて中の様子を探ると深夜番組らしいテレビの音と何ら屈託のない女の馬鹿笑いが聞こえる。
それで状況を把握した総一郎は懐に入れた手を抜いて顔を覆うと溜まった熱を吹き出す蒸気機関のようにゆっくりと呼気を吐き出して気を取り直し、車に戻って助手席のドアを開き中の少女に声をかけた。
「降りろ」
情けも容赦もない声で下される命令に少女は怯えた様子もなく素直に従い、車のシートから地面までの慣れない高さにふらつきながら足を下ろした。
その様子を黙って眺めていた総一郎はつくづく自分の関わっている少女が難物である事を思い知る。十月の寒空の下、十分に冷やされたアスファルトの地面に降りた少女の足には靴は愚か靴下すらも履かされていなかったのである。
総一郎はそんな初香を黙って見下ろすが、彼女は不平も漏らさず不思議そうに総一郎を見返してくるばかりだ。
仕方なくその身体を抱き上げ、再び肩に担ぐとそのまま事務所の玄関へと向かう。歩きながら取り出した鍵をドアノブに差し込み開く方向に回そうとするが手ごたえはなく、ノブを回せばそのままカチャッという音を立てて扉が開いた。その瞬間あふれ出て来た爆笑に肩の上の初香の身体がビクリと震える。
何事かと辺りをキョロキョロ見回す初香に暴れるなと言って手で抑え込み、慎重にドアをくぐって中へと入る。薄暗い玄関から奥を覗けば目の前に扉の形に光が漏れているのがわかった。靴を脱ぎ、奥へ進んで扉を開くと闇夜に慣れた瞳に痛みを感じる眩しい光が二人を包んだ。
蒼井調査事務所は元が倉庫だったという経緯からかなり広い作りとなっている。玄関部は後付けで設置されており、左手には風呂、トイレ、台所と水回りの施設が横並びに連なっている。真っ直ぐ進んだドアの先は倉庫時代の面影を色濃く残し普通の家の三階程度まで吹き抜けた空間が広がっている。玄関部の上はロフトになっていてそこに生活空間、下は仕事場としてデスクや書棚が並んでいる。そしてその中央に応接用の革張りのソファとガラステーブルが設置されているのだが、今そのソファに寝そべって壁側につけた大型テレビを涙すら流しながら大声上げて見入っているラフな格好の女がいた。
総一郎がオフィス空間に入ると肩の上の初香がヴェッというような汚い声を漏らして身じろぎした。
何事かと思った総一郎が確認すべく初香を下ろそうとした時、声を聞いたソファの女がこちらに気付いて声をかけてくる。
「やは、総ちゃん、おっかえりー」
その陽気な声に頭痛を覚えた。
彼女の名前は川原浮音。総一郎が時々アルバイトに雇っているフリーターだ。
普段は歌手としてインディーズレーベルに所属し小さいながらライブなども行っているがそれだけでは食っていけないので都合の良い時だけ事務所に来ては総一郎が溜めている書類仕事などを片付けて帰るという自由極まりないアルバイトをしている。そういうわけで合鍵を持たせているわけだが、総一郎もまさかこんな真夜中に来ているとは思わなかった。
「何してる」
「テレビ見てる」
違う。そうじゃない。
言葉にする代わりにため息を吐いて、ともかく肩の荷物を床の上に下ろした。
見れば荷物はその両手で目を覆って苦悶の表情を浮かべていた。
どうした――――総一郎がそう問う前に背後に気配が忍び寄る。
「うおっ、何これ? 総ちゃんの趣味?」
耳元にまで顔を近づけて発された距離感を間違えた大声に思わず仰け反る。
無視されたのが気に入らなかったのか単なるいたずら心か、足音を消して背後に寄って来た浮音が肩越しに初香を見て漏らした第一声がそれだった。
「どなたですか?」
「ぶおっ!? 動いた! 喋ったよ、総ちゃん!」
「ああ。そんな成りだが一応生き物だ」
「ほおぉ~…………なんか、あのバカ高いダッチワイフみたい。綺麗な子だね」
どんな感想だ。と半ば呆れつつも実際にそういうモノがある事を知っている総一郎としては納得してしまう部分もあった。確か数年前に写実派の人形師を集めてデザインさせたリアルな造型を売りにした特殊用途愛玩人形の中に似たようなのがいたはずだ。すべて手作りでほんの数体しか作られずとんでもない値が付けられていたにも関わらず予約受付開始から数秒で売り切れたというのでAV界隈では大きな話題になっていた。そんなものに似ているとは本人も知りたくないだろう。
