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HOPE  作者: 世捨て作家
9/12

Episode7 宮村想太

 目覚めると、病室の真っ白な天井が見えた。

 朝の眩しい光が僕を照らす。

 こんな朝を、どれだけ繰り返したのだろうか。

 看護師の話では、明日から右肩のリハビリが始まるらしい。

 周りの人の口振りからすると、あの日の夜から一週間も経っていない様だ。

 あの日の夜、僕と平野さんが襲われた日の翌日、彼女の兄、平野隼人と名乗る青年が僕を訪ねて来た。

 彼は言ってくれた。

『ありがとう。沙耶子を守ってくれて』

 嬉しくなんてかった。

 逆に自分が情けなかった。

 僕は平野さんを守る事なんて、出来やしなかったのだから。

 あの夜以来、平野さんには会っていない。

 気が狂ってしまっていて、面会が出来ないと聞いている。



 看護師が持って来た昼食を済ませた昼過ぎ、吹奏楽部の友人、岸堵真由が見舞いに来た。

 彼女は重い足取りで、ベットの横の椅子に腰掛ける。

「想太……腕の調子は……」

 僕は真由から目を反らし、無感情に返答する。

「順調さ。明日にはリハビリも始まるし」

「そうなんだ」

 彼女の表情は安堵に満ちていた。

 その表情が、どうしてか憎たらしい。

「どうして、そんなに安心しているんだ?」

「……当たり前の事だよ。私は……想太が無事で本当に良かったと思ってるから」

「……嘘だね」

 僕の一言で、病室にポツリと沈黙が落ちた。

 真由はスカートの裾を強く握る。

「どうして、そんな事を言うの?」

「本当は、分かっているんだ。君は、僕にクラリネットをやらせたがっている。今の僕は、こんな状態だ。看護師の話によると、平野さんも気が狂ってしまっているそうだ。なら、君はこの機を逃す事はないんじゃないのかな?」

「何を言っているの……?」

 彼女の声が、段々と震えていくのが分かった。

 それでも、僕は言葉を続けた。

「つまり君は僕に、こう言いに来たんだ。『もう、放課後にヴァイオリンを弾く意味なんてない。吹奏楽部へ戻ろう』って」

 彼女の声が震えていく。

「どうして……どうして、そんな事を言うの!?」

「真由が言いたかった事を、代わりに言っただけさ」

「想太なんて……もう、知らない!」

 泣きそうな声で叫んだかと思うと、真由は病室から飛び出して行ってしまった。

 あれだけ言ったんだ。

 彼女がここに来る事は、暫くないだろう。

 一息吐き、窓の外を見る。

流れて行く雲。

 いつも通りの街。

 真由が来た事以外は、いつもと変わらない。

 する事もなく、ただベットの上にいるだけ。

 なんだか、気が狂ってしまいそうだ。

 そんな矢先、一人の青年が病室を訪ねて来た。

 平野さんのお兄さんと同じ位の年齢や容姿だが、どこか大人びていて身長も高い。

「君が宮村想太……君だね?」

「はい。あの……あなたは?」

 青年は少しだけ考える様な素振りを見せる。

「俺は烏丸綾人。沙耶子の事を知っているだろ。あいつとは……まあ、友達みたいな者だ。本当なら、もっと早くここに来るべきだったんだが……」

「僕に何か?」

「……平野隼人って、知っているだろ?」

「はい」

 彼の声が低くなり、少しだけ顔色が悪くなる。

「あいつが死んだよ」

「え!?」

 数日前、僕の病室を訪ねて来た青年、あの平野さんのお兄さんが死んだ?

