湧き上がる疑問
「これが……本物の魚の味……」
焼き上がった魚を一口食べて、レイジは俯いて口を閉じてしまった。
もしかして、彼の口には合わなかったのだろうか。サイファが心配して彼の顔を覗こうとするも、相変わらず彼の顔はフードの奥に隠されていて、その表情を読み取ることはできない。
「あ、あの……レイジさん? もしかして、美味しくなかったですか……?」
恐る恐る尋ねるサイファ。
それまで俯いていたレイジが突然顔を上げると、そのまま凄い勢いでサイファへと振り向いた。
「そ、そんなことはない! 俺、本物の魚……いや、本物の食材なんて初めて食べたからさ。やっぱり、合成ものと違って天然ものは凄く美味いなっ!! 全然味が違うっ!!」
やっぱりレイジの言うことはよく判らないが、それでも彼が焼き上がった魚を気に入ってくれたことは、サイファにも理解できた。
「良かったら、残りも食べますか?」
瞬く間に自分の分を食べ終えたレイジに、サイファは微笑みながらそう勧めた。
「え? だって、それはサイファの分だろ? 俺が食べるわけにはいかないよ」
「いえ、構いませんよ。レイジさんさえ良ければ、是非食べてください」
自分が焼いた魚を美味しそうに食べるレイジを見て、サイファは何だか嬉しくなった。
思い起こせば、彼女が作った料理をここまで美味しそうに食べてくれたのは、亡くなった司祭様以外には彼が初めてだ。
そうして焼き魚を全て食べ終えた後、サイファはレイジに釣りの仕方を教えた。
餌の選び方、餌の流し方、そして、当たりの取り方など。
彼女は自分の知っている釣りの技法を、一つずつレイジに教え込んでいく。
やがて空が赤く染まり始める頃、釣り方をある程度理解したレイジは、自分でも何匹かの魚を釣り上げ、とても満足そうだった。
「ありがとう、サイファ。君のおかげで本当に楽しかった。釣りって、こんなに楽しいんだな。それに魚も美味いし」
「はい、私も楽しかったです。私はそろそろ村に帰らないといけませんが……レイジさんはこれからどうしますか?」
元々、彼女が森に来たのは、夕べ落ちた流れ星を探してのことだ。
一緒に探索に出た兵士たちとは、夕暮れになったら森の出口で落ち合う約束をしているので、そろそろ戻らないといけない。
そして、サイファの心のどこかでは、レイジがこのまま村に来てくれないかという期待があった。
自分のことを偏った目で見ないレイジ。サイファが彼と少しでも一緒にいたいと考えるのは、当然な成り行きと言えるだろう。
「そうだな……もうしばらく、俺はこの森にいるつもりだよ」
「そ、そう……ですか……」
明白に落胆するサイファを見て、レイジはフードの奥で苦笑を浮かべる。
「やっぱり、俺みたいな怪しい奴が突然村へ行ったりすると、村人が警戒するだろうしさ。でも、さっきも言ったけど、しばらくはこの河原の付近にいるから。良かったら、またここに来てくれないか? そして、俺にいろいろなことを教えて欲しい」
悲しげに俯くサイファの頭に、レイジはぽんと掌を乗せた。
途端、びくりと身を振るわすサイファ。驚いた彼女は思わず数歩後ずさる。
「あ、悪い。思わず頭に手を置いちまった……ごめんな。今日会ったばっかりだってのに、馴れ馴れしくしちまって」
「い、いえ、突然のことに驚いただけですから……」
レイジに悪気がなかったと悟り、サイファはぎこちないものの何とか笑顔を浮かべることができた。
「わ、私……明日も絶対に、ここに来ますから……」
もしかすると、明日も流れ星の探索を村長から命じられるかもしれない。そうなれば、またここに来ることができる。
例え流れ星の探索を命じられなくても、村の雑用を少しでも早く片づけてここに来よう。心の中でサイファはそう決めた。
何度も振り返りつつ立ち去っていくサイファを見送ったレイジは、彼女の姿が見えなくなると、河原から離れて森の中へと入っていった。
鬱蒼と茂った木々を掻き分けながら、しばらくの間森の中を進む。
