凪咲編 第三話
凪咲編 第三話
伊織は能力を開放して左腕を変化させる。
――くそ、このままじゃ間に合わない。
伊織はクラウチング・スタートのような構えをして、地面に左手の爪を突き刺し、思いっきり引っかいた。
風を切る音と岸のコンクリートが割れる音が入り雑じる。
伊織は引っかいた勢いで、目にも留まらぬ速さで凪咲のところまで移動した。
ぎりぎりのところで凪咲を抱きかかえることができたが、勢いそのまま、川に落ちてしまう。幸い、川は浅瀬で膝くらいまでしか水位はなかったため、伊織の足は濡れたが、凪咲は濡れずに済んだようだ。
伊織は御姫様抱っこをしたまま陸に上がり、そっと凪咲を下した。凪咲の右手は伊織の肩のシャツを握ったままで、その手から小刻みに震えているが伝わってくる。
「大丈夫、大丈夫だから」
伊織が頭をなでると凪咲は額を伊織の肩に軽くのせ、いつの間にか伊織のシャツを濡らしていた。
静かに流れていた涙はいつの間にか嗚咽に変わる。 我慢していたものが一気に爆発したかのように凪咲は本能的に泣きしゃくった。
音の無い世界に彼女の声だけが響き渡った。
しばらくして落ち着いたのか、凪咲はゆっくりと顔を上げる。
「今日は帰ろうか」
凪咲は小さく頷く。
ポンという音とともに若葉と風子はいなくなった。
二人でいつもの道を二人乗りで帰っていく。
彼の背中に凪咲の額が当たっているのが感じ取れた。伊織はそれがとても重たく感じた。
マンションに着くと、買い物帰りの凪咲の母親に偶然出会った。伊織は軽く会釈をする。凪咲は顔をうつむいたまま、先にマンション内に入っていった。凪咲の母親は、凪咲の泥だらけで傷だらけの格好と伊織の濡れたズボンを見て、何かあったのだろうかと心配そうな顔をしている。
「実は……」
伊織は今あったことを話した。
凪咲の母親は少しの間、何か考えるように目を瞑っていた。
「栗原くん、明日は学校お休みよね? もしよろしければ、うちにいらっしゃいませんか。話しておきたいことがあります。是非、お越しください」
凪咲の母親は何か決心をしたのかのように伊織に強く語りかけていた。
伊織は自転車をこぎながらさっきの出来事を思い出す。あれほどまでに怯えるさせる出来事は一体何なのだろうと考えていた。ペダルをこぐ度に何故だか自分の過去も蘇ってくる。彼はもしかしたら、彼女の絶望のような恐怖と自分の過去に経験した恐怖を重ねているのかもしれない。
伊織が家につき、玄関のドアを開けるとそこにはカンカンな様子の美織が仁王立ちしていた。
「お兄ちゃん。とりあえず、正座よね」
伊織は、いろいろと言ってやりたかったが、こうなってしまった妹は手につけられないことを承知していたため、反論せず、潔く玄関に正座しようとする。プンスカ起こっている妹を見ると、なんだかとても平和な気がして伊織は笑みが溢れてしまう。
「お兄ちゃんったら何笑ってんのよ‼︎ あっ、ちょっと、濡れてるんだから上がってこないでよね‼︎」
伊織は言われた通り、靴を横にどかし土間に正座をした。
「最近、帰りが遅いなと思ったら、川でドジョウすくいでもやっていたの⁉︎ 隣の遥ん家から『お父さん仕事で忙しいだろうから』って、今日はおかず頂いてるのよ」
遥というのは隣に住む今井家の娘さんで、美織と幼なじみの子であった。
伊織はどうにかして話題を変えようとする。
「おぉ、そうか……おかずはなんだい?」
しかし、もちろんそんなに上手くいくことはなく、逆に逆撫でしたことにより、妹の怒りのボルテージを急上昇させてしまう。
ドンっと大きな音が響き渡る。
美織が裏拳で壁を殴ったのだ。一瞬、電気がちかちかと消えかけ、心なしか世界が静まり返ったような感覚に陥る。
「麻婆豆腐よ‼︎ ふざけたこと聞くんじゃないわよ‼︎ ……ご飯は三十分後、ズボンは明日の朝、クリーニングに出すこと。うわぁかったわね‼︎」
「……はい」
伊織にはどうしても逆らえない三人がいた。一人目が駒丘支部の太田隊長。二人目がメディカルセンターの女医・三浦。そして、キレた時の美織であった。
