凪咲編 最終話
凪咲編 最終話
静寂に包まれた夜道に嗚咽だけが響く。
今、どの辺にいるのか、どこへ向かっているのかは分からない。ただただ、ひたすら凪咲は歩き続けた。
無意識のうちに召喚してしまったのか、凪咲のことを心配して出てきたのか、若葉と風子は凪咲の足もとにぴたりとついている。
時折、心配そうに凪咲の顔を覗くようにして双子の子犬は振り向いている。それを見て、凪咲は少しではあるが落ち着きを取り戻していったようだ。
小学六年のときに起きた事件あと、凪咲はなかなか学校へ行くことができずにいた。何とか学校へ行くことができるようになってからも、クラスメイトと話をすることはできなかった。
あの事件のフラッシュバックが起きたのだ。
また、おかしな幻覚も見るようにもなった。
周りの人がいきなり血を流して死に始めたり、殺されていった友達が、何で犬の時は助けて私たちの時は助けに来てくれなかったのと語りかけてくる幻覚を見てしまい、塞ぎ込むようになっていたのだ。
その時から人の顔をなかなか見ることができなくなり、話すことにも恐怖を覚えるようになっていった。
とうとう学校へは行かなくなった。
外で黒い格好をしている人を見ると突然、発作が起きるようになった。
凪咲は今いる現実世界そのものが怖くなり、人とかかわることを止め、人と話すということを忘れることにしたのだった。
初めてコンタクト――ダークサイド・リアライゼーションが起き、初めて能力の具象化が起こること――したのは、中学三年の時。自分なりに覚悟を決めて、学校へ行こうと登校したときのこと。人の顔をなかなか見ることができず、ひとりぼっちであったときに、気を遣ったクラスメイトが話しかけた時のことだ。
その時、気がついた。
声が出せないということを……。
凪咲はトイレに駆け込み声を発してみる。
すると声は出た。
凪咲は人の前で話すということを本当に忘れてしまったのだった。
恐怖。
傷つくことを恐れ、それゆえに無意識のうちに自分の中の殻にこもる。それが当たり前になり、気が付いた時には、話すことを脳が拒絶していた。
凪咲はそれに気づいていなかったのだ。
彼女はトイレから逃げ出し、学校を飛び出す。
そして走った。
どこまでも走った。
息が切れるまで、どこまでも。
そして凪咲はその場うずくまり、叫んだ。
全ての想いを音に乗せて……。
その時の感情が元でダークサイド・リアライゼーションが起き、若葉と風子が召喚されたのだった――。
凪咲の足にたまに体を擦りながら風子は歩く。若葉は凪咲の少し前を歩き、俺が付いているんだぞというように、たまに振り返っては凪咲の顔を覗き込んでいる。
――大丈夫、分かっているわ。
凪咲は心の中で若葉と風子に伝えた。
自分でも逃げていることは分かっていた。現実から目をそらし、楽な方へ楽な方へとずっと歩んできたということを。
凪咲は伊織と出会って思い出した。人と、友達と接するという素晴らしさ。だからこそ、一歩でも自分から前へ踏み出そうと自分なりに頑張ってきたのだった。
伊織からもらったノートのコピーを見て、復習や予習もやった。話すことも必死で練習をした。教科書を詰めて学校の前まで行ったこともあった。後は本当に一歩踏み出すだけというところまできた。
ちゃんと話せるかということは問題ではない。伊織の、自分が唯一、心を開けた人のいる場所で、同じ教室で、同じ空気を吸い、一緒に学生をやりたいと心から思ったのだった。
凪咲はいつの間にか町はずれまで来ていた。
涙を拭うと、伊織のいる公園へと向かうことを決心した。今度は、自分からいろいろなことを質問したい、そして伊織の前で、話す練習をしたいと強く心の中で思っていた。
