離反
その場にいた全員が、思わずぽかんとした表情を浮かべた。
それはその広間の最奥に存在する玉座に腰を下ろした、魔王と呼ばれる男も例外ではなかった。
「おい、《雷狼》……本気で言ってンのか……?」
黒い軍服を着た男が、「こいつ、頭大丈夫か?」と言いたげな視線で跪いた《雷狼》のラカームを見る。
「はい、《黒極元帥》様。私は本気で八魔将の座を……いえ、魔王軍そのものから退こうと考えております」
顔を上げることもなく、それでもきっぱりと言い切るラカーム。
「魔王軍からも退いて……今後、貴様は何をするつもりだ?」
訝し気な表情を浮かべてそう問うたのは、《黒極元帥》とは対を成すように白い軍服に身を固めた《白極元帥》だ。
「はい、《白極元帥》様。軍を退いた後、私は……」
そう言いながら、初めて顔を上げたラカーム。
その顔には、恍惚とした表情がありありと浮かんでいた。
「……勇者様の……ランド様の元へ馳せ参じるつもりにございます」
「勇者ランド……? 確か、《灼熱》と一緒に行動しているという人間のことだったな?」
《白極元帥》の瞳に、剣呑な光が宿る。
古来より、勇者とは人間を救い魔族を討つ者であると言われている。
その勇者の元に、魔族軍でも幹部である八魔将の一人が身を寄せると言っているのだ。
これは間違いなく、魔族軍、引いては魔王への叛逆に他ならない。
まさか、それが判らないほどラカームも愚かではないだろう。そのラカームが何の躊躇いもなく勇者の元に下ると口にするとは、彼女の真意はどこにあるのか。
《白極元帥》と《黒極元帥》、そして魔王が同時に目を細める中、ラカームは相変わらず恍惚とした表情のまま言葉を続ける。
「狼化した私の動きにもついてこられるあの身体能力、そして、その私をあっさりと無力化したあの手並……ランド様が勇者であることは間違いないと、私は判断しました」
「ほう……狼化した《雷狼》の動きに反応できるか……確かにそれは大したものだな」
「その上、その《雷狼》を無力化しただと……まあ、こうして俺たちの目の前で《雷狼》本人が生きている以上、それに間違いはないのだろう……」
相手を無力化することは、ただ単に殺してしまうよりも遥かに難しい。
ラカームほどの実力者を相手にして、怪我を負わせることなく無力化したとなれば、勇者ランドの実力は本物だろうと二人の元帥も判断した。
「しかも、無力化した私を優しく撫でさすり、苦しみから解放してくれたあの優しさ……私は勇者様のあの温かい掌の感触が忘れられません……」
「おい《雷狼》……まさかと思うが、勇者に惚れたから軍を抜けるとか言うんじゃあるまいな?」
ただならぬ雰囲気を身体全体から溢れ出させ、低く響く声で《黒極元帥》が問う。
その問いに対し、ラカームが応えたものは。
「………………………………はあっ!?」
という「こいつ何言っているの? 頭悪いんじゃない」とでも言いたげな表情だった。
「惚れただの腫れただの、愛だの恋だのなんて、所詮は『子孫を残す』という生物の最も根本的な本能を飾りたてて正当化しただけのもの。私が勇者様に対して抱くこの想いは……もっと崇高で気高いものなのです!」
ばばーん、という効果音が聞こえてきそうな勢いで、ラカームは高らかに宣言した。
そして、そんなラカームを《白極元帥》と《黒極元帥》、そして魔王が呆然とした表情を浮かべながら見つめている。
「恋人? 伴侶? ちゃんちゃら可笑しいですね! 私が望む勇者様との関係…………それは…………」
「…………それは…………?」
思わず合いの手を入れたのは、黒白どちらの元帥か? もしかすると、魔王だったかもしれない。
それほど、今のこの場のどこか妙な雰囲気を支配しているのはラカームだった。
「…………それは飼い主と愛玩動物! この組み合わせこそ至高の関係! 最高の甘露! 甘える愛玩動物を優しげな眼差しで見つめながら頭を撫でる飼い主! ああっ!! 想像しただけでももう…………もう…………っ!!」
更に深い恍惚を浮かべ、ぐりんぐりんと身悶えするラカーム。
そんな彼女に対し、魔族の王とその側近が浮かべる表情、それは。
────何言ってんだ、コイツ? 頭、湧いているんじゃね?
