Episode6 天道美羽
部屋を掃除していると、高校時代の卒業アルバムを見つけた。
と言っても、卒業したのは去年の事なのだけれど。
服や本が散らばった床に座り込む。
「まだ、年も経ってないのに、どうしてだろう……懐かしいな」
ページを開くと、高校一年生の頃の私の姿が写っている。
写真に写る私は、今よりもずっと髪が短くて、まだ幼さが残っていた。
あの日、入学した時の自分を思い出す。
これからの高校生活に、大きな夢を馳せていた私の姿を……。
♪
「凄い! チョー上手いじゃん!」
「さすがスポーツ推薦だな!」
女子バスケ部で、一年生の活動が始まって早一週間。
スポーツ推薦でこの学校に入学した私は、先輩達からの注目の的だった。
コーチから部活終了の合図か掛かる。
常識として二年生と三年生は、一年生に片付けを任せて帰る事になっている。
先輩達は、そそくさと荷物をまとめて帰宅して行く。
それに続いて、コーチも体育館から出て行く。
体育館の中には、私達一年生の女子だけが残った。
「おい、美羽」
一人が私に声を掛ける。
それと同時に、数人が私を中心に円を作った。
皆、それぞれにモップやバスケットボールを持っている。
「何?」
「あのさぁ、なんかだるいからぁ、これやっといてくんないかなぁ」
そう言って、モップを私の足に倒す。
「痛っ」
足の痛みに反応して声を上げると、モップ以外にもバスケットボールやスパイクが私の体に飛んで来た。
体中が痛くて、その場に蹲る。
皆はそれを見て嘲笑し、私を置いて体育館から出て行った。
いつもの事だ。
こんな事……。
私は渋々と、散らばった道具を抱え、ぼそぼそと呟く。
「何がスポーツ推薦だ……。私じゃなくて、他の奴がスポーツ推薦だったら、同じ扱いをするくせに……」
そう、彼女達が私にこんな事をする原因は、ただ一つ。
私がスポーツ推薦で入学した、という事だけだ。
恐らく、先輩達や先生のお気に入りにされている私を、妬んでいるに違いない。
しかし、私は気取る様な事はしていない。
ただ、普通にバスケをしている。
それだけなのに……なんて、理不尽なのだろう。
翌日、一限から授業をサボった。
理由はただ一つ。
ダルいから。
それは、全国の高校生が授業をサボる時に使う理由ナンバーワンに違いない。
そして、この学校でサボれる場所といったら、ここが一番だ。
校舎裏。
木蓮が生い茂っている割には、気持ち悪い虫もいない。
更に上からの木漏れ日が、なんとも綺麗で気持ちが良さそうだ。
ふと、木蓮の下に誰かがいる事に気付いた。
私は反射的に後ろへ下がり、物陰に隠れる。
良かった。
向こうは気付いていない。
木蓮の下にいるのは、一人の少年だった。
私と同じく授業をサボっているのだろう。
ジーっと見ていると、彼が泣いている事に気付いた。
そういえば、クラスの友達から聞いた事があった。
入学して早々、両親を亡くした可哀想な男の子が、校舎の裏で一人で泣いているという噂を……。
「本当だったんだ」
ただの噂だと思っていた。
もしかしたら、彼と哀しみを分かち合う事が出来たら……。
駄目だ。
私なんかじゃ、彼には近付けない。
それに、私に関わった事で、彼にまで何かしらのリスクを背負うのなら、このままで良い。
放課後になると、皆が急いで部活へ行く準備をしている。
勿論、私もそうだ。
女子バスケ部の部室へ行くと、まだ誰もいなかった。
自分専用のロッカーを開けた。
すると突然、幾本の画鋲が私の頭に落下した。
その直後、部室のドアが開き、高笑いが私に浴びせられる。
声の主は、女子バスケ部の私を覗いた一年全員だった。
「マジ! ウけるんだけど!」
一人がそう言い放ち、持っていたバケツの水を浴びせる。
笑いは更に大きくなった。
「うわぁ! 汚ねぇーんだよ!」
「美羽ちゃん、今日は帰った方が良いんじゃないのぉ?」
もう、嫌だ。
私はバッグも持たずに、高笑いを背に受けながら、部室から逃げ出した。
そのまま学校から抜け出した。
濡れたままの制服。
履き替える事すら忘れていた上履き。
こんな姿じゃ、家には帰れない。
ふらふらと歩いて、店が並ぶ大通りに来た。
日も暮れ始めていた為、所々に明かりが点き始める。
何をやってるんだろう……私は……。
学校を抜け出したところで、何かが変わる訳でもないのに。
「ねえ、君」
後ろから、低い男の声がした。
「君、いくら?」
「は?」
振り返ると、男は私の腕を掴み、いやらしい目付きで私を見ていた。
「ちょっ……何なんですか!?」
「良いじゃん。少しくらい」
何を言っているんだ? この男は!?
