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HOPE  作者: 世捨て作家
10/12

True episode 烏丸綾人 後篇

 俺が彼女と出会ったのは、中学二年生の夏休み直前の事だった。


「転校生が来るらしいよ」

「こんな時期に?」

 教室では、朝からその話題で持ち切りだった。

「なあ、綾人。転校生は女の子らしいぜ」

 俺の机に乗るなり、蓮はそんな事を言って来た。

「どうでも良い。まだ知り合ってもいない女の話なんかで、盛り上がってんじゃねえよ」

「はいはい、分かったよ。お前は女になんて興味ねえよな。野球一筋のスポーツバカなんだから。でも、そんなんじゃあ、彼女とか出来ないぜ?」

「だから、そんなの興味ないって」

 教室のドアが開き、担任が入って来る。

「お前等、席に着け」

 騒がしかった教室が静まり、皆が席に着く。

「今日は時期外れだが転校生が来ている。さあ、入って来なさい」

 ドアが開き、一人の少女が入って来る。

 同時に、クラスメイト全員の視線が彼女に集中した。

 腰まで伸びた長く綺麗な髪や、細くて白い体。

 彼女の印象に対して、皆がこそこそと話し始める。

「凄い綺麗な髪。手入れとか、どうしてるんだろう」

「県外? どの辺だろう」

「やべぇ、めちゃくちゃタイプなんだけど」

 クラスメイト達の反応に動揺したのか、彼女は俯いてしまう。

 知りもしない連中の前に立たされて「自己紹介しろ」だなんて、転校というのは残酷な物だ。

 最も俺だったら、適当に自己紹介してさっさと席に座る所だけど、動揺してしまった彼女にとっては、そうもいかないようだ。

「み、宮久保沙耶子……です。……えぇっと……あの……」

 察したのか、担任は黒板に彼女の名前を書き、代わりに喋り出す。

「夏休み直前で時期は外れているが、家の事情で県外の学校から来たそうだ。皆、仲良くしてやるんだぞ」

 担任は辺りを見回し、俺の隣の窓辺に位置する空席を指差す。

「宮久保の席は一番後ろのあそこだ。分からない事があったら、隣の烏丸に聞きなさい」

 勝手な事を……。

 宮久保は席に座ると、少しだけ俺を見て視線が合うと肩をビクリと揺らし、前を向いてしまった。

 隣である俺に、何かを言わなければいけない。

 そう思ったが、話し出す切っ掛けを見つけられずにいる、といった所だろうか。

 俺から何か言うべきか……。

『分からない事があったら俺に聞け』

 ベタ過ぎないか?

 いや、それが普通か。

「なあ」

 話し掛けようとした瞬間、校舎にチャイムの音が鳴り響く。

 結局、話し掛ける事も出来ずに朝のホームルームを終了した。



 休み時間になるなり、数人の男女が宮久保の席を囲っていた。

「ねえ、県外ってどこから来たの?」

「その髪綺麗だよねぇ。手入れとかどうしてるの?」

 一斉に質問をした為、宮久保は困ってしまっているようだ。

 彼女は助けを求める様に、俺の方に少しだけ視線を移す。

 ただ隣というだけなのに、迷惑な話だ。

 俺は立ち上がり、その場から逃げる様に蓮の席へ向かった。



 教室の窓から差し込む陽の光は、昼に近付くにつれて強さを増していた。

 エアコンや扇風機の様な空調設備も取り付けられていない為、とても蒸し暑い。

 そんな教室で、皆は必死に黒板に書かれた内容をノートに書き写している。

 俺は一通りを書き終え、ノートの上にシャーペンを転がした。

 意味もなくシャーペンを転がしていると、隣から妙に苦しそうな声が聞こえて来る。

 何事かと思い振り向いてみると、宮久保は苦しそうに顔を火照らせながらも、必死に黒板の文字をノートに書き写そうとしていた。

 見るからに、授業どころではなさそうだ。

 しかし、転校初日とは気の毒に。

辺りを見る限り、今の宮久保の状態に気付いているのは俺しかいないようだ。

 気付かない振りをするのも……気分が悪いし……。

 とりあえず先生を呼ぶか。

 そう思った時だ。

 彼女の体が傾き、椅子から落ちる。

 俺は咄嗟に自分の椅子を蹴り出し、彼女の体を受け止めた。

 それに反応して、皆が俺を見るなり唖然とする。

 前で板書をしていた教師も驚いたせいか、持っていたチョークを床に落としてしまっていた。

「烏丸、どうしたんだ?」

「え? あぁの……えっと、宮久保さんが倒れたんです。この暑さですから……まあ、しょうがないと思いますよ!」

 俺の口調はかなり慌てていた。

「じゃあ、宮久保を保健室に」

「あ、はい! 連れて行きます!」

 彼女の体を持ち上げ、肩に抱える。

 態勢を安定させ、俺は保健室まで走って行った。



 保健室の先生は、宮久保をベットの上に寝かせた。

「ただの熱中症ね」

「そうですか。……良かった」

 保健室は空調が完備されていて、教室とは違いとても涼しい。

 ここにいれば、彼女も大丈夫だろう。

「それにしても、ビックリしたわよ」

「何がですか?」

「だって、彼女を自分の肩に担いでるんですもの」

 いったい周りからは、どんな風に見えていたのだろう。

 そう思うと、教室へ帰るのが億劫になってきた。

「すみません。さっきは、無我夢中で……」

「まあ、いいわ。授業も終わる時間だし、そろそろ教室へ戻りなさい。彼女の事は私に任せて」

「はい、お願いします」

 保健室から出ると、夏場の熱気が一気に俺の体を包んだ。



「なあ、あの子と何かあったんだろ?」

 教室に帰って来て、それと同じ質問をされたのは、これで何度目だろう。

 他の連中も先程の事が気になっているらしく、さっきから同じ事の質問責めだ。

「さっきから他の奴にも言ってるけど、何もないからな」

 蓮は不敵に笑う。

「おいおい、隠すなよ。ていうか、女の子を肩に担ぐのって男として邪道じゃね? 宮久保のパンツ見えそうになってたぞ。そんでもって、宮久保を担ぐお前を見て、皆が顔真っ赤にしてやんの」

「それは、拙かったかもな……」

 実際にスカートの中が見えていたのかは、知らないが……。

 根も葉もない噂を発てられて、肩身の狭い思いだけはしたくはない。

「妙な噂だけは発てるなよ」

 蓮はニカニカと笑う。

 本当に分かっているのだろうか。



昼休みになると、俺は流されるがままに、宮久保の分の給食を運ぶ事になった。

「どうして俺なんだ?」

「だって、宮久保さんと一番仲良いのは烏丸君じゃん」

 そんな理由で、宮久保の分の給食が乗ったトレイを笑顔で押し付けられた。

 まったく、本当に良い迷惑だ。

 保健室のドアを軽くノックして、中に入る。

 先生はいない様だ。

 ベットのカーテンが閉まっている事を察するに、宮久保が寝ているのだろう。

 とりあえず、近場の机にトレイを置いた。

 さて、やる事はやった。

 教室へ戻ろう。

 そう思った時だ。

 カーテンが開き、中から宮久保が出て来た。

 驚いた様な表情を浮かべ、俺を見るなり彼女は目を反らす。

 どうにも話しづらいな。

「もう大丈夫なのか?」

「……大丈夫」

「そうか。お前の分の給食を持って来たんだけど、食えるか?」

「……少しだけなら」

 宮久保は椅子に座り、箸に少量のご飯を摘まみ、ゆっくりと食べ始める。

 給食は届けたし、もう教室に戻っても大丈夫だろう。

「じゃあ、俺は教室に戻るよ」

 そう言い掛けた時、彼女の箸は止まっていた。

 見ると、宮久保は俯き涙を浮かべている。

 何か泣かせる様な事をしただろうか。

 そんな覚えはない。

「ちょっ……どうした? 大丈夫か?」

「……ごめんなさい」

 震えるか細い声で彼女は、そう連呼し続けた。


 保健室にあったティッシュで涙を拭かせ、宮久保を落ち着かせた。

「何か……嫌な事でもあったのか? 悩みがあるんなら、言ってみろよ」

「でも……」

 本当に鈍臭い奴だ。

 しかし、ここで怒鳴ったりしたら、もう顔も遭わせられそうにない。

 俺は不器用にも笑って見せた。

「話して、楽になる事もあるんだからさ」

「これから、この学校にいられる自信がなくて……」

「どうして?」

「転校初日なのに、授業中に倒れて皆に迷惑掛けたし……」

 ああ、確かに迷惑だった。

「でも……まあ、運んだのは俺だし……皆には、迷惑は掛かってないと思うぞ」

「そうなのかな……」

「そうだって」

「でも……」

 まだ何かあるのか。

「クラスの人達とも、あんまり話せなかった」

 たしかに、皆が宮久保に詰め寄っていた時、彼女は話し出す切っ掛けを見つけられずにいた。

「それは、お前次第なんじゃないか? 現に、俺と喋ってるだろ」

「そういえば……」

「まずは気軽に話せる友達を作れ。話はそれからだ」

 宮久保にそれだけ言い残して、俺は保健室を後にした。



 七月という事もあり、放課後になっても暑い日射しが弱まる事はなかった。

 きっと、これからもっと暑くなるのだろう。

 窓から差し込む日射しは、宮久保の机を容赦なく照らしている。

 結局、宮久保は最後の授業の時間になっても、戻って来る事はなかった。

 彼女の鞄がロッカーに入っているのを見るに、まだ帰ってはいないのだろう。

「綾人、そろそろ部室に行こうぜ」

 部活へ行く用意を終えたのか、蓮が俺を呼ぶ。

 時計を見ると、部活開始の時間が迫っていた。

 俺は荷物をまとめ、蓮と教室を後にした。



 野球部の練習は、まず部室に集まり、全員で挨拶をしてから始まる。

 その後に、一年生はランニング。

 二、三年生はキャッチボールをする事になっている。

 俺はいつも通り蓮とペアを組み、キャッチボールを始めた。

 俺と蓮は、野球部の次期一軍バッテリーだ。

 だから、このペアは自動的に決まる様な物だ。

「宮久保と何かあったんだろ?」

 そんな事を言いながら、蓮は俺にボールを投げる。

「まったく、しつこいぞ! 何もないって!」

 ボールと返答を同時に返す。

「だってさぁ、お前が宮久保に給食を持って行って、給食の時間が終わる頃に戻って来るなんて、明らかに何かあるだろ?」

 たしかに、何かがない事もない。

 宮久保に給食を届けた後、教室へ戻った頃には既に給食の時間は終わっていた。

 その為、俺は給食を食べる事が出来ず、空腹の状態で午後を過ごしている訳だ。

「さっさと吐け! この野郎!」

 蓮の投球が段々と荒くなって行く。

「分かったよ! 言えば良いんだろ! 言えば!」


 俺は昼の出来事の全てを蓮に打ち明けた。

「へぇ、じゃあお前が、宮久保が皆と馴染める様に、協力してやれば良いんじゃねえの?」

「総体前に、そんな事に気を使ってられるか! 全部、宮久保次第だよ」

 蓮は口元を綻ばせる。

「相変わらず厳しいねぇ。まあ、お前らしいけどな」

「キャッチボール終わり! 集合だ!」

 数本のバットを用意して、監督は皆を集めた。

「二年はバッティング練。三年は守備に着け!」

 皆が一斉に「はい!」と返事をする。

「まずは二年の烏丸!」

 俺はバットを持ち、ホームベースに立った。

 ボールを投球するのは、現投手である鈴木先輩だ。

「すげーよ。現投手と次期投手の勝負だぜ」

「これ、烏丸が鈴木先輩のボール打っちゃったら拙いんじゃないの?」

 周りから、そんな小声が聞こえた。

 現投手?

 次期投手?

 そんな事は関係ない。

 相手が誰であろうと、可能な限りベストを尽くすだけだ。

「お願いします!」

 俺の挨拶と共に、鈴木先輩はボールを投球する。

 やはり速い。

 しかし打てる!

