Episode2 変化
私は見ていた。
真昼の日射しが降り注ぐ校舎裏で、自分を抱く様にして蹲り泣いている一人の少年を。
ただ、見ている事しか出来なかった。
私はあまりにも無力で、彼の世界に入る事すら出来なかったから。
いつからだろう。
私から見て、彼が変わった様に感じたのは。
もしかしたら、あの日からかもしれない。
あの日、学校では自殺未遂をしたという女子生徒の噂で持ち切りだった。
きっと、その日からだ。
彼が……私の見る平野隼人が変わったのは……。
♪
ただ、何の意味もなく毎日を過ごしていた。
朝起きて、行きたくもない学校へ行き、誰もいない家に帰る。
そんな生活が始まって、もう一年以上は経った。
沙耶子の目は未だに覚める気配がない。
もう、待っていても意味がないのかもしれない。
そう思った僕は、最近まで続けていた彼女への見舞いにすら行かなくなっていた。
入院費等の細かい事は全て綾人に任せ、僕はというと、ただ日々を惰性の様に過ごしているだけだ。
こんな事をしていて良いのか。
度々そう思う。
しかし、そんな事はなるべく考えない様にしていた。
もし、そんな事を考えた先に、ある答えを見つけたとして、それが何であるかが分からないからだ。
最悪、今の僕なら学校だって辞めかねないから……。
一週間程前、学校からの帰り道でタスポを拾った。
このカードは、法律に反して煙草を買う未成年者への対策として作られた物だ。
これがあれば、カードの中に入っている金額が尽きない限り、自販機で煙草を買う事が出来る。
しかし、それも僕の様な学生が拾ってしまえば意味はない。
カードを拾った帰り道、試しに煙草を一箱だけ買ってみた。
別に吸いたかった訳ではない。
ただ、何かに依存したかったとでも言うべきか。
煙草は寂しさを紛らわすには打って付けだったから。
今になって、ようやく分かった様な気がする。
僕は沙耶子に依存していたのだという事に。
一本の煙草を口に銜え、火を点ける。
副流煙は空に向かって、ゆっくりと登って行った。
今は昼休みでもなければ、放課後でもない。
皆が授業を受けている時間だ。
そんな時間に、この屋上で煙草を吸っている自分は、おそらく傍から見れば不良と思われても仕方がないだろう。
しかし、それでも良かった。
こういう行動を取っていれば、他人が寄って来る事がないからだ。
今年のクラスは、やけに積極的に僕に関わろうとする奴が多かった。
まあ、今となってはおそらく全員が僕と関わる事なんて諦めているのだろうけど。
何しろ、今は高校三年生の秋。
クラスメイトの大半は大学へ進学する。
それ以外の者は就職活動に勤しんでいる。
そんな奴等が、こんな僕と今更友情を深めようとなんてしないだろう。
もう、嫌という程思い知った。
他人と関わるとどうなるか。
気が付けば、吸い掛けの煙草は、もう半分もなかった。
その場に煙草を捨てて、軽く溜息を吐く。
今から授業に行ってもしょうがない。
昼休みになるまで、ここにいよう。
あの日、沙耶子はここから落ちたのだろう。
沙耶子の事を思い返す事のない場所を探して、ここまで来たのだが、結局は彼女の事を思い出してしまった。
金網に背を預けて、緩やかな秋の風を受けながら目を瞑った。
真昼の眩しい光で目を覚ました。
太陽は丁度、僕の真上に位置している。
「おはよう!」
隣から、少女の声がした。
「え?」
振り向くと、僕のすぐ隣で一人の少女が片手で携帯をいじっていた。
その携帯を見て、僕は自分のポケットを確認した。
ポケットに携帯がない。
もしかして……。
「なあ、それ僕のじゃないか?」
「ああ、そうだよ」
彼女は淡々と答えた。
あまり面倒な事にはしたくないな。
なるべく丁重に返して貰おう。
「なあ、返してくれないかな?」
「ちょっと待ってくれ」
「いや、そう言われても……そもそも、僕の携帯で何をしてるんだ?」
「ちょっとな」
暫くの沈黙が続いて、彼女は僕に携帯を差し出した。
僕は彼女の行動に疑問を抱きながらも、携帯を受け取る。
「メルアドを入れておいた」
「は?」
「だから、メールアドレス。ああ、大丈夫。電話帳とメールボックスは見てないから」
そういう問題じゃない。