 突然の知らせに驚きを隠せなかった。

「どうして!?」

「あの日の夜、君達を襲った男。平野は、その男と二人で死んでいた。警察の捜査によると、男を殺したのは平野だそうだ」

 全く分からない。

 僕が眠っている間に、何が起こったというのだろうか。

「どうして、あの人が……」

「テレビや新聞を見ていないのか?」

 ここ数日、僕は新聞やテレビの様なメディアには全く関わっていなかった。

 彼は僕の唖然とした顔を余所に、話を続ける。

「君達を襲った男。あいつは、沙耶子をストーカーしていた危険人物だった。だから、平野は一人で手を討ったんだろ」

あの日の夜、側にいながら彼女を守る事の出来なかった自分。

そんな自分が、どうしようもなく情けなく思えた。

 もしあの時、僕が何かしらの手段を取っていれば、今の様な結果は免れる事が出来た筈だ。

 後悔が押し寄せて来る。

 目蓋が段々熱くなり、堪える事の出来ない涙が溢れ出て来た。

 僕は左手で、涙の溢れる目蓋を覆い隠す。

「全部……僕が悪いんです。僕が無力だったから、平野さんのお兄さんは……」

「そんな事はない。隼人は死ぬ事を覚悟していたんじゃないか? だから、一人で行った」

 彼は考えていたのだろうか。

 友人や親、残された人達の事を。

「そんなの、只の自己犠牲です」

「?」

「残された人達は、どうなるんですか? これから、ずっと死んだ人の事を考えて生きて行くんですよ。友人や家族、あなたも」

「確かに、そうだな。君の御両親は?」

 ここ数日、僕の両親が見舞いに来る事はなかった。

 仕方のない事だと思っている。

 去年から、二人は海外で音楽活動を行っていて、殆ど日本にいる事はない。

 父は僕にクラリネットを託して、吹奏楽を続ける事を望んでいた。

 それなのに、僕は夢を見続けて……ヴァイオリンを続けていた。

 あの日の出来事は、ヴァイオリンを続けて来た自分への罰だったのかもしれない。

 馬鹿みたいだ。

 僕が続けて来たヴァイオリンの練習なんて、只の子供の反抗みたいな物なのに。

「……」

「俺の両親の話をしよう」

 気のせいだろうか。

 彼の声が少しだけ、優しくなった様な気がした。

「俺の親父は、プロの野球選手なんだ。おふくろは有名女優。二人とも、忙しくて俺の面倒なんて全く見る事が出来なかった。それが嫌でな。小学生の頃、野球を始めたんだ。親父に見ていて欲しくてな」

 彼は僕とは逆だ。

 父親に期待されたくて、彼は野球を始めた。

 僕はというと、親に流されるようにして吹奏楽を始めた。

 しかし、楽しいと思える事はあったのだ。

 それは仲間という存在が、あってこその事だった。

「野球を始めて、仲間も出来た。親友と呼べる奴が一人いたんだ。そいつとは、同じ高校へ進学して、同じ野球部で野球をした」

「僕にも、そんな人はいました。でも、彼女は僕の事を何一つ分かっていなかった。僕の事を理解もせず、ただ自分の考えを押し通そうとしていた」

 僕は何を言っているんだ。

 彼に真由の話なんかをしても、どうにかなる筈がないのに。

「その子は、君を思ってはいるけれど、空回りしているんじゃないのか?」

「どういう意味ですか?」

「つまり、お互いにしっかりと話し合わなければ、お互いを理解し合う事はないって事だ」

「……」

 考えてみると、意見を押し通そうとしていたのは、僕なのかもしれない。

 真由に対して嫌味な態度を取り続け、彼女を追い返してしまった。

「もしかしたら、彼女を理解していなかったのは、僕なのかもしれない」

「それなら、君は彼女に再び会って、話をするべきなんじゃないのか?」

 彼の言う通りだ。

 彼女に会って、しっかりと話をして……。

 何を話せばいいんだ?

 これからの事……僕のヴァイオリン?

 吹奏楽の事?

