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第82話 話せない神様4

 パルバティside ―


 私の名前はパルバティ。名前の由来は女神からとった。


 「(パルバティ、貴方は女神の生まれ変わりよ。貴方なら必ずクマリになれるわ)」

 「(お前は本当に可愛らしい。花の様な子だ。お前がクマリになる日が待ち遠しいよ)」


 両親のその言葉は呪いのように毎日私に降り注がれ、私の全てを支配した。生まれて間もなく、言葉をやっと覚えてきたころ、物心ついたときから教え込まれたクマリと言う言葉。それが何を意味するか分からず、でも両親の喜ぶ顔が見たいから私は頷いていた。


 私は、生まれたときから自分の生きる道全てを閉ざされてきた。



 第82話 話せない神様4



 生まれはネパール連邦民主共和国のパタン。両親はそれぞれIT企業と高等学校の教員をしていて、比較的恵まれた環境で生まれた。元々この地域では古くからある名家だったらしく、兄も私も何不自由なく育てられてきたとは思う。少なくとも物乞いをしたり、その日の食べ物に困る生活ではなかった。きっと、他の人から見たら、私は幸せな女の子。


 物心ついたくらいの頃から、両親は私にクマリになるように訴えた。元々女が生まれたときはクマリにさせたいという希望があったようで、私は生まれたときからレールを敷かれていたと言ってもいいだろう。家は兄が継ぐから、私はクマリにすればいいと思っていたのかもしれない。パルバティという名前は女神の名前だ。私はクマリになるためにこの世界に生まれてきた。両親は何度もそう話した。三歳だった私はそれを信じ、クマリになることが当たり前だと思っていた。


 クマリになるためにはいくつもの選考をクリアしなくてはいけなくて、まだ3歳なのに泣くことも許されず、クマリの訓練以外の時間を許されなかった私には、幼馴染や友達なんてできるはずもなかった。だからいつも不思議に思っていた。隣の家の子は笑って走り回っているのに、なぜ私は笑ったら怒られるのだろう。泣くことを許されないのだろう。お喋りしたら静かにしろと言われるのだろう。


 地面に足を付けたら女神が体から出ていくとお父さんに言われた。だから、ベッドから私は動くことができなかった。トイレに行きたいときはお母さんを呼んで抱っこされてトイレに行った。その生活が普通だと、思っていた。


 「(パルバティ、お別れよ。貴方はクマリになったの。私たちの誇りよ)」

 「(面会の日は決まってるんだ。必ず来るからな。元気でなパルバティ)」


 クマリになった私をお父さんとお母さんは泣いて喜んだ。二人が喜ぶ姿を見て、私も誇らしかったのを覚えている。お兄ちゃんが私に会えなくなるのが寂しいと言ってくれて、私もお兄ちゃんに会えないのが寂しいと言ったら、お父さんとお母さんに怒られた。クマリは、そんなこと言ったら駄目なんだって。


 なんだか、家族から追い出されたような被害妄想にかられた。


 クマリの生活は正直言って不便だった。自分の足で歩くことは許されず、金の皿の上以外に足を置くことは許されない。ずっと椅子に座り続けるのは体中が痛くて、背伸びをしたくても許されなかった。パタンの偉い人が私に膝まづいて、国の繁栄を願う。お金を払って観光客や、住民たちが私の姿を一目見ようと覗いてくる毎日だった。


 両親との面会は月に一度しか許されず、外出も年に十数回しか許されなかった。あとは、ずっと、椅子に座って一日が終わるのをただ待つだけの日々。そんな私にも楽しみはあった。もう少ししたら学校に行けるということ。


 そこで友達を作って、遊んだり一緒に勉強したりしてみたい。


 それが幼い私の夢だった。


 「(パルバティ、クマリは学校には行けないのよ。俗世に絡んでは駄目よ)」


 その一言でひどく落ち込んだのを、今でも覚えている。


 でも勉強は私が教えてあげる!と胸を叩く世話係の女性に愛想笑いの一つもできずに、私は足元を見つめた。この金の皿を蹴り飛ばしたら、どうなるだろう。思い切り大声を上げて、部屋中を走り回ったらどうなるだろう。


 いつしか、そんなことばかり考えるようになっていた。


 十歳になったある日、家族が面会を許された日、お父さんとお母さんが世話係と話しているとき、お兄ちゃんが久しぶりに会いに来てくれた。


 「(パルバティ、俺、海外の学校に留学することにしたよ)」

 「(どこに?)」

 「(中国。ここにはもう戻ってこないかも)」


 お兄ちゃんと、もう会えないの?

 固まる私の手を取りお兄ちゃんは顔を上げる。いつもと違う切羽詰まった表情に普段と違う空気を察して私は何も言うことができなかった。


 「(……パルバティも来るか?)」

 「(え?)」

 「(中国に留学するの決まった時に、向こうの学校に行ったんだ。そこで色んな事を知った。パルバティ、こんなの間違ってる。お前、本当にクマリをしたいの?お前の教育の機会と自由に暮らす未来を奪う、クマリなんて辞めちまえよ。パルバティ、お前は神様なんかじゃない)」


 お兄ちゃんが何を言っているか分からない。でも、私とクマリと言う物はお兄ちゃんの中では可笑しな存在らしい。この生き方以外の選択肢を与えられたことのない私の足元がガラガラと崩れていく気がした。


 今思えば、私の今の状況はお兄ちゃんのこの言葉から始まったのかもしれない。お兄ちゃんは苦しそうな顔で何度もクマリを辞めろと言ってきた。辞めろと言われて、辞められるものなんだろうか。言葉に迷う私を見かねて、お兄ちゃんが出してきたのはカッターだった。


 「(クマリは血から神の力が抜けていくと言われている。少し痛いけど、お前がクマリを辞めたいのならお前の手のひらを少しだけ切らせてくれ。そうすりゃあいつら血相切らして新しいクマリを探すさ。でも、お前がクマリを続けたいのなら……俺はもう何も言わない。パルバティ、俺はもうこの国に戻る気はない。留学も特待生の留学なんだ。俺はこのまま中国に残るか、アメリカで働きたい。一緒に行こう)」


 あの時、すぐに首を縦に振れば良かったのかな。


 今まで選択肢を与えられずに生きてきた私には、こんなことをすぐに選択することができなくて、何も返事をしない私にしびれを切らせたお兄ちゃんがカッターの刃を立てる。傷をつけられる恐怖に小さな悲鳴が室内に響き、声を聴いた世話係が走ってきて大声を出した。


 「(パルバティ!!ユリハ様止めてください!)」


 世話係の声に驚いて固まったお兄ちゃんをお父さんが引きはがし思い切り殴りつけ、私はお母さんに抱きしめられた。


 お兄ちゃんは床に転がり、カッターはお父さんに取り上げられ、さらに腹部を思い切り蹴られて蹲る。止めないとと思っているのに、恐怖で声が出ずお母さんが今まで聞いたことのないような汚い言葉でお兄ちゃんを怒鳴っている。