 そう確信してバットを振った。

 鋭い音が鳴り響くと共に、ボールは高く飛び上がり外野へ落ちる。

 皆が唖然とする中、ボールを投球した鈴木先輩だけは、どこか嬉しそうに俺を見ていた。



 陽が落ちた頃、俺はようやく帰宅した。

 家の隅に帰宅用の自転車を止め、ポストを確認する。

 中には手紙が数枚。

 大抵は、プロ野球選手である親父や、女優であるおふくろ宛だ。

 しかし、そんな手紙の中に一枚だけ俺に宛てられた物がある。

 差出人は烏丸雫。

 現在は別居中である、俺より一つ年下の実の妹だ。


 汗だくのユニフォームを脱いでシャワーを浴び、ジャージに着替えた。

 自室でサッパリとした体を冷房に晒し、俺に宛てられた手紙の封を開く。

 中には用紙が一枚。


 七月十三日 晴天

お元気ですか?

こちらは相変わらず暑いです。

部屋の窓からの日射しは、容赦なく室内を照らします。

お兄ちゃんの教室も、そんな感じなのかな。

くれぐれも体に気を付けて、野球も良いけど無理はしないで下さいね。

倒れてしまったら、野球どころではありませんから。

私がお兄ちゃんに宛てられるのは、これくらいです。

お兄ちゃんからの手紙、心待ちにしています。


 体に気を付けなくてはならないのは雫の方だ。

 でも、俺の心配までしてくれるなんて、雫は優しいな。

 それが彼女の良い所だ。


 広いリビングには誰もいない。

 ただ、テーブルの上に大量のインスタントラーメンが置かれているだけ。

 いつもと同じ事だ。

 部屋の静けさに耐え切れず、テレビを点けた。

 そこには、よく見知った顔の女優が映画出演に関しての、インタビューを受けている。

『さて、今冬の上映を予定している映画に出演される烏丸佳代子さん、息子さんと娘さんがいるんですよね?』

『はい。撮影や舞台挨拶で会えない事は多いと思いますが、出来るだけ子供達と一緒にいられる時間を作りたいと思っています』

『やはり、お母さんですねぇ。お料理とかも、なさるんでしょ?』

 質問された烏丸佳代子は笑顔で答える。

『ええ、勿論! たまに会える日には、私が料理を作ってあげているんです。とても喜んで食べてくれるんですよ』

液晶に映し出されている女の顔に、俺は未開封のインスタントラーメンを投げつけた。

「お前の料理なんて、もう十年以上は食ってねえよ……」


   ♪


 俺が小学五年に進学して間もない日の事。

 大きな転機が訪れた。

 妹である雫の病が発覚したのだ。

 

 

彼女の様態を医師から聞いたのか、父は青ざめた顔で俺に告げた。

「十八歳まで生きるには、難しいそうだ」

「そんな……」

 今まで、雫とは些細な事で喧嘩になっていた。

 だから、いなくなれば良い。

 雫を見る度に、そんな事を思っていた。

 しかし目の前の現実は、俺の冗談半分の願望を叶えてしまっていたのだ。

 全ては自分のせい。

 俺が彼女の体を壊してしまったのだ。

 罪悪感で胸が痛み、やがて堪え様のない涙が溢れて来た。

「俺……いつも雫と、喧嘩ばっかりしてたから……雫の事、いなくなれば良いって……思ってて……」

 父は俺の頭を強く撫でる。

 プロ野球投手である彼の手は、とても大きくて、どこか温かかった。

「お前のせいなんかじゃない。タイミングが悪かったのさ。だから、雫と喧嘩した分、今度はお前が雫の力になってやるんだぞ」

 目蓋に涙を溜めながらも、父は俺に笑顔を絶やさなかった。



 それから毎日、学校が終わると雫のいる病院へ通った。

 最初のうちは照れ臭かったけれど、日を積む毎に、雫に会う事が楽しみになっていたのだ。

 学校での出来事。

 家での出来事。

 そんな他愛もない会話を二人で楽しみ、共に笑い会った。

 

喧嘩をし合っていた、あの頃が嘘の様に感じられる時間を雫と過ごす中で、やがて俺の中である感情が芽生え始めた。

 きっと、雫も俺と同じだったと思う。

 俺と彼女の中で芽生え始めた、ある感情。

 それは兄弟間では、絶対にあってはならない、互いを異性として好いてしまう事だ。

 雫を見る度に、胸が締め付けられるような感覚が俺を襲う。

幼かったあの頃の俺は、それが何であるかすら知らないでいた。


 雫へ対する、この衝動は日に日に増して行った。

 いつか彼女は、俺の前からいなくなってしまう。

 そう思うと、自然と涙が頬を伝った。

 ポロポロと涙を零す俺を見て、雫は優しく問い掛ける。

「お兄ちゃんは、私の事が好き?」

「……当たり前だろ」

「じゃあ……」

 雫は俺の手を取った。

 彼女の冷たくて細い指が、汗の滲む俺の手に絡む。

「来て……お兄ちゃん……」

 その声と共に、俺は人形の様に小さな雫の体を強く抱いた。

 彼女の唇に自身の唇を重ね、ゆっくりと目を瞑り、そのままベットに倒れた。

 細くて小さな彼女の腕、胸、足。

 それらが俺の体と絡み、今までになかった様な感情が溢れ出て来る。

 ずっと一緒にいたい。

 もっと触れていたい。

 俺は彼女のパジャマの一番下のボタンを外し、そこに手を入れた。

 その行為に答える様に、可愛らしい声が聞こえて来る。

 更に再び彼女の唇に、自分の唇を重ねてみた。

 先程とは違い、今度は舌が絡んで来る。

 互いの唾液が交わり乱れる音が、室内に響く。

 今がずっと続けば良いのに。

 いつか訪れるであろう雫との別れに目を背け、俺はこれでもかという位に彼女と乱れた。



 暫くして、珍しく両親が家に帰って来た。

 雫に関しての大事な相談があるのだそうだ。

「綾人は部屋にいなさい」

 父にそう言われ、俺は自室に入れられた。

 どことなく違和感のある、両親の行動に違和感を感じた俺は、こっそり部屋を抜け出して両親の話を盗み聞きした。

 父は沈んだ声で話を切り出す。

「この前の検査で……雫の子宮に異常があったらしいんだ」

「どういう事?」

「赤ちゃんが……いたらしい」

 母はテーブルを強く叩く。

「赤ちゃん!? どうして、あの子に赤ちゃんが出来るの!? あの子は、ずっと病院にいたのよ! 父親は誰なの!?」

 その問いに父は黙り込む。

「あー、もう! どうするのよ!? こんな事を公にしたら、私やあなた、それ以外の人間にも大きな迷惑が掛かるのよ!」

「……」

分かっていた。

 父親は俺だ。

 こうなる事は、分かっていたのだ。

 しかし俺と雫は、分かっていながらも関係を持った。

 この頃の俺達は、自分が思っている以上に幼い子供だったのだ。 

「父親は誰なのよ!?」

「……見当は付くだろ」

「まさかっ!」

 立ち上がった母を、彼は制止する。

「綾人を責めても何も変わらない。まず、これからの事を考えよう」

「……」

 僅かな沈黙が続いた後、父はある決断を下した。

「子供……降ろすしかないな。その後は、雫を県外に住まわせよう。それしかない。綾人と雫の為にも……二人を離さないと……」

 母は俯き泣いている。

「ありえないわ……。こんな事が……あって良い筈ないわ。兄妹同士なんて……」

 母さん、父さん、そして雫……ごめんなさい。

 頭の中で、その言葉を連呼しながら、ドアに手を付き息を殺して泣いた。



 数日後、親戚の叔父が車で俺の家を訪れた。

 きっと雫を迎えに来たのだろう。

 あの日、両親が家に揃ってから、雫とは会っていない。

 会えば、今以上に雫や父や母に罪悪感を感じてしまいそうだから。

 二階の自室の窓から外を見ると、雫と叔父、父と母が庭にいた。

 叔父が雫を病院から連れて来たのだろう。

 そして、彼女を遠い所へ連れて行く。

 もう二度と会う事は出来ない。

 そんな気がした。

 悲しげな表情を浮かべている雫。

 両親と何かを話している叔父。

 そんな光景を見ていると、この場にいても立ってもいられなくなった。

 部屋を飛び出し、階段を駆け降りた。

 玄関で靴を履き庭へ出ると、四人の視線が俺に集中する。

 俺は雫の側へ駆け寄り、彼女を後ろに叔父の前に立った。

「ちょっと、綾人!」

 怒鳴る母を、父は制止する。

 俺は震える声で叔父に言った。

「俺には……雫が必要だ。だから、あんたに雫は渡さない!」

 彼は俺の前に屈み、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。

 それを俺に手渡す。

 紙切れには、どこかの遠い街の住所が書かれていた。

「そんなに雫に会いたいのなら、もう少し大人になって、誰にも頼らず自分の力で会いに来るんだ」

「……」

 俺は雫の前を退いた。

「忘れないから……雫……」

「うん。お兄ちゃんが来るの……待ってるから……」

 彼女の表情は、どこか儚げで辛そうに見えた。

 だから直視する事が出来ず、俺は目を反らした。


 後部座席の窓から、雫が顔を覗かせる。

 走り出す車に、俺は必死に叫んだ。

「絶対に会いに行くから! 手紙も書く! 絶対だ!」

 車が遠くの方に消えて見えなくなるまで、俺は同じ言葉を叫び続けた。



 雫が引き取られて以来、両親が家に帰る事はなくなった。

 俺は雫に会いに行く事も許されなかった。

 唯一、許されたのは手紙を送り合う事だけだ。

 家には俺だけ。

 悲観しても仕方がない。

 こんな状況を作り出してしまったのは俺なのだから。

 それでもテレビ等の公の場で、両親が並べる嘘八百な家族談義を聞いていると、どうしようもない怒りが込み上げた。


   ♪


 朝早くからの野球部の練習を終え、俺は誰よりも早く教室に来ていた。

 蓮は一度、家に帰ると言っていたから、教室には俺しかいない。

 宮久保のロッカーを見ると、彼女の鞄はなくなっていた。

 昨日、俺が部活へ行った後に取りに来たのだろう。

「あいつ……来るかな……」

 つい、そんな事を呟いてしまっていた。

 まったく、俺は何を考えているんだ。

 別に宮久保が来るか来ないかで、俺が悩む必要なんてないじゃないか。

 自分にそう言い聞かせてみる。

 とりあえず、あいつは気軽に話せる友達を作るべきだ。

 そうすれば、俺が世話を焼く必要もなくなるし。

 そんな事を考えているうちに、クラスメイト達が登校し、教室は徐々に騒がしくなっていった。

 暫くして、宮久保が後ろのドアからこそこそと入って来る。

 覚束ない足取りで俺の後ろを通り、隣の席に座った。

 そして、ぎこちなく俺に言う。

「……お……おはよう」

「あのさぁ……どうして俺に挨拶するんだ?」

「え? あの……えっと……」

「他にいるだろ、挨拶する奴。あの辺に」

 俺は前の方の席で固まって話している、数人の女子グループを指差した。

「あの辺の奴と絡んでこいよ」

「む、無理! 絶対……無理だから!」

 大きく首を横に振る。

「なんで?」

「だって……何を話せばいいか……分からないし……」

「そんなの世間話で良いんだよ」

「で、でも……」

本当に、鈍臭くて面倒な奴だな。

「お前は、只でさえ転校初日に転んでるんだ。こうなったら、自分から話しかけるしかないぞ?」

「……頑張ってみる」

「頑張ってみるんじゃなくて、頑張るんだよ」

 不安げな表情を浮かべながらも、宮久保は頷いた。


 授業や間の休み時間を経ても、宮久保は俺以外の誰かに話し掛ける事は出来なかった。

 そして、とうとう一日の半分を過ぎた時間、昼休みになった。

「結局、ダメかぁ……」

「ごめん……」

 彼女は、俺に対して申し訳なさそうに俯く。

「謝ってもしょうがないだろ……」

 昼休みという事もあって、教室内はかなりざわついている。

 話し掛けるとしたら、時間が長く教室のざわめきに溶け込めそうな、この時間が最適だ。

 おまけに俺を除く大抵の男子は、外でサッカーやキャッチボールをして遊んでいる。

 クラスメイトの人数が少なければ、宮久保の負担も減るだろう。

 それでも彼女は、集団を作って笑い合っている、女子グループの一団を眺めているだけだった。

 どうしたものか……。

 俺が仲介に入っても良いのだが、それではどこか後味が悪い。

 こうなれば強引だが、あの策を使うしかない。

「よし!」

 俺は掛け声を上げて立ち上がった。

「な、何?」

「俺は外の皆とサッカーをしてくる!」

「え?」

「だから、お前の相手をしてる暇はない。とりあえず、あの辺の女子に話し掛けてみろ。 もしダメだったら俺は、暫くお前と距離を置く事にする。男子の中の付き合いもあるしな。 じゃあな!」