 悩んでいても仕方がない。

「彼女は、たぶん会いに来ません」

「?」

「でも、明日からリハビリが始まるんです。リハビリが終わったら彼女の所へ行って、しっかり話をします。それで、何かが解決するか分からないけど……」

「そんな事はない。きっと、その子は分かってくれるさ」

 青年は僕に笑い掛ける。

 どこか不器用な笑顔だったけれど、とても気分が晴れた気がした。

 青年は病室の壁に掛けられた時計を見上げる。

「もう時間だ。そろそろ行くよ」

「あの!」

 部屋から出ようとする彼を、僕は引き止めた。

「何だ?」

「あの……あなたは、まだ野球を続けているんですか?」

 背を向けていた彼は、ゆっくりと僕の方へ振り返る。

「キャッチボール程度ならな」

 それだけ言うと、彼は病室を去って行った。



 リハビリは昼過ぎから始まった。

 肩を曲げたり腕を回したりする様なストレッチが、主な内容だ。

 聞こえは単純で簡単そうだが、実態はとても辛い。

 普段は自由に動いていた肩を動かす度に、激痛が走るのだ。

 それでも、リハビリを止めてはいけない。

 リハビリを終えて一日でも早く、僕は真由に会いに行くと決めたのだから。



 三学期、気付けばそんな時期になっていた。

 医者からは、もう学校に行っても問題はないと言われている。

 だから今日、僕は学校へ行く事にした。


 昼過ぎという事もあって、生徒は全員が授業を受けている。

 その為、校門や昇降口には誰もいない。

 約一カ月半しか、ここを訪れていなかったというのに、校門、昇降口、廊下、それら全てがとても懐かしく感じられる。

 とりあえず職員室へ行き、担任と話をした。

「肩の調子はどうだ?」

「ええ、かなり回復しましたよ」

「そうか。今は五限目の授業だけど参加していくか?」

「いえ、いいです。今日は、荷物の整理と……人に会いに来ただけですから」

 担任は「そうか」とだけ言い、それ以上の詮索をする事はなかった。


 幸い、音楽室は解放されており、授業として使っているクラスはいないようだ。

 隅に寄せられた机の上には、僕のヴァイオリンとホープの楽譜が置いてある。

 あの日、ホープを弾いていたヴァイオリン。

 ケースを開けて手に取ってみると、なんだかズッシリとしていて重い。

「こんな肩じゃ、まだこれは弾けないな」

 ゆっくりとケースの蓋を閉めた。

 壁に掛けられている時計を見ると、時間は五限の終了間近だった。

 真由に会うなら、授業間の休み時間である今か。

 いや、あと一限待てば放課後だ。

 真由に会うのは、それからで良い。


 誰も来ない事を察するに、どのクラスもこの時間は音楽室を使う事はないようだ。

 あの日の夕暮れ時、平野さんとホープを弾いていた、あの時間を思い出す。

 結局、ホープという楽譜が誰の手を渡り、どうしてここに置かれていたのか、分からず終いになってしまった。

「本当に……不思議な曲だったな……」


 強い西日が窓から差し込む。

 ボーっとしている間に、放課後になってしまっていたようだ。

 チャイムに気付かないなんて、どうかしてるな。

「想太」

 ドアの方から声がした。

 長い間、聞く事のなかった声。

「真由……。どうして、ここに?」

「こっちの台詞だよ。肩は大丈夫なの?」

 彼女に対して、あんな冷たい態度を取ってしまったというのに。

真由は本当に僕の事を心配してくれている。

 それは表情をみただけで分かった。

「もう大丈夫だ。それより、今日は話があって来たんだ」


 真由は僕のヴァイオリンを見つめていた。

「ねえ、これ……触って良い?」

「うん」

 ケースを開けて、真由はヴァイオリンを手に取る。

「私は……ヴァイオリンを弾く事なんて出来ないけど、吹奏楽部で頑張ってる。それと同じ様に、想太もヴァイオリンを頑張ってたんだよね……」

「でも、何も成果はなかった。それに、皆に迷惑を掛けた。皆、怒ってるよな。真由……お前もそうだろ?」

「私は……凄いと思ってた」

「?」

「並じゃ出来ないよ。コンクール前に自分の居場所を飛び出して、一人でヴァイオリンを弾くなんて……」

 真由は僕を真っ直ぐに見据える。

 その瞳には、僕と病室で話していた時の様な弱々しい雰囲気はなかった。

「想太がしたい事をすれば良いんだよ。私は、何も言わないから」

 彼女の声はとても優しくて、聞いていて泣きそうになってしまった。

「僕は……戻りたい。真由や皆の所へ……。でも、皆は……こんな僕を受け入れてくれるか……」

 泣き出しそうな僕に、彼女は笑い掛ける。

「大丈夫だよ。想太は、皆とは違う形で頑張っていたんだから」

「真由……。今度はクラリネットを諦めないで続けてみるよ」

 彼女から目を反らし、付け加えた。

「あと……ヴァイオリンも」

 真由は嬉しそうに笑い、僕の手を取る。

「行こうよ! 吹奏楽部!」

「ああ!」

 果たして、皆が僕を受け入れてくれるのかは分からない。

 それでも、真由がいれば吹奏楽を諦めずに続けていける。

 そう思えた。


        ♪

 