 お兄ちゃんは口から血を流し、お父さんを睨みつけ、そんなお兄ちゃんをお父さんはもう一度殴った。


 「(ユリハ!!お前なんてことをするんだ!!信じられない!この親不孝者!!出ていけ、出ていけ!!)」


 お兄ちゃんはその言葉を聞いた瞬間、お父さんを思い切り殴った。お母さんと世話係の悲鳴も聞こえ、男性の世話係がこっちに走ってくる。世話係に押さえつけられたお兄ちゃんは大声でお父さんとお母さんを罵った。


 「(父さんも母さんも同じだ。何が女神だ、あんたたちのしてることはパルバティの自由を奪ってるだけだ!!パルバティは女神なんかじゃない!!普通の女の子なんだ!!俺はもう、あんたたちにはついて行けない!!)」


 それ以来、お兄ちゃんは私に会いに来てはくれなかった。


 世話係に話を聞いたら、その後すぐに中国の学校に向かい、そこで勉強しているんだそうだ。お兄ちゃんはもう、この国に戻ってくることはなく、私にも会いに来てくれないだろう。私があの時、お兄ちゃんの手を取らなかったから。お兄ちゃんは……一緒に生きていこうって言ってくれたのに。


 十一歳になり、世話係から後任の話を聞いて私は浮かれていた。


 クマリは出血を禁止されている。だから処女じゃないといけないんだって。そろそろ私にも初潮という物が来て、そうしたらクマリの役目は終わりらしい。クマリの務めさえ果たしたら、普通の生活を送れるんだって。私も学校に通うことができる、友達だって作ることができる。


 世話係からその話を聞いてから、いつ初潮が来るか、その日を待ち望んでいた。両親に育てられた三年間、クマリになって両親のために生きた八年間……もう私も解放されたっていい筈だ。普通の女の子に戻ったっていいはずだ。


 でも、その期待は裏切られるのだ。


 フェネクスと出会ったのはその数週間後だった。誰もいない部屋でいつもと同じ椅子に座っている私の元に光り輝く鳥が現れた。その鳥は室内を覆うほどの大きさだったのに、どんどん小さくなり、最終的には私の手のひらに収まるサイズにまで小さくなった。


 こっちに歩いてきた鳥に手を出したら飛び乗ってきたので、まじまじと見つめる。まるで黄金の様にキラキラ輝く鳥。この子は何だろう。見たこともない。


 『(君ガ神様ッテ聞イテ来テミタンダ。僕、天界ニ戻リタイカラ。君ガ神様ナラ掛ケ合ッテクレナイカナ)』


 喋る鳥なんて初めて見た私はパニックになり、世話係を呼ぼうとしたけど、鳥が他の人には言わないでとあまりにも訴えるからドキドキとうるさく鼓動する心臓を抑えて、小さな声で鳥に返事をした。


 「(私、神様って言われてるけど違うよ。なんにもできないもん)」

 『(エ!?違ウノ!?ソンナア……仕方ナイネ。僕ノ勘違イダッタヨ。有難ウ、僕ハ行クヨ)』

 「(ま、待って!貴方名前は?私はパルバティ。ねえ、貴方どこから来たの?貴方のこと知りたい。貴方、神様の遣いでしょ?)」

 『(エエ……僕ガ神ノ遣イ!?ト言ウカ、ナンデマタ僕ノ事ヲ知リタガルノサ。マア、イイヨ。僕モソロソロ契約者ヲ見ツケナイトイケナイカラネ。僕ハフェネクス。君ヲ主ニシテアゲルヨ)』


 あの後、フェネクスとは沢山お話しした。そしてフェネクスが悪魔で、天界ってところに戻りたくて神様って言われている私の所に来たらしい。友達ができてとても嬉しかったのを覚えている。


 フェネクスはとても賢く、博識だった。世話係に教えてもらうよりもフェネクスに聞いた方が百倍わかりやすかった。みるみる知識をつけていく私に世話係は感動して、神の子だと騒いでいるのを見て少し笑ってしまった。


 フェネクスとは一年以上一緒にいて、色んなことを教えてもらった。


 私は十二歳になった。


 初潮は未だに来ない。平均的に考えても初潮が来るのが遅いことも自覚していた私は焦っていた。他の地域のクマリが解任されたという話を聞くたびに、次こそは自分だと思い、奮い立たせる毎日だった。


 そのころからフェネクスはいつも悲しそうにしていた。私の気持ちが伝染でもしたかのように元気がない。


 世話係がいない時間にフェネクスと話すのが私の唯一の楽しみだった。彼は色んなことを教えてくれる。


 『(パルバティ、クマリッテ言ウノハ初潮ガナケレバ任期ハナイノ?)』


 ある日、フェネクスが突然そんなことを聞いてきた。意味が分からなくて首を傾げた私にフェネクスは再度同じ質問をする。過去に初潮が来なくて六十歳までクマリを務めた女性がいるという話は聞いたことがある。だから明確な任期という物はないんだと思う。


 それを伝えると、フェネクスは恐ろしいことを口にした。


 『(ジャア、君モ一生クマリカモネ)』


 冗談じゃない。どうして、そんなことを言うのかが分からない。

 フェネクスのその発言に動揺してしまい、私はムキになって言い返す。


 「(そんな訳ないわ。初潮がくれば解任だもの。勉強もスポーツも、学校に通うことも、友達だって、きっとこれからできるわ)」


 ― だから、大丈夫。


 まるで自分に言い聞かせているようだった。しかしフェネクスは悲しそうに瞳を閉じ、首を横に振った。


 『(残念ダケド君ニ初潮ハ来ナイヨ。原発性無月症ダ。手ヲ施サナイ限リ初潮ハ来ナイダロウネ)』


 背筋が凍った。私に初潮は来ない?いや、私は病気なの?症状がないから病院には連れて行ってもらえないよ。とフェネクスは言う。私、一生このまま?一生クマリのまま?私は自由になれないの……?


