勇者の伝承
「えっと、ちょっといいですかー?」
突然聞こえてきた女性の声。
だが、その声の主らしき女性の姿は辺りに見えず、村長や司祭や村人たち、そして兵長やサイファまでもが、声の主を求めて周囲をきょろきょろと見回した。
「あ、済みませんー。このままだと、私の姿は見えませんよねー」
どこか気の抜けたような調子の言葉と共に、金色の髪の青年の傍らに、一人の女性が唐突に出現した。
長く伸ばされた髪は、青年と同じ金色。瞳の色もやはり青年と同じ紫で、その肌は極めて白い。
顔の作りは、この場の誰もが見たこともないような──まるで天上の神々が直接その手で造形したかのような、溜め息しか出ないような美しさ。
その極めて美しい女性が身に纏っているのは、青年のように奇妙な色合いの外套ではなく、貴族の令嬢が着るような薄青のドレス姿。
だが。
だが、その女性を見て、居合わせた全ての者は驚愕した。
その理由は彼女が突然現れたからでも、その人外の領域にまで及ぶ美しさでもない。
彼らが驚いた理由。それは、その女性の姿が半ば透き通り、その背後が透けて見えているからだ。
「……せ、精霊様……?」
「精霊様だ……」
「精霊様が……我らの前にお姿をお見せくださったぞ……」
村人たちは、口々にそんなことを言い始める。中には、その場に跪いて祈りを捧げる者までいた。
よくよく見れば、バモン村長やグルーガ司祭、そしてバーラン兵長までもが目を大きく見開いて、その女性を見つめていた。
「えー、わたくしはチャイカと申しまして、こちらのレイジ様に仕える存在です」
「おい、チャイカ。突然立体映像を空中投影するなんて、何のつもりだ?」
「いえ、先程あちらの方が、交渉するのに顔も見せないのは論外だと仰られたのでー」
そう言って女性──チャイカが指し示したのは、相変わらず小剣を構えるバーラン兵長だった。
レイジの言葉通り、それはチャイカの本体ではなく、レイジの腰に装着された小型プロジェクターから空中投影されたCGである。
だが、元よりCGなど知る由もない村人たちは、チャイカのことを精霊と信じて疑うことはなかった。
グルーガ司祭は、思わず首元の聖印を握り締めていた。
今、彼の目の前には精霊がその姿を現している。
精霊とは、彼が属するレシジエル教において、神の御使だとされている存在だ。
その姿は人間と左程変わらないが、その美しさは天上に属する者として、人のそれを越えると言われる。
今、グルーガ司祭の目の前にいる女性は、間違いなく精霊に違いない。
その神秘的な存在感。その神々しいまでの美しさ。それら全てが彼女が精霊であると証明している。
そして、グルーガ司祭はレシジエル教に伝わる有名な伝承を思い出す。
それは、人々が苦難に陥った時、人々を救うために神々が遣わす神の子の存在。
その神の子は黄金を纏い、精霊の乙女を従えると言う。
今、グルーガ司祭の目の前にいる青年。彼の黄金の髪に司祭は目を奪われる。
金色の髪を持った人間など、グルーガ司祭は見たことも聞いたこともない。
「黄金を纏う」という言い回しから、黄金の衣服や黄金の鎧を身に着けることだとばかり思っていたが、もしかすると、それは彼のあの髪の色を示しているのではないだろうか。
更には先程のあの精霊の乙女の言葉。あの精霊の乙女は、はっきりとあの青年に仕える存在だと言った。
黄金を纏い、精霊の乙女を従える者。
それは、伝承に言われている神の子のことではないのか。
しかも、彼は先程空から降って──少なくともグルーガ司祭にはそう見えた──きた。伝承によれば、神の子は空から舞い降りるとされている。
「ま、まさか……まさか、あの青年は神の子……勇者様ではないのか……?」
この時の司祭は、今すぐにでも青年の足元に平伏したい衝動に駆られていた。
平服したい衝動を何とか抑え込んだグルーガ司祭は、バーラン兵長を押しのけるようにしてレイジの前に立った。