私は男の腕を振り払い、必死に走った。
見た所、酔っていたらしく、追い掛けて来る事はないだろう。
電柱に手を付いて呼吸を整える。
「ちょっと、君」
また、後ろから声を掛けられた。
「いやっ!」
声の主が誰かも確認せずに、私は思いっ切り腕を振り回した。
瞬時に、軽々しくそれを制止される。
「ああ、いきなりごめんね」
声の主は、私と同じ制服を着た少女だった。
「君、天道美羽さんだよね?」
「は、はい」
私の名前を確認すると、彼女は笑顔を作る。
「私は三年の琴峰由佳。あなたと同じバスケ部員よ」
「え?」
彼女の正体を知って、なぜか安心した。
しかし、どうして彼女は部活をやっている筈のこの時間に、こんな所にいるのだろうか。
それに、琴峰由佳なんて言う名前は、あまり聞かないし、こんな人は見た事もない。
「あの……琴峰先輩は、本当にバスケ部員なんですか?」
「そうよ。どうして?」
「だって、部活中とか……見た事ないし」
「ああ、それは……」
先輩は、私から少しだけ目を反らす。
「……最近、私が部活に出てないからじゃないかなぁ……」
「どうして?」
「なんか、部活に出るのが面倒でさぁ。まあ、正直に言うと……だるい」
私と同じだ。
だるい。
それだけの理由で、物事を済ませている。
「もしかして、君もサボり」
「……はい。そんなところです」
「じゃあさ」
琴峰先輩は私の手を取る。
「二人でどこかに遊びに行こうよ」
「え? どこかって?」
「うーん……とりあえず、その濡れた服をどうにかしないとね。風邪引いちゃうから。私の家にでも来る? すぐ近くだから」
「……はい」
こんな先輩に出会ったのは初めてだ。
なんだか、一緒にいると安心した。
服を貸してくれるという行為に甘えて、彼女の家に上がらせて貰った。
「ここが私の部屋」
部屋に入るなり、琴峰先輩は一枚のタオルを私に掛け、洋服ダンスをあさり始めた。
「うーんと……これなんて、どうかな?」
そう言って、上下ジャージと下着を引っぱり出す。
「悪いね。小さい服なくて」
「いえ、大丈夫です」
ブラウスのボタンを外し、スカートを脱ごうしたが、彼女の視線が真っ直ぐに私を捉えている事に気付いた。
「あの……先輩……」
「ん? どうした?」
「いや……何て言うか……その……」
琴峰先輩は察してくれたのか、私に背中を向ける。
「まあ、そうね。いくら同姓とは言っても、さすがに下着までは着替えにくいよね」
「すいません」
「いやいや、いいって」
着替えを終えた私を見て、琴峰先輩はからかい気味に微笑む。
「まるで昔の私を見てるみたいだ。胸とか」
「え!?」
私の視線は、真っ直ぐに彼女の膨らみのある胸部へ行っていた。
「私も……そんな風になれますか?」
「ああ、大丈夫。一年生の頃の私の悩みは、乳が小さい事だったんだから」
「へぇ」
昔の琴峰先輩。
この人も、部活内で私の様な境遇にいたのだろうか。
「あの……どうして、聞かないんですか?」
「何を?」
キョトンとした顔をして、聞き返された。
「だって、あんな濡れた格好で街にいて、部活をサボったなんて……」
「だから?」
「……」
僅かな沈黙が生まれる。
黙り込む私に、琴峰先輩は励ます様に言った。
「私は、何も気にしない。でも、何か悩みがあるなら言って欲しいな。私で良ければ、力になるから」