「だっちわいふ…………?」
言われた本人は目を押さえたまま首を捻って説明を求めるように繰り返したが説明できるはずもない。
仕方がないので代わりに浮音の頭を軽くはたいておいた。
「いてっ」
「ガキの前で妙な単語を使うんじゃない」
「ぐ……む。正直スマンかった」
大して痛くもないだろうに叩かれた部分をさすりながらも頭を下げる浮音。
その視線の落ちた先、床に敷かれたカーペットに今の今までなかったはずの妙な模様が描かれているのに気付き、浮音が不思議そうに見つめているとそれを遮るように総一郎のコートが視界を阻んだ。
「あ……? 総ちゃん、なんか床に染みが…………」
それは血染みだった。
初香を下ろす際に着ているインバネスコートの裾を床に引きずったのだが、その部分が弧を描いた赤黒い染みになっている。止血はしても染みこんだ血が引っ込むわけもなく、乾きも遅いので触れた部分が床に残ったのだ。
「うわ、わわわ、ちょっ、怪我してんの? ど、どうしよ、救急箱? 救急箱どこ~?」
「うろたえるな。大丈夫だ、血はもう止まってる」
顔を青くし、救急箱を探して部屋中を駆け回り始めた浮音を一喝して止まらせる。それから無事をアピールするようにすっくと立ち上がると彼女に近寄ってその頭に無事な方の手を乗せてやった。落ち着きのない浮音だがこれをやると不思議と落ち着いてしばらく静かになるのだ。
「すでに医者も呼んである。それより腹が減ってんだ。軽く何か作ってくれるか?」
「ぅ……ん、そういう事なら腕に糊をかけて作るよ」
腕にかけるのは糊ではなく撚りである。しかし疲労のたまった総一郎は訂正するのも億劫で台所に向かう浮音にガキの分も頼むとだけ言ってその背を見送った。
総一郎はいい加減ベタベタと張り付く衣服にうんざりしていたので、初香にあまり動かないよう言い置いて脱衣所へ移動し着ていた物をすべて洗濯機に放り込んで体についた血を一通り拭き取り、下だけスウェットに着替えて上半身は裸のまま肩口の痛々しい傷痕を隠すようにタオルを引っ掛け執務室へと戻った。
脱衣所へ向かう前、初香はずっと目を押さえて動く気配がなかったが戻ってみるとその顔にどこから取り出したのかレンズに薄っすら影のついた太い赤縁眼鏡をかけ、言いつけに反して転々と部屋を巡っていた。
しかし一応遠慮しているのか特に何かに触れるわけでもなく一定の距離を保ってデスクや書棚を眺めつつ「ほぉ~」とか「ぬぬぬ」とか呻いているだけなので敢えて咎めもしなかった。
そうこうしているうちに頼んでおいたデリバリーが届く。
ピンポーンという電子音を響かせて現れたのは藍染の和装を着流した上に白衣を纏うという奇妙な格好をした初老の男だった。
総一郎の主治医、名を逆木場良源という。
「かわいこちゃんに会いに来たぜ」
迎えて開口一番言われた台詞がこれだった。
動機はともあれ深夜にも関わらず出張してくれた良源に文句を言うわけにもいかず、黙って執務室へと招き入れる。無論そこには部屋を見学中の初香がいるのみである。新たな人物の登場に驚いたのか警戒中のインパラのようにひゅっと背筋を伸ばして首だけこちらに向けて凝視している。
そんな初香の姿に年甲斐もなく瞳を輝かせて入室した良源の表情が面白いほど劇的に変わるのが見て取れた。
「おい、まさかお前の言ってた女ってアレの事じゃねだろな?」
「好きだろ? 若い女」
にやりと嫌らしい笑みを浮かべる総一郎に絶望の表情を返す良源。
そのやりとりの意味がわかっているのかいないのか、視線の先で初香は警戒体勢のままソファの陰に半身を隠し、
「ふぉぉぉ…………サムライソルジャー」
という意味不明の言葉と共に嘆息している。
よくはわからないが和服の男は皆、侍だとでも思っているのかもしれない。
室内を物珍しそうに見物していた初香の興味は今や良源に集中し、付かず離れずの距離を保ったまま物陰を転々と移動しながら良源見物に勤しんでいる。
