表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
HOPE  作者: 世捨て作家
2/12

Episode1 平野隼人

 事の発端は、高校へ入学した直後の事だった。

 教室で授業を受けていると、突然来た担任が息を荒げて僕を廊下に呼び出した。

「平野君、落ち着いて聞いて。あなたの御両親が交通事故で亡くなったわ」

「は?」

 突然の話に、そんな間の抜けた声を上げていた。

 正直、信じる事が出来なかった。

 その場では……。

 

病院で両親の亡骸を見た。

 顔には一枚の白い布が掛けられていて、体は冷たくなっている。

 それを見た瞬間、背筋に悪寒が走った。

「どうして、僕がこんな目に……」

 涙を流しながら、そう連呼し続けた。

 頬を伝う涙は、この冷え切った空間の中では、とても温かく感じられた。

 

その後は、親戚からの仕送りで自分の生活を維持している。

 普通に生活をする分では、何も変わらない。

 ただ、両親がいなくなっただけ。

 そう考えれば、孤独な思いをせずに済む。

 しかし、学校で接する友人同士の明るい空間には、馴染む事が出来なかった。

 だから昼休みは校舎裏で過ごしている。

 この場所こそ、僕が馴染む事の出来る唯一の空間だから。


   ♪


 校舎裏に降り注ぐ真昼の明るい日射しは、青葉が茂る数本の木蓮を通して、綺麗な木漏れ日を作りだしていた。

木漏れ日の下に少女が一人、腰まで伸ばした黒い髪を、微かな風に靡かせ佇んでいる。

 細い彼女の体を包む制服の袖やスカートから覗く肌が、とても白くて綺麗だった。

左の袖から覗く腕には、リストバンドが着けられている。

 それがどこか印象的だ。

 珍しいな。

 こんな所に僕以外の誰かがいるなんて。

 彼女に声を掛けてみる事にした。

「なあ、ちょっと」

 声を掛けてみると、少女は肩をビクリとさせて、こちらを振り向いた。

「あ、えっと……」

 突然、声を掛けたからだろうか。

 困ったような素振りを見せる。

「えっと……」

 よく見ると、目には涙が溜まっている。

「どうかしたのか?」

「何でも、ない」

 それは、何かに怯えている様な震えた声だった。

 何かあったのだろうか。

「よかったら、話してくれないか?」

 彼女に対して、そんな事を言っていた。

 僕は何をしているのだろう。

 他人の事情に首を突っ込むなんて、僕らしくない。

 しかし、この少女はどことなく自分に近い。

 根拠はないけれど、そんな気がした。

「無理にとは言わないけど、話して楽になる事もあると思うから」

 彼女は軽く頷いてくれた。

 

二人で木蓮に背を預け寄り掛かる。

 僕の隣で、彼女の重い口が開いた。

「先月、私の母さんが亡くなったの」

「え?」

 自分と同じ境遇の人間が、こんなに身近にいるとは思ってもみなかった。

 彼女は少々驚く僕を余所に、話を続ける。

「父さんは……元々いなかったから、私は一人ぼっちになっちゃったんだ。だから、なんだかクラスの人達とも馴染む事が出来なくて、時々、ここに来るの。この場所って、不思議と凄く落ち着くから」