伊織はこのことが落ち着いたら必ず、うまうまドーナッツで食べきれないほどのドーナッツを買ってこようと心に決めたのだった。
翌日、お昼を食べたあと、濡れた制服をクリーニング屋に出しに行き、凪咲の家へ向かった。
マンションのエレベーターから外を覗くと、河川敷に凪咲らしき姿は見あたらない。昨日の出来事があったのだ、無理もないだろう。
「いらっしゃい。さあ、どうぞ」
伊織は凪咲の母親に促されるまま、中へと入る。
紅茶のいい香りが部屋中を包み込む。紅茶と洋菓子――昨日とは違うもの――を凪咲の母親は用意する。伊織はありがとうございますといい、一口すすった。
凪咲の母親も椅子に腰かけると、伊織に向かって軽く笑ってみせる。
「昨日はどうもありがとうございました。栗原くんがいなかったら、あの子は……。――あの後、あの子と話をしたのです。もちろんボード越しにですけれど。過去の嫌な記憶を見てしまったそうです。とても怖がっていました。でも、それ以上に悔しさを沢山こぼしていました。自分は、本当は逃げているんだ、正面から向き合う事のできない弱虫だ、と。本当は喋ろうと思えば喋れるのだとも言っていました」
紅茶に砂糖を入れ、ゆっくりとかき混ぜる。
「たまに部屋やお風呂場から声が聞こえてくるんです。多分、話す練習をしているのかな。そういうことをするようになったのも、栗原くんと接するようになってからよ。今日はね、あの子が何でああいう病気になってしまったのかを話そうかと思って。栗原君になら話してもいいかと思いましたので」
紅茶のカップを両手で持ち、親指で飲み口のあたりをさすっている。カップを見つめているが、意識はそこにはないだろう。
「あの子が小学六年生の時のことです。今よりも、少し暖かかったかしら。こちらに引っ越す前は、隣町にいたのです。その周辺は再開発が行われていてね、空き地や廃墟が穴ぼこのようにあったわ。凪咲はそのころまではとても活発な少女で、運動会のかけっこで一位をとるような子だったのよ。信じられないでしょ」
とても自慢そうに笑いながら話す。その顔は凪咲の笑った顔にそっくりだった。
「その時、一緒に学校へ通っていた仲の良い友達が三人いてね。凪咲とその友達は、廃墟で捨てられた二匹の子犬を見つけたの。どの家も引き取れなくてね。わたしにも駄々をこねてきて、うちで飼いたいって言ってきたのだけれど、前のマンションも動物駄目だったから。それから、何も言わなくなったから、てっきり引き取り手が見つかったのかと思ったの。ところが、四人はその廃墟で子犬を育てることにしたのよ。朝はその廃墟で集合して、餌をあげてから学校へ行っていたみたい。夕方にも欠かさず会いに行っていたわ。さすがに私も途中から気がついていてね、お小遣いを増やして欲しいっていうから増やしてあげたわ。きっと餌代が足りなかったのでしょう。――そんなときに事件は起きたの」
凪咲は、その日、餌を買いに行く当番だった。他の三人の友達をおいて、近くの店まで餌を買いに行った。
凪咲が戻ってくると見知らぬ男が二人、凪咲の友達と何か話をしている。
不審に思った凪咲は廃墟の中の物陰まで行き、身を潜めて様子を伺っていた。
すると、二人の男は無残にも少女三人を殺し始めた……。
「オーバーアビリティ・リングってご存知かしら。能力を悪用してる集団が使っている、非合法なものらしいのだけれど。身に着けることで能力を高めたり、無理やり過去の記憶を呼び覚まして能力者にしてしまうという恐ろしい道具らしいわ。その道具の取引が偶然、その廃墟で行われていたの」
凪咲は震えていた。
しかし、二人の男が犬に手を出そうとしたとき、凪咲は震えながらも二人の前に出た。犬を庇おうとしたのだ。自分に何かできると思った訳ではない。ただ、突発的に行動として出てしまったのだ。
二人の男は凪咲を捕まえて、無残にも目の前で犬を殺した。
その後、二人は凪咲に乱暴をしようとした。
