Episode1 平野隼人
事の発端は、高校へ入学した直後の事だった。
教室で授業を受けていると、突然来た担任が息を荒げて僕を廊下に呼び出した。
「平野君、落ち着いて聞いて。あなたの御両親が交通事故で亡くなったわ」
「は?」
突然の話に、そんな間の抜けた声を上げていた。
正直、信じる事が出来なかった。
その場では……。
病院で両親の亡骸を見た。
顔には一枚の白い布が掛けられていて、体は冷たくなっている。
それを見た瞬間、背筋に悪寒が走った。
「どうして、僕がこんな目に……」
涙を流しながら、そう連呼し続けた。
頬を伝う涙は、この冷え切った空間の中では、とても温かく感じられた。
その後は、親戚からの仕送りで自分の生活を維持している。
普通に生活をする分では、何も変わらない。
ただ、両親がいなくなっただけ。
そう考えれば、孤独な思いをせずに済む。
しかし、学校で接する友人同士の明るい空間には、馴染む事が出来なかった。
だから昼休みは校舎裏で過ごしている。
この場所こそ、僕が馴染む事の出来る唯一の空間だから。
♪
校舎裏に降り注ぐ真昼の明るい日射しは、青葉が茂る数本の木蓮を通して、綺麗な木漏れ日を作りだしていた。
木漏れ日の下に少女が一人、腰まで伸ばした黒い髪を、微かな風に靡かせ佇んでいる。
細い彼女の体を包む制服の袖やスカートから覗く肌が、とても白くて綺麗だった。
左の袖から覗く腕には、リストバンドが着けられている。
それがどこか印象的だ。
珍しいな。
こんな所に僕以外の誰かがいるなんて。
彼女に声を掛けてみる事にした。
「なあ、ちょっと」
声を掛けてみると、少女は肩をビクリとさせて、こちらを振り向いた。
「あ、えっと……」
突然、声を掛けたからだろうか。
困ったような素振りを見せる。
「えっと……」
よく見ると、目には涙が溜まっている。
「どうかしたのか?」
「何でも、ない」
それは、何かに怯えている様な震えた声だった。
何かあったのだろうか。
「よかったら、話してくれないか?」
彼女に対して、そんな事を言っていた。
僕は何をしているのだろう。
他人の事情に首を突っ込むなんて、僕らしくない。
しかし、この少女はどことなく自分に近い。
根拠はないけれど、そんな気がした。
「無理にとは言わないけど、話して楽になる事もあると思うから」
彼女は軽く頷いてくれた。
二人で木蓮に背を預け寄り掛かる。
僕の隣で、彼女の重い口が開いた。
「先月、私の母さんが亡くなったの」
「え?」
自分と同じ境遇の人間が、こんなに身近にいるとは思ってもみなかった。
彼女は少々驚く僕を余所に、話を続ける。
「父さんは……元々いなかったから、私は一人ぼっちになっちゃったんだ。だから、なんだかクラスの人達とも馴染む事が出来なくて、時々、ここに来るの。この場所って、不思議と凄く落ち着くから」
悲しそうな顔をしている。
それは、見てすぐに分かった。
僕だけじゃない。
こんな思いをしているのは、僕だけじゃなかったんだ。
「僕にも、両親がいないんだ。先月、交通事故で亡くなって」
その言葉を聞いて、彼女の表情が驚きに変わる。
「まあ、普通に生活をする分では、特に問題はないんだ。親戚からの仕送りだってあるし」
「大丈夫」、そう言いながら強がっていると、彼女は僕の右手に両手を添えて優しく握った。
そして、僕の目を見て微笑む。
「悲しい時は肌と肌で触れ合っていると、凄くホッとするんだよ」
恥ずかしくなって、少しだけ彼女から目を反らし、僕はボソボソと感謝の言葉を口にした。
「……ありがとう」
「母さんと父さんは、優しかったの?」
「ああ。凄く優しくて、僕の事を第一に考えてくれていた」
「そうなんだ」
気が付くと、目には僅かに涙が溜まっていた。
少しだけ姿勢を低くし、慌てて涙を拭う。
「ごめん、みっともないよな。男のくせに……」
「そんな事ないよ」
彼女は爪先立ちで、僕の頭を両腕で軽く抱きしめる。
「泣いても良いんだよ。誰だって、泣きたくなる事はあるから」
「うん、ありがとう」
暖かな腕に抱かれ、これでもかと言う位に泣いた。
そんな僕を見て、彼女は穏やかに微笑んでいる。