 悲しそうな顔をしている。

 それは、見てすぐに分かった。

 僕だけじゃない。

 こんな思いをしているのは、僕だけじゃなかったんだ。

「僕にも、両親がいないんだ。先月、交通事故で亡くなって」

 その言葉を聞いて、彼女の表情が驚きに変わる。

「まあ、普通に生活をする分では、特に問題はないんだ。親戚からの仕送りだってあるし」

「大丈夫」、そう言いながら強がっていると、彼女は僕の右手に両手を添えて優しく握った。

そして、僕の目を見て微笑む。

「悲しい時は肌と肌で触れ合っていると、凄くホッとするんだよ」

 恥ずかしくなって、少しだけ彼女から目を反らし、僕はボソボソと感謝の言葉を口にした。

「……ありがとう」

「母さんと父さんは、優しかったの?」

「ああ。凄く優しくて、僕の事を第一に考えてくれていた」

「そうなんだ」

 気が付くと、目には僅かに涙が溜まっていた。

 少しだけ姿勢を低くし、慌てて涙を拭う。

「ごめん、みっともないよな。男のくせに……」

「そんな事ないよ」

 彼女は爪先立ちで、僕の頭を両腕で軽く抱きしめる。

「泣いても良いんだよ。誰だって、泣きたくなる事はあるから」

「うん、ありがとう」

 暖かな腕に抱かれ、これでもかと言う位に泣いた。

 そんな僕を見て、彼女は穏やかに微笑んでいる。

 微笑む彼女の目には、先程まで流していた涙は見られなかった。


 一生分は泣いた様な気がする。

 そして、自分の泣き顔を見られていた。

 そう思うと、先程の出来事が何だか恥ずかしくなってくる。

 少しだけ彼女から目を反らして、僕は言った。

「ありがとう。なんだか、凄く安心した」

「そんな事ないよ。えっと……そういえば名前……」

「ああ、平野隼人。君は?」

「宮久保沙耶子だよ。 よろしくね」

 宮久保沙耶子と名乗る少女は笑顔を作る。

 その笑顔はとても明るくて、僕には眩しい位だった。

 笑う。

たったそれだけの事が、僕には凄い事だと思えた。

 あれだけ絶望的な状況にありながらも、こんなに明るくなれるのだ。

 僕はというと、笑う事もなく、ただ毎日を惰性の様に過ごしている。

 もしかしたら、今ここで宮久保に出会った事で、何かがこれから変わるのかもしれない。

 そんな希望を抱いて、僕は不器用に笑い返した。


 放課後の、いつもと同じ一人だけの帰り道。

 道の両脇には、ファーストフード店等の賑やかな店が建ち並んでいる。

 学校帰りの学生達が集まるには、こういった道はとても便利だ。

 僕はどこにも寄らずに真っ直ぐ帰宅するのだけれど。

 周囲では友人同士で騒ぎながら、帰宅している生徒達が見られる。

 なんだか、とてつもなく居心地が悪い。

 まったく、群れる奴の気持ちが分からない。

 しかし、そんな事を考えている自分は、我ながら相当病んでいると思う。

「ハア……」

 軽く溜息を吐いて、自分の前を歩いている生徒達の一団を追い越す。

 一人でこんな行動を取るのは容易く思えるが、実際は難しい事だ。

 無愛想に横切って抜かれた相手は、どう思うのだろうか。

 きっと、あまり良い気持ちはしない筈だ。

 この行為その物が、相手に邪魔だと告げる意思表示なのだから。

バスに乗って帰れば良かった。

 そんな事を思っていると、ポンと肩に手が置かれる感触がした。

 振り返ると、昼休みに出会った少女がいた。

「こんにちは。平野君」

 宮久保は明るいな。

 見習わなければいけないと思ってしまう。

なんだか、彼女の息が少しだけ荒い。

「どうした? そんなに息を切らせて」

「だって、平野君、歩くの凄く早くって」

 それは、たぶんこの場の空気に馴染めなかったからだろう。

「ああ、きっと、僕は都会人なんだよ」

 とりあえず、そんな事を言って誤魔化してみた。

「え?」

 彼女の表情に疑問が浮かぶ。

「都会人っていうのは、歩くのが凄く早いんだよ。東京の方とか行くと、皆サッサと歩いてるだろ。それは、仕事とかしてる人が多いから。それと同じだ」

「へー。平野君って、学校の勉強そっちのけで、雑学とかに詳しそうだよね」

「それって、誉められてるのかな?」

「うーん……半分」

「そっか、半分か」

 こんな他愛もない会話をしたのは、かなり久しぶりだ。

「そうだ! 私も雑学知ってるよ」

「どんな?」

「クラスの男子が話してるのを聞いちゃったんだけど、コンドームを財布に入れると、お金が溜まるんだって!」

「!?」

 そんな話を笑顔でされて、どう対応して良いのか困ってしまった。

「え、えぇっと……宮久保、コンドームって何か分かるか?」

「そこが問題なんだよ! 何? コンドームって」

「えっと……知らない方が良いと思うぞ」

「えー!? 教えてよ!」

 教える事を躊躇ったが、何度も粘るので仕方がない。

「宮久保。耳を貸して」

 彼女の耳に、今までの経験を活かした知識を吹き込む。

 すると、宮久保は僕から目を反らし、恥ずかしそうに頬を真赤に染めた。

「ひ、平野君」

「何?」

「ごめん」

「いや、どうって事ないよ……」

 少しだけ、気まずい空気を作ってしまった。

 どうにかして、この……何て言うか……エロい話から離れないと。

「そういえば、宮久保って家はどの辺?」

「この先の駅から電車だよ」

「電車か。毎日、大変だろ?」

「そうでもないよ。それに、長い道を歩いてるから、色々と面白い発見があるんだよ」

「発見?」

「ほら! あれ」

 そう言って、ある方向を指差す。

「あの木」

 宮久保が指差した木は、太い木の棒で補強されていた。

「あれが、どうかしたのか?」

「この前までは、今にも倒れそうだったのに、支える事で立ち上がり始めてる。なんだか、あの木を見ると、やる気が出るっていうか……。これからも頑張って行けそう、みたいに思えるんだよね。はは、ごめんね。なんか自分で言ってて、ちょっと恥ずかしいかも……。他にも、この時間にこの場所を歩いて来る人の服装とか。……私って、ちょっと変かな?」