良源はぶちぶちと文句を言いつつもきちんと仕事をこなし、総一郎の肩には清潔な包帯が巻かれた。
総一郎の治療が終わる頃、丁度料理も出来上がったようで美味そうな匂いを漂わせる皿を手に浮舟が台所から出てきた。
「あー、やっぱ良源先生だったんだ」
「おおっ! 浮音ちゃん! 今日もエロい身体してやんなぁっ」
診察時の悲壮感漂う表情はどこへやら、浮音の姿を認めた良源の表情が一気に晴れやかなものに変わった。実に現金なじじいだった。
浮音が料理を並べる間に総一郎は初香を手招きで呼び寄せ自分の隣に座るよう促す。
てててーっと走ってソファのところまで来た初香は少し悩むような素振りを見せると、後ろを向いてお尻からぴょいと飛び総一郎の懐に着地した。
その光景を目にした良源が「ほぉう」と感嘆するような声を漏らす。
「……………………何故、膝に乗る」
「いけませんか?」
期待の篭った瞳で見返してくる仄香だったが、妙な情を持たれては今後の展開に支障をきたすと考えた総一郎はその身体を持ち上げてポイと浮音の方に投げた。
危なげなくその身体を受け止めた浮音に扱いの酷さを咎められる。
「総ちゃん! 子供はもっと大切に扱って!」
これまでの人生で極力子供と関わらないようにしてきた総一郎が言い返せる事は何もなく、ただ不満気に舌打ちだけを返した。
にやにやとこちらを見てくる良源の笑みが鬱陶しい。
「さ、総ちゃんが納得したところで代わりに私が膝の上に…………」
「ふざけろ」
入れ替わりに膝の上に座ろうとする浮音の尻を蹴り飛ばし、総一郎は夜食を食べるべく合掌した。
テーブルに並んだ料理は青椒肉絲もどきの肉野菜炒めをご飯に乗せた簡単な丼物だったが辛さの中に仄かな甘みを感じる絶妙な味付けとなっており、空腹だったのも相まってあっという間に総一郎のどんぶりは空になった。
子供の味覚では少々辛過ぎるかとも思ったがその分ご飯の比率が多くなっており初香のどんぶりもあっという間になくなっていた。
食後には働き者の浮舟が煎茶を用意して全員で一息ついた。
「で、なんでお前はここにいるんだ?」
「みんな忘れてんのにその話題掘り起こすんだ…………」
「いや、忘れてねぇ。こんな時間にこんな男の家に来るなんざ自殺行為だぞ、浮音ちゃん」
「センセは最初いなかったでしょ! まあ別に口止めされてるわけでもないからいいけど」
その台詞から第三者の関与を嗅ぎ取った総一郎の脳裏には一人の人物が浮かび上がっていた。
「藤堂か」
「う? ん~、うん。そんな名前だっけ。ベビーシッターしてくれと頼まれたのさ」
「別に明日でも良かったんじゃないか?」
「はんっ、一晩でも総ちゃんに子守が務まるとでも思っているのかぁっ!?」
ぐぅの音も出なかった。元より子守などする気もないのだ。
唯一言い返す事があるとすれば今のところ子守の必要があるほど手はかかっていないというくらいだがそんな情けない台詞が吐けるはずもない。
矛先を変えて藤堂に文句の一つも言ってやろうかと思ったが電話するにも時間が時間なのでそれも躊躇われた。
どうせ明日には結果報告をすることになっているのだから文句を言うならその時でも良いだろう。そう考え直した総一郎はひとまず一晩浮音に任せる事にして自分はさっさと良源を追い返す作業に入る。明日も診察があるだろうにこの男は浮音がいるといつまでも残ってセクハラをし続けるのだ。浮音も慣れているのでそれ自体はどうということもないのだが、総一郎も今日は色々あったので流石に疲れてもう眠りたい衝動に駆られていた。
「おい、じじい。そこまで見送るからそろそろ帰れ」
「この季節にその薄着はありがてぇ限りだなぁ。なんか言ったか総一郎?」
「てめぇが帰らないと麗華婆さんがうるせぇ」
「おいおい、老体にムチ打ってわざわざ出張してきたってのに用が済んだらポイか? 浮音ちゃん、こういう男にだけぁ引っかかっちゃいけねぇよ」
「え~、総ちゃん良源先生には手出したの? 私も引っかけてくれよぉ~」
「黙れバカ共」
尚もゴネる良源を何とか宥め透かし、総一郎は予備のコートを羽織って共に事務所を出た。