僕にとって、自分に関わろうとする存在その物がイレギュラーなのだ。
「どういうつもりだよ?」
彼女は少しだけ難しい顔をする。
「君に興味を持ったんだ」
「興味? 僕なんかに興味を持ったら、会く影響しかないぞ」
「ああ、そうかもな。例えば」
彼女は短いスカートのポケットから、何かを取り出した。
それは煙草の箱だった。
「おい、もしかして、それ僕の……」
「ああ、そうだ」
「返せ!」
立ち上がって彼女から煙草を取り上げようとしたが、彼女はそれをポケットの中にしまってしまう。
「なんなんだよ!?」
つい彼女に怒鳴ってしまった。
しかし、彼女は動じる事はない。
「こんな所で煙草なんか吸ってるから、取り上げてやったんだろ」
「吸うも吸わないも、僕の勝手だろ!」
「私が嫌なんだ。知ってるか? 副流煙は主流煙よりも毒性が強いんだぞ」
「知らねえよ! 第一、僕は誰にも迷惑を掛けない様に、ここで吸ってるんじゃないか!」
僕が意見に対して、彼女の意見も止まらない。
「そもそも、どうして煙草を吸っているんだ? 格好良いからか?」
「違う……ただ……」
言葉に詰まってしまった。
なぜ僕はこんな事をしているのか。
その事を考えていると、なぜか沙耶子の事を思い浮かべてしまった。
「ただ……何かに依存したかったんだと思う。前に、大事な物を失くしたから」
「その大事な物は、煙草なんかを代わりに出来る様なちっぽけな物だったのか?」
「そんな事はない。本当に……大事な物だったんだ」
「なら」
彼女は僕の顔をジッと見る。
「何だよ」
「煙草以外に依存する物を見つければ良いんだ。それか、何かに依存しなくても大丈夫な様になる事だ」
「僕は……そんなに弱い人間なのか?」
「少なくとも、私から見たらな」
何も言葉が見つからなかった。
彼女の言う事全てが正し過ぎて。
「見届けたいんだ。君がどう変わって行くのかを」
校舎にチャイムが鳴り響く。
すると、彼女は僕に「じゃあ、また後で」とだけ言い残して屋上から出て行った。
また、後で……。
こんなまともな会話をしたのは久しぶりだった。
携帯を開き、電話帳を見る。
そこには、新しいアドレスと電話番号が登録されていた。
「天道……美雨……」
ホームルームが終わった時間を見計らって、教室へ戻った。
帰り支度をしていると、担任の琴峰に準備室へ連れて行かれた。
まったく、琴峰の様な新任の教師は、無駄にやる気があって困る。
「なんですか? そろそろ帰ろうと思ってたんですけど」
皮肉たっぷりに言ってやった。
すると、琴峰はさっそく話を切り出す。
「平野君。将来の事は考えてるの?」
「まだ、特には……」
そんなあやふやな返答しか出来なかった。
当然だ。
日々を何も考えずに過ごしている僕に、そんな事を考えていられる余裕なんて、ないのだから。
担任は見計らっていた様に、ある書類を僕に突き付けた。
そこには、ここ最近の定期テストの結果が載っていた。
国語 18点
英語 19点
数学 8点
地理歴史 23点
理科 4点
公民 9点
「このままじゃ、付属の大学どころか多大にも行けないわよ。就職するにも、この内申じゃ雇ってくれる所があるかも分からないし」
三年生の二学期の、この時期に僕を呼び出したという事は、琴峰はおそらく真剣に進路について、僕と話し合うつもりだ。
長くなりそうだな。
そう思い、僕は短く溜息を吐いて言った。
「話はそれだけですか?」
「は?」
信じられない、とでも言いたげな顔をして、琴峰は呆れた様な顔をする。
「ちょっと、分かってるの? あなたの将来の事、つまりこれからの事を話してるのよ! もう三年の二学期なんだから、そういうのも決めておかなくちゃいけないの! ちょっと、聞いてるの!?」
そんな話には興味がなかった。
ただ、その日を生き抜く事が出来れば、それで良い。
そう思っていたから。
僕は琴峰を横切って、準備室から出た。
「ちょっと!」
呼び止める声が後ろから聞こえたが、完全に無視を決め込んだ。
秋の乾いた風が、昇降口に吹き抜けていた。
上履きから靴に履き替ていると、後ろから声を掛けられた。
「よ! 気偶だな!」
彼女は僕に対してそんな事を言う。
「天道……美羽?」
「そう、天道美雨だ」
どうして、こうなった?