「……あ、あなた様は……我がレシジエル教の聖典に記されている……勇者様なのですか……?」
「勇者」という司祭の言葉を聞き、村人たちががやがやと騒がしくなる。聖典に記されている勇者のことは、それこそ子供でも知っているぐらいに有名だ。
「聖典に記されている勇者様は、神々に遣わされて空から舞い降り、黄金を纏って精霊の乙女を従えると言われております。今のあなた様は、まさにその聖典に記されている通り……あなた様は、神々より遣わされた勇者様ではありませんか……?」
まるで熱に犯されているようなグルーガ司祭の表情。
頬は紅潮し、その目は潤みきっている。神に仕える聖職者として、神の使徒である勇者との邂逅は、何より勝る喜びなのだろう。
「は? 勇者? 生憎だが、俺はそんな偉そうな存在じゃない。俺はレイジ・ローランド。ただの旅人だよ」
「れ、れぃじぃ……ろぅ……らんど……ですと……?」
グルーガ司祭の顔が更に喜びに輝く。
レシジエル教の古神語において、「レィジィロゥ」という言葉は神の使徒──すなわち勇者を意味する。
この時、グルーガ司祭はまさに天啓を受けた思いだった。
目の前にいる青年こそ、間違いなく神が遣わした勇者だ。神々の座におわす神が、苦難に陥った彼の祈りに応えて、その使徒である「勇者ランド」を地上に遣わされたのだ。
「おお……やはり……やはり、あなた様は神が遣わされた勇者……勇者ランド様なのですね……勇者ランド様、苦難に陥っている我らをどうかお助けください……」
今度こそ、グルーガ司祭は跪き、その場で深々とひれ伏した。
「……交渉どころじゃなくなっちゃいましたねー。あははー」
「どうしてこうなったんだ?」
「どうしてでしょうねー?」
「チャイカがCGなんぞを勝手に投影してから、随分とややこしくなった気がするけどな」
「ええー? わたくしは単に、あのバーラン兵長って人と労働の条件とその対価をしっかりと確認した方がいいと思ったまでですよ? レイジ様だって、サイファさんを助けるのはともかく、それ以上の労働をするのは嫌でしょ? だったら、しっかりと最初に労働条件をですねー……」
レイジとチャイカが言い合っている──今もチャイカはCGを投影中──と、前を歩いていたバーラン兵長が渋い表情で振り返った。
「随分と余裕だな、おい? こちとら、いつ魔族の襲撃が再開されるのかと冷や汗を流しっぱなしだってのによ?」
今、レイジとチャイカ、そしてバーラン兵長は、村外れへ向かって歩いていた。
彼らが向かうのは、いわば前線。この村と魔族たちとの戦いが行われる最前線だ。
結局、レイジが魔族の撃退に力を貸すという条件で、サイファを自由にするとバモン村長は約束してくれた。
レイジとしては、一定の勢力に荷担したくはない。しかし、それでサイファが自由になるのなら、と自分を納得させた。
半ば成り行きでレイジへの「報酬」となったサイファは、今頃は村長の屋敷の一室にいるはずだ。
おそらくは監禁同然の扱いだろうが、逆にその方が村人たちから彼女が危害を受けることもないだろう。
グルーガ司祭や一部の村人たちは、完全にレイジを勇者だと思い込んでいるようだが、バモン村長や目の前のバーラン兵長などは、どうやら完全には認めていないようだ。
それでも彼らがレイジのことを半信半疑なのは、チャイカの存在があるからだろう。
どう考えても、チャイカは人間ではない。かといって、亡霊の類とも思えない。
チャイカは亡霊の類にしては性格が明るすぎるし、その神々しいまでの美貌はやはり精霊としか思えないのだ。
精霊であるチャイカが仕える以上、レイジは本当に勇者ではなくても只者ではないだろう。彼らは──特にバーラン兵長はそう考えていた。
「なあ、兄ちゃん。兄ちゃんは本当に勇者様なのか?」
「だから、何度も言っているだろ? 俺は勇者なんてご立派なものじゃないよ」