秋深い十月の夜にはひんやりとした夜気が地上に降りてやがてくる冬の寒さを予感させる。冷たい空気は半裸にコートの総一郎には少々辛くさっさと見送ってしまいたかったが、急な呼び出しに応じてくれた良源に義理を通すため彼の車を止めている駐車場までついて行く。
車に乗り込みエンジンをかけたところで良源が思い出したようにウインドウを降ろして総一郎を手招きした。
何かと思って総一郎が近づくとエンジン音に負けないよう声を上げて良源が言う。
「そういえばあの娘な、光にはちょっと気をつけてやれ」
「どういう意味だ?」
「メラニンが少ねぇんだ。瞳の色が紫っぽかったろ?」
「ああ」
「あらぁ典型的な先天性白皮症の症状だ。子供にしちゃ彫りが深ぇから白人の血が入ってんのかもしんねぇが、それでもあんな瞳の人種はいねぇ。光がモロに網膜に入るから極端に光に弱ぇ。あの色眼鏡もその対策だろう」
言われてみればあの色眼鏡をかけるまで初香はずっと両手で目を隠していた。
事務所は空間が広いので基本的に間接照明を使っているが、帰って来た時は浮音が天井照明を煌々と点灯させていた。あれは広い空間をくまなく照らし出せるようかなりワット数が高いものなので健常な総一郎でも夜闇に慣れていると少々辛い代物だ。
とはいえ家計に優しくない電気代がかかるため普段は遣っていない。それは良源も知っているはずなので彼が言っているのは照明のことだけではないのだろう。
「気をつけるってのは具体的には?」
「少なくとも太陽光に当てるのは避けろ。お前が思う以上に簡単に火脹れになる。それと昼間も光を入れないようにした方がいい。反射光でも悪影響が出ないとは限らねぇからな」
「カーテン閉め切って生活しろってのか。コウモリじゃないんだぞ」
「お前はそうでもあの娘は吸血鬼みてぇなもんだ。何の力もないデメリットだけだけどな。夜も強い光は厳禁。ま、いつも通りの陰気臭い間接照明なら大丈夫だろ」
「余計なお世話だ」
「なんであんなもん拾って来たんだか知らねぇが、生かしときたいんだったら医者のいう事は聞いとくもんだ」
それだけ述べると「お前もしばらくは安静にしてろよ」と医者らしい捨て台詞を吐いて良源は帰って行った。
そのテールランプを最後まで見送った総一郎は、ただでさえ面倒な事態になっているのに厄介な代物を抱え込んだことに頭を抱えつつ、疲れた身体を引きずるように事務所へ戻るため踵を返す。
その際、事務所の目の間にあるアパートの住人らしき女性がゴミ袋を抱えてこちらを見ているのに気付いて会釈をしたが、女性は慌てたようにそそくさとゴミ捨て場の方へ逃げて行った。近所付き合いはしていないので見知らぬ怖面の大男を見た女性の正常な反応と言えなくもないかもしれないが、それにしても長く住んでいるのだから会釈くらい返すのが筋だろう。そう思った総一郎だったがふと自分の今の格好を思い出し納得した。
「…………というか、もう朝か」
空を見上げれば東の空は薄っすらと白み始め、活動し始めた街の喧騒が遠く中心街の方から運ばれてくる。その中にパトカーのようなサイレンの音を聞いた気がして耳を凝らすがカンカンという鐘の音も混ざっていたので消防車か何かだろう。
一瞬慌てた自分を笑うようにハッと息を吐いて首を振り気を取り直すと、寒さに肩を竦めつつ事務所へと戻った。
玄関のドアをくぐると左手からシャワーの音とかしましい女達の声が聞こえてきた。どうやら浮音が初香をフロに入れているようだ。
総一郎は応接室へ入ってコートを脱ぐと収納から毛布を取り出してソファに横になった。
目蓋を閉じ、今日の色々について考える。
(ガキを攫ったのはサイトを通じてすぐ悠之介に知れるだろう。早ければ今日にでもリアクションがあるはずだ)
初香を監視していたカメラはわかる限りすべて破壊したが、侵入した時にはまだ生きていた。先に電線を切って侵入することもできたのだが、わざわざ姿を見せたのは悠之介を焙り出すためだ。