 そんな事はない。

 毎日、この道を通っているけれど、そんな事に関心を持った事など、一度もなかった。

 宮久保は、なんて前向きなんだ。

 つくづく感心してしまった。




 宮久保と出会って、一週間程経っただろうか。

 だいぶ僕に馴染んだ様な気がする。

 休み時間になると、宮久保は僕に会いに教室へ来るようになっていた。

 同じ学年で、クラスも近いからだろう。

「平野君」

 教室のドアから、宮久保が呼んでいた。

 立ち上がり、教室から出る。

「おお、宮久保」

「ねえ、テストどうだった?」

 今日は授業が潰れて、丸一日がテストになっている。

 あまり自信のない僕には、突然その話題を出されるのは少々きついかもしれない。

 なんたって、あと三つもテストが残っているのだから。

「まあまあ、かな」

 とりあえず、そう答える。

 それを聞いた宮久保は、ややからかい気味に言う。

「ふーん。じゃあ、そんなに良くはなかったんだね」

「えっと、まあ、僕は赤点さえ取らなければ、それで良いから」

 と、胸を張って言ってみた。

「あー、そんなんじゃあ、良い大学には入れないよ」

「良いんだよ。僕は付属の大学に行くんだから」

 気のせいだろうか。

 少しだけ彼女の表情が暗くなる。

「そっか。私は、出来れば他大に行きたいなあ、なんて思ってるんだけどね」

「え!? 凄いな」

 ふふん、と宮久保も胸を張って見せた。



 答案は、三日と経たずに返却された。

 テストは全部で五教科ある。

 先に返却された四教科は、赤点にはなっていなかった物の、平均点超えもしていなかった。

 そして、最後の一教科が返された。

「うわ……」

 それは、真赤なバッテンだらけの答案用紙。

 まさしく赤点だ。

 教師は容赦なく言う。

「赤点だった奴は追試だからな」



「へー、大変だね」

 帰り道、宮久保にテストの事を話すと、そんな返答をされた。

「ちゃんと勉強したのになあ……」

「うーん、勉強の仕方なんて、人それぞれだから」

「そういえば、宮久保はテストどうだったんだ?」

「私? 私は全部平均点超えだよ」

「う……そっか」

 僕は少々顔を引きつらせる。

「そういえば、赤点取ったら追試だよね?」

「ああ」

「私が勉強教えてあげようか?」

「いいのか?」

「もちろん!」

 宮久保は嬉しそうに頷いてくれた。



 休日に、駅近くの図書館で勉強する事になった。

 勉強はあまり好きではないが、なんだか待ち遠しい。

 宮久保を駅まで送った後、今にも騒ぎ出したい気持ちを抑えながら、僕は思いっ切り家まで走った。



 