どうして、僕は天道と帰り道を共にしているのだろう。
僕に対してペラペラと話をする天道。
その話に、適当に相槌を打って対応する僕。
やはり、何かがおかしい。
「君に興味を持ったんだ」
屋上で言っていた彼女の言葉を思い出す。
いったい、天道は僕の何を気に入って、こんな事をしているのだろう。
「お前、僕と一緒にいて何か楽しいわけ?」
天道は少しだけ考える様に腕を組んだ。
「というより、最近は暗くなるのが早いからな。隣に男がいた方が何かと安心なんだ」
そんな訳がない。
そんな理由だけで、僕なんかと一緒にいるわけがない。
「お前みたいな、男口調してる奴を狙う物好きはいないと思うぞ」
「口調なんて関係ないだろう。世の中には男で女口調な奴がいるんだから」
「それって、ただのニューハーフだから!」
つい、突っ込みを入れてしまった。
まったく、どうも調子が狂う。
天道はクスクスと笑う。
「何だよ?」
「お前といると面白いなって。そう思っただけだ」
僕は、フンと鼻を鳴らし、天道から目を反らした。
「明日もちゃんと学校に来いよ」
「まあ、その日の気分次第だな」
そう言って、僕は天道と別れた。
後ろから彼女の声が聞こえて来る。
「遅刻するなよー!」
彼女の声に、適当に手を上げて合図をした。
天道と別れた後、いつも煙草を買っている自販機へ寄った。
いつもなら迷わず購入するのだけれど、なかなか手が伸びない。
数十秒悩んだ後。
「今日は止めておこう」
結局、煙草は買わなかった。
コンビニで適当に弁当を買って帰宅した。
家の中には誰もいない。
聞こえて来る音といえば、時計の針が秒針を刻む音くらいか。
机の引き出しを開けると、そこにはリストバンドが一つ入っている。
これは、かつて綾人の物だった。
そして、これは僕に渡された。
綾人は沙耶子を僕に託したのだ。
それなのに……僕は……。
自分の情けなさに、目蓋がじんわりと熱くなり、やがて涙が出て来た。
いつもの事だ。
こんな事。
でも、本当にこれで良いのか?