監視映像が消え、最後にカメラを破壊する総一郎の姿が映っていればそれが何を意味するかは悠之介になら伝わるだろう。多少のリスクはあるがそもそも後ろ暗い内容の裏サイトだ。そこへ辿りつくような人間が好んで警察と付き合いたいとも思えないので通報される可能性は極めて低いと思って良い。
唯一気がかりなのはあの黒ずくめのことだった。
(あの動き、只者じゃなかったな)
総一郎は武術経験も軍隊格闘術経験もあるがそのどちらとも違う独特な動きだった。
何より異常なのは総一郎が腕を決めた際の対処法だ。あれ自体は肩の関節を外した上で上半身を下げ、固定された右手を左肩の上まで持ってくるというごく単純な動作だった。しかしその単純な動作を実行するには一瞬で肩を外す技術と、本来ありえないところまで引き伸ばされた神経が伝える激痛に耐える忍耐、そして靭帯が切れるぎりぎりを見極める冷静な判断力が必要となる。
そんな技術を習得しようと思ったら努力や根性では不可能。命のかかったぎりぎりの状況で何年もかけて感覚をつかまなければならないだろう。
それは軍人でも格闘家でもたどり着けない邪道の極み。
(暗殺者か…………)
そういう知り合いは何人かいる。やりあったことも何度かあるので対処できないわけではないが面倒な相手だった。
どうしてそんな輩が坂崎の家にいたのか。狙われていたのは悠之介か。それとも初香か。なぜ総一郎が出てくるタイミングで鉢合わせしたのか。
わからない事だらけだが、ともかく総一郎は関わるつもりはなかった。
さっさと眠って、あとは悠之介からの連絡を待つ。なければツテを使って追い込みをかけるだけだ。
そう、それだけ。
それで今回の仕事は終わりだと総一郎はそう考えていた。この時までは。
しかしその日、起き抜けにつけたテレビのニュース映像を見た瞬間、すべてがひっくり返った。
浮音がフレンチトーストを焼き、三人でガラステーブルを囲んで食パンに噛り付いていた時の事である。
昼を回った時間のワイドショーの中で放送されるニュースコーナーに見覚えのあるようなないような景色が映った。最初それが何だったか思い出せなかったが、中継のレポーターが町の名前を口にした瞬間すぐにわかった。それはつい今朝方通ったばかりの山道の入り口だった。
『…………さんは午前五時頃に日課のジョギングに出ようとしたところ、北の空を見上げると山腹から黒い煙が昇っているのを発見し119番通報したという事です。消防が到着した時には家屋はほぼ全焼の状態でしたが山には燃え移っておらず、午前七時半過ぎに鎮火。警察の発表では焼け跡から成人男性と思われる遺体が見つかっており、家主の坂崎悠之介さんと見て確認を急いでいます。以上、現場から…………』
多少の事では動じない総一郎もこれには流石に驚きを隠せなかった。
すぐに思い浮かんだのはあの黒ずくめだった。総一郎に振り払われた後、家に戻って火を放ったのかもしれない。
あの時逃げずに仕留めておけば…………そう考えるとやり場のない怒りに目の前がチカチカした。
悠之介はふざけた男だが、それでもそれなりに付き合いの長い友人だ。裏切られたとはいえビジネス上のこと、納得のいく説明が得られれば違約金を払わせるだけで許してやるつもりだった。
しかしその機会は突然横から入って来た正体不明の黒ずくめに奪われ、永久に失われてしまったのである。目の前に二人の少女達――――特に悠之介の娘である初香――――がいなければ八つ当たりでガラステーブルのひとつも割っていたかもしれない。
総一郎は右の拳を左手で握り締め、落ち着け落ち着けと自分に念じる。
隣に目をやれば理解しているのかいないのか、初香が手をベタベタにしながらトーストと格闘していた。
泣かれるよりはいいが相変わらず何を考えているかわからない、ある意味不気味な子供だった。
総一郎は浮音にティッシュ箱を渡して初香を指差すと携帯片手に席を立って部屋を出た。
玄関先で周囲を気にしつつ電話をかけると数コールもしないうちに相手が出る。
かけたのは誘拐の方の依頼主、藤堂だ。
『遅い! 何回かけたと思ってるの?』
開口一番そう言われ、改めて携帯の画面を確認すると着信を示すマークが8回を数えていた。
