レシジエル教
キンブリー帝国。
人間領──チャイカが命名したファンタジー・アースにおける、人間が主権を握る圏内──において、最大の規模を誇る国家である。
その支配下にはアンバッス公国やオリラーズ連合、グリムンガ王国など、いくつもの国や自治区が名を連ね、その影響力は絶大の一言。
そのキンブリー帝国の中心は、国と同じ名を持つ帝都キンブリー。十万近い人口を擁する巨大な都市の中に、王城と並んでそびえ立つ荘厳な建物が存在する。
レシジエル教中央神殿。それがその建物の名前だ。
キンブリー帝国の主教であるレシジエル教。主神レシジエルとその配下の従属神を崇めるこの宗派は、人間領でも最大の規模を誇る。
そのレシジエル教中央神殿の一室に、絢爛豪華な法衣に身を包んだ高位の司祭たちが一同に会していた。
「グルーガよ。その話に間違いはありませんか?」
「はい、アルミシア大司教様。確かに勇者様は……勇者ランド様はこの地上に降臨されました。私は勇者様のお姿とそのお力、そして勇者様に仕える精霊様の姿を、確かにこの目で確認致しました」
高位の司祭司教が集う中、ただ一人、身分が低い男がいた。
男の名はグルーガ。つい最近まで、とある辺境の村で司祭を務めていた男だ。
しかし、現在は司祭の任を解かれ、中央神殿に出頭を命じられていた。
グルーガはにたにたとした嫌らしい笑みを、部屋の最奥にいる初老の女性──レシジエル教の最高位の司教であるアルミシア大司教へと向けている。
「教典に示された通りの姿──美しく輝く黄金の髪を持ち、そのお手には神秘なる雷鳴の魔術と神気溢れる光の剣、そして、勇者の傍らには半ば透き通った姿をした美しい精霊の乙女……間違いなく、あのお方は……ランド様は神々が地上に遣わされた勇者に違いありません!」
跪いたまま、声高に勇者の存在を告げるグルーガ。
集まった高位の司祭たちは、彼の話を聞いて手近な者と言葉を交わす。
勇者の降臨を喜ぶ者、グルーガの言葉を疑う者、そして、まだ見ぬ勇者に早くも祈りを捧げる者、など。
そんな中で、アルミシア大司教だけは言葉を発することもなく、ただただじっと平伏すグルーガを見据えていた。
やがて、司祭たちの興奮が収まった頃、ようやくアルミシアがその口を開く。
「して……グルーガよ。その勇者様……ランド様は今いずこに?」
「は……勇者様は、捕虜とした魔族と共に魔族領へと旅立たれました」
「ま、魔族領……だと?」
「な、何故勇者様は敵地である魔族領へ……?」
「まさか、勇者様はお一人で魔族を討ち滅ぼすおつもりなのでは……」
グルーガの言葉を聞き、司祭たちはまたもや様々な推測を口にする。
ざわざわと部屋の中がざわめく中、ぱん、と渇いた音が響いた。
それは、アルミシアがその手を打ち合わせた音。その音が響くと同時に、司祭たちは勝手に開いていた口を一瞬で閉じる。
「勇者様は神の御子。我々では思い至らぬようなお考えの元、行動されておられるのでしょう。もしくは、偉大なる神より何らかの使命を授かっておられるやもしれません」
朗々と語るアルミシアの声を、司祭たちは沈黙でもって応える。
じっと自分の話を聞いている司祭たちをぐるりと一瞥した大司教は、その視線を再びグルーガへと固定した。
「グルーガよ。あなたは何故にここにいますか?」
「は……は? そ、それはもちろん、中央神殿より出頭を受けたからでございますが……」
グルーガに出頭を要請したのは、間違いなく中央神殿だ。
赴任していた辺境の村に中央神殿より使者が訪ねて来たのは、勇者ランドが魔族領へと旅立ってしばらくしてのことだ。
使者はグルーガに面会すると、現在の任地から離れて中央神殿へ戻るように命じた。しかも、その命は枢機議会──レシジエル教の高位の司祭による議会であり、事実上の最高組織──よりのもので、その命に従わなければ破門もやむなしと中央神殿の使者は告げた。