「……」
「ちょっと! どうしたの?」
先輩は、私の顔を見て驚いている。
「あの……私の顔に何か付いてますか?」
「いや……だって、涙が出てる」
「え?」
頬を触ると、温かい涙が流れていた。
「あ、えっと……ごめんなさい。なんか……私……」
慌てて涙を拭う私を、琴峰先輩は優しく抱き締めた。
彼女の柔らかく温かい胸部が、私の顔面に当たる。
「琴峰先輩……」
「由佳でいいよ」
「由佳先輩……」
「何?」
「聞いてください。私の悩みを……」
私は由佳先輩に全てを打ち明けた。
バスケ部での私に対する虐め。
これから私は、この部活でやっていけるのだろうか。
「じゃあ、私も一緒に部活へ行くよ」
必死に訴える私に、由佳先輩はそう言ってくれた。
空はすっかり暗くなっている。
一人だけの帰り道、どうしてか足取りが軽かった。
ジャージを着ているからだろうか。
「返すのはいつでも良いよ」
由佳先輩はそう言っていたけれど、明日には返そう。
本当に良かった。
あんな優しい先輩に出会えて。
翌日の昼休み、校舎裏へ行ってみた。
あの少年が気になったからだ。
クラスの友達から聞いた話によると、少年の名前は平野隼人というらしい。
物陰から、こっそりと顔を覗かせる。
木蓮から降り注ぐ木漏れ日の下に、少年と少女がいた。
二人は仲睦まじく、楽しそうに話している。
その光景を見て私は思った。
ああ、きっと彼は信頼できる人を見つけたんだな。
私と同じ様に。
部活へ向かう私の気分は、珍しく軽快だった。
今日は由佳先輩がいるからだ。
あの人がいれば、きっと大丈夫。
そんな気がした。
部室の前で、少しだけ深呼吸をする。
「よし!」
思い切って、ドアを開けた。
室内には、既に私以外の一年生や二年生の部員がいる。
由佳先輩は、まだいないようだ。
「こんにちは」
とりあえず軽く挨拶をしただけなのだが、全員の不気味な視線が私に集中した。
「ちょっと、天道」
先輩の一人が私に声を掛けた。
なぜか、彼女の声は沈んでいる。
「これ」
私に何かが差し出される。
それはボロボロになった、数人分のユニフォームだった。
袖等の至る部分が裂けていて、もう使い物になりそうにない。
「あの……これは?」
「もう全部分かってるんだよ! あんたでしょ!? これやたの!」
「え?」
そんな事、全く身に覚えがない。
「このユニフォームがあんたのロッカーから出て来たのが、何よりの証拠だよ! それに商人だっている」
「そんな……」
どうして?
一体、誰がこんな事をした?
もしかして、私以外の一年生の仕業だろうか。
きっとそうだ。
それしか有り得ない。
「私じゃありません! それは」
「いや、それは天道の仕業だよ」
私の意見を遮る様に、後ろから声がした。
振り返ると、そこには由佳先輩がいる。
「由佳先輩! これは、どういう事ですか!?」
「昨日、久しぶりに部活に顔を出そうかと思って、ここに来たんだよ。でも、誰もいなかったからすぐに帰る事にした。私が部室から出た時、天道は私とすれ違っただろ」
嘘だ。
そんな筈はない。
私は昨日、由佳先輩の家にいたのだから。
「嘘です! そんなの!」
必死に否定する私の意見を、他の一年生が否定する。
「嘘付いてるのは天道なんじゃないの」
「先輩に濡れ衣着せるとかサイテー」
どうして?