「夜通し働いてたんだ。勘弁しろ。それよりニュースは見たか?」
『見たかじゃないわよ。その件でかけてたの。まさか総一郎さんが犯人じゃないでしょうね?』
「そんなわけあるか」
藤堂の確認を軽く受け流し、昨夜の出来事をかいつまんで報告する。
特に黒ずくめの男について詳しく説明し尋ねたが、藤堂も心当たりはないようだった。
『そんな事があったのね…………何者かしら?』
「わからん。だが殺し屋なら依頼主がいるはずだ。オレはそっちを洗ってみるつもりだ…………が、お前、あのガキはどうするつもりなんだ?」
あのガキとはもちろん初香のことである。
人質としての価値が無くなった以上、総一郎としてはさっさと引き取って保護なりなんなりしてもらいたかった。
ところが帰って来た答えは総一郎の期待を裏切る歯切れの悪いものだった。
『それなんだけど、ちょっと困ってるのよね。出来れば総一郎さんのところでしばらく預かってもらえない?』
「あ? てめぇが保護したいと言ってきたんだろうが」
『いや、そうだけれど状況が状況でしょう。今のままだとどうやっても警察が介入してくる。そうなったら総一郎さんだって困るでしょう?』
「だったらてめぇの家で匿えばいい」
『公務員宿舎でそんなこと出来るわけないでしょ』
常ならぬ藤堂の余裕のない声に総一郎は眩暈を覚えた。
総一郎の予定では初香を誘拐した後は悠之介の反応を待って、大人しくデータを返すなら引き換えに悠之介の元へ帰し、そうでなければ藤堂に保護の名目でどこかの施設へ隠してしまうはずだった。ところが帰すべき家は焼失し、施設へ預けようにも警察の介入があれば誘拐の事実が発覚するのは明らかだ。
相手が大人ならば適当な部屋を借りて匿うことも可能だが初香はまだ十歳の子供である。生活はともかくとしても彼女が外に出ないよう誰かが監視している必要はあるだろう。こうしてみると悠之介は上手い事考えたものだ。彼は初香の居場所を秘匿することで安全を確保し、その上で不特定多数に監視させて脱走を防いでいたわけだ。
と、そこでふと気になる事を思い出した。
「そういえばニュースではガキのことには触れてなかったようだが、何故かわかるか?」
部屋を出る前、なるべく多くの情報を得ようと報道内容を注視していたが家屋が全焼した割には悠之介の家族については言及されていなかった。
鎮火からすでに五時間近くが経過し警察の捜査情報も入っていたことから家族構成も判明しているはずである。被害者にも加害者にもなりうる家族の話題が出ないのは妙な話だった。
『知らないんだと思うわ。彼女、社会的には存在しない子供だから』
「どういう意味だ?」
『出生届が出されてないのか認知されてないのか、とにかく戸籍に載ってないの』
「そんなことあり得るのか? 出生届けなんて医者が勝手に出すもんだろう?」
『自宅出産ならあり得るかな』
要は医師、助産師の手助けなく出産した場合、自身で出生の証明をしなければならない為、それが受理されていないと戸籍に載らないという話だ。
どうしてそうなったかはわからないが、戸籍に載っていないということは言い換えれば日本国籍を持っていないということなので社会的に存在しない子供というのもあながち間違いではない。家屋の焼失状態によっては警察の捜査も初香までは及ばないかもしれない。
とはいえやはり楽観視できる状況でないのも確かだ。
「お前が保護してたことにして警察に引き渡したらどうだ?」
『だから保護する前に許可が…………』
「いやです!」
藤堂と総一郎が尚も不毛な押し付け合いを続けていると、そこに後ろから悲痛な声で訴える者がいた。
振り返ると玄関と執務室を繋ぐドアから顔を出して初香がこちらを覗いていた。
「あっち行ってろ」
『何?』
「いや、なんでもない」
「何でもあります。私はここから出て行きません」
妙に強い口調だった。
子守は何をしているのかと思い浮音を呼ぼうとしたところ、その前に初香を抱き上げながら姿を現した。
「大事な電話の最中だ。向こうへ連れて行け」
「黙らっしゃ~い。こんな可愛い子を手放すなど天が許しても私が許さんわ~」
