幼女誘拐
その日、蒼井調査事務所に持ち込まれたのは何の変哲もない、データの窃取依頼だった。
看板こそ調査事務所となっているが蒼井調査事務所は非合法な仕事を請け負う裏社会の便利屋――――つまりは事件屋である。
依頼主は最近マフィア化している暴力団の傘下企業。断れば面倒なことになるのは間違いない。
面倒事を忌避した所長の蒼井総一郎はこれを引き受けたが、彼は昔気質の人間でデジタルにはあまり詳しくない。
さらにデータを保持しているのは大手企業の抱えるIT研究所。難航することが予想された総一郎は専門家に協力を仰ぐ。
専門家の名前は坂崎悠之介。彼は大学時代に情報セキュリティ研究室で研究員を務めていた男であり、長年連れ添った相棒でもあった。
二人は綿密な作戦を立て、見事データの窃取に成功。
ところがここで悠之介にまさかの裏切りをくらい、総一郎は窮地に立たされる。
『ごめん、総一郎。このデータは誰にも渡せない。悪いけどもらってくよ』
それが研究所のバックアップデータを消去し最終確認を頼んだ時に返ってきた悠之介からの最後の通信だった。
憤る前に脱出を考えなくてはならなくなった総一郎は監視カメラの位置を気にしつつ社員のような顔をして敷地を出る。その足で悠之介の自宅を強襲するもすでにもぬけの殻だった。
その後も悠之介が訪れそうな場所を片っ端から当たる総一郎だったが、一向に行方がつかめない
日もとっぷりと暮れ心当たりをすべて虱潰しに探しきった頃、今後の対策を練る為にも一旦事務所へと戻る。
事務所へ戻った総一郎を待っていたのはスーツ姿の地味な印象を持つ女性。藤堂ひよ子という名のその女性は事務所のお得意様で家庭裁判所の調査員をやっている少々苦手な相手だった。
今回彼女が訪れたのは軟禁されたある少女の救出を依頼する為。
そんな場合じゃないと突っぱねる総一郎だったが、藤堂は構わず一方的に話を続ける。
「彼女の生活は二十四時間常に監視され、ある会員制サイトを通してネット上に公開されているの」
藤堂の話を総一郎風に理解すれば、つまりネットを使って自分の娘を見世物にし金を稼ぐイカレた親がいるということだ。
サイトの立ち上げ時期から考えて娘は十年近く軟禁され、外に出たこともなし。食事や洗濯は業者任せで世話もされずほとんど放ったらかされている。
とはいえ余所様の家庭の事情だ。娘が嫌がっている様子もなく監視の現場を確認する事も出来ないのでは家裁も手の出しようがないのだそうだ。
「というわけで総一郎さん。さらって来て」
「断る」
差し出された紙を問答無用で破り捨てる。
お得意様にとる態度ではないが藤堂との仲はそれなりに深いので引き受ける意思のないのが伝わればそれで良いと思った。
ところが破り捨てたその紙の切れ端に見覚えのある文字が見えた気がして、絶句する藤堂をよそに総一郎は床に落とした破片を拾い上げる。
「おい、この名前…………」
「…………信じられない。何?」
そこには熱望していた人物の名前が半分載っていた。
坂崎、初香。ずいぶんタイミングの良い偶然だ。悠之介から子供がいるなどという話は聞いた事がないが、こういう世界に生きていれば話したくない理由のひとつやふたつは容易に想像できる。
藤堂に確認すれば案の定、親の名前は坂崎悠之介だった。
あつらえたようなタイミング。追い込まれた現状。そして思った通り安い報酬。
まるで運命が受けろと言っているような展開だが、その運命の先に鬼と蛇どちらがいるともわからない。しかし今のところ他に手がかりはない。
すっきりしないものを感じつつ、それでも事態を打開する為に総一郎はこの依頼を引き受けたのだった。
表向きは少女を救出する為、裏では悠之介と交渉する時の切り札とする為に。
