凪咲編 第四話
凪咲編 第四話
凪咲の住む高層マンションの周辺には大小三つの公園がある。伊織は凪咲の家から近い順に当たっていくと、一番遠い公園に彼女はいた。
彼女はブランコに軽く揺られながら、頭だけを上に向けて空を見つめている。内股になった足は時折、踵が浮いていた。両膝には大きなバンドエイドが張られ、滲んだ様子からとても痛々しい。
公園は商店街から離れていることもありとても静かだ。
風は吹いていなく、ブランコの金具の軋む音だけが空しく響いていた。
伊織は隣のブランコに座る。
今日は若葉と風子は見当たらないようだ。
凪咲は一瞬伊織を見て、すぐにまた、空に視線を戻した。
二人は、いつものように無言のまま、空を眺めている。
しばらくして凪咲は鞄からノートを取り出し、ペンを走らせた。
伊織はブランコから身を乗り出しながら目を細める。
「ごめん。遠いいし、暗くて見えないよ」
すると凪咲は鞄からマジックを取りだして、ノートに上書きをする。そして、そのノートを伊織に見えるように両手を伸ばして掲示した。
『昨日はありがとう』
凪咲はノートを軽く揺らしながら、笑っている。
『あなたも能力者だったのね。驚いちゃった』
ページをめくる。
マジックで書いているため、一度に沢山は書けないようだ。
『お母さんと話、してたんでしょ?』
「うん」
『わたしの……昔のこと話してた?』
「うん」
二人は短い会話のあと、また夜空を見上げた。
目が慣れてきたお陰で、数えきれないほどの星が広がっているのに伊織は気が付く。
「なんでこんなに遠い公園に来たの? もっと近くにあったでしょ」
『最初は家の裏の公園にいたよ』
『でも、途中で飽きちゃって』
苦笑いをしながら首を傾げている。
下に垂れた髪の毛を耳に掛け直し、右手を動かす。
『能力者ってことはさ、昔何かあったの?』
「ああ、あったよ。お前と同じだよ」
『私と君、どこか似ているかもね』
すると、彼女は地面に一瞬視線をそらす。その表情は笑ってはいたが、心からの笑顔では無かったように伊織は感じた。
彼女はまたペンを走らす。
『二人でどこか遠くへ行っちゃおうか』
彼女はその一文を記すと、無気力に腕を垂らす。
伊織はブランコから立ち上がった。
それと同時にページをめくる。
書いてはめくり、書いてはめくった。
『私たちのこと、誰も知らなくて』
『嫌なこと思い出せないような』
『穏やかで静かな場所にさ』
「なあ」
『海が見える所がいいな』
『砂浜で若葉と風子と追いかけっこしたりして』
『毎日お散歩するの』
「なあ、おい」
『近くにドーナッツ屋もあったらいいな』
『そしたら、イチゴジャ』
「おい、凪咲‼︎」
伊織はノートを取り上げる。
マジックは、無情にもどこか遠くへと転がって行ってしまった。
「逃げちゃだめだ、逃げてちゃだめなんだよ‼︎ 自分でもほんとは分かっているんだろ? 過去から逃げ回っているだけじゃダメだってことを」
凪咲は視線を地面に逸らす。
いつものように聞こえないフリをしているようだ。
「おばさんから聞いたよ、最近変わったって。喋る練習もしてるんだろ? だったら今逃げたらまた、昔の自分に戻っちゃうぞ」
すると凪咲は顔を真っ赤にして伊織にの手元からノートを奪い返す。そしてボールペンで殴ったような字で書きだした。
その文字はところどころ重なっていた。
『何よ私の何が分かるっていうの私の気持ちなんてあなたなんかに』
「分からないさ」
凪咲が書き終える前に、伊織は喋った。
そして凪咲のことをまじまじと正面から見据える。
「分からないけど、とっても辛かったことは分かる。分かるんだよ。俺には分かるんだよ‼︎ だから――」
伊織は凪咲の肩にそっと手を置く。
「だからそろそろ一人で抱え込むの、止めろよ」
凪咲の瞳からは、大粒の涙があふれていた。その雫のせいでノートがところどころ滲んでいる。
「相談にも乗ってやる。飯も一緒に食ってやる。辛い時はそばにいてやる。なんかあったら、助けてって言えばどこでも駆けつけてやる。だから、少しはちゃんと頼れよ。学校にもさ、おれが信頼できるダチもいる。だから安心していい。すぐにとはいわない。でも、前に進んで行かなくちゃだめだ」
『そん……とわかって……わよ。分かっ……けど』
彼女は勢いよくポールペンを走らせる。
滲んだ紙に書いたため、ところどころ破けて読み取れない。それでも内容は理解できるものだった。
凪咲は闇の中へと消えて行った。
伊織はすぐに追いかけることもできた。しかし今はそっとしておこうと思い、凪咲の座っていたブランコに重い腰を下ろした。
しばらくして凪咲の荷物を持ち、家まで届けてやろうと立ち上がる。
〝ワンワンワンワンッ〟
彼が公園を出たときのことだ。
遠くの方から犬が吠えているのが聞こえてきた。
凪咲の犬だろう。
伊織は不審に思い、急いで声のする方へ走って行った。