 それだけ言って、俺は教室を飛び出し校庭へ向かった。


 我乍ら酷い事を言った気がする。

 しかし、こうでもしないと彼女はクラスに溶け込めない。

 この方法が最も最適なのだ。


 校舎に昼休み終了のチャイムが鳴ると、俺は教室へ戻った。

 今、俺の隣の席に宮久保は座っていない。

 辺りを見回してみると、彼女は数人の女子と笑いながら楽しそうに会話をしている。

 あの女子グループは、クラスではあまり目立つような奴はいなかった様に思える。

 それほど性格の悪い奴はいないから、宮久保なら大丈夫だろう。

彼女が、あんな風に友人に囲まれ笑っていられる事に、なぜか自分自身が安心してしまった。

「よかった……」

「ああ、本当によかった」

 俺の隣で、蓮が宮久保を見て笑う。

「お前は何もしてないだろ」

「何もしてなかった訳じゃねぇよ。少しだけ、お前等のやりとりを見てたんだよ。なんとなく分かったよ。お前が誰かに惚れるなんて、ありえないからな。あいつの手助けをしてただけだったんだな」

「俺は手助けなんてしていない。全部、宮久保が自分でやった事だ」

 そう、勇気を出してクラスメイトと接したのは彼女だ。

 宮久保が転校して来てからの二日間、彼女は俺に頼りっきりだった。

 しかし、宮久保は他に頼る相手を見つける事が出来た。

 きっと、もう俺を頼る事もない。

 そんな予感がしていた。



 俺の予感は的中し、それから数日間、宮久保とは隣の席でありながらも、一言も言葉を交わさなくなった。

 もう、彼女の面倒を俺が見る必要はない。

 そう思ったから。

 授業が終わると、宮久保は友人の所へ行ってしまう。

 そんな宮久保を見ていると、なぜか寂しくなった。


 宮久保と一切話す事なく、一学期の最終日がやって来た。

 帰りのホームルームで担任から通知表を渡され、クラス全体が賑わう。

「明日から夏休みだ!」

「明日から何しようかなぁ」

 そんな声が教室の中で飛び交う中、俺は席に座り、野球部の夏休みの練習予定表に目を通していた。

「休み少ないなぁ……。まぁ、今日は練習なしで帰れるわけだし、我慢しておこう」

 そんな事をぐちぐちと言っている間に、一学期は終了した。

 俺は荷物をまとめ席を立った。

「蓮、帰るぞ」

 どういうわけか、蓮は教科書と筆記用具を持っている。

「何で、そんなの持ってるんだ?」

「補習があるんだよ。悪いけど、今日は一人で帰ってくんねぇか?」

 彼はスポーツ等の体を動かす事には長けているが、どうも頭を使う事に関しては疎い。

「分かったよ。今日は部活がないから良いけど、活動日に居残りになる事だけは、やめてくれよ」

「ああ、マジで気を付けるよ」


一学期の間に溜めこんだ、教科書や部活の用品を自転車の荷台に積み、自転車を出した時だ。

 すぐ向かいの駐輪場に、宮久保がいる事に気付いた。

 そういえば、彼女も自転車登校だったのだ。

 声を掛けておくべきだろうか。

 しかし、宮久保が女子グループの友人と打ち解けてから、全く会話をしていない訳だし、今日になって突然話し掛けるのも不自然かもしれない。

 そんな試行錯誤をしているうちに、俺は衝動に任せ自転車を元の位置に停め、宮久保の元へ歩きだしていた。

 彼女がこちらに気付く。

 やばい、どんな事を話すか何も考えていなかった。

 しかし、もう後戻りは出来ない。

 何か話さないと……。

「なあ、宮久保」

「大丈夫だから!」

 宮久保は俺の言葉を遮って、そう叫んだ。

「え……何が?」

 訳も分からず問う俺に、宮久保も問い返す。

「え? あの……これの事じゃないの?」

 宮久保は自転車の前輪を指差した。

「自転車の……タイヤ?」

 自転車の側に屈んでタイヤを触ってみる。

 触った時の抵抗が全くない。

 これは明らかにパンクだ。

「パンクしてるよ……」

「本当に、大丈夫だから」

 俺はようやく理解した。

 宮久保は自転車がパンクしていた事に関して、俺に世話を焼かせたくなかったのだろう。

「家は、ここから何分?」

 俺の言葉に彼女は焦り出す。

「本当に大丈夫だから……」

 このままじゃ、「大丈夫だから」の一点張りだ。

 仕方がない。

 屈んだまま周りを見渡した。

 どうやら、こんな然う斯うをしているうちに、かなり駐輪場から人が減った様だ。

「なあ、宮久保」

再び彼女の名前を呼んでみた。

「……何?」

「家は、ここからどれくらい?」

「だから……大丈夫だって……」

 俺は屈んだまま、強がる彼女のスカートの裾を握った。

 数秒もしないうちに、宮久保は一気に赤面する。

「か、烏丸君……これは……何?」

「家、ここから何分?」

 俺の問いに、彼女は小さく呟いた。

「……歩いて……四十分くらい……」


 二人分の荷物を前籠へ、収まり切らなかった荷物を背中に背負い、宮久保を荷台に乗せて学校を出た。

 あの後、親を呼ぶ事を提案したのだが、彼女の親は夜遅くまで仕事をしていて、こんな事をしている余裕がないのだそうだ。

 中学校の周辺には、広い田園が広がっていて、そこを抜けるとようやく商店街へ出る。

 宮久保の家は、その先のマンションの密集地を通り越した住宅街にあるそうだ。

 田園を吹き抜ける風は、とても涼しくて気持ちが良かった。

「お前さぁ、俺がいなかったらどうするつもりだったんだ?」

「……歩いて行くしか、なかったかも……」

「ハァ!? こんな道をずっと歩いて行く気だったのか!?」

「……」

「お前、また倒れるぞ」

「……ごめん」

 二人で自転車に乗っている為、宮久保の顔は見えないが、なんとなく彼女の表情が目に浮かんだ。

「大丈夫。別に、気にしてないから。それに……」

「?」

「ある意味、良い経験になった」

「ある意味?」

「ああ。こんな日があっても良いなって……そう思えたんだ。いつもこの田園に囲まれた道を通って、学校へ行って、勉強して、部活をやって……同じこの道を通って帰る。毎日が同じ事の繰り返しだからな」

「烏丸君は……この道は嫌いなの?」

「別に、嫌いじゃないさ。お前は?」

「私も嫌いじゃないよ。いや、好きかもしれない。前に住んでいた所に、似た様な景色があったから」

 どうしてだろう。

 後ろから聞こえて来る彼女の声は、なんだか悲しそうだった。

 前に住んでいた街に、心残りでもあるのだろうか。

 まあ、余計な事は聞かない方が良いな。

 聞いたが為に、彼女を嫌な気分にさせる事があるかもしれないし。


 住宅街に出ると、宮久保は俺の背中を軽く叩いた。

「どうした?」

「停めて」

 彼女の言う通り、その場で自転車を停めた。

「ここまで来れば大丈夫だから。もう降りるね。ありがとう」

 そう言うと、宮久保は鞄を持ち自転車を降りた。

「家はこの辺なのか? 急いでる訳じゃないし、家まで乗せてっても良いんだぞ?」

 彼女は首を横に振る。

「大丈夫。ここまで来れば大丈夫だから」

「……そうか」

「また二学期にね」

「ああ。またな」

 その言葉を最後に、俺は彼女と逆方向の道を走って、家に帰った。



 野球部の練習は朝から始まった。

 日射しの強まる炎天下の下、俺達は練習に励んだ。

 類を速く走る度に、心地の良い風が吹く。

 バッティングをすれば、ユニフォームの露出した肌から汗が飛ぶ。

 達成感のある練習が出来て、俺はとても満足していた。


 休憩時間になると、俺は木陰に置いたバックからスポーツドリンクを取り出し、一気に口に流し込んだ。

 氷で冷えたスポーツドリンクが、乾いた喉によく沁みる。

「くっはあ‼」

 つい、そんな声を上げていた。

 隣で蓮が、飲んでいたスポーツドリンクを噴き出す。

「親父かよ!」

「ああ、こうやって俺達は親父になっていくんだろうな」

「急に、どうしたんだよ? 俺達、まだ中学生だぞ」

「あれ見てみろよ」

 俺は木陰の外を指差した。

 その方向には、現投手である鈴木先輩が熱心に投球練習をしている。

「鈴木先輩が進路の事について言ってたんだよ。この街の私立高のスポーツ推薦狙うって」

「あの人なら、出来るんじゃないか?」

「そうかもな。来年は俺もスポーツ推薦で、そこへ行こうと思ってる」

 蓮が苦笑いを浮かべる。

「マジかよ……。俺はどうしようかなぁ。あの学校、学力高いし」

「頑張って、お前も来いよ」

「え?」

「俺、ずっとお前と野球をする気でいるから」

 蓮は頬を真赤に染め、俺から目を反らした。

「な、何だよ……急に」

「なんかさ、鈴木先輩を見てたら、そんな事を考えてたんだ。来年の俺達は、どうしてるんだろうなって」

「たぶん、受験に燃えてる」

「だろうな」

 木陰の外から「集合」と掛け声が掛かる。

 蓮は立ち上がり、俺に手を差し出した。

「とりあえず、今は野球で燃えておこうぜ」

「そうだな」

 短く答え、彼の手を取った。



 部活を終えて、帰宅した頃には夕方になっていた。

 ポストには手紙が数枚。

 雫からの手紙は、今日は来ていない様だ。


 インスタントラーメンのお湯を沸かし、冷蔵庫の中の飲み物を確認する。

 コーラやサイダー、殆どの飲み物がきれている。

 時計を見てみると、まだ七時前だ。

「買いに行くか」

 お湯を沸かしている火を切り、財布を片手に家を出た。

 

