第54話 手段
はやる気持ちを抑えて半ば走る様にマンションに向かう。今までだってこういう風に早く安心したくて、早く伝えたくて何度も駆けてきたはずなのに、今は何もかもが怖い。後ろから聞こえる話し声や、走りすぎるたびに一瞬向けられる視線が怖い。自分たちの事を指さしているようで怖い。そんなことあり得ないのに。
皆を巻き込んでしまう、そのうち悪魔たちは直接この場所に来るかもしれない。特にバティンはマンションの場所を知っている。あいつが行動を起こせば俺たちの存在なんて一瞬で明るみに出てしまうだろう。そうしたら俺は、光太郎は、澪はどうなってしまうんだろう。
54 手段
先の事を考えるのが怖くて必死に足を動かす。前を走る光太郎もきっと同じ気持ちだ。立ち止まることも会話することも笑いあうこともない。ただ必死に走り続けるだけ。マンションが見えてきたときの安心感は計り知れなかった。もうここが俺たちの逃げ場、隠れ家なんだ。家で抱える恐怖や不安もここでなら考えずに済んだ。
きっと心のどこかでオンとオフがあったんだ。このマンションにいる間は悪魔を倒さなきゃいけない池上拓也で、家や学校にいる間は普通の人間の池上拓也だって思ってたんだ。もうそんな違いもなくなってしまうかもしれない。
マンションについて、いつもの手順でオートロック開錠ボタンを押す。
『拓也、光太郎。待ってて、すぐ開けるね』
出てきたのはヴアルでいつも通りの声色だ。まだ知らないのかな?あの発言は今したばかりの速報なのかな。そんなことどうでもいい、言ったことは覆せないんだから。
エレベーターに乗っている時間が長く、その間の沈黙が痛い。
「みんな知ってんのかな」
「ヴアルの反応は知らなさそうだよな。でもパイモンが知らないってことはなさそう」
うん、俺もそう思う。
情報通のパイモンが知らないはずがない。知っててヴアルに教えていないのか、俺たちに気を遣って教えていないのか……多分後者な気がする。ヴアルが開けておいてくれたんだろう、鍵のかかっていない玄関を開けてみんながいるはずのリビングに向かう。扉の先にいたメンツにやっぱり知っていたんだと言う実感が湧く。
「全員集合してる……もしかして知ってる?」
「結構話題になってるよ。時期が時期だしね」
そうだね、トーマスの時に悪魔の映像流出があった後にこれだもん。お祭り騒ぎだろうな。
眉間に皺をよせたセーレが座るように促してソファに腰掛けると、ストラスが膝の上に飛んできた。俯いても下からのぞかれる視線に誤魔化すことはできない。力なく笑って、王冠の隙間から覗かせる頭の羽を撫でると擽ったそうに身をよじった。
ヴアルも知っていたようで、ヴォラクの横で気まずそうにしていた。やっぱり俺たちが知らないと思っていつも通りの振りをしてたんだろうな。
「てか拓也たち血相切らしてんね。仕方ないけどさ」
「学校帰りにニュースやっててビックリした。何が何だかわからない」
喉がつっかえているんだろう、光太郎は震える声で不安を吐露し、泣きそうな顔で髪の毛を掻き毟っていた。ヴォラクもため息をついてソファに深く体を沈める。
解決法なんてないんだ。ここまで大々的にやられてすぐにバティンを倒しに行きましょうとはならない。あいつ、イルミナティって言ってた。あの組織に入ってたんだ。隠れ蓑を見つけてさぞ快適な生活を送ってただろうな。でもそいつが表だって出てきたんだ。本当に最終段階なのかもしれない。
「今からすぐにバティンを倒しに行っても意味ないよな。あいつたちがまた変な事してきたら俺たちの存在なんてすぐに」
「ばれてるよ。バティンは楽しんでる。知能的な愉快犯ほどタチが悪い物はない。情報はこれから小出しに出していくと思う。バティンの目的はあんたの人生を完全に潰すことだ」
「俺の人生?」
俺を殺すことでもなく、人生を潰す?