由佳先輩……どうして……私を裏切ったんですか?
もう、私を虐めのターゲットとするグループは、一年生だけに留まってはいなかった。
「ほら! 飲めよ!」
彼女達は、私の顔面を便器の中へと突っ込んだ。
「あっはっはっは! 汚ねぇ!」
立て続けに、背中に大量の水がホースを通して掛けられる。
どうして?
私は何もやていないのに、どうしてこんな事になるんだ?
便器から顔を引き上げられ、数人が私の頬をビンタする。
「こんな物じゃないんだよ! あんたがした事はね!」
何も言い出す事が出来なかった。
と言うよりも気力がなかった。
どうせ、彼女達は私の意見なんて、もう聞かないのだから。
「先輩、天道の服も裂いちゃいましょうよ!」
「ああ、でも……こいつの制服を裂いた後にチクられても困るしなぁ。おい、天道。脱げよ!」
そう言うと、私の服を四方八方から掴み、ブラウスのボタンやスカートのチャックを強引に外し始める。
「もう……止めて下さい」
そんな訴えも、彼女達の笑い声で掻き消された。
彼女達がいなくなって、私はトイレの床に下着姿で横たわっていた。
脱がされた制服は、全て便器の水に浸されている。
「本当に惨めで汚ないわね」
上から由佳先輩の声がした。
「どうして……折角、優しい先輩に出会えたと思ったのに……」
フンっと、由佳先輩は私を鼻で笑う。
「もう、誰も天道の事なんて信じないよ。この際だから言うけど、ユニフォームを裂いたのは私だよ。普段、あれは試合でしか使わないから、部室に置きっ放しで都合が良かったんだよ。だから、今日の朝早くに部室に忍び込んだの」
「どうして、そんな事を?」
由佳先輩は制服のボタンを外し、右肩をさらけ出した。
彼女の右肩には、何重にも包帯が巻かれている。
「あんたが来る前、試合で肩をやっちゃってね。それっきり腕が上がらないんだよ。だから、たまに部活に顔を出してる。サボりなんていうのは嘘。ただ、天道が羨ましかった。まるで、昔の私を見ているみたいで。でも、あんたのバスケも終わりだね」
今、私の中で一つの感情が生まれた。
それは、私を妬むが故に貶めた、この女への抑え切れない程の怒りだった。
翌日の朝、私は由佳先輩を昇降口で待っていた。
昨日のままでは、収まりが付かなかったのだ。
当の本人が来た。
澄ました様な顔で、チラッと私を見る。
そして鼻で笑った。
彼女の行動が、私の怒りを脹らませる。
私は彼女の直ぐ前に駆け寄り、行く手を阻んだ。
「おはよう。天道」
爽やかに挨拶をされた。
そんな由佳先輩にはお構いなしに、私は彼女に言う。
「ちょっと用があるんですけど、一緒に来てくれませんか?」
私が由佳先輩を連れて来たのは、体育館の倉庫だ。
この時間、ここには誰もいない。
つまり、それは何も遠慮する事がないという事だ。
今の私は、由佳先輩に何をしでかすか分からないから。
「用って何?」
由佳先輩は、私に対して気取る様な笑みを向ける。
「私は……あの日だけでしたけど……由佳先輩を本気で信頼していました。でも、それも昨日で終わりました」
「そんなつまんない話をするのに、私を呼んだの?」
「いいえ。ただ、収まりが付かないんです。とりあえず、由佳先輩を殴りでもしないと……気が済まない」
私の言葉に、彼女は嘲笑する。
「へぇ、やってみなよ。ユニフォームを裂いて悪者になった上に、私を殴ったりしたら、天道は本当に終わるよ。ああ、そうか。もう天道に居場所なんかないか」
「黙れ!」
そう叫び、彼女の頬を強く叩く。
由佳先輩は唖然とした表情を浮かべる。
そして、その表情はやがて怒りの籠った表情へと変わった。
「天道……テメエ! 先輩にそんな事して良いと思ってんのかよ!?」
私は構わず彼女の頬を再び叩く。
「死にてえか!? コラッ!」
由佳先輩は脇に立て掛けられている金属バットを左手に取ったかと思うと、それを思いっ切り私の手前に振り下ろした。