道の端に位置している街灯と、空に光る数個の星だけが、夜道を照らしていた。

そんな道を数分歩いた所に、スーパーマーケットがある。

近隣の住民は、大抵がここを利用している。

入り口に置いてある買い物かごを手に取り、まっすぐジュースの売り場へ向かった。

並んでいる炭酸飲料を数本ほど、かごに入れる。

これだけあれば、三週間は持つな。


 レジで会計を済ませ外へ出ると、意外な人物に出くわした。

 片手に重そうな買い物袋を抱えた宮久保だ。

「宮久保」

「え? 烏丸君」


 星と街灯だけが照らす夜道を、二人だけで歩く。

「こんな時間に買い物か?」

「うん。仕事から母さんが帰って来る前に、夕飯の買い物をしておこうかと思って。烏丸君は?」

「冷蔵庫の中身がなかったからな」

 数本のペットボトルの入った、買い物袋を彼女に見せる。

「炭酸ばっかり……」

「ああ、好きだからな」

 彼女の顔が少しだけ引き攣る。

「もしかして冷蔵庫の中身って……炭酸のジュースしか入ってないの?」

「まあ、そうだな」

「食事は、どうしてるの?」

「インスタントラーメンで充分だろ」

「えっ!」

『信じられない!』とでも言いたげな顔をされた。

「体とか大丈夫?」

「今のところは。まあ、運動だけは欠かしてないから」

 宮久保は俯き、その場で歩を止めてしまう。

「どうした?」

「そんな生活してたら……そのうち死んじゃうよ……」

「大丈夫。運動だけは欠かしてないから」

「駄目だよ!」

 宮久保は俺の手を握り怒鳴った。

「インスタントラーメンばっかり食べて、炭酸ばっかり飲んでたら、そのうち死んじゃうよ! ちゃんとした物を食べないと駄目だよ‼」

 こんなに感情的になった宮久保を、俺は初めて見た。

 今まで大人しい奴だと思っていたが、怒鳴る事もあるんだな。

「もしかして、俺の事を心配してくれてるのか?」

 冗談混じりの言葉に、宮久保は一気に赤面し、そっぽを向いた。

「そ、そんな……当たり前だよ!」

「え?」

「烏丸君がいなかったら……私……。何も出来ずに、ずっと一人でいたと思う。だから……」

「だから……何?」

「今度、烏丸君の家に、お料理しに行っても良いかな?」

「どうして?」

「お礼がしたいから。それに、烏丸君には、美味しい物を食べて欲しいから」

 そう言って、宮久保は俺に笑い掛けた。


 時間の空いている日と家の住所を教え、彼女と別れた。

 こうして、夏休みの初日の夜は更けていったのだ。



 一週間程が過ぎた日の昼頃に、宮久保は俺の家を訪ねて来た。

 彼女の手には、大きめの買い物袋が一つ。

 中には食材が幾つか入っていた。

「いらっしゃい。散らかってるけど……」

「大丈夫。常識の範囲内なら気にしないから」

 そうは言った物の、俺の常識が彼女の常識の範囲内に収まるかどうか……。

 特に、リビングのテーブルの上に置いてある、インスタントラーメンの山を見たら、どう思うだろう。

 自虐的な考えを展開させながら、宮久保をキッチン隣のリビングへ案内した。

「やっぱり」

 部屋に入るなり、宮久保は呟いた。

「何が? もしかして……テーブルの上の、あれか?」

「うん。まあ、なんとなく見当は付いてたんだけどね」

 彼女は呆れた様に振る舞う事もなく、持っていたスパーの袋を床に置いた。

 そして、背中に垂らしてある長髪を後ろで結び、腕捲りをする。

「じゃあ、始めようか!」

「おう、料理か」

「違うよ」

「え?」

「お料理の前に、やっておく事があるでしょ?」

 料理の前にやっておく事……。

 家事経験のない俺には、全く見当が付かない。

「何だよ?」

「掃除。こんな部屋じゃ、どんなに美味しいご飯を食べても、気分は晴れないから。それに、なんか埃っぽいし」

 料理をしに来てくれたというのに、なんだか宮久保に対して、とても申し訳ない。

「……悪いな」

 彼女はにっこりと笑う。

「大丈夫。でも、烏丸君も手伝ってくれるよね?」

「ああ、勿論」


 二人で床に散らばった雑誌や菓子袋のゴミを分別し、物置きの奥底に仕舞ってある掃除機を引っぱり出した。

 床一面に掃除機を掛けたかと思うと、次は宮久保に雑巾掛けをさせられた。

 腕や足に負担の掛かる事は、男の仕事なのだそうだ。

 最後に、テーブルの上に積まれたインスタントラーメンは、どうにか段ボールに詰め込み、物置きに仕舞った。


 掃除を終えた頃には、既に午後の二時を過ぎていた。

「じゃあ、お料理しようか」

 ゴミ一つない部屋で、爽やかな笑顔を俺に向ける。

「……ああ、そうだな」

 少々、疲れ気味に返答した。


「烏丸君はご飯ができるまで待ってて。疲れたでしょ?」

「ああ、そうだな……。たしかに、疲れたかも」

 部屋の隅に置かれているソファーに、仰向けで転がった。

 キッチンの方からは、袋から食材を出す音や水を流す音が聞こえて来る。

 あのキッチンで、誰かが料理を作るのなんて何年振りだろう。

 この家に雫がいた頃は、仕事で帰って来れないおふくろの代わりに、よく彼女が料理を作ってくれてたっけ。

 でも、どんな味をしていたんだろう。

 それすらも、思い出す事が出来なかった。


 重い目蓋を開け、半身を起した。

 どうやら、ソファーに横になっているうちに、寝てしまっていた様だ。

 キッチンからは、何やら水を切る音や、どことなく香ばしい香りがしてくる。

「できたよ」

 キッチンから彼女の声が聞こえた。

 ソファーから重くなった体を起こし、テーブルの椅子に座った。

 テーブルの上には、二人分の冷やし中華と、焼きおにぎりが二つ乗った皿が置かれている。

「これ、一人で作ったのか?」

「うん。おいしいと……良いんだけど」

 よそよそしい落ち着かない素振りを見せながら、宮久保も向かいの椅子に座った。

「食べて良いか?」

「うん、どうぞ」

「いただきます」

 彼女の視線が、俺に集中する。

 そこまで深刻な表情をされると、何から食べたら良いのか迷ってしまう。

 とりあえず箸を取り、冷やし中華に手を付けた。

 麺の上には細く切り分けられた、トマト、キュウリ、ハム、焼き卵が、乗せられている。

 具と麺をバランス良く箸に取り、口へ運んだ。

 甘酢の味が、口の中へ広がる。

「……旨い」

「本当!?」

 強張っていた彼女の顔が、明るく晴れる。

「ああ、旨いよ」

 毎日、口にしている油濃いインスタントラーメンの、揚げられた麺や乾燥された野菜とは違い、どこか新鮮な味がした。

「焼きおにぎりも食べてみて!」

「おう」

 焼きおにぎりを取り、上の方を一口かじってみる。

 ご飯によく醤油が滲みこんでいて、とても旨い。

 学校の給食以外で米を食べたのなんて、何年振りだろうか。

 感動しながら、おにぎりを頬張る俺を、宮久保は嬉しそうに眺めている。

「お前は、食わないのか?」

「え? ああ、そうだね。いただきます」

 そう言うと、彼女も食事を始めた。


「普段から、こんな風に家事をしてるのか?」

「うん。お母さんは、仕事で忙しいから」

 母の話をする宮久保は、どこか悲しげだった。

 もしかしたら、あまり他人には話したくない事があるのかもしれない。

 これからは気を付けた方が良いな。

 下手に詮索をして、宮久保を不快な想いにはさせたくないし。


「ご飯は栄養を考えてね。あと、雑誌はちゃんと読む物と読まない物に分けてね」

 帰り際、家の前で宮久保は俺に念を押した。

「分かってる。これからは気を付けるから、大丈夫だ」

「ちゃんと続くのかなぁ……」

「大丈夫だって。俺を信じろ」

 宮久保は頬を赤らめて言う。

「だって……散らばってた雑誌の中に、女の人の裸が写ってる物があったし……。普通、女の子が家に来るのなら、前以て片付けておくでしょ?」

「え? み、見たのか! あれを……」

 少しは片付けておけば良かった。

 