その日、宮久保は制服で来た。

 彼女曰く、制服の方が気合いが入るそうだ。

 まあ、僕もそんな気分で制服を着て来たのだけれど。

 図書館の隅の机に二人で腰掛けた。

 勉強の為、止むを得ないのは分かるのだが距離が近い。

 彼女の呼吸の音が聞こえたり、長い髪が時々頬に触れる。

 その度に、少しだけ赤面した。

 勉強の方はと言うと、教え方がとてもうまく、すぐに問題を理解する事が出来た。

始めてから二時間程して、宮久保は伸びをした。

「んー! そろそろ休憩しようか」

「ああ。そうしよう」

 僕と宮久保は外の自販機でジュースを買った。

 授業料として、彼女の分の代金は僕が出した。

 缶を開けて、口に運ぶ。

 その時、彼女の腕に着いているリストバンドが目に止まった。

「なあ、気になってたんだけどさあ、そのリストバンド。いつも着けてるけど、何?」

「ああ、これ? これは、前に大事な人から貰った物なんだ。大事な人から……」

 儚げな表情を作って、リストバンドを見る。

「大切な物なんだな」

「うん、とっても」

 宮久保にも、過去にそんな人はいた。

 自分が関わる事の出来ない彼女の過去。

 そう思うと、少しだけ悲しくなった。

 雲に隠れていた太陽が顔を出し、眩しい日差しを放つ。

 宮久保は左手を広げ、宙にかざして言った。

「もう夏だね」

「うん」

「夏休みになったらさ、二人でどこかに行かない?」

「どこかって?」

「どこか!」

 笑う宮久保に僕も笑い返す。

「そうだな。夏休みになったら、どこかに行こう」



 勉強の成果もあり、追試は見事に合格だった。



 テストも終わり、高校一年生の夏休みが間近に迫っていた日。

 帰り道にあるファーストフード店で、僕達は夏休みの予定について話し合っていた。

「平野君は、夏休みは予定とかある?」

「んー、そうだな、特に予定はないな。旅行にも行かないし」

「じゃあ、二人で行こうよ」

「どこに?」

「電車で、凄い田舎に」

「田舎?」

「うん。凄く良い所」

結局、宮久保は詳しい行先は教えてはくれなかった。



 夏休みに入ると、宮久保と会う回数も減ってきた。

 学校に行く事はないから、仕方がない事だが……。

 しかし、旅行はあと数日後だ。

 あと数日……そう思う程、宮久保に会いたくて仕方がなかった。



平日の午前十時という、あまり人のいない駅の改札前で、宮久保は僕を待っていた。

いつも学校で見る様な制服ではなく、白のワンピース姿に、やはり腕にはリストバンドを着けている。

 手には軽い荷物を持っている。

 日帰りだと言っていたから、実はそれほど遠くはないのだろう。

 まあ、夏休みだから帰りなんて何時になってもいいのだけれど。


 数本の電車を乗り継ぎして二時間程の所に、目的地はあった。

 そこは、彼女の言う通り、まさしく田舎だった。

 自分の住んでいる街とは違って、太陽は照り付けてはいるが、とても涼しくて過ごしやすそうな所だ。

 辺りは見渡す限りの田園が広がっていて、その間に一本の舗装された道がある。

「本当に田舎だな」

 驚いている僕を見て、宮久保はクスクスと笑う。

「こんな田舎は初めて?」

「うん、そうかも」

コンクリートで舗装された一本道を二人で歩く。

 真夏の日差しは、僕達を明るく照らし出していた。

 時折、地元のケートラが通るくらいで、他には何もいなかった。

 ただ聞こえてくるのは、蝉の鳴き声や風の音だけ。

 しばらく歩いた所に村があった。

 藁で作られた屋根のある家々が連なり、一つの村を作りだしていた。

 いや、こういうのは村と言うよりは、集落と言うのかもしれない。

「なあ、ここに何かあるのか?」

「まだ先だよ」

 そう言って、宮久保は再び歩き出す。



 村を抜けた所に西洋風の大きな屋敷があった。

 見てすぐに、白というイメージを定着させる様な、真っ白な柵に囲まれた屋敷。

 大きな庭には、かつては芝生があったのだろう。

 今は雑草がボウボウに茂っている。

「ここだよ」