微笑む彼女の目には、先程まで流していた涙は見られなかった。
一生分は泣いた様な気がする。
そして、自分の泣き顔を見られていた。
そう思うと、先程の出来事が何だか恥ずかしくなってくる。
少しだけ彼女から目を反らして、僕は言った。
「ありがとう。なんだか、凄く安心した」
「そんな事ないよ。えっと……そういえば名前……」
「ああ、平野隼人。君は?」
「宮久保沙耶子だよ。 よろしくね」
宮久保沙耶子と名乗る少女は笑顔を作る。
その笑顔はとても明るくて、僕には眩しい位だった。
笑う。
たったそれだけの事が、僕には凄い事だと思えた。
あれだけ絶望的な状況にありながらも、こんなに明るくなれるのだ。
僕はというと、笑う事もなく、ただ毎日を惰性の様に過ごしている。
もしかしたら、今ここで宮久保に出会った事で、何かがこれから変わるのかもしれない。
そんな希望を抱いて、僕は不器用に笑い返した。
放課後の、いつもと同じ一人だけの帰り道。
道の両脇には、ファーストフード店等の賑やかな店が建ち並んでいる。
学校帰りの学生達が集まるには、こういった道はとても便利だ。
僕はどこにも寄らずに真っ直ぐ帰宅するのだけれど。
周囲では友人同士で騒ぎながら、帰宅している生徒達が見られる。
なんだか、とてつもなく居心地が悪い。
まったく、群れる奴の気持ちが分からない。
しかし、そんな事を考えている自分は、我ながら相当病んでいると思う。
「ハア……」
軽く溜息を吐いて、自分の前を歩いている生徒達の一団を追い越す。
一人でこんな行動を取るのは容易く思えるが、実際は難しい事だ。
無愛想に横切って抜かれた相手は、どう思うのだろうか。
きっと、あまり良い気持ちはしない筈だ。
この行為その物が、相手に邪魔だと告げる意思表示なのだから。
バスに乗って帰れば良かった。
そんな事を思っていると、ポンと肩に手が置かれる感触がした。
振り返ると、昼休みに出会った少女がいた。
「こんにちは。平野君」
宮久保は明るいな。
見習わなければいけないと思ってしまう。
なんだか、彼女の息が少しだけ荒い。
「どうした? そんなに息を切らせて」
「だって、平野君、歩くの凄く早くって」
それは、たぶんこの場の空気に馴染めなかったからだろう。
「ああ、きっと、僕は都会人なんだよ」
とりあえず、そんな事を言って誤魔化してみた。
「え?」
彼女の表情に疑問が浮かぶ。
「都会人っていうのは、歩くのが凄く早いんだよ。東京の方とか行くと、皆サッサと歩いてるだろ。それは、仕事とかしてる人が多いから。それと同じだ」
「へー。平野君って、学校の勉強そっちのけで、雑学とかに詳しそうだよね」
「それって、誉められてるのかな?」
「うーん……半分」
「そっか、半分か」
こんな他愛もない会話をしたのは、かなり久しぶりだ。
「そうだ! 私も雑学知ってるよ」
「どんな?」
「クラスの男子が話してるのを聞いちゃったんだけど、コンドームを財布に入れると、お金が溜まるんだって!」
「!?」
そんな話を笑顔でされて、どう対応して良いのか困ってしまった。
「え、えぇっと……宮久保、コンドームって何か分かるか?」
「そこが問題なんだよ! 何? コンドームって」
「えっと……知らない方が良いと思うぞ」
「えー!? 教えてよ!」
教える事を躊躇ったが、何度も粘るので仕方がない。
「宮久保。耳を貸して」
彼女の耳に、今までの経験を活かした知識を吹き込む。
すると、宮久保は僕から目を反らし、恥ずかしそうに頬を真赤に染めた。
「ひ、平野君」
「何?」
「ごめん」
「いや、どうって事ないよ……」
少しだけ、気まずい空気を作ってしまった。
どうにかして、この……何て言うか……エロい話から離れないと。
「そういえば、宮久保って家はどの辺?」
「この先の駅から電車だよ」
「電車か。毎日、大変だろ?」
「そうでもないよ。それに、長い道を歩いてるから、色々と面白い発見があるんだよ」
「発見?」
「ほら! あれ」
そう言って、ある方向を指差す。
「あの木」
宮久保が指差した木は、太い木の棒で補強されていた。
「あれが、どうかしたのか?」