公園へは商店街に戻って行くのが一般的な行き方であった。しかし、凪咲は少しでも早く行きたいと思ったので、細い路地を通りショートカットして行こうと決めた。その通りは、明かりはそこそこあるが人気のない道であった。
細い路地に入ったところで、通りの自動販売機で二人組の男が飲み物を買っていた。なんと、昨日出会った二人組だった。
ジャージ姿で金髪の男がちらっと凪咲を見る。すると、ニヤッと笑い、凪咲の方へ歩いてきた。
「うぉっ、昨日のお嬢ちゃんじゃないかぁ。夜遅くに犬の散歩かい? 僕たち今、暇してるんだよね。もしよかったら一緒に散歩、付き合ってあげるよ」
若葉は危険を感じ取ったのか、尻尾を逆立て吠え始める。
犬の声に気が付き、もう一人の男も近寄ってきた。
迷彩の柄のパーカを深く被った男だ。
「なぁ、お前。昨日何故逃げた?」
凪咲は何も答えずに後ずさりをする。足は小刻みに震え、呼吸も乱れていた。
若葉は必死で吠えて威嚇し続けている。風子は凪咲の後ろで震えていた。
――逃げてるだけじゃダメなんだ。震えているだけじゃダメなんだ。伊織に会いたい。いや、過去の自分を乗り越えたい。だから私はここを通らなきゃいけないんだ。
彼女は両手の拳を強く握る。
そして大きく深呼吸をしたあと、一歩一歩前へと進んでいった。
彼女にとってこの一歩一歩は過酷に違いない。過去の記憶が彼女の脳裏に浮かぶだろう。彼らの指にあるものが視線に入ってしまうだろう。しかし、自分の過去の殻を破るため、自分自身という壁を乗り越えるために進んでいった。小さな一歩かもしれない。しかし、不安や恐怖を押しのけて、時の流れる場所を生きるために歩んでいった。
しかし、彼らは彼女の考えなど知り得ない。他人である以前に欲望を解消する対象としてしか彼女を見ていないのだ。
パーカの男は通り過ぎる瞬間に凪咲の腕をつかみ、体を近くに引き寄せる。
「おい、お前、何黙ってんだコラァ‼︎ どうなのか言え‼︎」
――い、嫌‼︎ 離して‼︎
彼女は言葉に出しているつもりなのだろう。口が微かに動いている。しかし言葉にはなっていない。
ジャージの男は急に真面目な顔つきで、パーカの男が抑え込んでいる凪咲を見つめる。
「な、なぁ……おれに……おれにヤらせてくれねぇか。そ、そしたら吐くもんも吐くかもしれねぇ」
パーカの男は、少し考えたのち、ニヤリと笑い、乱暴にジャージの男に凪咲を渡す。
「それは名案だ。好きにしてしまえ」
抗う彼女を押さえつけながら、ジャージの男はとても真剣な表情で鼻先を彼女のうなじに近づけて、鼻から大きく深呼吸をする。
「こここいつぅ、めちゃくちゃいい香りがするよぉ。たったまんねぇぇぇ」
ジャージの男は何度も何度も鼻から大きく息を吸う。彼の顔はいつの間にか野獣のように変貌していた。
若葉は凪咲の危険を感じ取ったのか、金髪の男に噛みつく。すると、ジャージの男は凪咲を締め付けるように掴んだまま、若葉を蹴り飛ばした。
「痛ぇだろが。え? この野郎‼︎」
パーカの男は若葉が飛んでいったほうに指を鳴らしながら近づいていく。凪咲は心配で心配でたまらなくなり若葉の方へと行こうとするが、ジャージの男が彼女をしっかりと掴んでいるために動くことが出来ない。
「君のお相手は俺だって。クックック、楽しみだなー」
彼女を強引に前かがみにさせた後、ありとあらゆるところを無造作に触りだした。
呼吸は乱れ、吐く息と吸う息のテンポが比例していない。その様子を舐めるような眼差しでジャージの男は愉しんでいる。
「お前、何にもしゃべんねーんだな。それもまた、そそるなぁ」