アスモデウスの言葉に一瞬意味が分からなかったけど、すぐにある考えに行きついて嫌な汗が噴き出てくる。もしかしてあの悪魔は俺の逃げ道を断とうとしてるのか?どこにも戻れない様に。
「バティンは賢い、賢いゆえに残酷だ。力づくでは行動せずに相手が一番痛い方法で攻めてくる。あいつはなんで今まであんた達が悪魔を退治するのに隠れて行っているか気づいている。悪魔を引き連れているあんたなら、政府や世界中に悪魔の存在を証明し、表立って悪魔対策を取る方法もあったはずだ。でもそれをしなかった理由を今回あいつは利用した」
俺たちが隠れて、誰の力も借りないで悪魔を退治していた。それをあの悪魔は見抜いていたんだ。それはすごく簡単な理由で、でももっとも大切な理由だ。今まで他の悪魔たちは力づくだった。こんなメディアに訴えて情報戦を強いてくるような奴はいなかった。あいつは、戦わずに俺たちの全てを壊す気なんだ。
「分かってるんだ。あんたたちが自分たちの平穏を壊したくないことを。祭り上げられることなく、奇異の目で見られることなく、普通の人間に戻りたいと願っていることを。バティンはそこを利用した。世界に情報を発信することで、あんたたちの行動を制限するつもりなんだ。ある意味、今回はあいつからの警告なのかもしれない。邪魔をせずに大人しくするか、自分の人生すべてを捨てて表立って挑んでくるか……どちらを選んでもあいつにとっては面白い展開なんだろうな」
最悪だ、最低な悪魔だ。俺たちが一番してほしくないことをしてくるんだ。今一番怖いことは世間に俺たちの存在が知られる事。知られてしまったらどうなるか分からない。見世物にされてしまうのか、実験体にでもされてしまうのか、祭り上げられてしまうのか、でももう普通に過ごすことはできなくなる。家に帰ることも、上野たちと遊ぶことも、学校に行くこともできなくなるかもしれない。
俺たちを知る人たちに迷惑をかけるかもしれない。
「どうしよう……あいつ、ここ知ってんだろ?名前出されたら、俺たち……」
「それはないでしょうね。バティンは一応あなたの抹殺を望んでいるはず。身元がばれて最悪、政府や協会の保護対象になり近づけなくなる方が面倒になる。直接的なことはしないはずです。だが今回のように挑発してくることはこれから多いでしょうね。どちらにせよ、今はまだ動けません。あいつは非常に頭が切れる。他にもまだ手を打っているはず。迂闊なことはできません」
やっぱり、まだあいつを倒しに行くわけにはいかない。パイモンがここまで言うんだ、他の手を隠し持ってるかもしれない。でもこのまま大人しくしていても、全部あっちの思い通りだ。向こうは俺たちのことを知ってるけど、俺たちは向こうのことを知らない。一匹じゃなくて他にも悪魔がいるかもしれない。悪魔同士で情報交換してるかもしれない。
「そう、だな。うん、わかった。でも、俺たちもう何もできない。逃げ道がないんだ。どこに行っても袋小路だ……」
「正直覚悟はしておくべきかもしれませんね。貴方の家族や友人に、最悪何かが起こる可能性だってあります。バティンの事だ、人質を取る方法だって視野に入れて動いているはず。それが一番手っ取り早いですから。澪のこともありますし」
アスモデウスの肩が跳ねたのが視界に入る。そうだ、バティンは澪を狙ってたんだ、サラの子孫だか何だか知らないけどそんな理由で。
「彼女は俺がっ!」
「お前、あいつと腹の探り合いで勝てるのか。向こうは自分の存在を明るみにしているんだぞ。どうやったって俺たちに不利だぞ」
本当になんなんだろう。この世界って。今まで感じたことなかったけど、すごく生きづらい……きっともう俺たちって普通の生活にはどうやっても戻れないんだろうな。
頭の中でなんとなくだけど分かっていた現実に胸が痛くなる。認めたくなんかなかったけど、もう認めるしかないような気がした。最初から、こんな指輪を手に入れた日から普通なんて手に入れられなかったんだ。最後の審判を万が一止められたとしても、俺や光太郎たちに平穏なんてきっと訪れないんだ。見世物にされて、化け物にされて、殺されちゃうかもしれない。なんなんだよ、本当に……