こっちはこっちで変なスイッチが入っているようだった。
一旦この場を治めなければ話もままならないと感じた総一郎は藤堂に「かけ直す」と伝えて通話を切り初香に向き合う。
「大人の話に首を突っ込むんじゃない」
「私だって十分大人です。自分の住む場所くらい自分で決められます」
「ここはオレの家だ。住まわせるかどうかはオレが決める」
総一郎の言葉に何故か驚いたように目を丸くする初香。どうやら居住権というものを理解していなかったようだ。
確認するように浮音を見ると困ったような曖昧な笑顔で頷かれ、ようやく理解したのか「わかりました」と言って今度は浮音の腕を逃れ、床に下りると外へ続く玄関扉に向かう。
「どこへ行くつもりだ?」
「警察です。ここに置いてもらえないなら全部話します。誘拐されたことも話してしまうかもしれません」
まさかの脅迫だった。
そんなことになれば依頼した藤堂はもとより引き受けた総一郎も無事では済まない。
「何故そこまでうちに居たがる? 父親がいないのはもうどこへ行っても同じだろう」
「お父さんとは常に一緒です。私は……………………お母さんを探したいのです」
前半部分の意味も不明だが、ここに来て初めて初香が口にした『母親』という単語に総一郎は眉を顰めた。
単純に父子家庭なんだと思っていたが、死んでなければ母親がいるのが当然だ。この口ぶりからすると行方不明ということか。
警察へ行き、施設に保護されれば生活は保障されるがその分、行動の自由は著しく制限される。たとえ仕事をしながらだとしても環境の整っている蒼井調査事務所の方がまだ捜索がし易いという考えだろう。弱冠十歳の少女が大人を怒らせるリスクを負っても拘る理由としては十分だ。
理由にも合点がいき、総一郎としてもなんとしてでも引き止めなければならない場面。浮音がいるので面倒な世話もする必要はない。ここまでお膳立てが出来て尚、総一郎は少女の要求を受け入れるのを渋った。
子供に脅迫されて素直に従ったのでは総一郎の面子が立たないのだ。裏社会に生きる者にとっての面子とは表でいう信用と同義である。信用のない者に仕事は任せられない。
まさにあちらを立てればこちらが立たず。しかし総一郎は大人である。大人とは狡賢く、姑息な生き物である。
「話は終わりですか? それなら私は行きます」
「まあ待て。オレは住まわせるか住まわせないかを決める権利はオレにあると言っただけだ」
「住まわせてくれるのですか?」
「それなんだがな。ここはオレの家でもあるが、同時に蒼井調査事務所という会社の事務所でもある。そんな場所に部外者を住まわせてたんじゃ会社の信用に関わるだろう」
「そうですか。お世話になりました」
「だから待て。話を聞け。要はお前を雇うと言っているんだ」
おちょくっているのかと思うほど取り付く島もなく出て行こうとする初香にこめかみを痙攣させつつも堪えて言った総一郎の言葉に、ドアノブまで辿りついた初香の手が止まった。
それからゆっくりと振り返った彼女の顔には深い疑問の表情が現れていた。
「やと……う………………?」
かかった。
ニヤリとほくそ笑む心の表情は表に出さず、総一郎は初香に説明する。
「そうだ。といっても十八歳未満だからバイトになるが、それでも従業員なら住まわせるのに問題ない。どうする?」
これで断られれば実力行使待ったなしだが、条件をつけることで選択権を相手に持たせるのには成功した。責任転嫁の完了である。
法的には十三歳以下の児童に労働させる事はバイトであっても不可能だが、そもそも初香は日本国籍を有していないという話なのでこれも単なる方便だ。
初香はしばし考えるように俯いてブツブツと独り言を呟いていたが、やがて顔を上げると総一郎の後ろで成り行きを見守っていた浮音に意見を求めた。
「バイトとはどんなことをするのですか?」
「うーん。色々? データ整理とかメールチェックとか…………まあ総ちゃんが機械音痴だから主にIT関連かな」
「やります」
即答だった。気のせいか瞳が輝いているようにも見える。