 唐突に告げられた死刑宣告のような言葉に何も言い返すことができなかった。目の前には花がかざられた花瓶がある。これで、自分の頭を殴ったら……ふとそんな考えがよぎり頭を振る。駄目だ、自ら怪我をするなんて、クマリは解任になったとしても、恥さらしと指をさされ、きっと私は家に帰れなくなる。


 じゃあ、どうすればいいの?嫌だ。だって、私ずっと……ずっと……


 フェネクスは悲しそうに私の手のひらに体を擦り付ける。それは励ましのつもりなんだろうけど、フェネクスのせいなのに。


 『(僕ハズット一緒ニイテアゲルヨ。パルバティ)』


 その言葉に、何の意味があるんだろう。


 ***


 その子は、とても綺麗な子だった。


 無気力に椅子に座って観光客や見物客をあしらう作業を送る一日だった。この生活がこれから先、永久に続くことをフェネクスから宣告され、私の心はどこか壊れてしまったように感じる。カメラのシャッター音、私に話しかける声、全てが鬱陶しかった。


 その中に、彼がいた。


 美しい子だった。今まで見た中で一番。神様がいるのなら、きっと彼みたいな子だろうとすら思えるほどの。


 今まで白人の観光客を見たことがないわけではない。でも自分と年の近い子を見るのは初めてだった。その子の隣には父親らしき人物がカメラを持っており、私を撮影している。目がハッキリと合い、私が視線を向けたことに父親は興奮している。


 そして、その子に言われた。


 ― どうして、そこにいるの?どうして、逃げないの?


 それは英語だったけど、とても簡単な英語だったから、私にも意味が理解できた。世話係に教えてもらってはいたから。その言葉を聞いて、また一つ、私の世界が壊れていく。


 どうしてここにいるのか、どうして逃げないのか、私が聞きたい。どうして私はここにいるの?どうして私は逃げないの?自由になりたいんでしょう?じゃあ、逃げてしまえばいいのに。


 あの子は他の見物客に押され、すぐに姿が見えなくなった。けれど、あの子からの言葉は私の深い所に落ちて行った。

 

 ***


 「(初めましてパルバティ、僕はスティーブンていうんだ。イギリスってところから来たんだよ。今回は三週間、君を取材させてね)」


 スティーブンと出会ったのはその数か月後だった。何年間も取材交渉をしていたらしく、ロイヤルクマリの密着取材は認められないけれど、ローカルクマリならいいだろうと許可をもらい私の所に来たらしい。白い肌に茶色い髪の毛、色素の薄い目。見たことのない人種だった。


 でもすぐにあの子の父親だと言うことが分かった。あの子のことを聞きたかったけれど、私から聞くのが良くないことのように感じて何も言えなかった。


 スティーブンは世界各国を取材して回っていると言っていた。パソコンを見せてくれてイギリスの場所とネパールの場所を教えくれた。初めて見るパソコンに目を輝かせた私にスティーブンはパソコンの使い方を教えてくれた。文字の打ち方と、ネットの使い方、見たことも聞いたこともない物は新鮮で私の中にまた一つ、変化をもたらした。


 「(スティーブン、これ、クマリの事も載ってるの?)」

 「(ん?ん、うん。載ってるね)」


 スティーブンは言葉を濁し、それから先は言わなかった。けど、私はどうしてもクマリの真実を知りたくて、スティーブンに頼んでクマリを調べてもらった。英語で書かれた文章は全く分からず、スティーブンに翻訳してもらって、他の国から見たクマリと言う存在を知って、少なからずショックを受けた。


 でも、なんとなくそうなんだろうな。とも思っていた。お兄ちゃんが言っていたから。


 「(やっぱり、私には何の力もないんだね。知ってたけど)」

 「(パルバティ、これは風習だよ。誰が悪いとかない。僕はこの風習は素晴らしいと思っているよ。ただ、君の自由と尊厳が多少なりとも奪われているんじゃないかとは思っている。僕がこのことを記事にして、君の現状をイギリスだけじゃなく世界に訴えたい。君にとっては迷惑かもしれないけど、君や、他のクマリが平等に教育を受け、なりたい仕事になれる時代が来てほしい)」


 平等に教育を受け、なりたい仕事になれる時代……


 それはひどく魅惑的で素敵な言葉だった。


 スティーブンは私と同い年の子供がいると言っていた。だから私の現状を見過ごすことができないんだと。私も、学校に行きたい。本当の私の夢を探しに行きたい。クマリと言う生活はあまりにも特殊で、あまりにも隔絶されていて、私はきっとなにも知らないんだ。自分の国のことも、今何が起こっているのかすら、きっと私は知らない。


 ここは、箱庭だった。


 ***


 「(パルバティ、僕は今日が最終日なんだ。君に取材させてもらった三週間はとても楽しかった。良ければこれは僕からのお礼だ。受け取ってほしい)」


 スティーブンから紙に包まれたプレゼントをもらった。こんなものをもらったことがなく、ドキドキする胸の高鳴りを抑えつつ包みを開けると、そこには綺麗な水の入った瓶が入っていた。蓋を開けると、とてもいい香りで部屋に焚いているお香とはまた違う香りだった。


 「(イギリスの有名な香水メーカーなんだ。ペンハリガンと言うメーカーでイギリス王室御用達だ。この部屋はいつもお香が香っていて、とてもいい香りだからね。君もこういうの好きかなと思ったんだ)」


 香水、とスティーブンは言った。聞いたことはあるけれど、見たことはなかった。お香が一般的なこの国では香水を使うことは少なく、売っている店も限られる。キラキラと輝く小瓶には薄い緑色の液体が入っていて、まるで海外に住む女の子になったような錯覚を与えてくれた。


 「(……ありがとう)」


 私の返事に満足したスティーブンはパソコンを開いて画面を私に見せてくる。スティーブンから教えてもらったWordという文字を打つ機能。スティーブンは最後にそこに私へのメッセージを書いてくれていた。


 スティーブンはとてもいい人。彼に出会えてよかった。出会えなければ、私は一生この館で何も知らずに生きていくところだった。彼がいたから、あの子にも会えた ― とっても綺麗な男の子。私の存在を真っすぐ見て、疑問をぶつけてくれた男の子。あの子に、もう一度会えたらよかったのにな。


 それだけが、心残りだった。


 だから、これは賭けのようなものだった。


 スティーブンに教えてもらったWordの文字の打ち方。ゆっくりとつたない手つきでキーボードを押していく。


 ― म भाग्न चाहन्छु(逃げたい)म खुशी हुन चाहन्छु(幸せになりたい)


 スティーブンの目が丸くなる。


 ねえスティーブン、私は神様にはなれないよ。抑圧されて生きてきた十二年間。スティーブン、私自由になりたい。自由になって、あの子と話したい。


 スティーブンは私に手を伸ばしたけど、奥から戻ってくる世話係の足音を聞いて、その手を引っ込めた。世話係が来てスティーブンに館を出るように促して、彼は名残惜しそうにその場所を去った。


 あの文字は私からあの子へのメッセージ。あの子のあの時の質問の答え。フェネクスの羽をあげる。私から貴方への答え。


 私、普通の女の子になりたい。


 ***


 『(パルバティ、世界ハ広イデショ)』


 スティーブンがいなくなって二か月が経ったある日の夜、フェネクスと二人でお話していたら、突然そんなことを言われた。そうだね、世界はとても広い。私は知らないことばっかりだった。良く考えたら、私はネパールのことすら知らない。


 「(うん、私……もっと色んなことが知りたい。勉強沢山したい)」

 『(……逃ゲチャオウカ)』


 あの時のお兄ちゃんと同じことをフェネクスに言われて目が丸くなった。ここから、逃げる?