鋭い金属音が部屋に響く。
「舐めてんじゃねぇぞ! 右は駄目でも左は使えるんだよ」
彼女のバットを振り回す手は止まらない。
やがて、私は奥に追い詰められ、右肩を思いっ切り強打された。
あまりの激痛に、その場で蹲る。
それに続けて、一気に右肩の感覚がなくなった。
「あんたも……私と同じ様にしてやるよ。二度とバスケが出来ない様にね!」
由佳先輩は金属バットを高く上げる。
「いや、ぶっ殺してやる」
その沈んだ彼女の声は、根拠はないけれど、本気で言っている様に感じられた。
このままでは、本当に殺される。
何かないかと手を這わせていると、バスケの試合に使われるラック式の点数版がすぐ隣にあった。
金属バットが振り下ろされると同時に、手前に点数版を引っ張る。
彼女の振り下ろした金属バットは点数版に直撃し、大きな金属音を上げた。
その瞬間、由佳先輩はバランスを崩し、尻もちを着く。
左手だけで金属バットを持っていたのだ。
無理もないだろう。
私はよろめきながらも、転がっている金属バットを左手で拾い上げ、彼女の前に立った。
「ちょっと……天道。何をする気?」
私は彼女の言葉に耳も貸さず、金属バットを彼女目掛けて強く振った。
♪
卒業アルバムの女子バスケ部の集合写真に、私の姿はない。
その理由は多々ある。
体育倉庫での一件で右肩を壊した為、私はバスケ部からの退部を余儀なくされた。
更に、それに続けての停学だ。
学校側が女子バスケ部に探りを入れる内に、真実が徐々に明かされた。
例えば、私に対する濡れ衣。
そして琴峰先輩の素行。
一年の中での虐め。
それを理由に全校生徒揃っての学年集会が開かれた程だ。
その後、由佳先輩には会っていない。
教師から聞いた話によると、私と同様に停学を受けた後、自分から退学したという話だ。
「まったく……私の高校生活はろくな物じゃないな」
どうしてか、今では笑いながらそんな事を振り返れる。
それは、高校三年生の二学期、ようやく彼に出会う事が出来たからだと思う。
いつも悲しそうな表情をしていて、誰かと関わる事を拒み続けて来た少年。
私の知らない間に、彼も一人ぼっちになっていた。
あの日、学校で起こった悲劇。
一人の女子生徒の自殺未遂だ。
その日を境に、彼は心を閉ざした。
誰とも関わろうとせず、人を寄せ付けまいと煙草まで吸って。
そんな彼の心を開きたい。
そう思い始めていた。
♪
「天道さん。ちょっといいかしら?」
三年生の夏休みが終わって早々、クラス担任の琴峰は、私を準備室へ呼び出した。
これと言って、呼び出される理由なんてないのだが……。
「あの……私、何かしましたか?」
「いいえ。そう言う事で呼んだんじゃないの」
「じゃあ、何ですか?」
私の問いに、琴峰の表情に影が差す。
「二年前、一年生の頃の事、覚えてる?」
二年前……おそらく琴峰先輩に関しての事だろう。
「えぇ。まあ」
「大変だったわね。全校集会まで開かれちゃって」
この人の口調は、どこか不自然だった。
「あの……どうして今、そんな話をするんですか?」
「あの子のフルネーム、覚えてる?」
「琴峰由佳」
「じゃあ、私の名前は?」
「琴峰……」
この時、前々から抱いていた疑問が解けた。
この人が新任して来た一年前、琴峰という名字を聞いて、少しだけ胸が痛んだ経験がある。
「あなたは……」
「そう。私は琴峰綾。由佳は私の妹よ」
背筋に悪寒が走る。
おそらく、この人は私を憎んでいる。
だから私をここへ呼んだ。
頭の中で勝手にそんな考えが浮かぶ。
琴峰から一歩引く。
「どうして……私をここに呼んだんですか?」
「あなたを許す為よ」
彼女の言動に不信感を抱きながら、質問を続ける。
「どういう意味ですか?」
「あなたを許す。そのままの意味じゃない。でも、一つだけやって欲しい事があるの。クラスに一人、平野隼人っていう問題子がいるでしょ?」
問題子!?