「この前までは、今にも倒れそうだったのに、支える事で立ち上がり始めてる。なんだか、あの木を見ると、やる気が出るっていうか……。これからも頑張って行けそう、みたいに思えるんだよね。はは、ごめんね。なんか自分で言ってて、ちょっと恥ずかしいかも……。他にも、この時間にこの場所を歩いて来る人の服装とか。……私って、ちょっと変かな?」
そんな事はない。
毎日、この道を通っているけれど、そんな事に関心を持った事など、一度もなかった。
宮久保は、なんて前向きなんだ。
つくづく感心してしまった。
宮久保と出会って、一週間程経っただろうか。
だいぶ僕に馴染んだ様な気がする。
休み時間になると、宮久保は僕に会いに教室へ来るようになっていた。
同じ学年で、クラスも近いからだろう。
「平野君」
教室のドアから、宮久保が呼んでいた。
立ち上がり、教室から出る。
「おお、宮久保」
「ねえ、テストどうだった?」
今日は授業が潰れて、丸一日がテストになっている。
あまり自信のない僕には、突然その話題を出されるのは少々きついかもしれない。
なんたって、あと三つもテストが残っているのだから。
「まあまあ、かな」
とりあえず、そう答える。
それを聞いた宮久保は、ややからかい気味に言う。
「ふーん。じゃあ、そんなに良くはなかったんだね」
「えっと、まあ、僕は赤点さえ取らなければ、それで良いから」
と、胸を張って言ってみた。
「あー、そんなんじゃあ、良い大学には入れないよ」
「良いんだよ。僕は付属の大学に行くんだから」
気のせいだろうか。
少しだけ彼女の表情が暗くなる。
「そっか。私は、出来れば他大に行きたいなあ、なんて思ってるんだけどね」
「え!? 凄いな」
ふふん、と宮久保も胸を張って見せた。
答案は、三日と経たずに返却された。
テストは全部で五教科ある。
先に返却された四教科は、赤点にはなっていなかった物の、平均点超えもしていなかった。
そして、最後の一教科が返された。
「うわ……」
それは、真赤なバッテンだらけの答案用紙。
まさしく赤点だ。
教師は容赦なく言う。
「赤点だった奴は追試だからな」
「へー、大変だね」
帰り道、宮久保にテストの事を話すと、そんな返答をされた。
「ちゃんと勉強したのになあ……」
「うーん、勉強の仕方なんて、人それぞれだから」
「そういえば、宮久保はテストどうだったんだ?」
「私? 私は全部平均点超えだよ」
「う……そっか」
僕は少々顔を引きつらせる。
「そういえば、赤点取ったら追試だよね?」
「ああ」
「私が勉強教えてあげようか?」
「いいのか?」
「もちろん!」
宮久保は嬉しそうに頷いてくれた。
休日に、駅近くの図書館で勉強する事になった。
勉強はあまり好きではないが、なんだか待ち遠しい。
宮久保を駅まで送った後、今にも騒ぎ出したい気持ちを抑えながら、僕は思いっ切り家まで走った。
その日、宮久保は制服で来た。
彼女曰く、制服の方が気合いが入るそうだ。
まあ、僕もそんな気分で制服を着て来たのだけれど。
図書館の隅の机に二人で腰掛けた。
勉強の為、止むを得ないのは分かるのだが距離が近い。
彼女の呼吸の音が聞こえたり、長い髪が時々頬に触れる。
その度に、少しだけ赤面した。
勉強の方はと言うと、教え方がとてもうまく、すぐに問題を理解する事が出来た。
始めてから二時間程して、宮久保は伸びをした。
「んー! そろそろ休憩しようか」
「ああ。そうしよう」
僕と宮久保は外の自販機でジュースを買った。
授業料として、彼女の分の代金は僕が出した。
缶を開けて、口に運ぶ。
その時、彼女の腕に着いているリストバンドが目に止まった。
「なあ、気になってたんだけどさあ、そのリストバンド。いつも着けてるけど、何?」
「ああ、これ? これは、前に大事な人から貰った物なんだ。大事な人から……」
儚げな表情を作って、リストバンドを見る。
「大切な物なんだな」
「うん、とっても」
宮久保にも、過去にそんな人はいた。
自分が関わる事の出来ない彼女の過去。
そう思うと、少しだけ悲しくなった。
雲に隠れていた太陽が顔を出し、眩しい日差しを放つ。
宮久保は左手を広げ、宙にかざして言った。
「もう夏だね」
「うん」
「夏休みになったらさ、二人でどこかに行かない?」