風子は震えて、後ろで縮こまっていることしかできずにいた。
凪咲は強く目を瞑る。
――結局何もできなかった……。
悔しい。
その一言に尽きてしまうのだろう。
彼女は浮かび上がる涙を必死で堪えることくらいしかできなかった。
――若葉を守ることもできない。自分自身だって守ることもできない。私は、私にはやっぱり乗り越えるなんてできないのかな。一人じゃ何にもできないのかな。……悔しい。
凪咲は心の中で叫ぶ。
――助けて……。
――助けて……。
――助けてよ、伊織……。
力が抜けて次第に意識がもうろうとしていく。すでに彼女には抵抗する気力は残っていない。
ジャージの男は凪咲の服を脱がし始め、自分の下腹部のチャックに手を掛けようとする。
――助けてって言ったら駆けつけるって言ったよね。
――辛い時はそばにいてくれるって言ったよね。
凪咲は必死で祈った。
しかし、思いは届かない。
――伊織……。
――伊織……。
「た、た――」
――伊織‼
「た、たす、けて……」
凪咲は声に出して祈った。
上手く言葉にはなっていなかったかもしれない。しかし、自分の口で想いを告げた。
「うがぁぁっ」
パーカの男は衝撃で後ろに吹き飛ばされる。
ジャージの男に背中からぶつかったために、気がゆるみ、凪咲を離してしまう。その拍子に凪咲は逃げだした。
目の前には伊織がいた。
「言っただろ、駆けつけるって。辛い時、悲しい時は言えばいい。おれが守ってやるから」
凪咲は伊織の胸に顔を埋める。伊織は彼女を優しく抱擁し、頭をなでた。そしてすぐに自分の後ろへと彼女を隠した。
「痛って。――なんだよ、彼氏いたのかよ」
ジャージの男は反吐が出るとでも言いたげな顔をしている。
「あんな奴、やっちまえよ。お前の力でさ」
ジャージの男がこぼすと、パーカの方はニヤリと笑い、指を鳴らし始める。
「残念だったな、お前ら。お前らはほんと、運が悪い。イライラしている能力者の俺様と出くわしちゃうなんてな。まあ、手加減はしてやるよ。でもな、その子には聞きたいことが山ほどあんだよぉ」
パーカの男は右手に力を集中させる。すると、手のひらに火の玉が燃え盛った。その炎はみるみる大きくなっていく。彼の指にはめられた指輪もそれに呼応するかのように輝きを増している。
腕を振ったと同時に火の玉は伊織に向かって飛んでいく。
伊織にぶつかった瞬間、爆撃により辺り一面に砂埃や煙が漂う。
パーカの男はさも残念そうな顔を浮かべている。
「やりすぎちまったかな。ふん、そういえば、手加減できないんだったわ」
「ヒュー。ざまあないぜ」
男二人はその余韻に浸りながら末路がどうなったのか楽しみにしているようだ。
しかし、すぐさま二人の顔色は変わっていった。
煙は次第に晴れていき、煙のすき間から手のひらを開いた左手が姿を現わしていく。左腕の袖は焼け焦げてはいるものの、伊織は傷ひとつ負ってはいなかった。
能力を開放させた左手で爆撃を止めたのだった。
「残念だったな――」
伊織は一歩前へ出る。すると、押し出されたかのように男二人は後ろへと下がった。
伊織は左のすぐそばにある自動販売機をちらりと見る。そして、裏拳で叩いた。ドンという音とともに自動販売機はアルミ缶を潰したようにへこんだ。
「残念だったな、お前ら。お前らはほんと、運が悪い。イライラしている普通の高校生の俺と出くわしたんだからな。潔く逃げるならよし。それでもやるというなら……」
伊織はへこんだ自動販売機にちらりと視線を投げた。
男二人は、ひっと叫び声をあげ、後ずさりをしながら逃げて行った。
伊織は凪咲の方を振り返る。