妙な空気が出来上り、数秒の沈黙が続く。

「やっぱり、男の子は……ああいうのが好きなの?」

 沈黙を破ったのは、そんな宮久保の言葉だった。

「し、知らねぇよ!」

 とてつもなく恥ずかしくなって、顔を真赤にして俺は怒鳴った。

「まあ、男の子だからしょうがないかもしれないけど……」

「お、おう。まあな」

「次からは気を付けなよ?」

「分かってるって」

「じゃあね」

「ああ、じゃあな」

 宮久保は夕日の照り付ける道を、自転車で走って行った。


  ♪


 夏休みが終わっても、暑い日射しが止む事はなかった。

 いったい、この暑さはいつまで続くのだろう。

 野球部の夏の総体は県大会まで進んだ訳だし、きっと練習量が増える筈だ。

 そう思うと、とても憂鬱になってくる。

「なあなあ、綾人。夏休みの間に宮久保と何があったんだよ?」

 野球部の朝練を終えた後、まだ人気の少ない渡り廊下で、蓮は陽気な態度で話し掛けて来た。

「何もねぇよ」

「嘘だぁ。夏休み前までは、気まずそうにしてたくせに」

「まあ……夏休みの間に、宮久保が俺の家に来て、何回か飯を作ってくれた事はあった……けどな……」

 冷やし中華を食べた日以来、宮久保はよく俺の家に来ては、飯を作ってくれる様になった。

 そんな彼女との出来事が、自身の中ではどことなく楽しみとなっている。

「この幸せ者めぇ!」

 蓮が俺の背中に飛び乗る。

「ちょっ、お前……重いって! それに汗臭い!」

「それはお互い様だろ!?」

 確かに、俺の体も汗でいっぱいだ。

 それにしても最近、俺に対する蓮のスキンシップが、日を増す毎に激しくなっている様な気がする。

 気のせいなら良いのだけれど。


 教室に入ると、やはり蓮と俺以外には誰もいない。

 まだ登校には随分と早い時間だから、当然か。

「あ」

 蓮が何か思い立った様な声を上げる。

「どうした?」

「これ」

 彼が見ていたのは、後ろ黒板に貼り付けられている文化祭のポスターだ。

「もう、こんな時期が来たんだな」

 文化祭が始まる次期。

 それは、部活内で三年生が引退する時期でもある。

 この時期が来る頃には、一軍入り確定の俺達は、より練習に励んでいるのだろう。

 三年生がいなくなる。

 部活内で優位な立場に立てる事を嬉しく思いつつも、そんな自分達をどことなく不安に感じていた。


 そんな時期が近付いているからだろうか。

 俺のクラスでは、朝のホームルームで文化祭の話し合いが行われた。

 委員長が黒板に、クラスで可能な出し物を書き込む。

「これが、うちのクラスで出来る出し物なんだけど、皆はこの中で何が良い?」

 黒板には右から、演劇、合唱、ダンスと書かれている。

 こうして見ると、小学校の御遊戯会と何ら変わりない。

 まあ、中学二年生の文化祭なんて、こんな物だろう。

「合唱で良くね?」

「たしかに、演劇は台本とか面倒だし」

「ダンスとか普通に無理」

 個人が何かをしなくても、物事は勝手に進んで行く。

 それが学級活動だ。

 クラス委員長が、度々出される意見を聞き、結論に持ち込む。

「じゃあ、順番に聞いて行くね。まず、クラス合唱が良い人、手を上げて」

 ほぼ全員が手を上げた。

 俺も周りに会わせて、手を上げる。

「決まりだね。問題は指揮者と伴奏なんだけど……」

 すると、クラス全体がいっそうざわめき始める。

「おい、お前がやれよ」

「指揮者って歌わなくて良いのかな?」

「皆の前は、ちょっと恥ずかしいな」

 全体の反応を見て、委員長は僅かに笑みを浮かべる。

「仕方ないなぁ。じゃあ、私がやってあげても良いけど、皆はどうしたい?」

 ただ、自分がやりたかっただけだろう。

 と、内心で思いつつも、俺自身は指揮者なんて誰でも良かったのだ。


 結局、指揮者は委員長と言う事で話はまとまったが、問題は伴奏者だった。

どうやら、このクラスにはピアノの経験がある奴がいない様だ。

いや、いたとしても、おそらく手を上げないだけなのだろう。

「明日のホームルームで、伴奏者を決めるから。あと、合唱で歌いたい曲も考えておいてね」

 その言葉を最後に、朝のホームルームは終了した。


 一限目の授業は音楽だった。

 皆がせっせと教科書や筆記用具を揃えて音楽室へ移動する中、なぜか宮久保だけは落ち着きがない様に見えた。

 何と言うのだろう。

 何か考え事をしていて、他の事に手が回らない、といった感じだろうか。

 椅子から立ち上がり、歩き出したかと思うと太股を机の角にぶつけてしまい、とても痛そうに涙を浮かべている。

 それを見た彼女の友人が駆け寄って、心配そうに声を掛ける。

 なんだか、遠目に見ていて面白い。


 音楽室でも、宮久保の態度は変わらなかった。

 話し掛けてみても、上の空でまるで人の話を聞こうとしない。

 いったい何を考えているのだろうか。


 放課後、宮久保は俺を音楽室へ呼んだ。

 俺には部活があるだろうから、そんなに時間は取らせないと言っていたが、どんな用があるのだろう。

「どうしたんだよ? こんな所に呼び出して」

 やはり、宮久保の様子は未だに落ち着きがない。

「あの……えっと……聴いて欲しいんだけど……」

「何を?」

「私の……」

 声があまりにも小さいので、何を聴いて欲しいのか分からない。

「え? 何?」

「だから……聴いて欲しいの。私の……ピアノ」

「ピアノ?」

 宮久保は頷くと、隅に置いてあるグランドピアノの椅子に座った。

 蓋を開けると、白い鍵盤が露わになる。

「おいで」

 そう言われ、俺もピアノの側に寄る。

 彼女は一回だけ息を吐き、鍵盤に指を躍らせた。

 綺麗な音色が音楽室に響く。

 それは聴いた事もない曲。

 しかし、どうしてか聴いているだけで安心する。

 楽譜もなく、まるで歌う様に、宮久保は音を奏でていた。

 演奏が終わると、彼女はゆっくりと鍵盤蓋を閉じた。

 宮久保は、ポカンと口を開けている俺に笑い掛ける。

「こんな演奏が出来るのに、どうして伴奏者に名乗り出なかったんだ?」

「不安だったから。私のピアノが、他人からはどう聴こえているのかなって」

 そんな彼女の内気な性格が、折角の才能を隠していたのだろう。

 しかも、それが影響してあのドジっぷり。

 とりあえず、自信を付けさせる事が重要だな。

「凄く上手だ。お前なら、出来るんじゃないか?」

「出来るのかな? 私に……」

「ああ、とりあえず、委員長に話を付けよう。すぐに呼んで来るから」


 委員長を音楽室に呼び出し、ピアノを聴いて貰った。

 暫くして、なぜか蓮も音楽室に入って来る。

 普段は見せる事のない、ピアノを弾く彼女の表情。

 俺達は、それに魅入られていた。


「凄いよ! 宮久保ちゃん!」

 伴奏が終わると、委員長は宮久保の元へ駆け寄り、彼女の手を握った。

「え? あぅ……」

 委員長の態度に動揺しつつも、宮久保は嬉しそうに笑っている。

「宮久保ちゃんのピアノがあれば、充分な合唱が出来るよ」

 隣で、蓮が突然騒ぎ出す。

「よっしゃ! なんか皆で頑張ろうぜ!」

 蓮が俺の肩に手を廻して言う。

「俺達も協力するから!」

「え!?」

「本当!? 良かった。これで文化祭の実行委員が揃った」

「実行委員? 誰だよ?」

 委員長は俺を指差し、宮久保、蓮と順に指差した。

「おい、委員長。俺は……」

 クラス活動をしている余裕があるのなら、部活へ行きたい。

 そう言おうとすると、委員長は俺の言葉を遮った。

「名前!」

「え?」

「委員長っていうの、堅苦しい。私は橘美咲。美咲で良いよ!」

「おお! いきなり名前呼びか! いいね、いいね!」

 蓮はどこか嬉しそうだ。

「俺は藤堂蓮。蓮で良いぜ」

「はい! 次は宮久保ちゃん!」

 宮久保は戸惑った様な表情を浮かべ、俺を見る。

 どうして、ここで俺を見るんだ……。

 とりあえず、宮久保に向かって頷いてやった。

 すると、彼女も俺に対して頷く。

「……み、宮久保沙耶子。さ、沙耶子で良いから」

「うん! 沙耶子ちゃん!」

 橘は俺に笑顔を向ける。

「え?」

「自己紹介!」

「ああ、烏丸綾人だ。綾人……って呼びたいなら、そう呼べ」

「うん……綾人君」

 真っ先にそう言ったのは、宮久保だった。

 蓮と橘は、にやけながら俺達のやり取りを見物している。

「え? 宮久保……」

 彼女は首を横に振る。

「沙耶子だよ」

 少しだけ息を吐き、俺は彼女の名前を呼んだ。

「ああ、沙耶子」


 彼女達と別れた後、夕日の差す帰り道を、蓮と自転車で走っていた。

「おい、どうして文化祭の実行委員の話なんかに賛成したんだ? しかも、俺まで巻き込んで」

「まあ、しょうがないじゃん。沙耶子ちゃんが伴奏で、美咲ちゃんが指揮者なんだから」

「別に、沙耶子が実行委員になるからって、俺達も協力する必要なんて、なかったんじゃないか?」

 蓮の声が突然、低くなる。

「仕方ないだろ……」

 雰囲気が、どこか重苦しい。

「知ってるか? 美咲ちゃんの事」

「あいつが何だよ?」

「お前は知らないだろうけど、俺達の学校には、女子間の虐めが裏ではかなり頻繁に起こってる。ターゲットを無視し続けるとか、そんなレベルじゃない。しかも、その虐めてる方のグループには、美咲ちゃんもいる」

「……」

「沙耶子ちゃんを、そういうのに巻き込みたくはないだろ? だから、念の為、俺達が沙耶子ちゃんに付いていた方が良いと思ってさ」

 どうして、蓮があんな行動を取ったのか。

 ようやく分かった。

 沙耶子を守る為だ。

 そんな事にも気付けなかった自分が、とても情けなく思えてくる。

「蓮、ありがとうな」

「どうって事ねぇよ。ジュース一本の貸しだからな!」

 その言葉で、重苦しかった雰囲気が、一気に解れた様な気がした。


  ♪


 文化祭の準備期間は二日間だ。

 その後に、一日の公開日がある。

 クラス合唱で歌う曲は全員の了承を得て、想い出がいっぱい、という曲に決まった。

 一九七〇年から八〇年代に掛けて流行した、H2Oという歌手グループの曲らしい。

 俺は、こういった話題には疎い。

 野球選手の背番号や名前やチームなら、いくらでも言えるのだが。

 今日は準備期間の二日目という事もあって、クラスは全体的に活気付いていた。

 合唱練習も、皆はそれなりに熱心で、沙耶子も難なく伴奏をこなしている。

 この分なら、無事に文化祭を終える事が出来そうだ。

 

合唱練習が終わった後、蓮、沙耶子、美咲で他のクラスを見回る事になった。

三年の教室がある階は、喫茶店の様な飲食店が主な様だ。

文化祭の当日は、この辺で飯を食べる事にしよう。

「美咲!」

 後ろから、誰かが美咲を呼び止める。

 振り向くと、そこには三年生の先輩がいた。

 とても上品な雰囲気のある、爽やかそうな出で立ちだ。

 美咲は満面の笑顔を浮かべて、両腕でギュッと彼の右腕を掴んだ。

「美咲、その人は?」

 蓮が彼女に訊ねた。

「私の彼氏!」

「こら、そんなに大きな声で言う事じゃないだろ。皆が見ている」

 美咲に腕を抱かれている先輩が、恥ずかしそうに注意する。

「あ、ごめんね。幸太」

 ポカンと口を開けている俺達に、彼は言う。

「僕は三年の光圀幸太。ちょっと、美咲を借りて行って良いかな? せっかく会えたから、一緒にいたいんだ」

「俺達は構いませんよ」

「そうか、よかった。じゃあ、美咲。行こうか」

「うん!」

 美咲はベタベタと光圀先輩の腕に抱き付きながら、どこかへ行ってしまった。

「さぁーて、俺も退散するとしますかぁ!」

 蓮はそう言うと、俺の静止も無視してサッサとどこかへ行ってしまう。

 三年生で賑わっている廊下に、俺と沙耶子だけが取り残された。

 ふと、制服の裾を後ろから引っ張られる感触がした。

 振り返ると、沙耶子は頬を赤くして、俺の制服の裾を掴んでいる。

「どうした?」

「あ、あの……えっと……明日のクラス合唱が終わったら……」

「何だよ?」

「文化祭、一緒に周ってくれないかな……なんて……」

 それは裏返り気味な声での、彼女なりの精一杯な頼みだった。

「良いぜ。俺、一緒に周ってくれる奴なんていないから、助かるよ」

 俺の言葉に、沙耶子はホッとした様に胸を撫で下ろした。



 翌日、クラス合唱の練習は、朝一の体育館で行われた。

 音楽室とは違って体育館は広い為、全員の声が良く通る。

 練習の後、沙耶子の元へ行くと、彼女は酷く緊張していた。

 練習では、難なく伴奏をこなす事が出来ていた様だが、いざ本番を前にすると不安でしょうがないのだろう。

 こんな時、どう声を掛けたら良いのか、よく分からない。

 彼女の右肩に、後ろから軽く手を置いた。

 こちらを振り向く時、それを見計らって指を立てた。

 柔らかな彼女の頬が指先を覆う。

そのまま笑い掛けると、沙耶子も笑い返してくれた。

彼女の緊張が解れれば良い。

そう思っての、俺らしくもないおふざけだった。


 本番になると、体育館内部の明かりは消され、窓やカーテンも締め切られる。

 誰もの視線が集まる舞台だけに、明かりが付いていた。

 合唱をするのは、俺達のクラスだけではない。

 勿論、他のクラスでも合唱はするのだ。

 二、三程のクラスの合唱が終わり、ついに俺達のクラスの出番がやって来た。

 皆が指揮者である美咲を先頭に、舞台へ上がる。

 部隊の上に全員が並ぶ。

 沙耶子はピアノへ、美咲は全員の視線が集まる前へ。

『合唱。想い出がいっぱいです』

 放送が掛かり、沙耶子はそれを合図にピアノを弾き始めた。

 伴奏が始まり、全員の歌声が体育館に響く。

 女子と男子の高低のパート。

 それらが綺麗に混ざり合う。

 俺、蓮、沙耶子、美咲、皆、どこか嬉しそうだった。


 合唱が終わった後、俺達は教室へ戻った。

「ありがとう」

 俺達に、最初にその言葉を言ったのは美咲だった。

「ああ。でも、本当に頑張ったのは美咲と沙耶子だ。俺がやったのは、合唱の順番決めや練習の時間決めくらいだから」

 蓮は頬をぽりぽりと掻く。

「まあ、俺は何もしてないんだけどねぇ」

「そんな事ないよ。皆、頑張ったんだよ」

 沙耶子は、そう言って笑っている。

 知り合いもいない学校に転校して来て、今ではこんなにクラスに打ち解けて、皆の前でピアノまで弾いた。

 そんな沙耶子が、俺は本当に凄いと思えてならなかったのだ。


 蓮は野球部のメンバーと、学校を抜けて飯を食いに行くそうだ。

 美咲は光圀先輩と文化祭デート。

 俺は昨日の約束通り、沙耶子と文化祭を周った。


 夕日の差す帰り道。

途中にある土手道に自転車を停めて、俺と沙耶子は芝生に座った。

「今日はありがとう」

沙耶子は俺にそう言った。

「どうって事ない。それに、それは俺の言いたかった事だ。今日はありがとうな」

 沙耶子は照れ臭そうに、目を反らして笑う。

「……うん」

「気付いた事があるんだ」

「何?」

「お前、転校して来た時と比べて、笑う様になった」

「……そうかも。最近、毎日が楽しいから」

 俺も同じだ。

 毎日が楽しくてしょうがない。

 前までの俺には、野球しかなかった。

 友達なんて、バッテリーを組んでいる蓮だけで良いと思っていた。

 しかし、それは間違っていたのだ。

 沙耶子、美咲、蓮。

 三人とも、大切な友達だ。

 今がずっと続けば良い。

 二人で夕焼け空を見ながら、俺はそんな事を考えた。

 沙耶子は、この真っ赤な空を見て、いったい何を思っているのだろう。




  ♪




 いつからだろう。

 俺達が笑わなくなったのは……。




 昇降口には、何枚もの枯葉が散っていた。

 もう、秋が来た。

 そんな季節を予感させている。

 野球部の三年生は受験勉強の為に引退し、俺や蓮や他の二年生が部活のトップに着いた。

 引退していった三年生など、俺にとってはどうでも良かった。

 皆は記念に野球ボールを先輩に渡したりしていたけれど、俺はそんな事はしなかった。

 どうせ、会う機会もかなり減るだろうし。


 二年用の靴箱に、沙耶子が茫然と立っていた。

「沙耶子、どうした?」

 沙耶子はビクッと肩をならし、こちらを振り向く。

「な、なんでもないよ」

 明らかに、何でもない様には見えない。

「ほら、行こうよ。早くしないとホームルーム始まっちゃうよ」

 何かを隠している。

 彼女の態度を見るだけで、それは明白だった。


 休み時間になると、沙耶子は周りの目を気にする様に俺の元へ来た。

「綾人君。見て欲しい物があるんだけど」

 差し出されたのは、四角い封筒に入った便箋だった。

「読んで良いか?」

「うん」

 読んでみると、その手紙の内容からして、ラブレターだという事が分かる。

 沙耶子は、俺の目から見て、性格は良いし容姿も可愛らしい。

 好意を持つ奴がいてもおかしくはない。

 相手は誰なのだろう。

 そう思い、便箋の一番下の行に目を落とした。

 光圀幸太。

 便箋の一番下には、その名前が書かれていた。

 