「どこかって?」
「どこか!」
笑う宮久保に僕も笑い返す。
「そうだな。夏休みになったら、どこかに行こう」
勉強の成果もあり、追試は見事に合格だった。
テストも終わり、高校一年生の夏休みが間近に迫っていた日。
帰り道にあるファーストフード店で、僕達は夏休みの予定について話し合っていた。
「平野君は、夏休みは予定とかある?」
「んー、そうだな、特に予定はないな。旅行にも行かないし」
「じゃあ、二人で行こうよ」
「どこに?」
「電車で、凄い田舎に」
「田舎?」
「うん。凄く良い所」
結局、宮久保は詳しい行先は教えてはくれなかった。
夏休みに入ると、宮久保と会う回数も減ってきた。
学校に行く事はないから、仕方がない事だが……。
しかし、旅行はあと数日後だ。
あと数日……そう思う程、宮久保に会いたくて仕方がなかった。
平日の午前十時という、あまり人のいない駅の改札前で、宮久保は僕を待っていた。
いつも学校で見る様な制服ではなく、白のワンピース姿に、やはり腕にはリストバンドを着けている。
手には軽い荷物を持っている。
日帰りだと言っていたから、実はそれほど遠くはないのだろう。
まあ、夏休みだから帰りなんて何時になってもいいのだけれど。
数本の電車を乗り継ぎして二時間程の所に、目的地はあった。
そこは、彼女の言う通り、まさしく田舎だった。
自分の住んでいる街とは違って、太陽は照り付けてはいるが、とても涼しくて過ごしやすそうな所だ。
辺りは見渡す限りの田園が広がっていて、その間に一本の舗装された道がある。
「本当に田舎だな」
驚いている僕を見て、宮久保はクスクスと笑う。
「こんな田舎は初めて?」
「うん、そうかも」
コンクリートで舗装された一本道を二人で歩く。
真夏の日差しは、僕達を明るく照らし出していた。
時折、地元のケートラが通るくらいで、他には何もいなかった。
ただ聞こえてくるのは、蝉の鳴き声や風の音だけ。
しばらく歩いた所に村があった。
藁で作られた屋根のある家々が連なり、一つの村を作りだしていた。
いや、こういうのは村と言うよりは、集落と言うのかもしれない。
「なあ、ここに何かあるのか?」
「まだ先だよ」
そう言って、宮久保は再び歩き出す。
村を抜けた所に西洋風の大きな屋敷があった。
見てすぐに、白というイメージを定着させる様な、真っ白な柵に囲まれた屋敷。
大きな庭には、かつては芝生があったのだろう。
今は雑草がボウボウに茂っている。
「ここだよ」
宮久保は、そう言った。
「え?」
「ここが目的地」
ここは、どう見ても空家だった。
以前に、どこかの金持ちでも住んでいたのだろうか。
「ここって……」
彼女の表情に影が差し込む。
「昔、私が住んでた家」
「こんな凄い所に……。どうして?」
「とりあえず、中に入ろう」
ポケットから鍵を取り出し、門の鍵を開けた。
「昔、合鍵を貰った事があって、そのまま持ってたの」
屋敷に入ると、高い天井や所々の大きな扉が目に着いた。
驚いている僕を余所に、宮久保は語りだす。
「私は、父さんの不倫相手との間にできた子供だったの」
♪
宮久保沙耶子は、世間で名を轟かせる程の富豪の家に生まれた。
しかし、それは宮久保にとっては、とても不幸で可哀想な事だった。
宮久保は父親と、その不倫相手によってできた子供なのだ。
別荘であるこの屋敷に、宮久保は父方の親戚の叔母と住む事になる。
しかし、その生活は中学一年生に進級したある日、終わりを迎える。
不倫相手は疾走し、その後、父親は事業に失敗して自殺。
その為、会社は倒産し、叔母は私を一人残して失踪した。
残ったのは、宮久保とその母親、それと多額の借金だった。
そして、宮久保はこの屋敷を離れ、あの街で母親と住む事になったのだ。
♪
「ここが、私の部屋」
かつて、宮久保が住んでいた部屋は閑散としていて、中央にあるピアノとベットと机、他に家具の様な物は、一切置かれていなかった。
それを見て、宮久保は安心した様に胸を撫で下ろす。
「良かった。ピアノだけは残っていたんだ」
「?」
「殆どの家具は、差し押さえられちゃったんだ。でも、良かった。本当に良かった」
宮久保は全身の力が抜けた様に、その場に倒れ込む。