そして、もう一度優しく頭をなでた。
「何でも一人で抱え込むなよ。辛い時、悲しい時は言えばいいんだ。お前の背中は俺が守ってやる。だから、急がなくていい。一歩づつ進めばいいんだよ」
彼女は「声」を上げながら彼の胸で泣きしゃくった。
彼女の肩の荷が下りた瞬間だった。
凪咲の家の近くまで戻ると、凪咲は不意に伊織の袖を引っ張る。そして紙に河川敷に行きたいと書いた。 二人は、自転車に乗り河川敷へ向かった。
高架下付近の河川敷は、いつも通り人はいない。特等席のベンチに、二人は――一つのベンチに――座る。いつものように何も言わず、夜空を眺めている。
若葉と風子は二人の足元ですやすやと眠っていた。
しばらくして、伊織は口を開いた。
「大変なのはさ、ほんと分かる。でも、一人で塞ぎ込んで考え込む必要なんてないんだよ。もっと頼っていいんだ。――すぐにとは言わない。でも、最終的には学校いって、笑って帰れるようにならないとな。それが目標。――大丈夫、俺がついてる。俺が頼りなくても、俺のダチがお前のことを守ってくれるから心配いらないさ。だから――」
伊織は話を途中で止めた。いや、止めたというよりか止まってしまったのだ。
凪咲はベンチの上にゆっくりと立ち始める。
体の向きを伊織の方に向けてじっと見つめた。
「あ……ありがとう」
空は透き通り、満月が後ろから彼女を照らす。
町の光はちかちかと光り、まるで光の高原にいるようだ。
そしてそこに彼女の笑顔はあった。
背景に負けることなく、とても綺麗で幻想的に。
満月ノヨルに凪咲の声は響きわたった――。
「お兄ちゃん、今日の夜、お父さん帰ってくるってー。ご飯何にする?」
いつも通り、伊織は遅刻寸前であった。パンを二口でたいらげ、玄関に置いてある母親の写真に向かい、行ってきますと声をかけ、急いで家路を出る。
「何でもいいよ。帰りは七時くらいだから」
「もー、言った時間に帰ってきたためし、ないじゃない。昨日だって服を丸焦げにして、今度は花火でも作って……」
家から遠のくにつれて、美織の声は伊織の耳には届かなくなっていく。
伊織はいつもながら遅刻寸前だったが、今日という今日は本当に遅刻しそうだった(新学期の初日以来、能力を使って登校しないと心に決めていた)。
昨日、美織のご機嫌取りに一日買い物に付き合ったあげく、ご飯まで作り、おまけに夜にはドーナッツを買いに行き、夜中には忘れていた宿題を慌てて済ますという次第であった。そのため仕方なく寝坊したと、都合のいいように自分に言い聞かせていた。
伊織はいつも通り、チャイムと同時に教室に入る。
急いで席に向かう。するとそこにはいつもと違う光景が伊織の目に飛び込んできた。
いつも空席だった彼の後ろの席に、一人の少女が座っている。
二人の視線は交わった。
「お……おはよう……」
「ああ、おはよう」
桜の木々には新しい若葉が生えはじめ、新しい物語の始まりを告げる――。
止まっていたかのような凪いだ世界は、風によって動きだす――。
新学期が始まった。
皆様、読んで頂きありがとうございます。
凪咲編は私が小説を書くに至って一番描きたかったお話です。「恐怖」というのをテーマにしています。
まだまだ納得のいく作品には程遠いです。ですので、これからもちょいちょい手を加えていくつもりですが、暖かい目で見て下さると嬉しいです。
burst balloon編(六話構成)のテーマは消えぬ「憎しみ」です。
伊織がDPBの一員としてインプ化しそうな少年にカウンセリングを行いにいくというお話です。
四月中には投稿したいと思っております。
よろしくお願い致します。