「とにかく今日は帰った方がいい。俺たちが今後の事は考えておくよ」
セーレに促され、光太郎と頷いて荷物を肩にかける。ストラスを腕に抱いて立ち上がり、光太郎の帰り支度を待っているとシトリーも立ち上がった。
「わりいな拓也。光太郎は俺が送ってくから先に帰っといてくれ」
「は?なんだよいきなり。俺もう拓也と帰るし」
「つれねえじゃねえか。契約者様とお話ししたいっていう従順な悪魔の気持ち、少しは汲んでやろうと思わねえのか?」
光太郎の事はシトリーに任せておけば大丈夫そう。シトリーなら何があっても光太郎を守ってくれるはずだ。俺には、こいつらがいる。
「うん、じゃあ帰るよ。光太郎、また連絡する」
「あ、おう。ごめんな拓也」
手を振ってマンションを出て帰路につく。人通りが多い道ではないとはいえフクロウを連れていればチラチラと視線がこちらに向かっているのが分かる。今まではペットとして変わり種だなと思われている程度にしか考えていなかったけど、今はその視線が少し怖い。ネットでの騒ぎを知っている奴らに晒されそうで怖い。
シトリーやヴォラクなら人の姿だし、すぐには気づかれないんだろうな。そう考えたらストラスをマンションに残した方がよかったのかもしれない。そう考えて背筋がぞっとした。駄目だ、そんなことしたら。だってストラスが一緒にいなくちゃ何かが起こった時に一人で対処できない。こいつがいなくちゃ、傍に居なくちゃ……怖くて顔も上げることができない。
ああ、どうしよう。俺完全にストラスに依存してる。いっつも迷惑ばかりかけてるからこれ以上はいけないって分かってるのに。どうしよう、少し泣きそうだ。泣いたってどうにもならないのに。
家に帰りついて、一番最初に見たのは泣きそうな母さんだった。
「拓也……」
そっか、母さんが知ってても不思議じゃないよな。だってこれだけ大々的に宣伝したら、悪魔のこと知ってる母さんはすぐに状況を理解できるだろう。ストラスを見て口元を手で覆い、リビングに足早に行ってしまった。俺がこれ以上動いたら母さんにも迷惑がかかっちゃうんだ。父さんにも、直哉にも ――
「なんだよもう……」
『拓也……』
「酷すぎんだろこれ。バティンてやつ、今までで一番えげつないこと平気でしてきたよ。あれか?俺を社会的に抹殺しようっての?」
ストラスは腕から飛び降りて座り込んでいる俺の前に立ち止った。半泣き状態の俺にストラスは苦々しげに一瞬瞳を伏せて、再び顔を上げた。
『先ほどパイモン達と話をしたのです。拓也、あくまでも最後の手段で話を聞いてください。貴方の存在を抹殺します』
「……は?」
『人間だった貴方の記憶を完全に消滅させます。そうすれば貴方の存在は世間一般から消え失せ、どう動こうが貴方の周りに被害が行くことは考えにくいでしょう』
なにそれ。俺の存在を抹殺する?それってもう俺は池上拓也として生きていくことができないってこと?
『悪魔がペナルティで人間の魂を縛り付けるのと同じ原理です。今の貴方は半人半魔。前例がないため成功するかは分かりませんが、貴方の人間の部分を完全に殺して貴方の人生をいただきます。そうすれば貴方は完全に悪魔になってしまいますが、存在は許されるでしょう』
「ふざけんなよ……なんでそこまでしなきゃいけないんだよ。俺が、俺だけが何でそんな目に遭わなきゃいけないんだよ!」
『ですから最後の手段です。いずれ人間の貴方が世間に存在を晒されて直哉や家族、友人に危害が及ぶのなら、全てを捨てる覚悟で臨まなければなりません』
「完全に悪魔になっちゃうくらいなら、死んだほうがマシだ!」
ストラスの目が悲しそうに伏せられる。この会話が聞こえてたんだろう、奥の部屋から母さんの嗚咽が僅かに聞こえてきた。もう滅茶苦茶だ。ここまで頑張って、他人を助けて俺が死ぬなんて馬鹿げてる。お涙頂戴の物語じゃないんだ。俺は、そんな綺麗に死ぬなんてごめんだ!