僕は慌てて、彼女の体を支えた。
「大丈夫か?」
「うん、ごめんね」
彼女の声が、しだいに震えだす。
「ずっと、怖かった。このピアノがなかったら、どうしようって……ずっと怖かった」
「ピアノ?」
「うん。叔母さんは、引っ込み思案な私にピアノを教えてくれたの。毎日、家事の合間を縫って……」
「優しい、叔母さんだったんだな」
そう言って、僕は頭を撫でてやる。
「?」
宮久保は少しだけ頬を赤くした。
「こうしてると、ホッとするって、教えてくれたろ?」
「うん、ありがとう」
僕は彼女の小さくて細い体を、力一杯に抱き締めた。
彼女の流した涙が僕の肩に落ち、温かな温度を伝える。
あの日の僕とは違う。
そう思う事が出来た。
「なあ、宮久保」
「やめて!」
「え?」
「名前で……呼んで……」
その声には、少しだけ恥じらいがある。
「うん。沙耶子」
「何? 隼人君」
「キス……しても良いかな?」
僕の問いに、頬を真赤に染める。
「キス? じゃあ……私、隼人君の……その……恋人になっても良いのかな?」
鼓動が少しずつ高まり、胸がキュッと締め付けられる様な想いだった。
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ、私……欲しいの……平野君が……」
「うん」
唇に触れた柔らかい感触を感じながら、ゆっくりと目を瞑った。
どれ程の時間が経ったのだろう。
「こんばんは、隼人君」
ベットの上で、重い目蓋を開けて横を見ると、沙耶子はピアノに手を添えていた。
部屋の中は既に暗くなっていて、唯一の明かりは外からの月光だった。
「お洋服、そこに置いてあるから」
「ああ、ありがとう」
モゾモゾと服を着る。
「今から帰ると、大分遅くなるな」
「隼人君」
「ん?」
「今夜は、ここに泊まろう。お弁当もあるから」
「……うん」
どうしてだろうか。
あまり沙耶子に対しての恥じらいを感じなかった。
「ねえ、ピアノ弾いても良いかな?」
「ああ、頼む。僕も聞きたいから」
鍵盤の蓋を開けて、椅子に座る。
真っ白な鍵盤が月光に照らされて、眩しく光った。
鍵盤の上で、彼女の指が踊りだす。
その度に、綺麗な音が部屋の中で響いた。
曲自体は聞いた事がなかったが、何度でも聞きたくなる様な、そんな音色だった。
「この曲は?」
「昔、私と叔母さんで作った曲なの。曲名はホープ」
ホープ、日本語訳は希望。
曲名を考えるに当たって、彼女の叔母は沙耶子の未来に希望を託したのだろう。
根拠はないが、そんな気がした。
「ホープ……希望か。良い曲だな……」
音色を奏でながら、沙耶子は言った。
「いつか……会えると良いな。本当の母さんに……」
「会えるよ。希望を捨てなければ」
その音色を聞きながら、僕は沙耶子と共に夜を過ごした。
これからの僕達に希望がある事を願って。
「じゃあね、隼人君」
「ああ、またな」
駅で沙耶子と別れた後、自分のいる世界が変わった様な気さえした。
上手くは言えないけれど、前と違って、どこか透き通っている。
そんな感じがしたのだ。
夏休みも終わり、秋が近付いていた。
涼しい風やカラカラに枯れた葉が、その事を証明している。
そして、秋になってから変わった事が一つだけあった。
「ごめんね」
沙耶子は申し訳なさそうに、僕に謝罪する。
「どう言う事だよ!? 別れようなんて……」
「ごめんね」
そう言い残して、僕の前から去って行った。
別れを告げるに至った訳すらも、一切見当が付かなかった。
それからというもの、僕は毎日校舎裏へ来た。
結局、前の自分に戻ってしまったのだ。
何も変わってなどいなかった。
でも、一つだけ感じている事がある。
ポッカリと穴が開いた様な感覚。
それは喪失感。
そして、この時、僕は見た。
屋上から落下する彼女の姿を……。
帰宅して早々、トイレに籠った。
便座に手を着き、そのまま一気に嘔吐する。
涙や鼻水で、僕の顔はもうグショグショだ。
汗で貼り付くシャツが、異常にヌルヌルしていて気持ちが悪い。
自室へ戻り、布団の上に倒れた。
今日までの出来事全てが、夢であれば良いのに。
そんな、ありもしない事を思いながら、ゆっくりと目を瞑った。