少女はそれまで自分を小さいと思った事はなかった。
キディとかリトルレディといった小さくて可愛い印象を与える愛称で呼ばれる時もあったが、それは親娘としての親しみを込めた呼び方で、身体の大小を問うものではない。
測った事こそないものの十分に大人の女性と言って良い年齢である自分の身長は日本人成人女性の平均と考えて一五〇~一六〇センチメートル程度。彼氏を作るならそれより十センチ以上高い男性が理想的。そんな風に考えていた。
故に、その男を見た時、彼女はそれを人間として認識しなかった。
彼女が日常生活している空間へ土足で入って来たその男は、少女の倍はあろうかという巨大な身体を折り曲げて部屋に侵入し、まるで猫でもつまむように少女の身体をひょいと持ち上げると顔を近づけてこう言った。
「坂崎初香だな?」
その地獄の底から響いてくるような重低音の声に少女は萎縮し、言われた内容を理解すると今度は恐怖に身体を強張らせた。
坂崎初香――――――それは紛う事無く少女の名前だった。
住居に侵入され、本名も知られてしまっている。その事が指し示す事実に少女は言葉を失った。
男は初香が黙っているのを肯定と受け取ったのか「待ってろ」と言うと彼女をベッドの上に下ろし、あろう事か主がいる目の前で部屋を物色し始めた。
本棚、クローゼット、カーペットの裏、電灯の上。思いつく限りあらゆる場所を物色した男は、部屋中からケーブルにつながれた見覚えのない黒っぽいキラキラした物を引っ張り出すと、それを一箇所に集めて踏み潰し始めた。男が足を叩きつける度に砂利が擦れるような硬い音が部屋に響き渡る。
それを呆然と眺めていた初香が余りの勢いに床が抜けるのではないかと心配し始めた頃、男はようやく足を下ろして再びこちらへと近付いて来る。
電灯の明かりを背に近寄ってくる男の表情は逆光で見えず、初香は益々恐怖を募らせた。
白い蛍光灯に照らされた、白い壁紙の白い部屋。そこにぽっかりと空いた穴のように巨大な影を落とす人成らざる者。それがゆらりと部屋全体を吸い込むが如く近付いて来る。
床板がギシリと悲鳴のように鳴った。
総一郎はその小さな少女がベッドの上でくたりと倒れるのを黙って見ていた。
感情が限界を迎えてブラックアウトしたのだろう。
推定身長百二十センチ。総一郎の腰ほどしかないその身体は、先程持ち上げた感じだと三十キロもないかもしれない。
資料によれば年齢は現在十歳。少女というより、まだ幼女と呼ばれるような歳だ。
長く太陽に当たっていない所為か、その身体は小さく、細く、生白い。それだけ聞くと病気療養中の薄幸の美少女といった風情だが、ベッドに倒れこんだ少女を眺めていると別のものが頭に浮かんだ。
初香の最も印象的な外見上の特徴。それは日本ではあまり見られない天然の白金髪である。ウエーブがかったその美しい髪は少女の腰近くまで伸び、緑色の光沢を放つドレスと相まって少女に人形のような無機物じみた不気味さを持たせている。
生き人形。それが総一郎が抱いた第一印象だった。
そんな初香を総一郎は感情のない目で見下ろす。
そしておもむろに彼女の着ているドレスの裾をつかむとスカートをめくって中を確認した。
病的に細い脚が外気にさらされる。
総一郎は一瞬眉根を寄せるが、すぐに表情を消して着けていた革手袋をとると初香の股座に手を這わせた。
触れると同時に身体がピクリと震えて総一郎の手が止まる。そのまましばらく様子を窺うが目を覚ますには至らなかったようだ。
ほぅと息を吐き、総一郎はスカートを戻すと慣れない手つきで丁寧に整えてから手袋を着け直す。恐怖のあまり失禁していないかを確認したかったらしい。
総一郎は安心してスカートごと少女の脚を抱え、肩に垂らすようにその身体を担ぎ上げた。