 やっと、平野さんに会う決心が着いた。

 それなのに、病院に平野さんの姿はなかった。

 看護師の話では、とっくに退院していて、今は家にいるそうだ。

 その事を聞いて、とても安心した。

 しかし、退院したというのに、どうして彼女は学校に来ないのだろう。

 ただ、僕が彼女を見掛けなかっただけなのか。

 それとも……。

 妙な胸騒ぎがしていた。


 三月も終わりだというのに、病院からの帰り道はとても寒かった。

 結局、平野さんには会う事が出来なかった。

 もしかしたら、これからも会う事は出来なのかも。

 そんな下向きな考えしか出来ないでいた。

 その時だ。

 どこからか、聴き覚えのある音色が聞こえて来る。

 夕日が空を真赤に染めた、夕暮れ時の音楽室。

 そこで彼女が奏でいたピアノの音。

 聴こえて来る曲名は、すぐに分かった。

 いや、分からない筈がない。

 これはホープだ。

 いったい誰が?

 考えるまでもない。

 これを弾いているのは平野さんだ。

 彼女以外にありえない。


 ひたすら音を辿って着いた場所は、郊外に位置する一軒家だった。

 小さな門の脇には、ピアノ教室と書かれた看板が立て掛けられている。

 もしかしたら、平野さんはここに通っているのかもしれない。

 ほんの少しの期待を抱き、インターホンを押した。

 すると、ホープの音色は突然止まった。

『はい』

 スピーカーから老婆の声が聞こえて来る。

「あの……、えっと……。そちらに、平野さんという方は……」

 彼女に会う事だけを考えていた為、上手く応答する事が出来なかった。

『もしかして、沙耶子さんの御友人の方ですか?』

「まあ、そうですけど……」

『では、どうぞ。ここはピアノ教室なので、勝手に上がって来て構いませんよ』

 老婆に言われた通り、僕は門を開けて家に上がった。

 玄関や廊下には、アジアの国で手に入りそうな、珍妙な仮面や楽器が壁に据え付けられている。

「こちらですよ!」

 奥の部屋から老婆の声が聞こえた。

 真っ直ぐに廊下を進み、奥の部屋へ入ると、割と広い部屋に出た。

 部屋の中央には、グランドピアノが一つ置いてある。

 その隣に老婆が一人。

 とても穏やかな雰囲気を纏っていて、優しそうな人だ。

「椅子に座って待っていなさい。すぐにお茶とお菓子の準備をしますからね」

 そう言うと、老婆は部屋から出て行ってしまった。

 窓際には椅子が三つと大きな机が一つ、向かい合う様にして置いてある。

 そこに腰を下ろした。

 中央に設置してあるピアノ以外にも、あらゆる楽器が壁に飾られている。

 ヴァイオリンは勿論、クラリネットやトロンボーンの様な吹奏楽器もだ。

「凄いでしょう。これら全ては、私が若い頃に集めた物なんですよ」

 彼女は二人分の紅茶が入ったティーカップと、数枚のビスケットの乗った皿をトレイに乗せて、部屋に戻って来た。

 それを机の上に置き、僕の向かいの椅子に座る。

「沙耶子さんに用があって来たんでしょ?」

「はい」

「ごめんなさいね。沙耶子さん、今日は来ない日なのよ」

 やはり、平野さんはここに通っていた様だ。

「あの……最初に聞きたい事があるんです」

「何でしょうか?」

「さっき、ホープを弾いていたのは、あなたですか?」

「ええ、そうですよ」

 そう言うと、老婆はゆっくりと立ち上がり、ピアノの譜面台に置かれている楽譜を持って来て、それを机の上に置いた。

「これ……」

 老婆が持って来た物は、ホープの楽譜だった。

「これはね、沙耶子さんが私に教えてくれた曲なんですよ。聞く所によると、彼女の叔母さんと二人で作った曲とか。あなたは、これをどこで?」

「音楽室で見つけました。たぶん、前の卒業生が記念か何かで置いて行った物だと思って、僕はそれをヴァイオリンで弾いていたんです。それから暫くして、平野さんが音楽室を訪ねて来たんです」