翌日の学校では、昨日の出来事の噂で持ちきりだった。
「隣のクラスの宮久保って子、昨日の放課後に屋上から飛び降りたんだって」
「えー、マジで!? どうして?」
「うーん……私が思うに、宮久保ちゃんって平野君と仲が良かったじゃん。たぶん、それに関係してるんだと思うよ」
僕に聞こえないように言ってはいるようだが、ほぼ聞こえていた。
そんな面白半分に話すクラスメイトに、段々と怒りが募っていく。
そして、屋上から落ちた沙耶子を見捨てて、逃げた自分への怒りも……。
あの後、沙耶子はどうなったのだろう。
血はそれ程出ていなかったから、もしかしたら職員か誰かが早く見つけていれば、死んではいないかもしれない。
でも、もし死んでいたら……。
そう思うと、気分が悪くなってきた。
もういっその事、今日は早退しよう。
そう思い、だるい体を起こして廊下に出た。
丁度、チャイムが鳴る寸前だった為、昇降口には誰もいない。
「平野さん」
後ろから呼び止められた。
振り返ると、そこには見覚えのある少年が立っていた。
上履きや名札の色から察するに、三年生の先輩だろう。
「何か用ですか?」
「ああ、やっぱり。君が平野君か」
「そうですけど……」
僕とは対に、少年はとても涼しげな表情をしている。
何だ? この人は。
今は誰かと話すなんて気分じゃないのに。
「宮久保さんは生きているよ」
その言葉が、今にも立ち去ろうとしていた僕を止める。
「どう言う事ですか?」
「僕は光圀幸太。知らないかい? よく全校集会では、壇上の上で挨拶をしてるんだけど」
そういえば、光圀幸太といえば、この学校の生徒会長だ。
「どうして、沙耶子の事を?」
「昨日あった事は、先生から聞いていたんだ。まだ、ニュースにもなっていない。とりあえず、宮久保さんと一番仲が良い君に伝えておこうと思ってね。行ってあげな。宮久保さんの為にも。きっと喜んでくれるよ」
彼が言っていた病院は、バスを何本か乗り継ぎした所にあった。
駐車場も大きく、病棟もいくつかある大きな病院だった。
病院内は平日という事もあり、とても閑散としていた。
受付を済ませ、彼女の病室へ向かう。
受付の看護師が言うには、先程、僕と同い年位の少年が来ていて、今もいるそうだ。
その少年というのがいったい誰なのか、そんな事は気にならなかった。
ただ、沙耶子が無事で良かった。
それだけだ。
僕の心臓はバクバクと、大きな鼓動を鳴らす。
鼓動だけで分かる様に、とても緊張している。
いや、逆に怖いくらいだ。
それでも、僕は沙耶子に会って、どうしてあんな事をしたのか聞かなければならない。
それが、今しなければならない事だと思ったから。
部屋の番号と名前を確認し、ゆっくりとドアを開ける。
そこには、ベットに横たわる彼女の姿があった。
隣の椅子には、見知らぬ少年が座っている。
確かに、受付で看護師が言っていた様に、僕とそれほど年は変わらないだろう。
現に、彼は隣町の私立高校の制服を着ている。
どこか、大人びた顔立ちからは、悲しげな表情を隠し切れていないのが覗える。
やはり、彼も僕と同じで、沙耶子がこうなってしまった事に苦悩しているのだろう。
彼は数秒間、僕を見て決心した様に言った。
「君が来るのを待っていたよ」
「?」
「俺の名前は烏丸綾人」
「僕は」
彼は僕の言葉を遮る。
「知っているよ」
「?」
「平野隼人だろ。全て、沙耶子から聞いている」
烏丸と名乗る少年が言う沙耶子という名前に、胸が軋む。
「沙耶子とは、どんな関係なんですか?」
彼は少しだけ言葉に間を置いた。
「中学時代の、ただのクラスメイトさ」
彼はバッグから、何かを取り出した。
「とりあえず、これを見てくれ」
差し出されたのは、一冊の日記帳だった。
可愛らしい、いかにも女の子が使う様な留め具の付いた物だ。
唾を飲み込み、最初のページをめくった。
♪
中学一年生に進級したある日、父さんは多額の借金を残して自殺した。
別荘で、父方の叔母と暮らしていた私は、屋敷を離れ、父の実の妻と二人で住む事になったのた。
この人が私の母。
そう思う事にした。
母は、無愛想を絵に描いた様な人間で、私をここまで育ててくれた叔母とは違って、一欠片の愛情も感じなかった。