そのままのそりと立ち上り少女の身体をぶつけないように気を配りながら慎重に出入り口の扉をくぐって少女を部屋の外へと運び出す。
後には総一郎の踏み壊した黒い残骸だけが残された。
初香の軟禁されていた家は事務所のある東条町から旧二号線を下ること数分。三本木町に入ってすぐの交差点を右折し道なりに2kmほど進んで県道を山側に左折した細い道の奥にひっそりと佇んでいた。県道からしてあまり使われていない道だったが左折した先は舗装すらされておらず、道は約1kmかけてなだらかにカーブしながら徐々に獣道に変わってゆくので近くを通ったとしてもその先に民家があろうとは夢にも思わないだろう。
来た時に念のため家の中を一通り調べたが悠之介の姿は愚か人が居たような痕跡も見つからなかった。
唯一、家の脇を通る地下へ直接つながるコンクリートの坂道にだけ積もった砂埃を払うように轍がついていたが、これは初香のライフラインを支える業者のバイクだった。
坂崎初香はそんな場所で一人、外を知ることもなくひっそりと暮らしてきたのである。
総一郎が家を出ると冷たく清廉な夜の空気が、家から持ち出した暖かな空気を吹き飛ばした。
季節は晩秋。澄み渡る空を見上げれば限りなく白に近い半分の月が濃紺色の空に冴え冴えと輝いていた。
初香は室内にいた為コートなどは羽織っていない。それどころか彼女の着ている無駄にフワフワとしたドレスはレースやドレープを多用した見た目重視の薄い生地で作られており、冬の足音が聞こえ始めるこの時期に外出するには少々適さない仕様だった。
服を取りに戻るという選択肢もあったが、聞いた限りでは乳飲み子の頃から一度も外出していない初香の部屋にまともなコートがあるとも思えず数瞬思案した後、総一郎は彼女を自分のコートの中に背負う事にした。
コートを脱いだ状態で初香を背負い、その上からコートを着るのである。少々不恰好にはなるが、ここは人里離れた山奥だ。見た目より実用性を重視すべきだろう。
総一郎は早速コートを脱ぐ為に、担いだ初香を一旦下ろそうと身体を傾げた。とその時、左耳に引き攣れるような鋭い痛みが走った。同時に何か鋭い物が空気を切り裂く音が鼓膜を震わせる。本能的に危険を察知した総一郎は背後を確認する為に身を翻したが、下ろしかけていた初香の身体が反動で投げ出され、慌ててドレスの裾を捕まえる。
と、思ったよりも彼女が重かったのか、それとも予想以上に体勢を崩していたのか、裾をつかんだ直後、総一郎の身体が初香を振り回すように斜めに回転。バランスをとろうとして上げた足が偶然回し蹴りのようになって何者かの顎先をかすめた。石畳に膝を落とすような鈍い音と金属がぶつかる尖った音が辺りに響く。
見ると今ほど出てきたばかりの玄関口に銀行強盗のようなマスクを被った全身黒ずくめの何者かがうずくまって倒れていた。その手には大振りのサバイバルナイフが握られている。
「いきなり切りつけてくるとは、随分短絡的な保護者だな」
警戒しつつ、意識確認の意味も込めて侮辱的な言葉をかけてみる。意識があれば反論してくるだろうという意図だったが、応えは別のところから返って来た。
「ほごしゃ…………?」
声のした方を見ると総一郎の右手から下ること百二十センチ強のところで、タロットのハングドマンよろしく逆さ吊りになった初香が黒ずくめに熱い視線を送っていた。
何時の間に目を覚ましてたんだ? 寒くないか? その体勢で苦しくないのか? 素朴な疑問が次々と思い浮かんだが、ひとまずすべて黙殺する。それから左手でドレスの襟首をつまむと、最初にそうしたようにひょいと持ち上げて地面へと降ろした。
初香はそのまま黒ずくめに駆け寄ろうとしたが、これを予想していた総一郎は襟首から手を離してはおらず、黒ずくめにたどり着く前にずるずると引き戻す。息苦しさにむせた初香が落ち着くのを待ってから総一郎は問いかけた。