その言葉に、怒りが募る。
「平野君、授業にも出ないし、遅刻ばっかりするし、本当に困ってるのよ。それに私って新任でしょ? 初クラスでいきなりニートを出す訳にはいかないのよ。私の立場上ね」
平野は、好きであんな事をしている訳ではない。
それなのに、この女……。
直ぐにでも殴ってやりたかった。
しかし、由佳先輩の話をされた今、そんな事をする勇気が私にはなかった。
「とりあえず、あの問題子をどうにかしてちょうだい。お願い出来るかしら?」
「……はい」
「平野!」
何度も私はその名を呼び、彼に近付いた。
最初は私を突き放していたけれど、彼は少しずつ私を受け入れ、笑う様になっていった。
彼の笑う顔が可愛くて、何度も胸が苦しくなった。
琴峰の思惑通り……しかし事は全て良い方向へ向かっている。
本当にこれで良いのか、私にはよく分からなかった。
「平野君、大学入試に向けて猛勉強しているらしいじゃない。まあ、入試に間に合うか知らないけど」
投げやりな琴峰の口調に、怒りを覚えつつ、私は込み上げる怒りを抑え続けた。
「あいつは、よく頑張っていますよ」
「でしょうね。良かったわ。あなたのおかげでクラスの問題子がいなくなった」
「……そんな、問題児なんて……」
「あら、言い方が悪かったかしら。でも、あなたのおかげよ。もう、あなたが二年前にした事も、あなた自身の事に関しても考え直さないといけないわね」
由佳先輩……そういえば今はどうしているのだろうか。
「あの……由佳先輩は今、何をしているんですか?」
あの日、停学処分が終わった後に聞いた話では、自分から退学したと聞いているが。
その問いに、彼女の目付きが変わる。
「由佳は……ずっと家にいるわ。あの日以来、由佳は部屋に籠りっぱなし」
私のせいなのだろうか。
しかし、彼女が原因で、私はバスケが出来なくなった。
それを考えると、当然の報いだと思えてしまう。
琴峰は低い声で、何かをぶつぶつと言い始める。
「……全部……全部、あなたのせいよ。あなたのせいで、由佳は! ねえ、これを見てよ!」
そう言って、自分の左腕を私に突き出してくる。
そこには、幾つもの痣があった。
「由佳にやられたのよ! 最近はなくなって来たけど、あの日から、由佳は私に暴力を振るう様になったのよ! それも全部、あなたのせいよ! クラスの問題子をどうにかする!? そんな事、二の次よ! 由佳の事を忘れて日々を過ごしているあなたが許せなかったのよ!」
そんな事はない。
あの日、由佳先輩との一件を忘れた事など、一度もない。
きっと、これからも忘れる事はないと思う。
琴峰は言いたい事を言い切ったのか、肩で息をしている。
やがて、彼女の目が潤む。
彼女なりに辛かったのかもしれない。
「先生……もし、良ければ……今度、琴峰先輩に会わせて下さい。私なら、本人なら何かが変わると思うんです」
どうして、こんな事を言ってしまったのだろう。
おそらく、由佳先輩に会い、二年前の事を清算しなければ、一生その事を引きずって生きて行く事になる気がしたから。
受験が終わり、平野に会う事もなくなった。
最後に会ったのは、彼の合否の結果発表の日だ。
結果は見事に合格だった。
あれだけの短い期間で猛勉強して、志望の大学に合格してしまうのだから、本当に凄いと思う。