沙耶子と話し合った結果、蓮と美咲にこの件は話さない事にした。

 もし、美咲の耳に入ったら、俺達の関係が危うくなってしまうかもしれないから。


 手紙には、昼休みに校舎の裏で会いたいと書かれている。

 昼休みなると沙耶子は、一人で光圀先輩の元へ向かった。

 光圀先輩が、沙耶子に何か変な事をするとは思えない。

 しかし、とてつもなく嫌な予感がする。

 いったい、光圀先輩は何を考えているのだろう。

 美咲という彼女がいるのに、どうして沙耶子を……。


 昼休みの終わるチャイムが鳴る頃、沙耶子は教室に戻って来た。

「どうだった?」

 心配そうに問う俺に、沙耶子は微笑む。

「特に何もなかったよ。私なんかじゃ、光圀先輩みたいな人には吊り合わない。やっぱり、美咲みたいな素敵な人と一緒にいるべきです。そう言って来たの」

 なんとなく安心した。

 沙耶子が俺から離れてしまう。

 そんな気がしていたから。

「そういえば、光圀先輩には美咲がいるのに……どうして沙耶子を?」

「分からない。でも、美咲を大事にしてって言って来たから、大丈夫だよ。きっと」

「……そう、だよな……大丈夫だよな」

 きっと、大丈夫。

 思い続け強がる事しか出来なかった。


 放課後、俺は部活をサボり、沙耶子と二人で帰り道を共にした。

 いつもの土手道に自転車を停め、二人で芝生に座った。

「ねえ、どうして今日は部活をサボったの?」

 ただ、沙耶子と一緒にいたかったから。

 そんな事を、面と向かって言える筈もなかった。

「さぁな。なんとなく、今日は部活へ行くのが面倒だったんだよ」

 彼女の手が、俺の手の甲に添えられる。

「?」

「正直に話して」

 俺を見る瞳は真っ直ぐで、全てを見透かされている様な気がした。

「……怖かったんだ。このまま、お前が俺の前からいなくなりそうで……」

 俺の声は震えていた。

 なぜ?

 何も分からない。

 ただ言える事は、沙耶子が隣にいるだけで安心する。

「大丈夫だよ。私はどこにも行かないから」

 その言葉だけで、世界が晴れて見えた。

 その言葉を聞けただけで、心が満たされたのだ。



 翌日、学校へ行くと美咲が泣いていた。

 周では彼女の友人達が、優しい言葉を掛けている。

 美咲は、手で顔を覆い、鼻を啜り、まるで周りの言葉を聞いていない様に見える。

 近くに蓮がいたので、事情を聞いてみた。

「美咲、光圀先輩に振られたらしいぜ。受験に集中させて欲しい。美咲といると、疲れるって。そう言われたらしい。まあ、中学生の恋愛なんて、そう長続きする物じゃない。美咲にそう言ったら、物凄い顔で睨まれたよ。今は、そっとしておいた方がいいぜ」

「……そうだな」

 先日の、沙耶子に宛てられたラブレター。

 なんとなく、それに関係していると思った。


 一時限が終わった頃に気付いた。

 沙耶子が学校に来ていない。

 風邪でもひいたのだろうか。

 それなら良いのだけれど。


 三限目の眠くなる様な授業を終えた頃、沙耶子が教室に入って来た。

 沙耶子は、どこか疲れ切った様な表情で机に鞄を置いたと思うと、教室から出て行ってしまった。

 それを追い掛けて、俺も教室から出る。

「沙耶子!」

 呼んでも、沙耶子は振り向かない。

 駆け寄って、彼女の背中を軽く叩いた。

「綾人君……」

 ようやく振り向いてくれた。

 近くで見ると、彼女の目元には隈ができ、とても血色が悪そうだ。

「今日はどうしたんだ? 遅刻して来たと思ったら、いきなり教室を出てくし」

「何でもないよ。ちょっと、授業を受ける気分になれないから、保健室に行ってくるだけ。本当に、何でもないよ」

 か細い声でそう言い、俺の前から立ち去ろうとした。

 俺は立ち去ろうとする、彼女の左手首を咄嗟に掴んだ。

「痛っ……」

 それと同時に、沙耶子は悲痛な声を上げる。

「?」

 何かがおかしい。

 彼女の制服の左袖をまくった。

「……」

 俺は言葉を失った。

 なぜなら、そこには幾つもの傷があるのだ。

 生々しく赤い色をした傷、直り掛けの傷、そんな傷が幾つもある。

 沙耶子は瞳に涙を浮かべ、俺の手を強く払い退け、呼び止める間もなく走って行ってしまった。

「何だったんだよ……あの傷……」

 俺達の関係は、次第に狂いだす。

 いや、もしかしたら、もう既に狂いだしていたのかもしれない。



 二週間程の間、俺は沙耶子に話し掛ける事が出来なかった。

 左手首の傷を見られた時の、彼女の表情。

 あんなつらそうな沙耶子を、俺は初めて見た。

 だから、近付きにくかったのだ。

 美咲はというと、以前よりは活気を取り戻した様だが、やはり元気がない。

 どこで、間違ってしまったのだろう。

 俺達の日常は、どこで狂いだしてしまったのだろうか。


 クラス内で、こんな噂を聞いた。

 沙耶子には自殺願望がある。

 こんな噂、信じたくはなかった。

 それでも、信じずにはいられない様な、とても現実的な訳があるのだ。

 現在、沙耶子と共に暮らしているのは、本当の親ではない。

 沙耶子の両親は既に死んでいて、現在は親戚の叔母と二人暮らしなのだそうだ。

 叔母からは毎日の様に暴力を浴びせられ、その度に自分だけが生き残ってしまったという自責の念に駈られ、左の手首を何回も切っているのだという。

 こんな話は信じたくない。

 それでも、あまりにも事情が現実的過ぎて、信じずにはいられないのだ。


 やがて、沙耶子はクラス内で一人でいる事が多くなった。

 皆、沙耶子が物騒だと言って近付かないのだ。

 俺は何度も彼女に話し掛けようとした。

 しかし、周りの目がどこか怖くて出来なかった。

 自分まで、同じ様な人間だと思われそうで。



 俺達は、そんな険悪な状態で中学三年生へと進学した。

 蓮とは同じクラスになれたのだが、美咲と沙耶子とはバラバラになってしまった。

 蓮は俺に問う。

「あいつらの事、心配なのか?」

「……」

 何も、答える事が出来なかった。

 こんな自分が情けなくてしょうがない。

 沙耶子、蓮、美咲に対して、本当に申し訳がなかった。


  ♪


 中学三年生の夏前。

 皆が夏服である半袖に衣替えをする時期。

 沙耶子だけは、長袖のブラウスを着ていた。

 おそらく、左手首の傷を隠しているのだろう。

 徐々に傷付いていく彼女を見ている事しか出来ない。

 そんな自分に失望していた矢先、蓮は周りの目を気にする様に、俺を屋上へ連れ出した。

 夏の生温い風が吹く屋上で、蓮は俺に告げる。

「お前は野球部のピッチャーだ。だから、あまり下手に行動して問題は起して欲しくない。俺自身、正直に言うと怖いんだ。でも、俺自身が落ち着いていられない。だから、言うよ」

 やたらと長い前置きにイライラしつつ、俺は怒り交じりに訊く。

「何だ? お前は俺に何が言いたいんだ?」

 蓮の顔が徐々に強張っていく。

「野球部のマネージャーの奈菜ちゃんから聞いた話しなんだけど……沙耶子ちゃん、虐めに遭ってるらしいんだ」

「!?」

「しかも、虐めてるのは美咲がいる女子グループらしい」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中である衝動が芽生える。

 俺は蓮の胸倉を掴み、声を荒げた。

「誰だ!? 美咲以外にも虐めてる奴がいるんだろ!? 誰だ!? そいつらは、どこにいる!?」


 蓮から訊いた話によると、三年生用の女子トイレで、しょっちゅうそんな事が起きているらしい。

 周りの目なんて気にしていられない。

 沙耶子を守ってみせる。

 ただ、それだけの衝動が自分自身を動かしていた。

 俺は女子トイレのドアを容赦なく蹴り開けた。

 トイレの中では、数人の女子が床に倒れている何かを囲んでいる。

 そこら中には、ブラウス、スカート、上履きやハイソックスや下着が散乱していた。

 俺は数人の女子を強引にどかし、床に倒れている何かに近付いた。

 近付いて、すぐに分かった。

 沙耶子だ。

 乱れた長い髪、剥き出しになった色白で細身な胸や腰。

 彼女は全裸だった。

「どうして……こんな……」

 屈んで彼女の体を優しく抱き、俺を上から見下ろしている数人の女子に怒鳴った。

「どうして……どうして、こんな事をした!? こいつが何をしたってんだよ!?」

 よく見ると、数人の女子の中に美咲がいる。

 彼女の俺を見る目は、どこか悲しげだった。

「おい!」

 女子の集団へ怒鳴る俺に、沙耶子のか細い声が掛かる。

「綾人君……ここ、女子トイレ……だよ? 駄目だよ……こんな所に入って来ちゃ……」

 どうして、こんな時にそんな事を言っていられるんだ。


 その後、ふらふらな沙耶子に服を着せ、茫然と立ち尽くす女子の集団を横切り、彼女を保健室へ連れて行った。

 前にも、沙耶子を担いで保健室に行った事があったなぁ。

 あの頃は楽しかった。

 いつから、俺達の日常は変わってしまったのだろう。


 保健室のベットに沙耶子を寝かせた。

 幸い、先生はいない様で、面倒な事にはならなかった。

 しかし、この事は学校側に報告するべきだ。

 俺が彼女達に怒鳴り付けても、おそらく虐めは終わらないのだから。

 立ち去ろうとする俺を、弱々しくて細い声が呼び止める。

「待って……」

 振り向くと、沙耶子は立ち去ろうとする俺に手を伸ばしていた。

 その手を、俺は両手で握る。

「ねぇ……どうして、美咲ちゃんは……私を虐めるのかなぁ……。私が、光圀先輩に告白されたから? それとも、私が気味悪いからかなぁ……。もう、文化祭の頃には戻れないのかなぁ……」

 沙耶子は今にも泣き出しそうな目で、俺を見ている。

「大丈夫。きっと、戻れる。お前に辛い想いはさせないから。だから、今はゆっくりと……おやすみ」

 彼女の手を優しく置き、俺は保健室を後にした。


 職員室へ行き、沙耶子のクラス担任へ、彼女に関する虐めの事を話した。

 すると、担任はまるで興味がなさそうに「ああ、そうか。それじゃあ、きつく言っておくよ。他に用は?」

「いえ……特には……」

「そうか。じゃあ、早く出て行ってくれ。忙しいから」

 渋々と職員室を出ると、数人の教員の声が職員室から聞こえた。

「それにしても、クラス内での問題も面倒なものですね。まったく、虐めだなんて。うちの学校にある訳ないのに」

「最近の子供は、ドラマやアニメの影響が強いですからね。まあ、しょうがないのではないでしょうか。それに、虐めが本当にあったとして、うちのクラスの宮久保さん。友人関係や社交性を見ても、あれほど虐められっ子として当てはまる生徒はいないと思うんです。だから、ある意味で良い経験なんじゃないですかねぇ。虐めというのは」