枢機議会はレシジエル教全体の運営を担う組織であるが、時には何か問題を起こした神官を裁く組織でもある。
拒否すれば破門するとまで言われた、任地を離れての出頭命令。そんな命令を受けたグルーガは、気落ちしたまま帝都へと戻ってきた。
彼が過去に起こした問題で、再び何か疑問点でも浮かび上がったのかと思っていたのだ。
しかし、出頭したグルーガに浴びせられた質問は、地上に舞い降りた勇者ランドに関してのこと。
神々の御子である勇者が降臨したとなれば、レシジエル教の枢機議会も黙っているわけにはいかなかったのだろう。
つまり、自分は情報収集のために呼び出されたのだ。
そう判断したグルーガの心は一気に軽くなった。そして、彼の頭は素早く回転する。
ここで勇者に関する情報を公開することで、自分の地位も向上するかもしれない。
なんぜ、自分は実際に勇者ランドと接し、言葉も交えたのだ。自分より勇者ランドに関する情報を持っている者は、今の時点ではレシジエル教の中には存在しないだろう。
ここで自分の価値を釣り上げることができれば、念願だった中央神殿への復帰も不可能ではないかもしれない。実際、任地を解かれたということは、既に復帰も高位の司祭たちの視野に入っているのだろう。
グルーガはにたにたとした笑みを浮かべて、自分の知っていることを全て話した。
だが、教団の最高位であるアルミシアは、彼に「なぜここにいるのか」と尋ねた。他ならぬ彼女自身が彼をここに呼ぶように命じたはずなのに。枢機議会を取りまとめているのは、大司教のアルミシアなのだから
首を傾げてそのことを告げるグルーガに、アルミシアは冷たい一瞥をくれる。
「あなたも我が神レシジエルの信徒であれば、神の御子たる勇者様に同行し、勇者様の手助けをすることを何よりも優先すべきでしょう? なのに、あなたはここにいる……それは何故ですか?」
「わ、私も勇者様に同行を願い出ました! で、ですが、勇者様はおっしゃられたのです。魔族領は危険ゆえ、私が同行するのは危険すぎる、と! ああ、なんと慈悲深き勇者様の御心! 私は勇者様のご意思を尊重し、涙を飲んで同行を諦め……」
「お黙りなさい」
大きくも鋭くもないアルミシアの声。だが、その声はグルーガの口を閉じさせる何かを秘めていた。
「あなたがあろうことか勇者様を利用し、中央神殿に復帰することを企んでいたこと……私は承知しておりますよ?」
心の中をずばりと見透かされ、グルーガはびくりとその身体を震わせた。
動揺からか恐怖からか。身動きできないグルーガにひたりと視線を定めながら、アルミシアは言葉を続ける。
「先日、私の元に精霊様が降臨されました」
精霊が降臨。その言葉がアルミシアの口から放たれた時、居合わせた司祭たちが驚愕の声を上げる。
「あれは夢の中のできごとなのか、それとも現のできごとなのか……いまだに私にも判断つきませんが、確かに私の元に精霊様が参られたのです」
アルミシアはそっと目を閉じる。そうすると、彼女の目蓋の奥にはその時の光景がはっきりと浮かぶ。
青白い月光に照らされる自分の寝室。そこに、何とも神秘的な美しい女性が現れたのだ。
半ば透き通ったその姿を見て、アルミシアはそれが神の御使いである精霊だと悟った。
そして、精霊の乙女は告げたのだ。この教団の中に、神の御子である勇者を利用しようと企んだ不心得者がいることを。
精霊の乙女は静かに怒りを滲ませながら、アルミシアに告げた。
「その者に相応しい罰を。神の御子を利用するなど、許し難き罪」
そして精霊の乙女はその者がいる村の名前を告げると、静かにその姿を掻き消した。
精霊の乙女が姿を消した後も、アルミシアは深々と頭を下げたままだった。故に、彼女は気づかなかったのだ。彼女の寝室から、親指ほどの小さな何かが虫のような微細な羽音と共に飛び去ったことに。