 「(逃げて、どこに行くの?)」

 『(サア。ドコニ行コウカ。スティーブンノ所ニデモ行ク?)』


 スティーブンからしたら迷惑だろうな。私がいきなり現れて助けてくれなんて言ってきたら。


 苦笑いして返事をしない私にフェネクスはもう一度逃げようと言ってくれた。逃げたいよ、できることなら逃げたしたい。でもお父さんとお母さんが許さない、クマリの役目から逃げ出したら、私はもうネパールでは生きていけない。指をさされて家族にも見捨てられ、野垂れ死ぬだけだ。そんなの、絶対に嫌だ。


 『(ココニズットイタイノ?)』

 「(そんな訳ないでしょ)」

 『(君ニ生理ハ来ナイヨ。パルバティ、一生、ココデ暮ラスノ?)』


 そんなの嫌だ!!

 首を横に振った私の手のひらの上でフェネクスはもう一度だけ問う。


 『(パルバティ、君ノ望ミハ何)』


 私の望み……


 誰も聞いてくれなかった私の夢。生まれた頃から道を決められ、誰一人、私のしたいこと、夢を聞いてはくれなかった。今日何を食べたいかすら、私には言う権利はなかった。


 目から涙が零れ落ちる。フェネクス、私の本当の望みは……


 「(クマリなんて辞めたい。ここから逃げ出したい。フェネクス、あの子に会いたい)」


 あの綺麗な男の子に、きっと私は恋をしたんだ。神様みたいな綺麗なあの子に一目ぼれした。あの子と、一言だけでもいい。話をしたい。初めて自分の望みを口にした。

 フェネクスはそれを満足そうに聞き、私の手を降りる。


 『(パルバティ、会イニ行コウ。マイクノ所ヘ)』


 その瞬間、小さかったフェネクスがまぶしく光り、室内はその光に包まれた。


 世話係がこっちに走ってきて、何があったのかと声を張り上げている。フェネクスは歌った、あまりにも綺麗な声で、透き通った声で。世話係はその美しい声に聞きほれ、床に膝を着く。


 『(パルバティ、金ノ皿カラ足ヲ踏ミ出シテ。自由ニナロウ)』


 クマリは金の皿以外に足をつくことを許されない。この皿から足を踏み出した瞬間、私はクマリを自分の意志で投げ捨てたことになる。選択肢は与えられた。自分の道を自分で決めろと言われた。


 ― その日、生まれて初めて、地面に足をつけた。


 ご飯が手に入らないときもあった。初めて食べ物を盗んだ、大地を走り回った。大声で笑った。全て、初めての経験だった。


 フェネクスと二人でイギリスを目指す旅は過酷だった。お金も持っていない私が国外に出ることは難しく、国内の移動でさえ全て徒歩だった。治安がいい国とは言えず、大人の男の人に何度も襲われそうになった。


 でもフェネクスがいれば何も怖くなかった。


 私は、自由だった。


 ***


 拓也side ―


 パルバティはフェネクスの羽に顔を埋め動かない。でもフェネクスはハッキリと、マイクに会いに行こうと告げた。マイクから渡された連絡先がある。連絡を入れたら、彼はきっとパルバティに会いに来てくれる。でも、パルバティをイギリスに連れて行くだけじゃ今回解決しないことも分かってる。


 トーマスとリアは違う。パルバティはまだ12歳だ。自分の力で生活できる年齢じゃない。マイク君と会えた後、パルバティはどうすればいいんだろう。スティーブンさんに頼めばいいのかな。あの人は、きっと協力してくれる。


 しかし渋い顔をしていたパイモンが口を開く。


 『計画、きちんと立てているのですか。貴方の無責任な善意で最終的に傷つくのはパルバティかもしれませんよ』

 「でも、パルバティはマイク君に会いたがっている。あわせてあげたい」

 『順番のことを言っています。彼女はまずはネパールでの生活基盤を確立させることが最優先では?マイクに会わせたいと言う一時的な感情で、その後はパルバティ本人に丸投げですか?貴方みたいなのを偽善者と言うんですよ』


 心臓に思い切りナイフをたてられたような言葉の暴力に言い返すこともできずに、言葉に詰まった俺を見ていたシトリーがパイモンに手を振り上げる。でもそれをくらうパイモンでは勿論なく、シトリーの平手を手で受け止め睨み合う。


 『主に妙な入れ知恵をするのは止めろ。貴様の無責任な一言で責任をとることになるのは主なんだぞ』

 「あんたこそ拓也が何望んでるか分かってんの?あんたみたいに悪魔返して後は終わりとかクソみたいな冷たい思考してないのよこいつは」


 喧嘩は止めてほしい……言い争いになってしまったシトリーを光太郎が諫め、パイモンをセーレが諫める。なんでこんなことになってんだよ。俺達が言い争って何の意味があるんだよ。


 『拓也、スティーブンに連絡を入れてみましょう。どうやってイギリスまでたどり着いたかは、こんなことを言ってはなんですが、バティンに頼るしかないと思います』

 「バティンに!?」


 なんでそこであいつの名前が出てくんだよ!!

 ストラスの一言にパイモンとシトリーの喧嘩は収まり、フェネクスもこちらを見て目を丸くしている。


 『パルバティがイギリスにこの短期間で辿り着いた経緯を聞かれたときの盾が要ります。普通に考えたら彼女一人でイギリスにたどり着くなんてことはできると思わない。誰かの手引きがないと難しい。ですが、その手引きをした後ろ盾を用意するのは私達にはできない。世界中にコマを持つバティンならブローカーの後ろ盾を作るのは容易でしょう。スティーブンはジャーナリストだ。パルバティのこと、少しでも疑問を持ったら調べることができる力も能力もある。適当な嘘をつくと私達にまで足がつく可能性があります。彼女をイギリスまで案内することができる人材を確保しないといけない』


 確かに、パスポートも持っていないパルバティが自分一人の力でロンドンに一か月以内に向かうなんて普通に考えたら不可能だ。手引きする奴がいない限りは。スティーブンさんが納得できる嘘をつかないとジャーナリストであるスティーブンさんがパルバティを調べて行って俺達にたどり着く可能性があるのか。


 確かにバティンなら……そういうの、用意してくれそうだけど。


 『一応、共闘期間です。彼も今回のフェネクス討伐は目を瞑ると言っていた。用意はしてくれるはずです』

 「でも……」


 その時、携帯が震え、画面を確認すると知らない相手から連絡が来ていた。光太郎が今回持ち運びできるWiFiを持参していたから、そのおこぼれを俺ももらってたんだけど、誰から連絡が来たんだ。