「そうですね。どうせ、卒業してしまえば、虐め自体が続く事は、そうありませんからね。まあ、時間が解決してくれるでしょう」

 俺は悟った。

 大人は役に立たない。

 俺には親がいるが、いつ帰って来るかも分からない。

 友人に言うにしても、蓮に迷惑は掛けたくない。

 こうなったら、俺自身が動くしかない。


 美咲のいるクラスは、男子よりも活発な女子の方が多いようだ。

 美咲の元へ行き、先程の沙耶子に関する話を持ち掛けた。

 周りには、トイレにいた連中が白い目で俺を見ている。

 全員が女ながら、どこか怖い。

「美咲、さっきはトイレで何をしていたんだ?」

「……」

「沙耶子が、お前に何かしたのか?」

「……」

 美咲は黙ったまま俯いている。

「なあ、美咲。答えてくれよ」

 俺を囲む女子の中の一人が言った。

「宮久保が美咲の彼氏を奪ったからだよ」

 おそらく、光圀先輩が沙耶子に告白した事か。

 噂は筒抜けだった様だ。

 しかし、沙耶子は受け入れてはいない筈だ。

「そうでしょ? 美咲」

「う……うん」

 美咲は怯える様に頷いた。

「全部、宮久保が悪いんだよ!」

「あの女、マジきもい。美咲の彼氏を寝取ったりしてさぁ」

「え? 寝取ったの!? やべぇ、超ビッチじゃん。きーもーいー」

「そうでしょ? 美咲」

 再び問われた質問に、美咲は頷いた。

 その瞬間、俺を囲む女子がケラケラと黄色い声を上げる。

「ほら、宮久保が全部悪いんだよ」

「あんた宮久保の彼氏? じゃあ、私達に怒鳴る前に宮久保を怒鳴ったら良いじゃん」

 なんとなく分かった。

 こいつらは、宮久保を虐める為の口実が欲しかったのだ。

 ただたんに、宮久保を虐めたかっただけ。

 それだけの為に、美咲を利用して……。

「ほら、さっさと帰れよ」

 すぐ後ろの女子が、そう言った。

「帰れよ!」

 一人が俺の肩を強く押す。

 野球部のピッチャーである俺にとって、肩は命の次に大切な体の一部。

 さすがの俺も、堪忍袋の緒が切れた様だ。

 低い声で言う。

「てめぇ、怪我したらどうすんだよ……」

「え?」

 力任せに、先程から俺を罵倒する女子の一人の顔面に拳を打ち込む。

 飛び散る僅かな唾液と血。

 それを見た周りの女子は一歩後ずさる。

 しかし、美咲だけは真っ直ぐに俺を見ていた。

 その光景を見ていた周りの男子が俺を取り押さえる。

 腕や足を掴む男子達を、俺は一気に振り払い、次に二人の女子の胸倉を掴み、壁に叩き付けた。

 もう、自分という人間が分からない。

 皆、死ねば良い。

 沙耶子や俺を苦しめる奴は、死ねば良いんだ。


 気付いた頃、周りには俺に殴られて伸びている数人の女子と男子。

 それと、ただ俺を茫然と立ちながら見つめる美咲の姿だけがあった。

 倒れている女子の一人の上に座り、顔面を殴り続ける。

「沙耶子を虐める為だけに、美咲を利用したんだろ!? そうなんだろ!?」

 力任せに殴り怒鳴る俺に、下で伸びている女子は掠れた声で泣き啜りながら言う。

「ごめんなさい……全部、私達が悪いんです。宮久保を虐める為に、美咲を利用して……。光圀先輩は何も関係ありません。私達が悪いんです」

 彼女の胸倉を掴み訊く。

「どうして、沙耶子を虐めた!?」

「だって……ムカついたから……。あんなに可愛くて……。でも、左手首には傷があって……。それを見ていたら、あんなに虐めがいのある子はいないと思って……」

 もう、まともに会話すら出来ない様だ。

 現に、俺が殴り続けている彼女の顔面は、血や痣で埋め尽くされている。

 彼女の眼球が虚ろに上を向く。

 俺は、殴り続けた女子を床に捨て、次は手身近で倒れている女子にまた同じ事をした。

 それを繰り返しているうちに、数人の教員が来る。

「烏丸! 何やってるんだ!?」

 一人が怒鳴り、俺を羽交い絞めにする。

「おい、放せよ! このセンコーがよぉ!」

「落ち着け! 烏丸!」

 他の教員が、そこら中に伸びている女子や男子に駆け寄った。

「おい、大丈夫か!?」

 教員に起こされた女子や男子は、虚ろな目で教員にせがむ。

「先生……違うんです。全部、私達が悪いんです。烏丸君は……悪くないんです……」

「烏丸君は、悪くありません。僕達が悪いんです……。何もかも」

 俺は一気に脱力した。

 先程までの活気が嘘の様だ。

 俺の起こした暴力の後に残った物、それは自身の中にだけある達成感だった。


 その後、二週間の自宅謹慎を余儀なくされた。

 あれだけ暴れれば当然だろう。

 しかし悔いはない。

きっと沙耶子に手を出す奴はもういないから。


 

日中の家の中は、叫びたくなるほど静かで、寂しかった。

 音のない家の中に俺は一人。

 静か過ぎて、気が狂ってしまいそうだった。


 昼間の街を、ただテキトウに歩く。

 街を巡回する警察やパトカーの影に怯え、結局は家に戻る。

 そんな事を繰り返して、謹慎期間を過ごした。


 謹慎の最終日の夜、俺の家に沙耶子が来た。

「学校で渡されたお手紙とか持って来たんだけど……」

「おう、入れよ」

 沙耶子を家に上げた。

 彼女が俺の家に入るのは、もう数カ月振りになる。

 あの頃を思い出すと、なんだか寂しくなった。


「これ、学校で貰ったお手紙。あと、蓮君が今日までの分のノートのコピーを作ってくれたの」

 数枚の手紙と、蓮がコピーしてくれたノート。

 まさか、あの勉強の苦手な蓮が、こんな事をするなんて。

「ありがとう。学校は、どうだ? 何かされたりしてないか?」

「私は大丈夫。でも、蓮君と美咲ちゃんが……」

「あいつらが、どうかしたのか?」


 俺が謹慎で野球部から抜けた為、夏大は初戦からボロ負けだったらしい。

 皆のモチベーションが下がっていた事もあるが、蓮は俺の不在が一番の敗因だと言ったそうだ。

 彼女の話によると、先日から蓮が美咲を拒絶する様になった。

 俺が暴力を起こした原因が美咲を含む、あの集団の女子グループだと判断した蓮は、彼女を憎む様になったのだそうだ。

 更に、夏大の初戦敗退。

 蓮にとって、それは本当に残念な事だったのだろう。


「美咲は、ただ利用されてただけだ」

「うん。でも、蓮君は本当に美咲を恨んでる。何とかしなくちゃ……」

 他人を気遣っている余裕なんてないだろうに、沙耶子は必死だった。

 俺は彼女の手を握る。

「俺達で、あの頃を取り戻そう。四人で笑い合っていた、あの頃を」

「うん」

 沙耶子、蓮と美咲、四人で過ごした、あの日々を守りたい。

 ただ、それだけを願っていた。


 翌日、俺は蓮に美咲の事を話した。

 すると蓮は、いつもとは違った冷めた表情で「……そうか」とだけ言い、俺の前から去ってしまう。

 久しぶりに会った蓮は、どこか抜け殻の様な目をしていた。


 夏が終わり、受験の時期が迫っていた。

 俺達の様な三年生は部活を引退し、受験勉強に励んでいた。

 放課後に、沙耶子と図書室で勉強するのが最近の日課だ。

 俺と蓮は、前から目標としている高校へ行く事に決めている。

 蓮はスポーツ推薦で行くそうだ。

 俺も推薦を狙っていたが、謹慎を受けた身だ。

 そんな我儘は言っていられない。

 美咲はと言うと、俺と蓮が行くのと同じ学校へ学力推薦で入るそうだ。

 同じ学校を目指す事を期に、仲直りしてくれれば良いのだが、そうもいかない様だ。

「沙耶子は、どうするんだ?」

「私は、隣町の高校に行こうと思ってる。知り合いの少ない新しい所から、また始めたいの」

 たしか、その学校って光圀先輩が行った学校だった様な……。

「その学校って、光圀先輩が行った所じゃないか?」

「うん。でも、たぶん会う事はそんなにないと思う」

 そういえば、どうして光圀先輩は、沙耶子に告白なんてしたのだろう。

 それに、美咲を振った理由も、結局は分からず終いだ。



 三月を過ぎると、重くなっていたクラスの雰囲気が活気付いてきた。

 蓮や美咲は、愛でたく推薦に合格した様で、だいぶ気が軽くなったようだ。

 早速、蓮は高校野球に向けて体力の向上に励んでいる。

 美咲はというと、逆にする事がなくて困っているという。

 俺や沙耶子も一般入試を終え、後に訪れた合否の結果は合格だった。


  ♪


 沙耶子の様子がおかしい。

 それに気付いたのは、受験が終わって間もない日の事だった。

 俺と話している時も、どこか上の空で、ずっと左の手首を押さえている。

 そういえば、左手首の傷はまだ癒えていないのだろうか。

 沙耶子の家庭事情や色々な事を察するに、あまり深入りは出来なかった。

 しかし、今ならその事に関しても支えになってあげる事が出来る。

 そう思えた。


 土曜日に沙耶子と街へ出掛けた。

 少しでも、沙耶子に笑っていて欲しかったから。

 一緒に映画を見て、食事をして、何件か店を周って買い物をして、本当に楽しかった。

「沙耶子。これ取っとけよ」

 俺は沙耶子に、先程の店で買ったリストバンドを渡した。

「これ……」

 もう一つ、同じ物を俺は自分の腕に着けている。

「ほら、おそろい」

 沙耶子は嬉しそうに笑う。

「今時、お揃いなんて……」

「あ、笑うなよ」

「でも、ありがとう」

 沙耶子は左手首に、俺と同じリストバンドを着けた。

 傷を隠せれば、辛い気も紛れるだろう。

 そう思っての、彼女への初めてのプレゼントだった。


 休み明け。

 昼休みの屋上で、俺は沙耶子と二人で話をした。

「なあ、そろそろ話してくれないか? その……傷の事……」

 沙耶子は俺に背を向ける。

 その瞬間、強い温風が吹き抜けた。

「知りたい?」

「ああ。それで、俺がお前の力になれるかもしれないから」

「……今回ばかりは、どうにもならないと思うの」

「どうして?」

「だって……」

 彼女は俺の方へ向き直る。

「全部、私が悪いんだから」


 沙耶子の左手首にある傷の原因。

 やはり前に聞いた噂通りだった。

 今の母親への、自分だけが生き残ってしまった罪悪感。

 それが沙耶子の腕に自ら傷を作らせていたのだ。


「最近……母さんからの暴力が毎日の様に続いている。でも、それはしょうがない事だと思ってる。だって全部、私が悪いんだから」

「そんな事……」

 俺が喋り出した瞬間、沙耶子は大声で叫ぶ。

「全部、私が悪いの!」

 彼女はブレザーを脱ぎ、ブラウスの前ボタンを外した。

 白くて細い体。

 そこには幾つもの痣や傷痕が浮かび上がっていた。

「これ……」

「母さんに付けられた傷」

 体に浮かび上がる線状になっている痣を、沙耶子は鎖骨から胸の下に掛けてなぞる。

「これは、縄で縛られた痕」

「……」

「これは瓶で殴られた痕」

「……」

「これは母さんが連れて来た男の人に、襲われた痕」

 震える声で俺は言う。

「やめろ」

 俺の言葉を無視して、彼女は続ける。

「痛くて、辛くて、苦しくて」

「やめろ!」

「それでも、しょうがない事なの」

 苦悩の言葉を連呼する沙耶子の体を、俺は優しく抱いた。

「無理する事はないんだ! 俺の家で、一緒に暮さないか? そうすれば、辛い思いをする事もない」

「……」

 沙耶子は無言で俺を引き離す。

「?」

「ありがとう」

 沙耶子は笑っていた。

 しかし、とても苦しそうに見えた。


 互いの関係がギクシャクしたまま、俺達は中学を卒業した。

 これから入学する高校に想いを馳せる時期に、俺達は悲しくて辛い経験をした。

 蓮、沙耶子、美咲。

 俺達が再び、笑い合える日は来るのだろうか。


  ♪


 高校へ入学しても、中学の頃とは何も変わりはなかった。

 ただ、沙耶子がいないだけ。

 それでも、彼女はたまに俺に会いに家に来てくれる。

 最近、野球とそれだけが楽しみだ。


 二人で食卓を囲み、互いの学校の話をした。

「そっちの学校は、どうなんだ? 楽しいか?」

「うん。新しい友達もできたし」

 沙耶子の新しい友達。

 変な奴じゃなければ良いんだが。

「変な奴とは関わるなよ?」

「大丈夫。平野隼人君っていうんだけど、とっても優しい人なの」

「え? 男?」

「うん」

「へぇ……」

 よりによって男か……。

 まあ、沙耶子は可愛いし、男の友人がいれば何かと安心だろう。

 沙耶子と仲の良い、自分以外の誰か。

 それを考えると、なんだか寂しくなった。


 帰り際、沙耶子は俺に言った。

「綾人君、もう、私は大丈夫だよ。心配しないで」

「え?」

 彼女の言葉に、一体どんな意味が込められていたのか、よく分からなかった。

 しかし、次の瞬間の言葉で、その意味がようやく理解出来た。

「この前、お母さんが自殺したの」

 沙耶子は、とても虚ろな目をしていた。

 唐突な話に、俺は戸惑いを隠せない。

「今日は、これだけを伝えたかった。でも、随分と長居しちゃったね」

「なあ、沙耶子……」

 数秒の沈黙が続き、沙耶子は俺に笑い掛ける。

「じゃあね、綾人君」


 どうして、笑っていたのだろう。

 母親の死の報告をする直前までの沙耶子は、どうしてあんなに楽しそうに、自分の学校での境遇を語っていたのだろう。

 沙耶子が分からない。

 しかし、母親の死が切っ掛けで、家庭内暴力は消えた筈だ。

 もしかしたら、沙耶子はそれが嬉しくてたまらなかったのかもしれない。

 そんな考えが、俺の背筋を凍らせた。


 