 宮久保は、そう言った。

「え?」

「ここが目的地」

 ここは、どう見ても空家だった。

 以前に、どこかの金持ちでも住んでいたのだろうか。

「ここって……」

 彼女の表情に影が差し込む。

「昔、私が住んでた家」

「こんな凄い所に……。どうして?」

「とりあえず、中に入ろう」

 ポケットから鍵を取り出し、門の鍵を開けた。

「昔、合鍵を貰った事があって、そのまま持ってたの」

 屋敷に入ると、高い天井や所々の大きな扉が目に着いた。

 驚いている僕を余所に、宮久保は語りだす。

「私は、父さんの不倫相手との間にできた子供だったの」


   ♪


 宮久保沙耶子は、世間で名を轟かせる程の富豪の家に生まれた。

 しかし、それは宮久保にとっては、とても不幸で可哀想な事だった。

 宮久保は父親と、その不倫相手によってできた子供なのだ。

 別荘であるこの屋敷に、宮久保は父方の親戚の叔母と住む事になる。

 しかし、その生活は中学一年生に進級したある日、終わりを迎える。

 不倫相手は疾走し、その後、父親は事業に失敗して自殺。

 その為、会社は倒産し、叔母は私を一人残して失踪した。

 残ったのは、宮久保とその母親、それと多額の借金だった。

 そして、宮久保はこの屋敷を離れ、あの街で母親と住む事になったのだ。


   ♪


「ここが、私の部屋」

 かつて、宮久保が住んでいた部屋は閑散としていて、中央にあるピアノとベットと机、他に家具の様な物は、一切置かれていなかった。

 それを見て、宮久保は安心した様に胸を撫で下ろす。

「良かった。ピアノだけは残っていたんだ」

「?」

「殆どの家具は、差し押さえられちゃったんだ。でも、良かった。本当に良かった」

 宮久保は全身の力が抜けた様に、その場に倒れ込む。

 僕は慌てて、彼女の体を支えた。

「大丈夫か?」

「うん、ごめんね」

 彼女の声が、しだいに震えだす。

「ずっと、怖かった。このピアノがなかったら、どうしようって……ずっと怖かった」

「ピアノ?」

「うん。叔母さんは、引っ込み思案な私にピアノを教えてくれたの。毎日、家事の合間を縫って……」

「優しい、叔母さんだったんだな」

 そう言って、僕は頭を撫でてやる。

「?」

宮久保は少しだけ頬を赤くした。

「こうしてると、ホッとするって、教えてくれたろ?」

「うん、ありがとう」

 僕は彼女の小さくて細い体を、力一杯に抱き締めた。

 彼女の流した涙が僕の肩に落ち、温かな温度を伝える。

 あの日の僕とは違う。

 そう思う事が出来た。

「なあ、宮久保」

「やめて!」

「え?」

「名前で……呼んで……」

 その声には、少しだけ恥じらいがある。

「うん。沙耶子」

「何? 隼人君」

「キス……しても良いかな?」

 僕の問いに、頬を真赤に染める。

「キス? じゃあ……私、隼人君の……その……恋人になっても良いのかな?」

 鼓動が少しずつ高まり、胸がキュッと締め付けられる様な想いだった。

「ああ、もちろんだ」

「じゃあ、私……欲しいの……平野君が……」

「うん」

 唇に触れた柔らかい感触を感じながら、ゆっくりと目を瞑った。


 どれ程の時間が経ったのだろう。

「こんばんは、隼人君」

 ベットの上で、重い目蓋を開けて横を見ると、沙耶子はピアノに手を添えていた。

 部屋の中は既に暗くなっていて、唯一の明かりは外からの月光だった。

「お洋服、そこに置いてあるから」

「ああ、ありがとう」

 モゾモゾと服を着る。

「今から帰ると、大分遅くなるな」

「隼人君」

「ん?」

「今夜は、ここに泊まろう。お弁当もあるから」

「……うん」

 どうしてだろうか。

 あまり沙耶子に対しての恥じらいを感じなかった。

「ねえ、ピアノ弾いても良いかな?」

「ああ、頼む。僕も聞きたいから」

 鍵盤の蓋を開けて、椅子に座る。

 真っ白な鍵盤が月光に照らされて、眩しく光った。

 鍵盤の上で、彼女の指が踊りだす。

 その度に、綺麗な音が部屋の中で響いた。