翌朝、アルミシアは早速動き出した。
臨時の枢機議会を開き、辺境の村より一人の司祭を招き寄せるために。
そして招き寄せられたのが、グルーガというわけだ。
「あたなの処置は、枢機議会で決めた後に沙汰します。それまで、地下室にて己の行いを反省なさい」
「お、お待ちください、大司教様っ!! わ、私は決して勇者様を利用しようなどとは……な、何かの間違いですっ!! もう一度……もう一度、お確かめを……っ!!」
アルミシアがぱんぱんと手を叩くと、部屋の外から完全武装の神官たちが現れ、喚き叫ぶグルーガ引き摺るようにして退室させた。
音を立てて扉が閉じられると同時に、グルーガの喚き声も聞こえなくなる。
部屋に集う司祭たちはしばらく無言でいたが、その内の一人がアルミシアへと顔を向けて声を発した。
「大司教様、勇者様の件、いかがいたしますか?」
その声が聞こえているはずなのに、アルミシアは背後にある神像を振り仰いだ。
その神像は、この部屋に存在する唯一のもの。
今、彼らがいる部屋には、調度品の類は一切ない。それこそ、机や椅子さえないのだ。
あるのは神の姿を形取った像と、大きな窓に嵌め込まれた荘厳なステンドグラスだけ。
ここは、枢機議会の会議室であると同時に、神に祈りを捧げる礼拝堂でもあるのだ。
アルミシアは神像を仰ぎ見ながら、背後に控える司祭たちに向けて語る。
「……実は精霊様は……精霊の乙女は昨夜再び私の元に現れ、こう語られました……勇者様は既に魔族領をその手中に収めている、と」
「な、なんですと……っ!!」
司祭たちが揃って目を見開く。
「先程のグルーガという男の話からすると、勇者様が魔族領へ向けて旅立ってから、まだ百日と経っておりませんぞ? 僅かそれだけの期日で、勇者様は魔族領を収めたと……?」
「ば、馬鹿な……我々人間と魔族が争ってもう幾星霜……勝敗の行方も見えない戦いに、勇者様は終止符が打たれた……?」
「しかも、勇者様はそれを一人でやり遂げた、と精霊の乙女は語られました」
再び、司祭たちの間でざわりとした空気が湧き上がる。
人間と魔族が争い始めて、もうどれくらいの月日が経つのか。
それなのに、勇者ランドはたった一人、しかも僅かな日数でその戦いに幕を下ろしたと言うのだ。如何に敬虔な神の信徒と言えども、俄には受け入れられない偉業である。
「勇者様は神の御子。我々には及びもしない偉大なお力を、その身に秘めておられるのでしょう」
アルミシアは、改めて司祭たちへと振り返る。
「まずは情報を集めなさい。最前線へ人を送り、現在の戦況を確かめるのです。勇者様が魔族領を平定したならば、何らかの変化が見られるはずです」
「御意」
アルミシアの言葉に、他の司祭たちが一斉に頭を下げる。
司祭達の様子を見て、アルミシアは更に言葉を続けた。
「魔族領を平定した勇者様は、遠からず人間領へとお戻りになられるはず。誰か信頼できる者を速やかに最前線へ送り、勇者様のお出迎えの準備を」
「アルミシア猊下」
アルミシアの言葉に、一人の年若い司祭が応えて進み出た。
「そのお役目、この私にお任せ願えませんでしょうか?」
「アーベル……高司祭であるあなたが、自ら最前線に赴く、と?」
「はい。神の御子たる勇者様をお出迎えする以上、下手な者を送るわけにもいきますまい。ここは末席ながら枢機議会に名を連ねる、私が参るべきかと」
「よろしい。勇者様のお出迎え、あなたに一任しましょう」
「はっ!! お任せください!」
アーベルと呼ばれた男性の司祭は、その場に跪いて深々と頭を下げた。
「私はこのことを、皇帝陛下のお耳に入れておきます。きっと陛下も勇者様の偉業を称え、帝国の賓客として勇者様を迎え入れてくださることでしょう」
そして、様々な所で様々な思惑を抱きながら、様々な者たちが動き出す。
この地上に舞い降りた、神の御子たる勇者を巡って。