「あれはお前の知り合いか?」
その質問で総一郎の存在を思い出したらしく初香は白い顔を青くして目を逸らせたが、それでも総一郎の言った言葉が気になるらしく逆に問いを返してくる。
「…………ほごしゃって」
「いや、それは皮肉……あー、まあいい。」
総一郎は自分の言葉を頭から信じた初香に訂正しようとしたものの、上手い説明が思い浮かばず言葉を濁す。
藤堂の調べによれば彼女の保護者は悠之介のみ。目の前の黒ずくめは顔を隠しているので、その正体は不明だが背格好からして悠之介ではない。反応を見る限りどうやら初香の知り合いでもなさそうだ。
初香は理解したのかしていないのか、それ以上は何も言わず身を隠すように総一郎の後ろへと下がった。
総一郎はそれを確認すると、うずくまった黒ずくめの傍へ慎重に近寄って被っているマスクに手をかける。その瞬間、黒ずくめの手が動いてナイフの刀身が閃いた。
警戒していた総一郎はナイフを避けつつその手首を難なく受け止めると、警官がそうするように後ろ手に回して捻りあげようとした。が、その直前にゴキリという嫌な音が聞こえて黒ずくめの肩があり得ない方向に曲がった。黒ずくめは背中を回って逆の肩まで持ち上がった右手から受け取る形で左手に持ち替え、逆手に持ったそれを総一郎の左肩へ突き上げる。
「ぐ…………っ!」
左肩を刺された総一郎は思わず呻き声を上げて怯んだ。その隙にうずくまったままの身体を器用に回転させて、黒ずくめの後ろ回し蹴りが総一郎の右側頭部を打つ。
これを受け止めつつ総一郎は黒ずくめの足を捕まえ、そのまま力任せに振り回して玄関のガラス戸に叩きつけた。
盛大にガラスの割れる音が鳴り響き、黒ずくめの動きが一瞬止まる。
総一郎はそれ以上黒ずくめの相手をする気はなかった。
黒ずくめを叩きつけた直後には初香の方へ駆けてその身体を抱え上げ、そのまま坂崎の家から唯一伸びる山道を駆けて夜の闇を疾走する。鬱蒼とした木々が覆いかぶさるように生える山道を月明かりだけを頼りに走るのは足元がおぼつかなかったが、それでも得体の知れない黒ずくめを相手にするよりはマシに思えた。
ほんの数分で一キロ離れた県道まで失踪すると、そこに停めておいた愛車に縋りつくようにもたれかかる。火照った身体に冷えたボディが心地よい。
裏社会を生き、日ごろから鍛えている総一郎といえど子供一人抱えての千メートル徒競走は流石に堪えた。しかも肩に真新しい刺し傷のおまけつきである。
「だ、大丈夫で、ですか? 死にませんか? オ、オロ、オロ~」
目の前には車に縋りつくと同時に投げ出した体長百二十センチ強の幼い少女がボンネットにちょこんと座って忙しなく身体を動かし、焦りを伝えていた。
その表情にはこれまで見せていたような怯えはなく、ただ総一郎の身体を心配する不安気な色だけが窺えた。
「なんだ、ゼェ、その、フッ、オオロ、オロ、ってのは、ハァ」
「大丈夫ですか? オ、オロオロというのは慌てている時や吐くする時に出る擬音です。さ、さっきの黒い人が追いかけてきたらどう、私はどうすれば? いいですか?」
努めて落ち着こうとして余計に焦りが滲み出る少女の言動に、総一郎は冷静さを取り戻す。
コートのポケットに手を突っ込んで車のキーをつかむと、それを取り出して車両の後部を指差した。
「乗れ。すぐに出す」
言うが早いか、運転席のドアを開いて車の中へとすべり込む。
年季の入った愛車のシリンダーにキーを差し込みエンジンを点火、ギアをドライブに入れ、ライトを点灯し、暖房まで点けていつでも発進できるようスタンバイするが、一向に初香が入ってくる気配がない。