その足取りに迷いはなく、まるで彼にしか見えない目印でもあるかのようだ。
いや、確かに目印は存在するのだ。レイジの目にしか見えない見えない目印が。
薄暗い森の中の一定の距離をおいて、人間には見えない波長の光が所々に灯っている。フードの奥に隠されたレイジの目は、その「見えない光」を確かに捉えていた。
〈随分と楽しそうでしたねー、レイジ様〉
〈ああ、楽しかったよ。夢にまで見た本物の大地と空と自然だ。楽しくないわけがない。加えて、本物の魚は凄く美味かったしな〉
レイジはここにいない彼女と、声ではない会話を続ける。
今日のできごとを振り返りつつ、しばらく森の中を歩いていたレイジは、とある地点まで来るとその足を止めた。
〈チャイカ。投影している立体映像を消せ〉
〈了解ですー〉
チャイカの声がレイジの脳内に響いた直後、周囲の風景が急激に変化した。
それまでは鬱蒼とした森がどこまでも続いていたのだが、森の中に不自然なものが唐突に出現する。
へし折れた木々に、地面にできた巨大な窪み──クレーター。そのクレーターの底には、表面が焼け焦げたような巨大な球体が、半ば埋まるような形で存在していた。
レイジはクレーターを器用に滑り降りると、中心の球体へと近付いていく。
そして、彼が球体の表面の一部に触れると、がこん、という音と共に球体の一部が外側へと開く。
「……どうやら、変化はないようだな」
〈念の為に設置しておいたトラップも反応していません。野生動物さえここには来ていませんねー〉
誰に聞かせるでもないレイジの呟きは、五感のほとんどをリンクしているチャイカにはしっかりと伝わっていたようだ。
レイジはチャイカにトラップの解除を命じると、球体の中から野営に必要な物を次々と運び出していった。
村に帰ったサイファは、何も見つからなかったことを村長に報告した。
「一日かけて何も見つからなかっただと? この役立たずが!」
村長に一方的に怒鳴られるサイファ。
森の入り口で二人の兵士と合流した時も、合流が遅れたことを散々文句を言われた。
「おいおい、これだけ遅れたってことは、本当に村の男でも引っ張り込んでいたのかぁ?」
兵士の一人──ガッドが、下卑た笑いを浮かべつつそう言った。
もちろん、サイファは反論することもなく、ただただ下を向いていただけ。
正確に言えば、彼女は男性と一緒だったのだから、ガッドが言うこともあながち的外れではない。
例えガッドが言うような行為はしていなくても、下手なことを言うと余計に勘ぐられるだろう。ならば、レイジと出会ったことは言わない方がいい。
村のことを考えるならば、レイジの存在は村長や兵長に伝えるべきだ。
村のすぐ近くに得体の知れない人物がいるのだ。村長や兵長に伝えて、警戒するのが本来の対応だろう。
だが、サイファはレイジのことを誰にも言うつもりはない。
それは、彼女なりのちょっとした反抗だった。
レイジが悪人ではないとサイファが信じていることもあるが、自分に仕事を押しつけ、頭ごなしに怒鳴るばかりの村長や、自分を下卑た目でしか見ない兵士たちに対する、彼女ができる本当に細やかな反抗。
「おい、のろま! おまえは明日も震動と騒音の原因を調べてこい! いいなっ!?」
「…………判りました」
いつもなら、怒鳴られたり仕事を押しつけられたりすれば、気持ちは激しく落ち込む。
しかし、今日だけは違った。
村長に命じられた以上、明日も大手を振って森へ行ける。そして、森へ行けばレイジに会える。
そう考えるだけで、彼女の心は弾むように楽しくなる。
だが、その心境を村長に悟られるわけにはいかない。もしも自分が少しでも楽しそうにすれば、村長はそれを怪しむだろう。
だからサイファは、いつものように俯き、何も言わずに村長の罵詈雑言に耐える。
しかし、いつもならば聞いているだけで気が滅入る村長の罵詈雑言が、今日だけはそれほど気にならなかった。