僕は……。
翌日、学校には盛大に遅刻した。
休み時間になったのを見計らって、教室へ入ると、何故か天道は僕の椅子に座っていた。
しかも、かなりきつい表情をしている。
なるべく天道と目を会わせない様に、僕は渋々と自分の机のフックに荷物を置いて、教室を出ようとした。
しかし、教室を出ようとした時、天道は僕の腕を掴んだ。
「……何だよ?」
天道は周りを少しだけ見渡し、軽く舌打ちをする。
「ちょっと来い!」
そこは屋上だった。
午前中という事もあり、とても空気が澄んでいる。
僕の目前にいる天道の空気は、かなり淀んでいるけど。
「どういうつもりだ!?」
「何が?」
その返答に、天道はきゅっと拳を握る。
「約束したのに……」
次の瞬間、もう言葉を発する余裕はなかった。
なぜなら、彼女の拳は僕の腹を直撃していたからだ。
「痛ってぇ……」
腹を抱えて、その場に蹲る。
「な、何するんだよ!?」
「昨日……言ったのに……」
「は?」
「遅刻するなって……」
『遅刻するなよ』
昨日の別れ際、確かに天道はそう言っていた。
それなら、怒るのもしょうがないかもしれないが、さすがに腹パンはない様な気がする。
僕は痛みに耐えながらも立ち上がった。
「なあ、どうして僕に構うんだ? 遅刻するもしないも、人の勝手だろ」
「今、なんて言った?」
彼女の声はどんどん低くなっていく。
「は? だから遅刻するもしないも人の勝手なのに、どうしてお前はそうまでして僕に構うんだ?」
「それは……お前が、あまりにもダメな奴だからだよ! 宮久保さんが屋上から飛び降りてから、ずっとこんな調子じゃないか! 成績も下がる一方だし、ろくに授業にも参加しないし、それに」
途中で彼女の言葉が途切れる。
そして一気に赤面し、僕から目を反らした。
「どうして……沙耶子の事を……」
「まだ……高校に入学してすぐの事だったんだ」
♪
入学して間もない頃の事だった。
いつもと同じ昼休み、いつもと変わらない友人との他愛のない会話。
途中まではそうだった。
「平野隼人って子、知ってる?」
まだ、その頃の私は平野隼人という存在すら知らなかったのだ。
「さあ、知らない。誰?」
「あんまり言っちゃいけないんだけど、先月だったかな。両親を交通事故で亡くしちゃったんだって。高校に入学して早々なのに、可哀想だよね。で、いつも校舎裏で泣いてるらしいよ」
少しだけ嫌な気分になった。
そんな話、面白半分でする物じゃない。
「へえ」
とりあえず、適当に相槌を打った。
非日常へ行きたかった。
ただ同じ事を繰り返す毎日に終止符を打ち、何かを変えたかったのだ。
そして、気が付けば、私にとっての非日常、そう、その子がいる校舎裏に来ていた。
校舎の物陰に隠れながら、そっと顔を覗かせる。
木蓮の下に座り、頭を抱えている少年がいた。
おそらく、あれが平野隼人だろう。
話し掛けようかと思った。
でも、何を話せば良い?
そもそも、私が平野に話しかけたとして、彼はどう思うのだろう。
お節介?
迷惑?
きっとそうだ。
平野は私をその様な存在としてしか見ない筈だ。
それでも、出来る限り遠くから見守っていよう。
平野が笑えるその日まで。
ただ、純粋に側で守ってあげたかった。
理屈はないけれど、平野を見た時にそう思った。
平野を初めて見た日から、私は校舎裏で彼の泣く姿をただ見ていた。
しかし、それから数日後、転機が訪れる。
彼の一人の少女との出会いだ。
彼女こそが宮久保さんだった。
その日から、平野は少しずつ笑う様になった。
もう、終わりにしよう。
私が彼らの世界に入り込む事なんて、もう絶対に出来ないのだから。
別に悲しくなんてない。
逆に嬉しかったのだ。
彼の笑っている顔を見る事が出来て……。
♪
「ごめん」
なんだか、天道に対して申し訳なくなってきた。
「どうして謝るんだ?」
「気付いてあげられなかった。あの時、僕は自分の不幸ばかりを呪って、周りを見ていなかったんだ」
「それでも、お前には宮久保さんがいたじゃないか。宮久保さんをしっかりと見てあげていた」
「でも、沙耶子は眠ったままだ。それに最近、もしかしたら沙耶子はずっとあのままなんじゃないかって……そう思うようになったんだ」
話していく内に、顔が火照り、自分の声が段々と震えていくのが分かる。