ウインドウを降ろし、首を突き出して周囲を確認したが、少女の姿はどこにも見当たらなかった。
黒ずくめが追いついて連れ去ったのか……? そんな考えが頭を過ぎりドアを開こうとした総一郎の耳に、ルーフの上から初香の声が降って来た。
「どうかし、したのですか?」
見るとルーフの上に体育座りで座っているではないか。
総一郎は一瞬その行動が理解出来なかったが、すぐにある事を思い出して納得する。
彼女は家から一歩も外に出たことがないのだ。当然車にも乗ったことがないはずだった。
そこじゃない。下だ。中に入れ。思わずそう怒鳴りそうになって言葉を飲み込む。少女に当たるのは筋違いというものだ。変わりに出たのはため息だった。
「ひっ…………!」
その時、悲鳴のように息を飲む音が聞こえて、総一郎は再び初香を見る。その顔は恐怖に歪んで元来た山道の方向を向いていた。
確認するまでもない。黒ずくめが追いついて来たのだ。
総一郎は反射的に窓から身を乗り出し、古い言葉で箱乗りと呼ばれていたような体勢で初香の身体を掻き抱き車内へ引っ張り込んだ。すでに準備は万全。アクセルを踏み込むと反抗的な音を立ててエンジンが回り、耳障りな摩擦音を残してタイヤが車体を押し出す。
黒ずくめはすぐ手の届くところまで迫って、閉める余裕もなかったウインドウの枠に手をかけようとしていたが、勢い良く発進した車に吹き飛ばされるように弾かれて県道沿いを守るガードレールに身体をぶつけていた。
その様子をバックミラーで見届けてようやく一息つくと、総一郎は片手でハンドルを操作しながら初香を助手席へと促した。
時刻は深夜二時を回り、山の峰沿いに蛇行する山奥の県道には他に走行する車も見当たらない。
暗い車内には正体不明の大男と常識外れの箱入り娘。
初香は総一郎の方をちらちらと窺っては何か聞きたそうに口を開くが、言葉が出ない。
総一郎は総一郎でその様子に気付いてはいたものの先を急ぎたい理由があって運転に集中しようと努めていた。
気まずい沈黙が降りる。
しばらくそうして無言の時を過ごす二人だったが、やがて初香は話しかけるのを諦めたのか助手席に膝立ちになって窓の外を眺め始めた。
聞かれたくない質問を聞かれずに済んだ事に内心で安堵する総一郎。けれど今度は助手席が気になって運転に集中出来なくなった。
窓から景色を眺める初香が車がカーブを曲がる度に「ファッ!?」とか「ふおおぉ……」といった特に意味のない感嘆を漏らすのだ。どうも初めて感じるGが面白いらしい。正直鬱陶しい事この上なかった。
けれどもその鬱陶しさこそが総一郎の意識を保つのに役立っている自覚もあった。肩に受けたナイフが動脈を傷つけたらしく血を流し過ぎていたのだ。油断をすると混濁する意識を深い闇に沈めてしまいそうになる。すぐにも止血したいところだが黒ずくめが車で追いかけてくる可能性もあるので一本道の県道を抜けるまでは道路脇に停車するわけにもいかなかった。
止血は出来ない。運転に集中するのも難しい。となると何か気を紛らわせて意識を保つ必要がある。
そうして総一郎は気は進まないながらも少女と会話してみる事にした。
「今更という気もするが、一応確認だ。改めて、お前が坂崎初香で間違いないな?」
突然かけられた声に驚いた様子で初香が振り返る。大きく見開かれたその二つの瞳は薄藤色をしていた。
そのままたっぷり二秒程度は停止していたが、考えるように顎に人差し指を当てると四秒後には「間違いありません」と素直に答えた。
当初こそ突然乱入してきた見知らぬ男に恐怖していたが、初香はすでに警戒していない様子だった。
実はこの時、初香は総一郎のことを悪漢から守ってくれた騎士のように思っていたのだが、総一郎には知る由もない事だ。
また、初香が総一郎に興味を持ち始めているというのも大きな理由だった。