 その相手は俺が待っていた相手だった。


 “ルーカスだ。遅くなって悪い。佐奈から聞いた。まあ、よろしく頼むわ”


 ルーカス!そうだ、ルーカスなら用意してくれるかもしれない。

 出てくれるか分からないが、ルーカスに電話をして相手が出てくれるのを待つ。数コール目にざわざわと賑わう音を背にルーカスの声が聞こえた。


 「いきなり電話かよ」

 「ルーカス、あの、お願いがあって……ルーカスなら、なんとかしてくれるんじゃないかって……」


 緊張してうまく話せないけど、ルーカスはため息をついて要件を黙って聞いてくれる。俺はフェネクスのことを話した。そしてパルバティのことも。マイク君に会わせるために、イギリスに行きたいということも全て。


 ルーカスは最後まで聞き、隣にいたんだろうキメジェスに話しかけている。


 「まあ、いいよ。バティンに報告しとく。要はパルバティを逃がす案内役の口裏合わせを用意してほしいってことだろ。問題ないと思う。その件は俺に任せてくれていいぜ。拓也、俺からも一つ聞きたい。そのマイクに会わせた後、パルバティはどうするつもりだ。その話聞く限り、ネパールには帰れそうにないけど」

 「それは……まだ、考えれてなくて……何かいい案ないかな」

 「おまえ……行き当たりばったりすぎだろ。マティアスの友人にイギリスの富豪がいる。そいつは孤児支援に力を入れていて、たしか養護施設とかも経営していたはずだ。最悪そこにかけあえるようにしといてやる」

 「ルーカス本当に?」

 「んなこと嘘つくかよ。まあ、マティアスさん次第にはなるけど……お前がリーンハルトに接触したこと激怒してたから、どうなるかはわかんねえけど……バティン説得できたらどうとでもなるんじゃねえかな。じゃあ、また連絡するよ」

 「てめえルーカスに迷惑かけんじゃねえよタコ!!」


 最後、キメジェスからの暴言を受け、言い返す前に電話は切られた。でもルーカスに話をしてよかった。なんとか目途がたちそうだ。パイモンたちにルーカスとの会話を話すと、二人とも顔をしかめお互いに視線を向けている。


 さっきまで喧嘩していたのに、多分今二人はイルミナティに借りを作ってどうするんだとでも言いたげだ。でも、パイモンが言っていた無責任な善意で終わらせない方法を自分で見つけたんだ。ちゃんと、パルバティを助ける算段をつけられた。


 フェネクスはパルバティの側に寄り添い、事の顛末を見守っている。


 『わかりました。マイクに連絡します。時差を考えると、すぐには向えないと思います。(フェネクス、マイクと連絡が取れ次第、お前を地獄に返す。異論はあるか)』


 パイモンは光太郎に携帯を借りてマイクに連絡を送っている。でもフェネクスを返すって……そんなの向こうが納得しないだろう。フェネクスはパイモンの言葉に動じるわけでもなく、パルバティを守るように抱きしめた。本当に大事なんだなあの子のこと……


 『(君ノ言ウ事、聞クノ癪ダケド……パルバティヲ救ウ目途ガ立ッタナライイヨ。受ケ入レル)』


 全てはパルバティ次第ってことか。当事者なのに蚊帳の外にされているパルバティはこの会話に加わる勇気がないのか、フェネクスのそばを離れようとしない。そんなパルバティにシトリーが近づけば、身を固まらせた。


 「(別に酷いことなんかしないわよ。パルバティ、あんたはマイクと会った後はネパールに戻りたいの?)」


 シトリーのその質問にパルバティは悲しそうに眉を下げ、しばらく考えた後に首を横に振った。ネパールに帰る気ないってこと?


 「(じゃあ、どこに行きたいの?)」

 「(……わからない。でもネパールには帰れない。クマリを逃げ出した私に居場所はない)」

 「(そういうこと聞きたいんじゃないの。あんたは帰れる環境があればネパールに帰りたいの?)」


 シトリーのその質問にもパルバティは否定する。


 「(スティーブンが言ってた。平等に教育を受けて、なりたい仕事になれる時代が来ればいいって。ネパールでは、きっとそれはできない)」

 「(じゃあ、イギリスに逃げたい?)」


 少しの沈黙の後にパルバティは頷いた。そうか、この子はネパールに戻らずにイギリスで暮らしたいんだ。じゃあやっぱりルーカスが説得してくれるしかないよな。

 マイクと連絡を取っているパイモンが時刻を確認し、光太郎に携帯を返す。


 『ロンドンの今の時刻は朝の7時です。しばらく連絡は来ないでしょうね。ここで待機しましょう』


 ここで待機って……マイク君から連絡来るまで、何もできないってことは分かるけど。

 パルバティのお腹がなり、恥ずかしそうにフェネクスに顔を隠す。これ、この子に何か食べさせてあげたほうがいいんじゃないかな。


 「パイモン、ロンドンに行って何か食べさせてあげようよ。それに服とかも……裸足だよこの子」


 流石に可愛そうだ。連絡を待つならロンドンでもいい筈だ。

 パイモンはため息をついて、セーレにジェダイトの準備をお願いしている。


 『金を出すのは私なんですけどね。軽率に言わないでいただきたい。まあ、いいでしょう。セーレ、俺達を送った後に一度マンションに戻ってパルバティの替えの服と靴を頼む。見たところヴアルより若干身長が高いくらいだ。ヴアルので事足りそうだ。必要なものは購入してくれていい』

 『ん、わかった』


 セーレはジェダイトを召喚し、俺達に乗るように促している。フェネクスはさっきまで3~4mくらいありそうな馬鹿でかい鳥だったのに、気づいたらパルバティの両手でも余裕があるくらい小さい鳥になっていた。


 パルバティをジェダイトにのせて、あとは俺をのせて第一陣はこのメンバーらしい。


 「セーレ、ごめん」


 セーレを振り回してばっかりだ。多分一番貧乏くじを引いてるんじゃないのかな。


 でもセーレは首を横に振り優しく笑い、俺の頭に手を置いた。なんだか自分が直哉にやるような仕草に弟ってこんな感じなのかとぼんやりと考えた。


 『俺は拓也のそういう所、好きだから何も言わないんだよ。拓也は俺やパイモンに持ってないものをたくさん持ってる』


 その言葉に心が軽くなった。


 ジェダイトに乗ってロンドンに向かう。空をかけるジェダイトにパルバティは興奮し、ストラスとフェネクスは鳥同士通じるものでもあるのか、お互いを見つめ合っている。セーレさえいればロンドンには三分もかからず到着し、人のいない所に着陸し、俺達は降ろされた。