その様子に一抹の不安を覚えないでもなかったが、ともかくもこれで刑務所行きは一先ず回避されたようである。
あとは細かい契約内容を詰めなければならないわけだが…………面倒臭がった総一郎はこれを一言で済ませる。
「契約は浮音と同じでいいな?」
契約がどんな内容かわからないので同意しかねた初香は再び浮音に目を向ける。
総一郎も釣られてそちらを見ると、露骨に不満気な表情を浮かべた浮音と目が合った。
「総ちゃん、私の時は研修期間とかいって時給値切ったくせに…………」
「お前は吹っかけ過ぎなんだよ。研修期間については一企業として当然の対応だ。もちろんこいつにも研修期間は設ける」
「むぅ……まあ、そんならいいか。喜べハーちゃん。フレックスタイムで時給千二百円だ!」
「お~」
パチパチとわけもわからず拍手し浮音と共に盛り上がる初香。
早速事務所に入って契約書にサインを書かせ、印鑑の代わりに拇印を押させた。これにて契約完了だ。
それを金庫に入れて厳重に保管した総一郎はふと思い出した風を装って一つ重要なことを付け加えた。
「そういえば悠之介の遺産はお前が相続することになるんだな」
「いさん?」
何のことか心当たりのない初香はオウム返しに総一郎に尋ねる。
総一郎は滅多に使わない表情筋を引きつらせるようにして無理矢理笑顔を作り、淡々と初香に説明した。
「ああ。家は燃えちまったがあいつの遺産はそれだけじゃない。娘のお前が相続するのが筋だろう」
「マジか。いいな~」
「よくわかりませんが、もらえる物ならもらいます」
初香は当初よくわからないという感じで戸惑っていたが陽気に囃し立てる浮音の声に気分を良くしたらしく抱きかかえられながらそう言った。
総一郎はその返事を確認して頷き、別の書類を取り出して初香に差し出した。
「そうか。それじゃ、給料から引いとく」
「はい………………はい?」
それは総一郎が交わした悠之介との契約書。総一郎は依頼内容によって協力者を変えるのでその都度別の契約書を用意するのだが、今回のデータ窃取に関しても悠之介と契約を交わしていたのだ。
依頼書には契約を反故にした場合の違約金の支払いについても明記されている。その額、五万ユーロ。日本円にして約六百万円だ。
「遺産ってのは何も資産や財産だけじゃない、借金も含まれんだよ」
「ちょ……総ちゃん、それはいくらなんでも大人気なさすぎない?」
浮音は批難の声を上げるが総一郎としては体面を保てるぎりぎりの最低条件がコレだった。
さすがの仄香もこれは不満だったらしく頬をぷっくり膨らませてこちらを睨んでいる。
「悪人の匂いがします」
まさしくその通り。
総一郎が悪人でなければこんな条件は必要がなく、総一郎が悪人であればこんな条件は必要なかった。匂いがするとは言い得て妙な表現だった。
総一郎は肩を竦めて少女の慧眼を一笑に付す。
「なに、オレも鬼じゃない。衣食住は保障してやるさ」
大人気ないのは総一郎も自覚している。
総一郎とて十歳の少女に負わせるには現実的でない額なのはわかっていた。
役に立つとも思っていないし、給料を払う気もなければ金を取り立てるつもりもなかった。
しかし――――――
「つまりそれを返すまではここに住んで良いということですか?」
初香は悲観することも悲嘆に暮れることも、さりとて怒りを隠すこともなく言った。
すっかり失念していたがこの少女にはまともな思考や常識など期待できないのだった。
しかしこうなると総一郎も引くに引けなかった。
「そうだ」
「ではそれで良いです。よろしくお願いします」
そう言ってペコリと頭を下げる初香に絶句する総一郎と浮音。
こうして誘拐された幼い少女は莫大な借金を背負いつつも裏世界を生きる事件屋の一員となったのだった。
このシリーズはオムニバス形式で細々続けて行こうと思っています。
『じけん屋のようじょ』としてはここで終わりですが総一郎と初香の物語は続きます。
タイトルですぐわかるようにしたいのですがどうしたものか……何か良い案があったら教えてください_(_ _)_
ご覧いただきありがとうございました!