車のこともそうだが、初香は経験や体験といったものが普通の人よりも極端に乏しい。知識として車というものは知っていても、月明かりしかない中でボンネットに投げ出され、後ろを示して乗れとだけ言われても、それがドアを開けた内側を示しているとは思わなかったのだ。
「車というのは中に乗る物なのですね」
「逆に外に乗ろうって発想がオレには理解できんな」
初香の偽らざる気持ちに男が至極まともな意見で答える。
「そうですか? 荒野の一本道を窓も屋根もない車が走ってたり、農家の方が困っている若者を外に乗っけて走ったりというのはよく見る気がします」
初香の説明に、総一郎はオープンカーと軽トラを思い浮かべる。どちらも直接見る機会は少なくなったが映画やPVなどでなら見かけることもあるだろう。言われてみれば、なるほどと思えなくもない。根本が決定的に間違っているが。
「まあいい。今後オレの車に乗るときは今座っているところに座れ。いいな?」
「今後? というと、私はしばらく貴方と一緒ということですか?」
「そうだ」
初香の質問に間髪を入れず総一郎が答える。
その答えに初香は考えるように宙を仰いで言葉を探す。やがて出てきた言葉は非現実的で怖くて恐ろしいと思われるものだったが、その声にはほんの少しだけわくわくする響きが混じっていた。
「これは誘拐ですか?」
「…………そうだ」
何気ない風を装って発した初香の質問に、今度は少しの間を空けて答えが返る。その様子は何かの感情を押し殺しているようにも見えた。
が、初香はそんな総一郎の様子には気付かず、顔を逸らして月を眺めながら一人ごちる。
「びっくりです」
聞こえるか聞こえないくらいの声でどこか嬉しそうに呟いた初香の独白は総一郎の耳に届き、総一郎は重いため息を吐きつつ心の中で『まったくだ』と独りごちた。
初香の質問に一通り答えた頃、ようやく県道が開けた盆地へと繋がり、しばらくすると交差点の角にコンビニを発見した。
総一郎はコンビニの駐車場へ車を乗り入れると、店内の明かりが届くギリギリの位置に車を停車させた。それからズボンのベルトを抜いて肩と腋の下へタスキのように通し、強めに締めて止血を行うと携帯電話を取り出して行きつけの医者に電話をした。常識外れな時間帯に起こされた医者は当初不機嫌だったが、女を連れて行くと言ったら妙にウキウキとした口調に変わったので、年端もいかない初香を見たらさぞ喜ぶ事だろう。
電話を切って再び車を出そうとする直前、初香が不思議そうな表情で覗き込んでいるのに気付き、どうしたのかと聞いてみる。
「いえ、名乗らないのだなと思いまして」
初香は電話というのも初めて生で見たが、それを使う人は相手に自身の名前を名乗るものだと思っていた。聞き返すタイミングを逃して名前を聞けないでいた初香にとってそれは機嫌を損ねず名前を聞ける唯一の機会と思われたのだ。
普通に考えれば誘拐犯が自ら名乗るような愚かな真似はしないだろう。
けれど自覚がないのか初香を侮っているのか、名乗るのが遅れた事に詫びすら入れて総一郎は自らの名前を名乗った。
「そういえば名乗ってなかったか。オレは蒼井総一郎。短い付き合いになるだろうがよろしく頼む」
少女は一瞬きょとんとしたが、それが男の名前だとわかると嬉しそうに笑ってその名を繰り返した。
「アオイソウイチロウ、ですね。覚えました。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
「…………それは嫁入りの挨拶だ」
助手席の上に何故か正座して三つ指をつく初香に、先が思いやられて天を仰ぐ総一郎。
これから長い付き合いになる一人の男と一人の少女の、これが初めての夜だった。