 「ここ、マイク君の住んでる街だよ」


 そう告げて、ストラスが翻訳してくれたらパルバティは目を輝かせた。


 セーレは再び光太郎とパイモンの所に戻り、俺達だけになる。フェネクスは小さい鳥のままで、心細いパルバティは俺の手の小指を握ってくる。あまりにも大人しく健気なその行動に手を握り返せば、パルバティは安心したように一歩此方に近づいた。


 「(お兄ちゃん、なんで私に優しくしてくれるの?私にもね、お兄ちゃんいるの。貴方みたいに優しいの)」

 「お兄ちゃんは……ネパールにいるんだよね?」


 パルパティは悲しそうに笑って首を横に振る。


 「(中国の学校で勉強してる。すごく頭がいいから。私とね、一緒に暮らそうって言ってくれたの。私、自分で何も決められなくて……お兄ちゃんは私を逃がそうとしてくれていたのに、お父さんと揉めて、そのまま出ていくように中国の学校に行っちゃった)」


 この子にも、味方がいたんだ……

 パルバティは目に溜まった涙をぬぐい、顔を上げた。


 「(お兄ちゃん、とっても優しくて私のお兄ちゃんみたい)」


 パルバティの手を握る力が無意識に強くなっていた。この子をなんとしても助けてあげないと……そう思った。


 数分後、光太郎たちが到着してセーレがパルバティの着替えをとりにマンションに戻り、まだマイク君から返信は勿論来ず、ロンドンで時間を潰すことにする。けど、ボロボロの服で裸足のパルバティがロンドン市街地を歩き回れるはずもなく、俺はパルバティを抱き上げて近くの公園のベンチに座らせた。


 パイモンとシトリーが近くの屋台で軽食を購入してパルバティに渡す。


 「(食べて、いいの?)」

 「(ジュースもあるわよ~)」


 シトリーから渡されたコーラを一気に飲んでむせてしまったパルバティに笑みがこぼれた。パルバティは恥ずかしそうにしながら、初めてだったからと小さい声で呟いた。軽食を食べている間に光太郎が携帯をパイモンに渡す。


 「パイモン、メッセージ来たって通知きた。マイク君かも」


 通知を確認して中身を見たパイモンはこっちを見て頷く。


 「思ったより事が早く終わりそうですね。すぐにでもこちらに来ると言っています」

 「え、待ち合わせとかじゃないんだ」

「 ええ。今から行くから場所を教えてくださいと来ました。この公園にしましたよ」


 マイク君がここに来ることをパルバティに伝えたら、顔を真っ赤にしてパルバティは自分の手を祈るように胸の前で組んだ。パルバティの膝で一緒に軽食を食べていたフェネクスは顔を上げてパルパティを見つめる。


 『(大丈夫ダヨ。キット上手クイク)』


 その後セーレが着替えを持ってきてくれて、近くのトイレでパルバティが服を着替えて戻ってきた。シトリーに髪の毛を綺麗にしてもらったパルバティはどこから見ても普通の女の子だった。


 一時間程経過したとき、公園の入り口から走ってこっちに向かってくる男の子がいた。色白の金髪、ほっそりとした手足に宝石のような青い瞳。典型的な白人の男の子はマイク君だ。その後ろにはスティーブンさんもいる。


 マイク君はパルバティの前で立ち止まり、沈黙が二人を包む。しかし追いついたスティーブンさんにパルバティは飛びついた。


 「(パルバティ、ここまで一人で来たの?どうしてこんな無茶を……ご家族は知らないだろう。頑張ったね、本当に、無事でよかった)」


 スティーブンさんはまるで自分の娘を抱きしめるようにパルバティを抱きしめた。パルバティは涙を流してスティーブンさんに抱き着く。


 「(君たちはパルバティをどこで見つけたんだ?)」

 「(ロンドンだ。ブローカーが手引きしたようだな。パルバティがネパールで逃げこんだ場所が亡命の手引きをするブローカー宿だったようだ)」

 「(パルバティ……)」


 この子がどんな経緯でここまで来たかを想像して胸を痛めたのか、辛そうな表情でスティーブンさんはパルバティの頬を手で覆う。パルバティはまるで父親になつく子供の様に、スティーブさんの手に頬を擦り付けた。


 感動の再会をしている中、話をしないといけない。スティーブンさんと実際に顔合わせをしているセーレとパルバティがスティーブンさんに声をかけた。


 「(彼女、もう自国には戻れないって言っているんだ。クマリの任を投げ出して、国に戻っても彼女への風当たりはかなりきついと思う。宗教やクマリへの信仰もネパールは俺達が想像しているよりもはるかに根が深い。何の対策もなしで彼女を国に返したら彼女の身に危機が及ぶかもしれない)」

 「(そうか……そうだろうな。あれだけ大騒ぎになっていたわけだしな)」


 スティーブンさんとパイモンたちが話している内容を自国の言葉しか分からないパルバティは理解できず、不安そうに見つめているだけだった。そんなパルバティの肩を押してシトリーはマイク君の所に連れて行った。


 「(パルバティ、通訳してあげるから。マイクと話したかったんでしょ?)」


 この人混みの中でストラスに訳を聞くわけにもいかない。パイモンに翻訳を頼み、俺もみんなの会話を黙って聞く。パルバティはモジモジと手遊びをしながら、恥ずかしそうにマイク君の顔を見たり視線を下げたりを繰り返している。


 でもその流れを切ったのはマイク君の方だった。


 「(俺のこと、覚えてる?)」


 パルバティは頷く。それを見てマイク君は安心したように笑った。


 「(良かった。俺、君に言わないといけないことがあったんだ。ごめんね)」

 「(……どうして、謝るの?)」

 「(俺が君を傷つけたから。俺のあの言葉は君を傷つけたんじゃないかって……)」


 その言葉にパルバティは慌てて首を横に振った。パルバティは何度も言葉を詰まらせながらも、マイク君にゆっくりと自分の思いをぶつけていく。


 「(私、あなたがあの時、ああ言ってくれて、自分がなんであそこにいるのか分からなくなって、貴方と貴方のお父さんに会えて、とっても嬉しかった。私、あなたと話してみたくて……)」

 「(俺と?)」

 「(あ、えと、すごく綺麗な子だなって……神様とか天使様がいたら、こんな人なのかなって……ごめんなさい、変なこと言って)」


 端から見たら告白のような言葉にマイク君もパルバティも顔を真っ赤にして俯く。あまりにも青春しているように見えて俺と光太郎もニヤニヤしてしまう。マイク君は恥ずかしそうに頭を掻いたあと、パルバティの手を握る。


 しどろもどろするパルバティにマイク君はまっすぐ視線をそらさずパルバティを見つめる。


 「(俺も、あの時の君は神様に見えたよ。すごく綺麗だった。でも今の君はとっても可愛い。普通の女の子だね)」


 その言葉にパルバティは目を丸くしたあとに細めてはにかんだ。あまりにも微笑ましい二人のやり取りにシトリーも満足そうだった。パルバティは好きな男の子を前にしたら、どこにでもいる普通の可愛らしい少女だった。