曲自体は聞いた事がなかったが、何度でも聞きたくなる様な、そんな音色だった。

「この曲は?」

「昔、私と叔母さんで作った曲なの。曲名はホープ」

 ホープ、日本語訳は希望。

 曲名を考えるに当たって、彼女の叔母は沙耶子の未来に希望を託したのだろう。

 根拠はないが、そんな気がした。

「ホープ……希望か。良い曲だな……」

音色を奏でながら、沙耶子は言った。

「いつか……会えると良いな。本当の母さんに……」

「会えるよ。希望を捨てなければ」

その音色を聞きながら、僕は沙耶子と共に夜を過ごした。

これからの僕達に希望がある事を願って。



「じゃあね、隼人君」

「ああ、またな」

 駅で沙耶子と別れた後、自分のいる世界が変わった様な気さえした。

 上手くは言えないけれど、前と違って、どこか透き通っている。

 そんな感じがしたのだ。



 夏休みも終わり、秋が近付いていた。

 涼しい風やカラカラに枯れた葉が、その事を証明している。

 そして、秋になってから変わった事が一つだけあった。

「ごめんね」

 沙耶子は申し訳なさそうに、僕に謝罪する。

「どう言う事だよ!? 別れようなんて……」

「ごめんね」

 そう言い残して、僕の前から去って行った。

 別れを告げるに至った訳すらも、一切見当が付かなかった。



 それからというもの、僕は毎日校舎裏へ来た。

 結局、前の自分に戻ってしまったのだ。

 何も変わってなどいなかった。

 でも、一つだけ感じている事がある。

 ポッカリと穴が開いた様な感覚。

 それは喪失感。

 そして、この時、僕は見た。

 屋上から落下する彼女の姿を……。




 帰宅して早々、トイレに籠った。

便座に手を着き、そのまま一気に嘔吐する。

 涙や鼻水で、僕の顔はもうグショグショだ。

 汗で貼り付くシャツが、異常にヌルヌルしていて気持ちが悪い。

 自室へ戻り、布団の上に倒れた。

 今日までの出来事全てが、夢であれば良いのに。

 そんな、ありもしない事を思いながら、ゆっくりと目を瞑った。



翌日の学校では、昨日の出来事の噂で持ちきりだった。

「隣のクラスの宮久保って子、昨日の放課後に屋上から飛び降りたんだって」

「えー、マジで!? どうして?」

「うーん……私が思うに、宮久保ちゃんって平野君と仲が良かったじゃん。たぶん、それに関係してるんだと思うよ」

 僕に聞こえないように言ってはいるようだが、ほぼ聞こえていた。

 そんな面白半分に話すクラスメイトに、段々と怒りが募っていく。

 そして、屋上から落ちた沙耶子を見捨てて、逃げた自分への怒りも……。

 あの後、沙耶子はどうなったのだろう。

 血はそれ程出ていなかったから、もしかしたら職員か誰かが早く見つけていれば、死んではいないかもしれない。

 でも、もし死んでいたら……。

 そう思うと、気分が悪くなってきた。

 もういっその事、今日は早退しよう。

 そう思い、だるい体を起こして廊下に出た。

 丁度、チャイムが鳴る寸前だった為、昇降口には誰もいない。

「平野さん」

 後ろから呼び止められた。

 振り返ると、そこには見覚えのある少年が立っていた。

 上履きや名札の色から察するに、三年生の先輩だろう。

「何か用ですか?」

「ああ、やっぱり。君が平野君か」

「そうですけど……」

 僕とは対に、少年はとても涼しげな表情をしている。

 何だ? この人は。

 今は誰かと話すなんて気分じゃないのに。

「宮久保さんは生きているよ」

 その言葉が、今にも立ち去ろうとしていた僕を止める。

「どう言う事ですか?」

「僕は光圀幸太。知らないかい? よく全校集会では、壇上の上で挨拶をしてるんだけど」

そういえば、光圀幸太といえば、この学校の生徒会長だ。

「どうして、沙耶子の事を?」

「昨日あった事は、先生から聞いていたんだ。まだ、ニュースにもなっていない。とりあえず、宮久保さんと一番仲が良い君に伝えておこうと思ってね。行ってあげな。宮久保さんの為にも。きっと喜んでくれるよ」