凪咲は何も抵抗することが出来ず、されるがままにされてしまう。声を出せば殺すぞと、こいつらのようになりたくなければいうことを聞けと脅されていた。
その二人組は、金色の光沢を放ち、赤いヒビの筋が鼓動のように光る指輪を身につけていた。そう、オーバーアビリティリングである。
「廃墟のほうで騒ぎ声が聞こえると民家の方から通報が入り、警察とDPBが駆けつけたことによって、凪咲は命だけは助かったわ。――でも、心と体に深い傷を……。そして、ショックで言葉を発さなくなってしまったわ」
凪咲の母親は外に視線を向ける。伊織も同じ方向を眺めた。
外の川沿いに生えている桜は、すっかり散ってしまっていた。
「では、凪咲さんは喋れないというわけではないんですね」
「ええ。それは間違いないと思います」
凪咲の母親はテーブルの前で指を組み、伊織に願うように語りかけた。
「栗原くん。なんとか、なんとかあの子を救ってあげること出来ないかしら‼︎ どうにかしてあの子の病気を……誰にも治すことはできなかったわ。でも、栗原くんなら……‼︎」
――あの子を救う? 病気を、治す……?
伊織はいきなり立ち上がった。
伊織の中にはずっと、何だかよく分からないもやもやのようなものがあった。それがいま、話を聞いて分かったような気がした。
「おばさん。違います、違いますよ‼︎」
凪咲の母親の顔をまじまじと正面から見つめる。
「凪咲さんは病気なんかじゃありません。悲しみという過去と戦っているだけなのです。おれにも昔、辛い過去がありました。凪咲さんよりも辛い過去だったとは言いません。でも、死ぬほど辛かったのは覚えています。ですから、凪咲さんの気持ちは多少なりとも分かるつもりです」
伊織もとても辛い過去を経験していた。
伊織の母親――美保が殺害された事件に伊織は居合わせていた。美保はその日、有名なお茶会に出席する予定で、帰りが遅くなることを考え、伊織と美織を自分の母に預ける予定だった。しかし、伊織が留守番ができないと駄々をこねたため、仕方なくお茶会に連れて行ったのだ。
そのお茶会の最中に何者かによる襲撃事件が起きた。警察とDPBが駆けつけた時には――犯人らしき者も含め――伊織以外みんな殺害されていた。伊織は襖の奥に隠れていたため、唯一無事だった人物である。
伊織は特に外傷は負っていなかったが、心の傷は大きかった。その時のショックのためか事件に関する記憶はすべて残っていない。また、現実を突きつけられた彼は、パニックによりダークサイド・リアライゼーションが起き、特殊な能力を使えるようになってしまったのだ。
何で自分だけが生きているのかもよくわからないという恐怖。その時の記憶は一切なく、いきなり突きつけられた現実。
しかし、周りの支えがありなんとかここまで乗り越えて来たのだ。
「だから言いきります。救うとか治すとかじゃないんです。一緒に乗り越えていくんです。――おれも友だちにいろんなことを支えてもらいました。でも、彼らは救おうと思ってやってくれたわけではないんです。おれが普通の生活を送れるように、過去のしがらみを乗り越えていけるように背中を押してくれただけなんです」
伊織は自分の言っていることが正しいのか、うまく伝わっているのかは分からなかった。でも、救うとか病気を治すとかいう言葉は違うなと思っていた。
人は誰しも必ず壁にぶち当たる。もしかしたら、一人では乗り越えられないかもしれない。しかし、一人では乗り越えられない壁でも、支えがあれば乗り越えられると思っていたのだった。
「凪咲さんはどこにいますか?」
「……昨日、河川敷であのことがあったので、今日は近くの公園へ行くといっていました」
「わかりました」
伊織は軽く頭を下げ外へと出た。
自分が今感じていること、想っていることを上手く伝えられるかは分からない。でも、今、自分にできることは伝えるということだけだと思っていた。
空は茜色に染まり、太陽が沈む反対側はところどころ青みが増してグラデーションになっている。
風は一切吹いていなく、まるで凪いだ世界だ。
その世界はまるで、時が止まっているかのようだった。