当然だ。
父が死んで、その不倫相手の子供を押し付けられたのだから。
こうなっても仕方がない。
それでも、母に好きになって貰いたくて、愛して貰いたくて、努力した。
仕事へ行く母に代わって、掃除や洗濯の様な、自分で出来る最低限の事はしていた。
でも、この街に来て、良い事もあった。
烏丸綾人君との出会いだ。
クラスメイトが私の家庭事情に関して、ヒソヒソと悪口を言っているにも関わらず、綾人君は気にする事なく話し掛けてくれた。
学校では殆ど、綾人君と一緒に過ごした。
綾人君がいるから、毎日頑張って学校へ行く事が出来る。
そう思えた。
綾人君こそが、私にとっての希望であり光であったのだ。
家に帰ると、母がグッタリと布団の上に倒れていた。
頬には大きな傷がある。
「どうしたの!? それ!」
驚く私の質問に、母は面倒臭そうに唸る。
「何でもないわよ」
「何でもなくないよ! 仕事で何かあったの?」
母は軽く舌打ちを鳴らし、私の頬を叩いた。
私の体は床に倒れる。
「痛っ、何するの!?」
「いちいち、うるせえんだよ!」
そう言って、私の髪を引っ張り、風呂場に連れて行った。
「痛い、やめて! いやっ」
私の声は、しだいに震え始める。
「……か、母さん……何? 何をするの?」
母は私の顔を、そのまま水の張った浴槽の中に叩き付けた。
息が出来ない。
辛い。
苦しい。
髪を上に引っ張られ、浴槽から引き上げられる。
「やめて……母さん。お願い……やめて」
か細い声で、そう言い続けた。
その言葉を聞いた母は眉にシワを寄せる。
「私を……私を母さんなんて呼ぶなああああああああ!!」
そう言って、再び私の顔を浴槽に突っ込んだ。
「ごめんなさい! もう、何も言いませんから! お願い! やめて!」
同じ様な事を数十分繰り返され、その度に私は叫び混じりに、そんな言葉を吐き続けた。
それからというもの、母は毎日の様に、私に暴力を振るい続けた。
悪いのは母ではない。
生き残ってしまった私なのだ。
左腕を何度もカッターナイフで切った。
それでも死ねなかった。
いつも刃を深く皮膚に入れていないからだ。
ならば、私は何の為にこんな事をしているのだろう。
そんな事をよく考えてしまっていた。
それに呼応するかの様に私の左腕には、たった数日で幾つもの傷が出来上がっていた。
とある休日の事だった。
綾人君は、私を買い物に連れ出してくれた。
たぶん私を元気付ける為だろう。
「はい、沙耶子にプレゼント」
綾人君は、私にリストバンドを買ってくれた。
きっと、私の左腕の傷に気を使ってくれたんだと思う。
「これ……」
「ほら、俺とお揃い」
無邪気な顔で、左腕に着けたリストバンドを見せる。
つい笑ってしまった。
「今時、お揃いなんて……」
「あ、笑うなよ」
綾人君は少しだけ照れた顔をする。
「でも、ありがとう。大事にするね」
「ああ」
その笑顔を見るだけで、勇気付けられる。
綾人君となら、どんな困難も乗り越えていける。
そんな気がしていた。
それでも、現実は甘くない。
家に帰ると、母さんはどこかの知らない男の人を連れていた。
二十代後半くらいだろうか。
年齢独特のいやらしい目で、男は私を見ていた。
「沙耶子。この人、今日はうちに泊まってくから」
「……うん」
何も言えなかった。
下手に何かを言えば、また暴力を振るわれるからだ。
母さんの暴力に怯えて、何も出来ない無力な自分が、情けなくてたまらなかった。
その日の深夜。
自室でガタガタと物音がするので目を開けてみると、目の前には母さんが連れて来た男がいた。
「あ、あ……」
男は私の悲鳴が出る寸前の口を片手で塞ぎ、もう片方の手で私の両腕を掴んだ。
荒い息を吐きながら言う。
「大人しくしてろよ。そうすれば、痛くしないからさあ」
悲鳴も上げられなければ、身動きもとれない。
最悪な状況だ。
「借金があるんだろ。俺がその借金を肩代わりしてやってもいいんだぜ」
「?」
「ただし、今から俺の言う事を全部聞いてくれたらな!」
私は男に怯えながらも、その要求を承諾してしまった。