 彼が言っていた病院は、バスを何本か乗り継ぎした所にあった。

 駐車場も大きく、病棟もいくつかある大きな病院だった。

 病院内は平日という事もあり、とても閑散としていた。

 受付を済ませ、彼女の病室へ向かう。

 受付の看護師が言うには、先程、僕と同い年位の少年が来ていて、今もいるそうだ。

 その少年というのがいったい誰なのか、そんな事は気にならなかった。

 ただ、沙耶子が無事で良かった。

 それだけだ。

 僕の心臓はバクバクと、大きな鼓動を鳴らす。

 鼓動だけで分かる様に、とても緊張している。

 いや、逆に怖いくらいだ。

 それでも、僕は沙耶子に会って、どうしてあんな事をしたのか聞かなければならない。

 それが、今しなければならない事だと思ったから。

 部屋の番号と名前を確認し、ゆっくりとドアを開ける。

 そこには、ベットに横たわる彼女の姿があった。

 隣の椅子には、見知らぬ少年が座っている。

 確かに、受付で看護師が言っていた様に、僕とそれほど年は変わらないだろう。

 現に、彼は隣町の私立高校の制服を着ている。

 どこか、大人びた顔立ちからは、悲しげな表情を隠し切れていないのが覗える。

 やはり、彼も僕と同じで、沙耶子がこうなってしまった事に苦悩しているのだろう。

 彼は数秒間、僕を見て決心した様に言った。

「君が来るのを待っていたよ」

「?」

「俺の名前は烏丸綾人」

「僕は」

 彼は僕の言葉を遮る。

「知っているよ」

「?」

「平野隼人だろ。全て、沙耶子から聞いている」

 烏丸と名乗る少年が言う沙耶子という名前に、胸が軋む。

「沙耶子とは、どんな関係なんですか?」

 彼は少しだけ言葉に間を置いた。

「中学時代の、ただのクラスメイトさ」

 彼はバッグから、何かを取り出した。

「とりあえず、これを見てくれ」

差し出されたのは、一冊の日記帳だった。

 可愛らしい、いかにも女の子が使う様な留め具の付いた物だ。

 唾を飲み込み、最初のページをめくった。


   ♪


 中学一年生に進級したある日、父さんは多額の借金を残して自殺した。

 別荘で、父方の叔母と暮らしていた私は、屋敷を離れ、父の実の妻と二人で住む事になったのた。

 この人が私の母。

 そう思う事にした。

 母は、無愛想を絵に描いた様な人間で、私をここまで育ててくれた叔母とは違って、一欠片の愛情も感じなかった。

 当然だ。

 父が死んで、その不倫相手の子供を押し付けられたのだから。

 こうなっても仕方がない。

 それでも、母に好きになって貰いたくて、愛して貰いたくて、努力した。

 仕事へ行く母に代わって、掃除や洗濯の様な、自分で出来る最低限の事はしていた。


 でも、この街に来て、良い事もあった。

 烏丸綾人君との出会いだ。

 クラスメイトが私の家庭事情に関して、ヒソヒソと悪口を言っているにも関わらず、綾人君は気にする事なく話し掛けてくれた。

 学校では殆ど、綾人君と一緒に過ごした。

 綾人君がいるから、毎日頑張って学校へ行く事が出来る。

 そう思えた。

 綾人君こそが、私にとっての希望であり光であったのだ。


 家に帰ると、母がグッタリと布団の上に倒れていた。

頬には大きな傷がある。

「どうしたの!? それ!」

 驚く私の質問に、母は面倒臭そうに唸る。

「何でもないわよ」

「何でもなくないよ! 仕事で何かあったの?」

 母は軽く舌打ちを鳴らし、私の頬を叩いた。

 私の体は床に倒れる。

「痛っ、何するの!?」

「いちいち、うるせえんだよ!」

 そう言って、私の髪を引っ張り、風呂場に連れて行った。

「痛い、やめて! いやっ」

 私の声は、しだいに震え始める。

「……か、母さん……何? 何をするの?」

 母は私の顔を、そのまま水の張った浴槽の中に叩き付けた。

 息が出来ない。

 辛い。

 苦しい。

 髪を上に引っ張られ、浴槽から引き上げられる。

「やめて……母さん。お願い……やめて」

 か細い声で、そう言い続けた。

 その言葉を聞いた母は眉にシワを寄せる。

「私を……私を母さんなんて呼ぶなああああああああ!!」

 そう言って、再び私の顔を浴槽に突っ込んだ。

「ごめんなさい! もう、何も言いませんから! お願い! やめて!」

 同じ様な事を数十分繰り返され、その度に私は叫び混じりに、そんな言葉を吐き続けた。


それからというもの、母は毎日の様に、私に暴力を振るい続けた。

 悪いのは母ではない。

 生き残ってしまった私なのだ。

 左腕を何度もカッターナイフで切った。

 それでも死ねなかった。

 いつも刃を深く皮膚に入れていないからだ。

 ならば、私は何の為にこんな事をしているのだろう。

 そんな事をよく考えてしまっていた。

 それに呼応するかの様に私の左腕には、たった数日で幾つもの傷が出来上がっていた。



とある休日の事だった。

綾人君は、私を買い物に連れ出してくれた。

たぶん私を元気付ける為だろう。

「はい、沙耶子にプレゼント」

 綾人君は、私にリストバンドを買ってくれた。

 きっと、私の左腕の傷に気を使ってくれたんだと思う。

「これ……」

「ほら、俺とお揃い」

 無邪気な顔で、左腕に着けたリストバンドを見せる。

 つい笑ってしまった。

「今時、お揃いなんて……」

「あ、笑うなよ」

 綾人君は少しだけ照れた顔をする。

「でも、ありがとう。大事にするね」

「ああ」

 その笑顔を見るだけで、勇気付けられる。

綾人君となら、どんな困難も乗り越えていける。

そんな気がしていた。

それでも、現実は甘くない。

 家に帰ると、母さんはどこかの知らない男の人を連れていた。

 二十代後半くらいだろうか。

 年齢独特のいやらしい目で、男は私を見ていた。

「沙耶子。この人、今日はうちに泊まってくから」

「……うん」

 何も言えなかった。

 下手に何かを言えば、また暴力を振るわれるからだ。

 母さんの暴力に怯えて、何も出来ない無力な自分が、情けなくてたまらなかった。



その日の深夜。

 自室でガタガタと物音がするので目を開けてみると、目の前には母さんが連れて来た男がいた。

「あ、あ……」

 男は私の悲鳴が出る寸前の口を片手で塞ぎ、もう片方の手で私の両腕を掴んだ。

 荒い息を吐きながら言う。

「大人しくしてろよ。そうすれば、痛くしないからさあ」

 悲鳴も上げられなければ、身動きもとれない。

 最悪な状況だ。

「借金があるんだろ。俺がその借金を肩代わりしてやってもいいんだぜ」

「?」

「ただし、今から俺の言う事を全部聞いてくれたらな!」

 私は男に怯えながらも、その要求を承諾してしまった。



「まったく、中学生がこんな事を平気でするなんてなあ。『借金を返して普通の生活?』 ハハハ、笑わせんなよ。俺みたいな奴とこんな事をして、元に戻れる訳ないだろ。バーカ」