「わたくしも本当は精霊ではなく、アーティフィシャル・インテリジェンスなんですけどねー。でも、ここでアーティフィシャル・インテリジェンスなんて言っても理解できるはずもないので、面倒だから精霊と考えてもらっても差し支えないですよー?」
これが、バーラン兵長を悩ませている大元だ。
もしもこの青年が勇者を騙っているだけの者ならば、こうもはっきりと勇者ではないなんて言わないだろう。
そして、その傍らの精霊の言うことは、正直バーランには全く理解できない。
「俺としては、兄ちゃんが本当に勇者様だろうがあまり関心はないんだ。俺が関心があるのは、兄ちゃんが魔族との戦いに役に立つかどうかだけだからな」
そう言い終わった途端、バーラン兵長は腰から剣を素早く抜き払い、抜き打ちでレイジに斬りかかった。
バーランの腰から銀光が迸り、真っ直ぐにレイジの首元へと疾る。
だが、銀光はあっさりと遮られた。レイジが手にした、鈍い鉛色のナイフ──単分子ナイフによって。
「ほう……今のを受け止めたか。どうやら、ただの素人ではなさそうだな」
バーランは悪びれた風もなくそう言うと、剣を引き戻して鞘へと収める。
「……何の真似だよ、バーランさん?」
「何、ちょっとした腕試しってヤツよ」
バーランは呵々大笑すると、ばんばんとレイジの背中を叩いた。
「いや、ぱっと見は細っこいが、いい反応するじゃねえか。これなら魔族とも十分に戦えそうだな!」
「あ、それならまだ襲撃はありませんよー。魔族の方たちは、今はほとんどが眠っているようなのでー」
「な、なんだとっ!?」
ぽろっと横から口を挟んだチャイカの言葉に、バーランが目を剥いて驚いた。
「そ、それは本当なのか、精霊様?」
「ええ。先程、偵察用の小型ドローンを数機、周囲に放ちました。その内の一機が魔族の方たちが集まっている所を発見しまして。現在も監視を続行中です」
その様子を見てみますか? というチャイカの言葉に思わずバーランが頷くと、チャイカの姿が掻き消えて、どこかの森の中らしい様子が映し出された。
「うおっ!? こ、こいつはもしかして、幻影の魔法か……?」
突然空中に映し出された景色にバーランは驚くが、そこに映し出されたものを見て、すぐに表情を引き締めた。
映し出された映像の中。この近くの森の中だと思われるそこで、数十体の魔族が思い思いに眠りについていた。
もちろん、全ての魔族が眠っているわけではない。数体の見張りらしき魔族は起きていて、どこかやる気なさそうな態度で周囲を見回している。
「……な、なんだって連中は、寝こけていやがるんだ?」
「これはわたくしの推測でしかありませんが、魔族の方たちは当初、バーラン兵長さんたちの村が小さなこともあり、すぐに攻め落とせると考えたのでしょう。ですが、実際に襲撃してみると思いの外抵抗が激しく、容易には攻め落とせなかった。そこで一旦後退して休息を取り、自分たちに有利な夜に再び襲撃をかけるつもりなのではないでしょうか」
「なるほどな、おそらく精霊様の言う通りだと思うぜ。なんせ連中は俺たちとは違って夜目が利くからな」
バーランは、チャイカの言う通りだと何度も頷いた。
夜間の戦闘ともなれば、夜目の利かない人間と夜目の利く魔族のどちらが有利か考えるまでもない。
ちなみに、チャイカの声はプロジェクターに内臓されているスピーカーから発せられているが、バーランはとてもそこまで気づかない。
と、映像の中に一際大きな身体の魔族が映し出された。
「おいつはオーガーだな。おそらく、こいつが魔族の指揮官だろう」
映し出された映像の中で、立派な鎧を着込んだオーガーが大口を開けて眠りこけていた。
「よし、今すぐこいつらを急襲しよう。ほとんどが寝ている今なら一気にカタがつく。精霊様、こいつらの居場所はどこだ?」
「まあ、待ってください。わたくしに策があります」
「策だと……?」
「ええ。ここは敢えて、夜まで待ちましょう」
再び投影されたチャイカのCGが、にっこりと笑みを浮かべた。