『私も、貴方をこんな奈落の底に落としたいとは思っていません』
俯いて、堪えていた涙腺が決壊して、手に水滴が零れ落ちる。悪魔は、バティンは少しずつ俺に迫ってくる。手を伸ばして、周りの逃げ道を塞いで、袋小路にしていく。確かに皆に被害が行くならストラスの案は正解なのかもしれない。でも俺は巻き込まれたんだよ、被害者なんだよ。ここまで俺から全てを奪わなくてもいいじゃないか。
「怖いよ、まだなにもできてない。中谷だって助けられてないし、俺の人生がこんな事で壊されるなんて嫌だ。死ぬなんて嫌だよストラス……」
『……貴方には本当に申し訳ないことをしていると思っています。世界は理不尽で、残酷で、他人事です。復讐したっていいのです、世界に絶望したのなら見捨ててもいいのです。貴方の望む未来を与えられない私を恨んでも構いません』
世界なんてどうでもいい、今俺の周りの世界だけ助けてくれたら、あとはどうだっていいんだ。俺は、普通の生活を送りたい。英雄のように華々しく死ぬなんて真っ平だ。情けなくても汚くても生きていたい。そう思うのは悪いことなんだろうか。
「兄ちゃん?」
玄関を開けて家に帰ってきた直哉が、玄関先の廊下で泣いていた俺を見て不審そうな声を上げる。上手く誤魔化せなくて、母さんの嗚咽も聞こえて、ストラスも顔を伏せてて、一番年下の直哉にこんな心配をさせるなんて兄失格だ。でも泣きやめない。
直哉は慌てて俺の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んでいる。真っ黒い瞳が俺の瞳とかち合って、視界いっぱいに歪んだ直哉が入ってくる。
「……悲しいの?」
「うっ……くっ、うっ」
直哉相手にまともな返事もできずに泣いている俺に直哉の瞳から光が失われていくのを感じる。直哉は優しいから、またこんなに心配させてしまう。本当に、どうして……
「ずっと、こうやって泣いてたんだな」
「直哉?」
別の声が聞こえてきて驚いてあげた視線の先にはやっぱり直哉しかいなくて、急に顔を上げた俺に直哉がビックリして尻もちをついた。
「いってえ!顔急にあげんなよ!頭突きくらうかと思ったし!」
「あ、いや……」
「良く分かんないけど、早くご飯食べよ。俺おなか減ったよ」
直哉が俺の腕を掴んで立ち上がらせようとする。力強くなったな、としみじみ考えながらその手を借りて立ち上がる。直哉はストラスを抱きかかえて、俺が歩き出すのを待っている。
『拓也、あくまでも最後の手段です。私の全てをかけて貴方は守って見せます』
そう簡単に行くんだろうか。いや、いかせなきゃいけないんだ。
胸の痛みは消えることなく蝕んでいき、どんどん感覚が可笑しくなっていく。この痛みに耐えられる日が来るんだろうか。
うやむやになってしまった最悪の結末を心の奥にしまって蓋をして無理やり笑みを張り付ける。そのまま直哉の手を引いてリビングに向かう。母さんはもう泣いておらず、少しだけ赤くなった目元を隠して無理に明るく振る舞う。なんだか変な感じだね。
家族なのに、こんなにも嘘ばっかりだ。
引きつる口角を筋肉で調節して、母さんに合わせて笑って見せる。滑稽な家族はこうやって嘘を重ねていくんだ。相手を想って、傷つけまいとして、そうやってお互いに疲れ果ててしまうんだ。でもそれ以外の解決法なんて、今の俺には分からなかった。
***
?side -
「……優しくなかったんだなこの世界は。あんたに」
風が頬を撫でて、後ろを振り返ったらそこには一匹の悪魔が現れた。混沌と化したこの世界をまるで笑うかのように隣に降り立った存在に青年は視線だけを向けた。
『同情だけはしてやるけど、俺は悪くないぜ。だって言われた通りにしただけさ』
「そうだな。だから今度は俺の言うとおりにしろ」
『はーい』
ケラケラ笑って、悪魔は青年の横に腰掛け街並みを眺めている。青年と悪魔に気づくことなく通行人たちは足早にすり抜けていく。
『なあ、俺が言うのもなんだがよ、世界全てを恨むなよ。お前は復讐しに来たんじゃなかっただろ』
「分かってんだよ。はは、でもさムカつくだろ?こいつらは何もできないくせに、しなかったくせに人生を全うするんだ。全員、消えちまえばよかったんだよ」
『……おい』
「冗談だ。行くぞ、俺たちにはやることがあるんだ。あまりここには留まれない」
青年が歩き出した後ろを悪魔もついていく。振り返ることなく青年はポツリと呟いた。
「……俺が、あんたを救ってやる」
貴方は、俺との約束を破ったんだ。だから見つけてあげる。どこまででも追いかけて ――