「嫌なんだよ。もう、自分で自分が信じられない……」
数秒間の沈黙が続き、天道は僕を真っ直ぐに見つめた。
「なら、私は信じてる」
「?」
「宮久保さんの目が覚めて、いつかお前と一緒にいられる日が来る事を」
なぜか、彼女の言葉は確信的だった。
いや、というより説得力があるとでも言うのだろうか。
「もし、沙耶子が目を覚ましたら、僕と一緒にいてくれるのかな……?」
「たぶん、それはないな」
「え?」
「とりあえず授業にはしっかり出て、勉強して成績を上げて、煙草をやめる。私から言えるのはそれだけだ」
本当に、彼女の言う通りに事が進む様な気がして来る。
僕は天道に対して笑って見せた。
それは本当に久しぶりの、今の僕にとっては精一杯の笑顔だった。
「ありがとう。とりあえず付属は無理かもしれないけど、大学でも目指してみようかな」
「よし! その息だ!」
天道は高く手を掲げる。
「え、何?」
「ハイタッチだよ! ほら!」
天道に促されながら、僕は彼女とハイタッチを交わした。
高校生最後の冬休みが間近に迫っていた。
僕の周りでは、皆が進路を決め始めている。
大学へ進学する者もいれば、就職する者もいる。
僕の場合は進学だが。
天道に悟られたあの日から、僕は彼女に勉強を教わっている。
今まで知らなかったのだが、彼女の成績は学年トップだ。
そんな人に教わっているのだから、とても心強く感じる。
何もかもが上手く行っている様な気がした。
しっかりと授業にも出ているし、その甲斐あって成績は天道程ではないが、徐々に上がっている。
そして、もしかしたら沙耶子の目が覚めるかもしれない。
そんな淡い期待すら抱いていた。
「起きろ!」
微かにそんな声が聞こえた、そのすぐ後に頭の上に大きな衝撃が起こる。
「痛ってぇ!」
慌てて顔を上げると、全訳古語辞典を右手に持っている天道がいた。
「まったく、せっかくホームルームが終わった後に、急いで学校の図書室の席取って勉強を教えてやってるのに、どうして途中で寝るんだ?」
「ああ、ごめん」
まだ焦点のはっきりしない目蓋を擦りながら、とりあえず謝罪する。
「そんなに眠いのか? ちゃんと寝てるのか?」
「まあ、一応な。なんか、夜に勉強すると止まらなくてさ」
「凄いな! あの頃のお前が嘘みたいだ!」
なんだか少し照れる。
「でも、これもお前がいてくれたおかげだから。ありがとう」
その言葉を聞いて、天道は少しだけ赤面し、参考書に目を落とした。
「そ……そそ、そうか。ああ! そういえば」
彼女は携帯を開き、時間を確認する。
「先生に呼ばれてたんだ。先に帰ってて良いぞ。それじゃあな!」
天道はさっさと荷物をまとめて、図書室から出て行ってしまった。
「あいつ……少しだけ性格が丸くなったかも」
最近、天道を見ていると、そう思う。
「帰るか」
荷物をまとめていると、先程の古語辞典が僕の教科書の束と混ざっているのに気付いた。
天道の机の上にでも置いてから帰るか。
持ち帰るのも悪いしな。
三年生の教室が並ぶ階には、放課後という事もあって、全く人がいなかった。
受験の近いこの時期なら、学校に残ってる三年生なんて、何か用のある人くらいだ。
「良かったわ。あなたのおかげでクラスの問題子がいなくなった」
準備室の前を通り掛かった時、中から琴峰の声が聞こえた。
「……そんな、問題児なんて……」
天道の声がして、僕はその場で足を止めた。
「あら、言い方が悪かったかしら。でも、あなたのおかげよ。そろそろ、あなたが二年前にした事も、あなた自身の事に関しても考え直さないといけないわね」
なんだ? これは……。
担任と天道の会話を聞いて、ある考えが頭の中に浮かんだ。
天道が僕に近付いた理由。
それは担任に何かと引き換えに、頼まれた為。
僕は、始めから利用されていた。
天道は僕の事を信じてなどいなかったという事に、やっと気付いた。
とにかく全てが嫌になった。
フラフラと何時間か街を彷徨っていると、空はすっかり暗くなっていた。
道を照らすのは、端に取り付けられた街灯くらいだ。
孤独。
そんな感じがした。
携帯を開くと、時刻は深夜の一時を回っていた。
そして、メールが三件。
それらは全て、天道から送られた物だった。
一件 私の古語辞典がないんだが、知らないか?