だった。
「……い、いや……まあ……よ? どんな関係に至福を見出すか、それは個人個人の自由だが……」
理解できない、といった表情をありありと浮かべて、《黒極元帥》が呟いた。
元来、魔族とは我の強い種である。
魔族には様々な種族がいる。それらの種族は独自の生活形態や風習などを持つが、同じ種族でも個人個人でかなり差が生じる傾向にあるのだ。
実力主義が主流の魔族は、何らかの分野で高い能力さえ示すことができれば、多少のことは大目に見るものである。
「それでは、私の軍を退くという願いを聞き入れていただける、と?」
《黒極元帥》の呟きを聞いて、ラカームの表情が弾けるように輝く。
いまだ呆然としたものから回復しきっていない《黒極元帥》は、よく判らないラカームの気迫に押されて思わず首を振ってしまった。
縦に。
「ありがとうございますっ!! 本日を持ちまして、《雷狼》のラカームはその二つ名を返上、ただのラカームとなりますっ!! これまでお世話になりましたっ!! あ、今月の俸給と退職金は、後日受け取りに参りますので準備をお願いします!」
一度だけぺこりと頭を下げたラカームは、弾むような足取りでこの場──謁見の間を後にする。
いや、弾むような、ではない。実際に弾んでいた。
謁見の場をスキップで退場するなど、本来ならば厳罰ものだ。
しかし、この場に居合わせた魔王と二人の側近は、まだ先程の衝撃から回復していない。
魔王も二人の元帥たちも、そのまま彼女が退出するのを見送ってしまった。
その後、しばらく謁見の間を静寂が支配し続ける。
ようやく我に返ったのは、先程思わずラカームの退役を認めてしまった《黒極元帥》だった。
「あー……反射的に思わず頷いちまったけど……まずかった……か?」
頭を掻きながら、《黒極元帥》は背後を振り返る。
そこには、玉座に腰を下ろした魔王がいる。
その魔王はと言えば、何とも楽しそうな表情でにやりと笑っていた。
「おもしろいじゃないか」
玉座から立ち上がる魔王。その身長は、2メートルにまで達しそうなほどの長身だ。
「あの《雷狼》にあそこまで言わせるとは……俄然、その勇者とやらに興味が湧いてきたぞ」
「では、どうする?」
《白極元帥》の問いに、魔王はばさりと羽織っていたマントを翻した。
「出迎えの準備をしろ! 噂の勇者殿とやら、この俺様自らが出迎えてやろうではないか! 魔族軍の総力で以てな!」
魔王の宣言に、二人の元帥は片膝着いて頭を垂れる。
そして、すぐに魔王軍は動き出す。
間もなく魔族領へと足を踏み入れる、勇者ランドを出迎えるために。
「あれ?」
突然聞こえてきた犬科の動物の吠え声。
思わず足を止めたレイジは、声のした方へと視線を向ける。
相変わらず、レイジたちは森の中を進んでいた。
それでもあと僅かで、魔族領へと入る。魔族領へと入れば、歩きやすい街道を使うこともできるのだ。
森の中を進むのは、レイジにとっては初体験で楽しいことばかりだった。
森に棲息する各種の動植物を実際に目にすると心が踊る。
森から得られる各種の恵みは、彼の舌を楽しませてくれた。
しかし、やはり森の中は歩きづらい。
下生えや枝、時には根が張り出しており、地面も起伏に富んでいる。
そんな森の中を、一頭の銀色の狼がもの凄い速度で近づいてきた。
「あれ……ラカームさんか?」
「どうやらそのようですな」
レイジに呟きに、彼の隣を歩いていたパジャドクが応えた。
数日前、突然現れて突然姿を消したラカーム。
その彼女が狼形態のまま、真っ直ぐにレイジ目がけて駆け寄ってくる。
僅かに腰を落とし、身構えるレイジ。
なんせ、腕試しの模擬戦から唐突に実戦へと切り替える、という前科を持つ彼女だ。また何か仕掛けてくるのかもしれない。
警戒するレイジにラカームは無造作に駆け寄ると、そのまま彼へと飛びかかった。
一瞬、動きかけるパジャドク。だが、ラカームが嬉しそうに尻尾を振り、レイジの顔を舐め回していることに気づいてすぐに警戒を解いた。
「どうやら、レイジ殿はラカームに気に入られたようですな」
「俺が……? 別にラカームさんに気に入られるようなことをした覚え、ないんだけどなぁ?」
首を傾げるレイジ。それでも動物と触れ合うことがすっかり気に入っているレイジは、ラカームを引き剥がすようなことはしない。
今のレイジにとって、狼形態のラカームは「可愛い動物」であり、「妙齢の獣人の女性」という認識がすっかり抜け落ちていた。
「あはははは、止めろって、ラカームさん。擽ったいってば」
じゃれ付いてくるラカームの頭を、レイジはちょっと乱暴に撫で擦ってやる。
そうするとラカームは嬉しそうに目を細め、更に尻尾を振りたくる。
そんなレイジとラカームの姿を、パジャドクとリーンは呆れたように見つめていた。
そしてもう一人。
レイジとラカームを、じっと見つめている者がいた。
その者の存在に気づき、レイジは声をかける。
「どうしたんだ、サイファ?」
「え? え、えっと、その…………」
やや俯き加減で、じっとレイジを見つめるサイファ。
しばらく逡巡していた彼女だったが、意を決したのかようやくその口を開いた。
「あ、あの、レイジさん? わ、私もその…………」
両手を腰の後ろに回し、サイファはもじもじとその場で身体を揺する。
そして、とうとう彼女は口にする。その決定的な一言を。
「…………わ、私もラカームさんに触れていいですか……?」
どうやら、サイファも狼形態となったラカームに触れたかったらしい。
「おう、いいぜ……って、俺が勝手に決めちゃいけないか。いいよな、ラカームさん?」
レイジの言葉にラカームは一声吠えて応えると、そのままレイジから離れてとことことサイファへと近づいた。
サイファは足音でじっと自分を見上げるラカームに、恐る恐る触れて見る。
「ふ、ふあー、本当にふわふわですね!」
徐々に手付きから固さが取れ、自然な動きでサイファはラカームの頭を撫でてやった。
レイジもサイファに近づいていくと、二人仲良くラカームの毛並みを撫でてやる。
そして。
そんな二人と一頭の様子を、パジャドクとリーンが微笑ましそうに眺めていた。