私も大学が決まり、ようやく一息付ける所だが、まだ早い。
何しろ今日は、由佳先輩に会う事になっている日だからだ。
私は今日という日を待ち侘びてもいたし、恐れてもいた。
学校の校門で、琴峰と待ち合わせる事になっている。
休日の昼下がりの校舎は閑散としていて、校庭や体育館から僅かに部活動の掛け声が聞こえて来る。
一台の車が私の横に停まった。
硝子窓が開き、琴峰が顔を出す。
「乗って」
「はい」
ドアを開け、彼女の隣の助手席に座る。
そして、車は走り出した。
車は二十分程走り続け、住宅街のとある一軒家の前で停まる。
琴峰は車から降り、玄関へ向かった。
私もそれに続く。
「あの……御両親は?」
「両親は、仕事で殆ど家には帰っていないわ」
用意されたスリッパを履き、由佳先輩の部屋の前へ案内された。
縦開きのドアには、由佳と書かれた木版が掛けられている。
琴峰は軽くドアをノックする。
「由佳。天道さんが来てくれたわよ」
一切の物音がしない。
本当に、この部屋に由佳先輩はいるのか、そんな疑問が浮かぶ程に静かだった。
「琴峰先生。ちょっと、外してくれませんか?」
「分かったわ」
彼女も理解しているのだろう。
自分では、由佳先輩をどうにかする事は出来ない。
ならば、この場では私に由佳先輩を託すしかないと。
「由佳を……お願い」
そう言い残し、琴峰は俯いて部屋の前から離れて行った。
私は軽く部屋のドアをノックした。
「由佳先輩、私です。天道です。久しぶりですね」
やはり、部屋からは一切の応答がない。
「あの……聞こえてるのなら良いんです。私の話を聞いて下さい。あの日、私が由佳先輩に大怪我を負わせてしまった日。あの時の私は、本当にどうかしてました」
最初に言っておきたかった。
「本当に、ごめんなさい」
彼女への謝罪。
それこそが、まず私が彼女にする事だったのだ。
数秒間の沈黙が続いた後、部屋の扉が開いた。
部屋から出て来た由佳先輩は、今にも泣き出しそうな目で私を見ていた。
痩せこけた頬や腕が、とても痛々しい。
彼女は震えた声で嘆く。
「天道……どうして、あんたは、そんなに優しいの? 可笑しいよ。私は、あんたにあれだけの事をしたんだよ?」
「どうって事ないですよ。私には、バスケ以外にも道はあるんです。勿論、由佳先輩も」
私は彼女の痩せ細った体を優しく抱いた。
あの時、由佳先輩は悩み苦しんでいる私を、優しく抱きしめてくれたのだ。
たとえ、それが本心ではなかったとしても、確かに私は元気付けられた。
ならば、今度は私の番だ。
私が由佳先輩を元気付ける番なのだ。
彼女の温かな涙が、胸に沁み込むのを感じながら「ありがとうございました」と言い続けた。
♪
卒業アルバムを閉じ、棚の隅にしまった。
「波乱万丈な高校生活だったなぁ……」
それでも、楽しかった。
部屋の窓を開けると、心地良い涼しい風が頬を撫でる。
その風は、秋の訪れを予感させていた。
「平野、お前がいなかったら、たぶん私は途中で学校を辞めていた。今、私がこうしていられるのもお前のおかげだ」
見上げた雲一つない空は、平野と出会った日と同じ様に青く澄んでいた。
「きっと、上から見守っていてくれてるんだよな?」