二件 おい、無視するな!
三件 大丈夫か? 何かあったのか?
携帯を強く握りしめた。
みしみしと、今にも砕けそうな音が鳴る。
「どうして……」
天道は僕を利用していただけなのに、どうして僕なんかの心配をするんだ。
数回のコールが耳元で鳴る。
僕は無意識のうちに、天道に電話を掛けていた。
コール音が途切れ、彼女の声が聞こえて来る。
「もしもし? 平野?」
「……っ……っ、っ」
彼女の声を聞いた瞬間、声が出なくなり、電話を切ってしまった。
どうして?
いつも普通に話しているのに。
もしかしたら、もうダメなのかもしれない。
両親を亡くして、大切な人を手放して、信じていた人に裏切られた。
もう嫌だ。
いっその事……。
赤い光が視界に入る。
それと同時に、カンカンカンと耳に響く音がしている事に気付いた。
目の前には発光ダイオードを赤く光らせる踏切がある。
辺りを見渡して、人がいない事を確認すると、僕はそこへ進んだ。
ふらふらした足取りで線路の真ん中に立ち、ゆっくりと目を瞑った。
「やめろー‼」
電車の轟音が近付いて来ると同時に、天道の声が聞こえた。
気付くと、僕は踏切の向こう側に突き飛ばされていた。
そして、僕に覆いかぶさる様な状態で、息を切らしている彼女の姿があった。
天道は僕の胸倉を掴む。
「何て事をするんだ!? 死んだら全部終わりなんだぞ!! 死んだら……宮久保さんにも会う事だって出来ないんだぞ!!」
その言葉に、ハッと我に返った時には、僕の体はがたがたと震え、頬には涙が伝っていた。
街灯だけが照らす夜道を僕等は歩いていた。
今更気付いたのだが、彼女の服装は制服だ。
まさか、こんな時間まで僕の事を探していたのだろうか。
「ごめんな。変な事して……」
「いや。もしかしたら、私にも非はあったのかもしれない」
彼女の声には、いつもの様な活気はなかった。
「私は、この高校にバスケ部の推薦で入学したんだ。でも、他のメンバーの性格がかなり悪くてな。虐めのターゲットにされてたんだ。靴に穴を開けられたり、トイレで服を脱がされたり、あの頃の私は本当に惨めだった」
以前、聞いた事がある。
女子バスケットボール部の噂。
それは部内での壮絶な上下関係、俗に言う虐めだった。
先輩と後輩の間で問題が起き、体育館で全校生徒が集まっての集会が開かれた程だ。
「一学期の総体が迫っていた時の事だった。もう限界だった私はその虐めの首謀者に怪我を負わせた。知ってたか? うちのクラスの担任は、その子の姉だったんだ。だから、私は担任に頭が上がらなくて」
「もう良い!」
僕は彼女の言葉を遮った。
そんな汚れた話は、聞きたくなかった。
天道が……そんな事の為に琴峰の犬になった話なんか。
「もう良いんだ。大体分かったから」
彼女の僕を見る表情は、驚いている様にも見える。
そして、彼女の頬に涙が伝う。
「初めてだ。お前みたいな奴……。あの日から……その事を知った奴は、皆が私を軽蔑したのに……」
初めてだった。
こんなに天道がか弱く見えたのは。
僕は彼女の手を強く握った。
手の温度や感触が直に伝わって来る。
「大丈夫だ。僕はそんな事、気にしないから」
「うん。ありがとう」
三学期になり入試が終了すると、天道に会う事も少なくなった。