 楽しそうに話をしている横ではセーレとスティーブンが険しい顔で話をしている。


 「拓也、連絡ぐらい出ろよ。何のための携帯だよ」

 「え、へ!?え、ルーカス!?」


 いきなりのルーカスの乱入に驚きを隠せない。ルーカスの横にはキメジェスがおり、不機嫌そうな顔でこっちを睨んでいる。ルーカスはセーレとスティーブンを見て、その後にパルバティの肩にとまっているフェネクスに視線をやる。


 「ジャッシュの餌にしようか」

 「止めとけキメジェス。焼き鳥ならあとで買ってやるから。拓也、バティンとマティアスからOKが出た。孤児院への受け入れ、あっち側はOKだ。あとはパルバティとその両親次第だが、双方の合意が取れず面倒なことになるのなら弁護士も用意するらしいぞ」


 ええ、そんな大それたことを!?

 大体なんでそこまで手厚く保護してくれるんだよ。そう思ったのは俺だけじゃなく、パイモンは怪訝そうな顔をしており、光太郎も不安げだ。そしてその様子に気づいたルーカスとキメジェスが口角を上げる。


 「もちろん、タダじゃない。交換条件だ。その条件飲むんなら、俺達もパルバティに関しては全力で保護してやるよ。ま、どちらにせよ飲まなきゃいけなくなるんだけどよ」


 なんだ、ルーカスとキメジェスの条件ってのは。


 でも先にパルバティの件が片付いてからだと言われ、まずはそっちの問題に集中する。


 セーレとスティーブンさんは話しをつけ、スティーブンさんが膝を着いてパルバティの手を握った。


 「(パルバティ、話は分かったよ。君はネパールに帰るつもりがないんだね)」

 「(私、勉強したい。たくさん勉強して私と同じような境遇の女の子たちを助けてあげたい。スティーブンが前に言ってた。平等に勉強して、なりたい仕事になれる時代が来るって。私の本当の夢を見つけたい)」

 「(そうか……パルバティ、私は君の夢を応援する。君は祖国を変える女性になりなさい。たくさん勉強して、君が祖国を変えるんだ。平等に教育を受け、なりたい仕事になれる時代を、君が作るんだ)」


 パルバティは頷く。それを見たスティーブンはパルバティを抱きしめた。


 「(僕から君のご両親に連絡する。君の本当の想い、本当の願い、全てを報告して君がネパールに戻る意思がないことも伝える。本当にいいんだね。君はもう長い時間、国には帰れなくなるよ)」

 「(私の人生は私が決める。両親のためだけに12年間、何一つ自分の望みを言えなかった。もう、私が決めたっていいでしょ……)」

 「(そうだね。僕は君を全力で応援する。それと、先ほどの彼に聞いたんだけど、パルバティを支援してくれる人がいるとか)」


 こっちに振り返ったスティーブンさんにルーカスが対応する。


 「(ええ、イギリスの孤児院の経営者です。彼女を院に入れることに許可をしています。ただ、他国の人間をイギリスの孤児院に入れるには色々と不都合がある。その人物との養子縁組が必要です。パルバティとあなた方が本気なら弁護士もこちらから手配します。連絡先はお伝えしますので話が固まり次第連絡いただけたら)」

 「(養子縁組、か。家族と縁を切れってことか……)」


 そこまで話が大げさになるとは思っていなかったんだろう、パルバティは動揺している。でもそのパルバティの手を握ったのはマイク君だった。


 「(パルバティ、君は俺が守ってあげる。ここにいなよ)」

 「(辛い選択になると思う。ただ、両親と一度話をした方がいい。僕が機会を設けよう。養子縁組をするとしても、血の繋がりがなくなるわけじゃない。僕とマイクも同席する。パルバティ、しばらくは家にいなさい)」


 これからパルバティには沢山の困難が降りかかるんだろう。でもあの子にはスティーブンさんとマイク君がいる。マイク君はパルバティの王子様みたいに、絶対に守ってみせるからと可愛らしい笑顔を浮かべた。大丈夫だ、スティーブンさんは本当にいい人で、心からパルバティを心配して、力になってあげようとしている。


 イルミナティも間接的に関与しているのなら、ルーカスを通して連絡も取りあえる。


 スティーブンさんは彼女がロンドンにいたことを両親に伝えるために自宅に戻ると言い、パルバティもつれていくと言った。


 「(お兄ちゃん、ありがとう)」

 「(頑張ってパルバティ)」

 「(うん)」


 「フェネクス、そろそろ対処してもいいですか」


 黙っていたパイモンが空気をぶち壊すように淡々と告げてフェネクスの存在を思い出す。でもこの人混みの中でフェネクスを地獄に戻すこともできないし、スティーブンさんとマイク君がいる中、パルバティを今更人気のいない所に連れて行くのも気が引ける。


 スティーブンさんは車をとりに向かい、マイク君もパルバティの席を用意するとついて行ってしまった。多分五分くらいで戻ってくると思うけど、その間にできるか!?


 パイモンはフェネクスに手を伸ばす。此方に来いとでも言うように無言の圧力をかけると、フェネクスは大人しくパイモンの手に飛び乗った。


 「契約石は」

 『パルバティガ持ッテルヨ。(パルバティ、指輪、返シテ)』


 パルバティが指から真っ赤な石がついた指輪は外した。


 『ルベライトの指輪。フェネクスの契約石ですよ』


 フェネクスは指輪を受け取り、パルバティに声をかけた。


 『(契約完了ダネ。パルバティ、見返リ、覚エテル?)』

 「(うん、これが欲しいんだよね)」


 パルバティはポケットから髪飾りを取り出した。それをフェネクスは口でくわえ契約完了だと宣言する。


 あの髪飾りに大した価値なんてないだろう。フェネクスは最初からパルバティに危害を加える気なんてなかったんだろうな……


 マイク君が呼びに来てパルバティの手を握る。それに恥ずかしそうにしながらもパルバティは嬉しそうに笑い、手を握り返した。


 「(ありがとうお兄ちゃんたち。またね)」

 「(また連絡します。パルバティは俺が守るから心配しないでください!)」


 走って去っていった二人に手を振って、パイモンはマンションに戻ろうと促した。そこでフェネクスを返すんだろう。


 ***


 「ええ、そいつ持ってきかえってきたのかよ」


 俺達と一緒に連れてきたフェネクスを見て、ヴォラクは目を丸くする。そしてその横にルーカスとキメジェスがいることにヴアルとアスモデウスは警戒していた。キメジェスはアスモデウスに視線を送りぽつりとつぶやく。