「まったく、中学生がこんな事を平気でするなんてなあ。『借金を返して普通の生活?』 ハハハ、笑わせんなよ。俺みたいな奴とこんな事をして、元に戻れる訳ないだろ。バーカ」
男は父さんが残した借金を、肩代わりしてくれた。
その代償に、私は汚されてしまった。
それでも、普通の生活を送る為には仕方のない事だ。
結果的には、普通になった筈だった。
数日後、母は睡眠薬を大量に飲み、自殺した。
冷たくなった母の隣には、遺書が置かれている。
『娘を差し出した自分が情けない。あの夜の事を深くお詫びします。本当にごめんなさい』
遺書は、私への謝罪の手紙だった。
少しだけ嬉しかった。
母さんの中には、私を気遣う心があった事を知ったから。
それでも、毎日のように続く暴力から解放された事を、私は一番の喜びとして感じてしまっていた。
その時、初めて気付いた。
私は最低だと。
生きる価値もない人間だと。
汚れた女なのだと。
もはや普通の日常など、見る影もなく消えていたのだ。
♪
日記はここまでで終わっていた。
こんな事があったなんて、全く知らなかった。
沙耶子は、僕なんかより何倍もの苦労を重ねていたのだ。
それなのに僕は……。
烏丸は俯いている僕に、平然と質問を投げ掛ける。
「しょうがないさ。沙耶子は何も言っていなかったんだろ?」
「ああ。でも」
「?」
「僕が気付いてあげるべきだった。そうすれば、こんな事にはならなかったのかもしれない」
「……そうかもな。沙耶子が俺にこの日記帳を渡したのは、先週の事だったんだ。こんな事を頼めるのは、俺しかいない。そんな事を言っていた。沙耶子に言われた通り、俺は君にこれを渡した。沙耶子なりに、何かを考えていたんだと思うぞ」
彼の口からポンポンと出る言葉に、僕は不信感を抱いた。
「どうして、そんなに落ち着いていられるんだ? あんたも、ここにいるって事は、沙耶子と親しい仲だったんだろ?」
僕の言葉に、少しだけ表情が暗くなる。
「そうだとしても……だからこそ、俺は沙耶子の最後の願いを聞いてやったんだ」
烏丸はこんな態度を取っているが、心の底から悲しんでいる。
それは表情を見ただけで明白だった。
沙耶子が目を覚ましたら、思いっ切り抱き締めてあげよう。
そして、思いっ切り叱ろう。
そう思っている僕を余所に、言おうかどうか迷っていたのだろう。
少しだけ彼の声が低くなる。
「落ち着いて……聞いて欲しいんだ」
「?」
「沙耶子は、もう目を覚まさない」
その言葉に、不安が募る。
「え? それって……」
「俺も詳しい事は分からないが、医者の話では、奇跡でも起きない限り、目を覚ます事はないそうだ」
衝撃の事実に、僕は愕然と肩を落とした。
しだいに溢れて来る涙を、僕は手でこすりながら一生懸命に堪えた。
「そんな……」
息が詰まり、うまく言葉が出せない。
烏丸は僕に左腕を見せた。
左腕にはリストバンドが着いている。
これは沙耶子と同じ物だ。
「あの日から、肌身離さず持っていた。それも今日で終わりだ」
腕からリストバンドを外して、僕に差し出す。
「今の沙耶子には、君が必要だ。本当に沙耶子の事を思う気持ちがあるのなら、受け取ってくれ」
「……ありがとう」
僕は迷う事なく、リストバンドを受け取った。
「俺はしばらく、ここに通う事にするよ。また、そのうち会おう」
そう言い残して、烏丸は病室から去って行った。
僕と沙耶子しかいない病室は、静寂に包まれていた。
ヒューと吹いてくる風が、僕の頬を撫でる。
涼しいと思ったら、窓が全開に開かれていた。
床には数枚の枯葉が落ちている。
風に吹かれて、どこからか飛ばされて来たのだろう。
もし、沙耶子が落ちて来たあの場所に、枯葉が溜まっていなかったら、沙耶子は死んでいただろう。
枯葉は彼女の命を救ったのだ。
それでも、沙耶子は目覚めない。
これが結果だ。
全開に開かれている窓を閉め、ベットの横に置いてある椅子に座る。
布団から覗いている彼女の左手首には、幾つもの傷がある。
僕はその手を握った。
「沙耶子、君は最低でもなければ、汚れた女でもない。君は君だ。だから、僕は君が目を覚ますのを待ち続ける。十年でも二十年でも、それ以上でも待ち続ける。君が目を覚ますまで……」
彼女の寝顔は、とても穏やかで幸せそうだった。