 男は父さんが残した借金を、肩代わりしてくれた。

 その代償に、私は汚されてしまった。

 それでも、普通の生活を送る為には仕方のない事だ。

 結果的には、普通になった筈だった。



 数日後、母は睡眠薬を大量に飲み、自殺した。

 冷たくなった母の隣には、遺書が置かれている。

『娘を差し出した自分が情けない。あの夜の事を深くお詫びします。本当にごめんなさい』

 遺書は、私への謝罪の手紙だった。

 少しだけ嬉しかった。

 母さんの中には、私を気遣う心があった事を知ったから。

 それでも、毎日のように続く暴力から解放された事を、私は一番の喜びとして感じてしまっていた。

その時、初めて気付いた。

 私は最低だと。

 生きる価値もない人間だと。

 汚れた女なのだと。

 もはや普通の日常など、見る影もなく消えていたのだ。


   ♪


 日記はここまでで終わっていた。

こんな事があったなんて、全く知らなかった。

沙耶子は、僕なんかより何倍もの苦労を重ねていたのだ。

それなのに僕は……。

烏丸は俯いている僕に、平然と質問を投げ掛ける。

「しょうがないさ。沙耶子は何も言っていなかったんだろ?」

「ああ。でも」

「?」

「僕が気付いてあげるべきだった。そうすれば、こんな事にはならなかったのかもしれない」

「……そうかもな。沙耶子が俺にこの日記帳を渡したのは、先週の事だったんだ。こんな事を頼めるのは、俺しかいない。そんな事を言っていた。沙耶子に言われた通り、俺は君にこれを渡した。沙耶子なりに、何かを考えていたんだと思うぞ」

 彼の口からポンポンと出る言葉に、僕は不信感を抱いた。

「どうして、そんなに落ち着いていられるんだ? あんたも、ここにいるって事は、沙耶子と親しい仲だったんだろ?」

 僕の言葉に、少しだけ表情が暗くなる。

「そうだとしても……だからこそ、俺は沙耶子の最後の願いを聞いてやったんだ」

 烏丸はこんな態度を取っているが、心の底から悲しんでいる。

 それは表情を見ただけで明白だった。

 沙耶子が目を覚ましたら、思いっ切り抱き締めてあげよう。

 そして、思いっ切り叱ろう。

 そう思っている僕を余所に、言おうかどうか迷っていたのだろう。

 少しだけ彼の声が低くなる。

「落ち着いて……聞いて欲しいんだ」

「?」

「沙耶子は、もう目を覚まさない」

 その言葉に、不安が募る。

「え? それって……」

「俺も詳しい事は分からないが、医者の話では、奇跡でも起きない限り、目を覚ます事はないそうだ」

 衝撃の事実に、僕は愕然と肩を落とした。

 しだいに溢れて来る涙を、僕は手でこすりながら一生懸命に堪えた。

「そんな……」

 息が詰まり、うまく言葉が出せない。

 烏丸は僕に左腕を見せた。

 左腕にはリストバンドが着いている。

 これは沙耶子と同じ物だ。

「あの日から、肌身離さず持っていた。それも今日で終わりだ」

 腕からリストバンドを外して、僕に差し出す。

「今の沙耶子には、君が必要だ。本当に沙耶子の事を思う気持ちがあるのなら、受け取ってくれ」

「……ありがとう」

 僕は迷う事なく、リストバンドを受け取った。

「俺はしばらく、ここに通う事にするよ。また、そのうち会おう」

 そう言い残して、烏丸は病室から去って行った。

 僕と沙耶子しかいない病室は、静寂に包まれていた。

 ヒューと吹いてくる風が、僕の頬を撫でる。

 涼しいと思ったら、窓が全開に開かれていた。

 床には数枚の枯葉が落ちている。

 風に吹かれて、どこからか飛ばされて来たのだろう。

 もし、沙耶子が落ちて来たあの場所に、枯葉が溜まっていなかったら、沙耶子は死んでいただろう。

 枯葉は彼女の命を救ったのだ。

 それでも、沙耶子は目覚めない。

 これが結果だ。

 全開に開かれている窓を閉め、ベットの横に置いてある椅子に座る。

 布団から覗いている彼女の左手首には、幾つもの傷がある。

 僕はその手を握った。

「沙耶子、君は最低でもなければ、汚れた女でもない。君は君だ。だから、僕は君が目を覚ますのを待ち続ける。十年でも二十年でも、それ以上でも待ち続ける。君が目を覚ますまで……」

 彼女の寝顔は、とても穏やかで幸せそうだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