 「まだ、始末してねーんか」


 その言葉が怖くて反応ができない。キメジェスのあの時の言葉、ずっと気になって心に残っている。アスモデウスを澪の手で殺せと、あいつは言った。理由は教えてくれないし、聞くこともできない。


 その間にもパイモンたちは着々と儀式の準備を進め、出来上がった召喚紋にフェネクスは足を踏み入れた。


 途端に室内を覆うような巨大な鳥に変身したフェネクスは天井に頭を打ち、首を地面につけて大人しくなった。


 『すまんな狭い場所で』

 『仕方ナイヨ。有難ウネ。心残リナイヨ。今度会ウ時ハ審判ダネ』

 『生憎審判は止めるつもりでいる。お前に会う機会はないだろうな』

 『ソウ。期待シテルヨ』


 光に包まれフェネクスは姿を消し、室内は静寂に包まれた。

 フェネクスの剣はこれで終わった。問題は…… 


 「ルーカス、交換条件の内容、教えてくれよ」


 ルーカスとキメジェスが何を伝えに来たか、だ。

 ルーカスは携帯で誰かと連絡を取り合っており、通話を切ってソファに腰掛けた。その隣にキメジェスも腰掛け、敵陣の真ん中にいるってのに、二人はビビる気配もない。


 「随分と舐めた真似をしてくれた奴がいるんだよ」


 ルーカスは一枚の紙を取り出し、テーブルに投げる。そこには全身に入れ墨を入れた少年の写真が載っていた。見るからにガラの悪い少年は見たところ自分よりも幼く見える。この子供が、契約者なんだろうか。


 「イルミナティの仲間?」

 「ふん、こんなの仲間にすらいらねえよ。こいつが俺たちの活動の邪魔しやがる。バティンが新たに予言流すっつってんのに、こっちの静止聞かずにこのタイミングで大統領を攻撃するって声明出しやがった」 


 一体、何の話なんだ。


 大統領を攻撃するなんて、あまりにもスケールのでかい話に反応ができない。


 その時、マンションの空間が歪み、一人の青年がマンションに入ってきた。もうバティンのせいでむちゃくちゃだよ。完全にこの場所が割れてて好きに行き来できるようになってんじゃん。


 青年は軍服をかっちりと着こなし険しい表情を浮かべている。


 『ルーカス、あの餓鬼、やりやがったぞ。世界中で速報が流れるだろう』

 「は、マジかよ。ドンパチしちまったのかよ。クソが……」


 だから何の話だよ!?

 そう言いたいのをぐっとこらえて、話が進むのを待つ。しかし隣にいるパイモンが立ち上がり、今しがた入ってきた悪魔を目を丸くしてみていた。


 「マルコシアス……」

 『久方ぶりだな。残念だがお前と殺し合いをしている余裕はない。面倒なことになっているからな』


 マルコシアスって……バティンが言ってた……パイモンがこれだけ動揺するんだ。多分、かなり親密な関係だったんだろう。でもパイモンの反応とは正反対でマルコシアスの表情は冷たい。

 感動の再会は後にしろとでも言うようにルーカスは写真が載っている少年の顔を指で叩く。


 「まあもう世界中に速報が流れるだろうな。この餓鬼はホンジュラスに住んでるギャングの一員だ。悪魔と契約してるのはこっちの調べで分かっている。問題はこの餓鬼が悪魔の力使って国を乗っ取るなんざ馬鹿げたことを抜かして、こっちの静止を聞かずに今しがた大統領政府が置かれている場所に総攻撃を仕掛けたらしい。近いうちに大統領の首が全世界に晒されるだろうな。まあ問題はそこじゃねえ。こいつは悪魔の力を使っての全世界へのメッセージを計画してる。こいつが俺達の仲間だなんて勘違いされちまうとこっちも迷惑なんだよ。バティンとマティアスはブチ切れて、こいつの討伐命令がでた。キメジェスとマルコシアスが派遣される。それにお前たちも全面協力しろ。それが交換条件だ。どちらにせよ悪魔討伐はお前らもしていくんならこいつは避けて通れない。拒否権はないと思ってくれな」


 なんだよそれ……スケールデカすぎだろ。

 トーマスと同じだ。マフィアを相手にしろって言ってるようなもんだ。


 「悪魔討伐だけなら俺達だけでもできるが、バティンとマティアスの命令はギャングの幹部全員の殺害……ようは中心部分、構成員全員見せしめで殺して根絶やしにしろってことだ。人出が多い方がいい」

 「人間、殺すっていうのかよ……」

 「端的に言えばそうだ。バティンはこの件を予言として世界に発信する。本来は別の予言を発信する予定だったが計画が狂った。一般人への被害も厭わないってよ」


 そんなことできるか!!頭おかしいだろ!?悪魔を倒すだけならまだしも、人間を殺しに行くなんて、そんなの頼んでくるとかいかれてる!!


 「お前に拒否権ないって言ったよな。契約悪魔はバアル。ソロモン72柱六大公の一角だ。奴らは単独で暴れまわってんだよ。出た杭は打たねえと、近いうちにこっちにまで被害が行く。拓也、何の教養もねえ馬鹿がトップになって国が機能すると思うか?」


 いきなり話をすり替えられ、意味が分からないがルーカスの質問に素直に答える。首を横に振ればルーカスはそうだろうと言葉をつづけた。


 「国が機能しなけりゃ金も経済も回んねえよ。そんな奴が次にすることは、侵略と略奪だ。土地と奴隷増やして金稼ぐ手段に出んのさ。奴らは中米だけじゃない、南米全土まで最終的に攻撃対象にする。そんなことをアメリカが許す訳ねえだろ。このままあいつら野放しにしたら間違いなく戦争が待ってる。あんまり俺らの管轄外で派手にやられちゃ困るんだよ。その前に奴らを今殺す」


 ルーカスの意志は固い。キメジェスとマルコシアスはそれに関しては同意見の様だ。

 要件を伝えたルーカスは立ち上がり背を向ける。帰るつもりなのか?


 「今日明日に攻撃をするわけじゃない。奴らがテレビに出るの見てから考えればいいさ。近いうちに大統領の首を誇らしげにかざした餓鬼が悪魔引き連れてテレビに映るだろうよ」


 キメジェスとマルコシアスが姿を消し、ルーカスはアスモデウスの胸ぐらをつかむ。


 「お前も、知らない振りすんのはもう止めような」


 その言葉にアスモデウスの表情が歪む。ルーカスはアスモデウスから手をはなし、その場から姿を消した。


 とんでもないことになってしまった。

 悪魔を引き連れて自分が国を治める。漫画でよくあるパターンが現実になろうとしている。たくさんの人を殺しに行く。悪魔を倒すだけじゃ解決しない。こんなの、どうしようもない……

光太郎も顔を真っ青にし、ストラスも険しい表情を浮かべている。


 ルーカスが言った言葉が実現するのは、その三日後だった。



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