翌朝、日の出と共に起き出したサイファは、村長に命じられた通りに探索に出かける。
一応、兵士の屯所にも顔を出してみる。もしかすると、今日も数人の兵士が探索に出るかもしれないからだ。
「俺たちが村長に言われたのは昨日だ。今日は何も言われていない。よって、俺たちが探索に出る必要はない。そうだろ?」
兵長のバーランは、サイファの顔を見ることもなくそう言った。
「…………判りました。私一人で探してきます……」
いつものように、下を向いたままそう言う。しかし、この時の彼女の口元は確かに笑みの形に歪んでいた。
幸い、それに気づいた者は誰もいない。
半魔族のことなどに、誰もがいちいち見向きなどしないからだ。
屯所の中の兵士たちが、馬鹿にしたような笑みを浮かべる中、サイファは屯所を後にする。
そして、そのまま森を目指す。
村の中を俯いてとぼとぼ歩いていた彼女の歩調は、森へ入るとすぐに弾んだものへと変化した。
そして、彼女の顔には笑みが浮かぶ。
サイファは真っ直ぐに前を見て、昨日レイジと出会った河原を目指した。
河原に着くと、既にレイジの姿があった。
昨日と同じように奇妙な模様の外套を着て、頭からすっぽりと目深にフードを被っている。
相変わらず素顔は見えないが、彼の姿を見ただけでサイファの心は軽くなる。
「おはようございます、レイジさん!」
つい、普段は出さないような大きな声で彼の名前を呼ぶ。
「よ、おはよう、サイファ。随分と早いな」
レイジが片手を上げて挨拶してくる。その口元が笑みの形になっているのを、サイファは確かに見た。
「何をしていたんですか?」
サイファは河原に着いた時、レイジは座り込んで地面をじっと見ていた。
いや、彼が見ていたのは地面ではない。彼が見ていたのは、地面に置かれている数個の果実。どうやら森の中で採ったらしい。
「なあ、サイファ。この木の実って食べられるのか?」
「えっと……ガーボの実ですね……」
サイファはレイジの傍まで来ると、彼が見ていた木の実を見てみる。
レイジが集めたガーボの実は、まだまだ小さく熟してもいない。ガーボの実が熟すのは、もっと暑くなってからだ。
「まだ育ちきっていないし、熟してもいないので……これはまだ食べられませんよ?」
「え? 育ちきる……? 熟す……? どういうことだ?」
直接顔は見えないが、間違いなく今のレイジは困惑の表情を浮かべいるに違いない。彼の雰囲気から、それがはっきりと伝わってきた。
しかし、木の実が育ちきり、それから熟すのは子供でも知っている事実だ。
例えガーボの実のことは知らなくても──例えば、レイジは遠方の生れで、ガーボの実を知らないのかもしれない──、果実がどうすれば食べられるようになるかぐらいは誰だって知っていることだろう。
それさえ知らないとは、一体彼はどこで生まれて、どう育ったのか。
考えてみれば、昨日はでたらめな釣りの仕方をしていたし、魚の焼き方さえ知らないようだった。
魚の焼き方を知らないのは、まだ判らなくもない。もしもレイジがどこかの貴族の生れならば、魚など焼いたことがなくても当然だろう。
しかし、釣りの仕方や果物の育ち方さえ知らないというのは、ちょっと信じられない。
──もしかすると、レイジさんって……私たちが知らないような、とても遠い所からきたんじゃないのかな……?
そんな考えがサイファの心の片隅に湧き上がる。
例えば。
そう、例えば、誰もが知る有名な伝承──聖者の預言に登場する、夜空に浮かぶ星々の彼方にあるという、神がおわす神の座から遣わされるという勇者様のように。
サイファがそんなことを考えながら、ふと視線を逸らした時。
それは彼女の目に飛び込んできた。
「……………………え?」
森の木々の向こうから立ち上る、幾筋もの黒煙。しかも、その方角は──
「……ま、まさか……村が燃えている……?」
サイファは手にしていた未熟なガーボの実を取り落とし、立ち上る黒煙を呆然と眺めていた。