「そうですか。じゃあ、次は私が質問しますね」

 老婆は紅茶を啜り、数秒の間を置いた。

「沙耶子さんに会って、何を話すつもりだったんですか?」

 もしかしたら、彼女は知っているのではないだろうか。

 あの日の夜にあった出来事を。

「あの、あなたは」

 老婆は僕の言葉を、相も変わらぬ穏やかな口調で遮る。

「今は、私が質問しているのですよ」

 僕の目を見る老婆の瞳は真っ直ぐで、視線を反らす事が出来なかった。

「……僕は……平野さんに会って……」

 会って、どうしようとしていたのだろう。

「それが分からない様では、あなたが沙耶子さんに会う資格はありませんよ」

 何も言い返す事が出来なかった。

 しかし、俯く僕に彼女は言ってくれた。

「でも、私が沙耶子さんの代行として、あなたと話す事なら出来ますけどね」

「じゃあ、教えてください。今、平野さんは何をしているんですか?」

 老婆は軽く息を吐く。

「その質問に答えましょう。ですが、誓って下さい。どんな事を聞いても、沙耶子さんが望む通りに事を済ませると」

「誓います」

「では、教えます。沙耶子さんは、私以外の人間に会う事を拒んでいます」

「どういう事ですか?」

「今まで関わって来た人との関係を清算した、という事です。だから、彼女は学校を辞めて、ここに通っているのですよ。ピアノを練習する為にね」

「え」

 老婆の話からするに、平野さんは関わって来た人達との関係を清算する為に、学校を辞めたという事になる。

 それなら、僕が彼女を学校で見掛けなかった事の説明も付く。

「でも、それだけの事で学校を辞めるなんて……」

「沙耶子さんなりの考えだったのでしょう。それに、彼女は凄腕です。あの調子ならプロだって夢ではありません」

 全ては平野さんの決断した事。

 なら、僕は何も否定しない。

「もう僕がホープを弾く事は、ないと思います。あれは平野さんの曲ですから」


 窓からオレンジ色の光が差し始める。

 立ち上がり、軽くお辞儀をした。

「ありがとうございました。そろそろ帰ります」

「では、紅茶くらいは飲んで行って下さい。とても美味しいので」

 そういえば話に夢中で、出された紅茶やビスケットを口にしていなかった。

「すみません。せっかく、出して下さったのに……」

「良いんですよ。うちの生徒さんは、紅茶やお菓子を出しても口にしない人の方が多いですから」

 飲んでみると香りが鼻を刺す様な、若者には飲みにくい様な紅茶だった。

「美味しいですか?」

 苦みに耐えながらも、少しだけ苦笑して見せる。

「ええ、とっても美味しいです」

 僕の反応を見て、老婆はにっこりと笑った。



「忘れないで下さいね。今日、ここに来た事を」

 そう言って、老婆は帰り際に大きな紙袋を僕に渡した。

「何だろう……これ」

 帰り道で、少しだけ中身を覗いてみた。

 中には大量のビスケットが、ぎっしり詰められている。

 一つだけ抓まんで、食べてみた。

「……」

 あの紅茶と同じ様な、若者には食べにくい様な味だ。

「一人で、これを食べるのは厳しいな。捨てるのも勿体ないし……」

 ポケットから携帯を取り出し、真由に電話を掛ける。

 数階のコールが鳴り、真由の声が聞こえた。

『もしもし、想太?』

「なあ、真由。今から僕の家に来れるか?」

『良いけど、どうして?』

「近所の人から、美味しい菓子を貰ったんだ。一緒に食べないか?」

『分かった、お茶会だね! じゃあ、私は紅茶を持ってすぐに行くから、準備よろしく!』

 それだけ言うと、彼女は電話を切ってしまった。

 張り切っていたな。

 なんだか、真由にこのビスケットを食べさせるのが可哀想に思えて来た。

 仕方ない。

 帰りにコンビニに寄って、市販の菓子でも買って行くか。



 絶対に忘れはしない。

 平野さんと過ごした放課後、そして今日の出来事を。

 見上げた夕焼け空は、彼女と出会った日の様に真赤に燃えていた。


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