最後に天道に会ったのは、始業式の時か。
話しによると、かなり偏差値が上の方の大学を受けたらしい。
三年生は自由登校という事もあり、殆どの生徒が学校へ行っていない。
もちろん、僕もそうだ。
それに学校へ行って、天道がいないのなら、行っても意味がない。
机の上のノートパソコンを開き、試験結果の確認サイトを開いた。
今日は合否の結果発表だ。
滑り止めとして受けた、第二希望の大学は受かったのだが、今回はとても不安だ。
何しろ、第一希望。
つまり最も偏差値が高いのだ。
恐る恐るマウスを動かしていると、携帯のバイブレーションが突然鳴りだす。
何事かと携帯を開くと、天道からメールが来ていた。
今日は合格発表だろ? 一緒に行ってやる。
「ネット使って見ようと思ったんだけどな……」
折角の誘いだ。
一緒に行く事にしよう。
合否の発表場所となる大学は、近所のバス停から一本で行く事が出来る。
天道にメールを返信し、財布と受験票を持って家を出た。
天道は僕よりも先にバス停にいた。
「久しぶりだな」
そう言って、天道はコートのポケットからカイロを取り出し、それを僕に差し出す。
カイロの袋には、この時期流行りの合格という印字がされていた。
「ありがとう」
「油断するなよ。結果はまだ分からないんだから」
天道と話したのは久しぶりだ。
だからこそ、なんだか安心した。
丁度、バスが来る。
平日の昼前という事もあり、バスの中には僕達しかいない。
「なあ、天道」
「何だ?」
「お前のおかげでここまで来れた。本当にありがとう」
その言葉に、天道は赤面する。
「ま、まだ早いぞ。とりあえず、合否を見ないとな」
合否の結果が並べられている掲示板は、バス停のすぐそこにある大学の門前にある。
僕と同い年くらいの男女が、そこら中に何人もいる。
段々、緊張して来た。
少しずつ息使いが荒くなる。
天道は穏やかな口調で「大丈夫だ」と言って、ぽんぽんと背中を押してくれた。
「きっと受かる。あれだけ勉強したんだから」
「……そうだな」
僕は込み上げる緊張を抑えながら、合否の結果が貼り付けられている掲示板を見た。
手に持っている受験票に記載されている番号と、掲示板を何度も見比べた。
「あった」
「え?」
「あったんだよ! やったよ!」
僕の緊張は一気に解れた。
そして、彼女の緊張も解れた様に、表情が緩む。
「やったな!」
「ああ。お前のおかげだ! 天道!」
「そんな事はない。私はただ、お前の背中を押してやっただけだ。これで、宮久保さんに胸を張って、会う事が出来るな」
「そうだな」
沙耶子が眠り始めてから、ただ、何の意味もなく毎日を過ごしている。
今までそう思っていた。
しかし、天道と出会ってからの、一分一秒には大きな意味が込められていた。
それは、希望も持てず大きな過ちを犯していた僕の変化。
そして、僕が変われた理由こそが天道だったのだ。
「ようやく決心が出来た」
「何の?」
「明日、沙耶子のお見舞いに行ってみようと思う」
天道は少しだけ悲しげな表情を浮かべ、そして笑い掛けた。
「そうか。きっと……宮久保さん……喜んでくれるぞ」
彼女の頬に一滴の涙が伝い、やがて涙が溢れ出す。
「おい、天道……」
「何でもない。大丈夫だ」
天道は涙を流しながらも、僕に笑顔を絶やさなかった。