高校野球の練習は、中学野球と然程変わりはなかった。

 キャッチボールで肩を慣らし、本格的な練習に入る。

 基本的な練習は中学と一緒だ。

 中学時代の先輩でありピッチャーでもあった鈴木先輩は、やはりここでも一軍ピッチャー候補の座を勝ち取っていた。

 来年には、一軍入りは確定らしい。

 中学時代と同様、俺のキャッチボールの相手はやはり蓮だ。

 彼の野球に対する執着心や実力は、以前よりも更に上がっていた。

 そして、性格も少しだけ固くなった様な気がする。

 俺の暴力沙汰、沙耶子や美咲の一件を、未だに忘れられないでいるのだろう。




 転機というのは、何の前触れもなく訪れる。

 そういう物だ。

 沙耶子は、俺に一冊の日記帳を手渡した。

「これは?」

「日記帳」

 その日記帳は、とても可愛らしい装飾が施されていて、いかにも女の子が使う様な物だ。

 所々に見られる傷や汚れを見るに、かなり昔の物というのが分かる。

「お前、日記なんて書いてたんだ。読んで良いのか?」

「まだ、駄目だよ」

「じゃあ、いつなら良いんだよ?」

 沙耶子は悲しげな顔をする。

「私に……何かあった時」

沙耶子とこんな会話をしたのは、夏休みが過ぎた、ある土曜日の事だった。

その時、俺は知らなかったのだ。

後に、沙耶子が俺の前からいなくなってしまう事を……。



 数日後、沙耶子は学校の屋上から飛び降りた。

 幸い、命だけは助かる事が出来た。

 しかし、医者の話では奇跡でも起きない限り、もう目覚める事はないのだそうだ。

 涙が溢れて来る。

 涙で、世界が歪んで見える。

 いや、涙で歪んでいるんじゃない。

 世界その物が歪んでいるのだ。


 病室の中には、俺と沙耶子が二人だけ。

 どうして、こんな事になった。

 どうして、沙耶子はこんな事をしたんだ。

 母親が死んで、沙耶子を苦しめる者は誰もいない筈なのに。

「……日記……」

 そうだ、沙耶子の日記を見れば、何かが分かるかもしれない。

 あの日以来、俺は日記を手放した事はなかった。

 バックから日記を取り出し、最初のページを捲った。


 書かれていたのは、沙耶子の過去。

 中学時代、沙耶子がこの街に転校して来る前の出来事も書かれている。

 両親の死。

 両親の代わりに、沙耶子の保護者役を務めた祖母の失踪。

 そして、この街に引っ越して来てからの出来事。

 俺、蓮、美咲との楽しかった日々。

 その裏にあった、義理の母親からの家庭内暴力。

 学校での虐め。

 高校に入学してからは、殆どが平野隼人という少年に関する事が書かれている。

 よっぽど、この少年が好きだったのだろう。


 もしかしたら、平野隼人はこの病室に来るのではないだろうか。

 沙耶子の想い人。

 沙耶子の希望。

 なら、俺が気付きあげた沙耶子との日々。

 それを彼に託そう。


 予想通り、平野隼人はこの病室に来た。

 どこか守ってやりたくなる様な、幼さの残る少年だった。

 どうやら、彼はこの一件について何も知らなかった様だ。

 だから、俺はこの日記帳を渡した。

「沙耶子に頼まれたんだ。君に、これを渡して欲しいと」

 そんな嘘をついた。

 彼を、沙耶子から離さない為に。


 日記を読んだ後、彼は涙を浮かべていた。

 沙耶子の為に本当に悲しんでいる。

 そう思えた。

 だから俺は、彼に沙耶子とお揃いのリストバンドを託した。

 俺は、彼に沙耶子を託したのだ。


  ♪


 学校で、退学届を提出した。

 沙耶子の入院費の為に、幾つかバイトをしなくてはならないからだ。

 沙耶子には身内がいない。

 だから、俺がやるしかないのだ。

 平野も、学校を辞めてバイトをしたいと言っていたが、俺が止めた。

 こんな苦労をするのは、俺だけで充分だから。


 学校側は、俺を止めなかった。

 しかし、部活側はそうもいかないようだ。

 特に蓮は……。

「どういう事だよ!?」

 蓮は俺に詰め寄る。

「沙耶子の為だ。仕方ないんだ」

「お前、どうかしてるぜ!」

「……すまない」

「どうして謝ったりするんだよ!? お前らしくねぇよ!」

 蓮は今にも泣き出しそうだ。

 当然か。

 中学から、今までずっと一緒に野球をしてきたんだから。

 泣き出しそうな蓮の横に、先輩が一人分け入って来た。

 鈴木先輩だ。

「烏丸綾人……。俺はお前が学校と部活を辞める事を、止めはしない。でも、勝ち逃げは許さない」

「勝ち逃げ?」

 訊き返す俺に、鈴木先輩は苦笑する。

「覚えていないのも仕方がないか。一昨年の夏。俺が中学三年生の時の夏だ。バッティング練習で、お前は俺のボールを打った」

「あ!」

 確かに、かつてそんな事があった。

 投球を討たれた時の鈴木先輩の表情はよく覚えている。

 楽しそうに笑っていたのだ。

「勝負だ。烏丸」


 投球三本勝負。

 俺はホームベースでバットを構えた。

 周りでは、野球部の全員が俺と鈴木先輩の勝負を見物している。

 キャッチャーには、蓮が着いてくれた。

 鈴木先輩は大きく振りかぶる。

 速球が蓮のキャッチャーミットに入る。

 速い。

 中学時代と比べると、格段に速さが増している。

 二球目。

 俺はバットを振った。

 しかし、その速球は、また真っ直ぐにキャッチャーミットへ入る。

 三球目。

 ボールの見送りは終わりだ。

 この一級に賭ける。

 速球が飛んで来る。

 俺が力強くバットを振ると共に、鋭い金属音がグラウンドに響いた。

 鈴木先輩は、やはり負けたというのに笑っている。

「あいがとう。もう、悔いはない」

「そうですか。俺は、今日までずっと野球をしてきました。でも、もう終わりです。楽しかったです」

 鈴木先輩に一礼した。

 立ち去り際に、ふてくされた様な蓮の肩に軽く手を置き「じゃあな」とだけ言って、その場を去ろうとした。


「綾人!」


 後ろから、蓮が俺を呼ぶ。

 振り返ると、蓮は俺にボールを投げる。

「ぅお!」

 素手で硬式ボールを取った為、手がじんじんと痛んだ。

 蓮は頬に涙を伝わせ、叫んだ。

「いつか、また野球するぞ! 絶対に忘れんなよ!」

 あいつ、昔から子供っぽい所はあったけど、泣き出した所なんて初めて見たなぁ。

「ああ! その時はよろしくな!」

 泣きながら叫ぶ蓮に、不器用ながらも俺は思いっ切り笑ってやった。




 スーパーの裏方、コンビニの店員、出版社の原稿回収、引っ越し業者のバイト。

 特に、深夜のコンビニは大変だ。

 時々、立ちの悪い不良共が店内を荒らしに来るのだ。

 そういう奴等と暴力沙汰を起こして、もう何件かはバイトをクビになっている。

 それでも、俺はまた新しいバイトを探す。

 そんな事の繰り返しだ。


 引っ越し業者のバイト先での事だ。

 その日は、午前中だというのにとても日射しが強く、肉体労働をするにはかなり厳しかった。

 業者の大型トラックには、棚やソファー、ピアノと幾つもの楽器類がある。

 いったい、引っ越しする人はどんな人なのだろう。

 引っ越し先の家に着くと、一人の老婆がいた。

 見た感じ、七十過ぎだろうか。

「ああ、業者の方ですか。お願いしますねぇ」

 老婆の家は、わりと大きく広かった。

 業者の先輩と、幾つかの家具や楽器、ピアノを家の中に運び、作業が終わった頃には午後になっていた。

「皆さん、疲れたでしょう。どうぞ、上がって下さいな」

 俺や業者の先輩は、老婆の家に上げて貰った。

 そこで茶菓子が出された。

 クッキーと紅茶だ。

「ありがとうございます」

 俺達は、そう言ってクッキーに手を出した。

 苦い。

 食べて後、すぐにそう思った。

 こんな苦いクッキーは初めて食べた。

 口直しに、紅茶を一杯だけ飲んだ。

「うぅ……」

 これも苦い。

 お年寄りは、こういうのが好みなのだろうか。


 手続きや書類上の処理をし、俺達はトラックに戻った。

 トラックを運転するのは先輩の役目だ。

 車の中にいる間、俺は書類に目を通す。

 書類を見ていると、知っている名前がある事に気付いた。

 宮久保。

 さっきの老婆の名字、宮久保っていうんだ。

 沙耶子と同じ名字。

 沙耶子の名前が浮かんだだけで、なぜか胸が痛んだ。


 とある休日。

 この日はバイトがなかった。

 先日の宮久保という名字の老婆の家。

 俺はそこに来ていた。

 インターホンを押し、家に上げて貰う。

 老婆は茶菓子をテーブルの上に置く。

 やはり、先日食べたクッキーと紅茶だ。

 俺は、それに手を付ける事なく話を切り出した。

「あの、一つ訊きたい事があるんですけど……。もし、間違っていたらごめんなさい。すぐに帰りますんで」

「先日の業者の方でしょ? どうしたんですか?」

「あなたの親類に、宮久保沙耶子という女の子はいませんか?」

 老婆は表情を変えず、動揺する事もなく答える。

「ええ。いますよ。沙耶子は、私の孫娘です」

「えぇ!?」

 動揺してしまったのは俺の方だった。

 確か、沙耶子の日記には祖母の事も書かれていた。

 失踪したと。

「じ、じゃあ、沙耶子の居場所も知っているんですか? 沙耶子の境遇も?」

「ええ、知っていますよ。ここからすぐ近くの病院で眠っているんでしょう」

「どうして、そんなに落ち着いていられるんですか?」

 沙耶子の保護者は家庭内暴力を振るい続けた、あの義理の母親だけだった。

 それなのに、どうしてこの人は、今まで沙耶子に会う事すらしなかったんだ。

「今まで、何をしていたんですか? 沙耶子をほったらかしにして」

 老婆は少しだけ考えて、口を開いた。

「信じていますから。沙耶子ちゃんの事を。

私達、宮久保の家は、かつてはとても大きな

富豪だったんですよ。でも、私の息子。沙耶子の父の企業の失敗により、会社は倒産。沙耶子の父と母は、共に自殺してしまいました。この街には、宮久保の遠い親類がいたんです。だから、沙耶子に人並みの生活をさせてあげるには、その人に預けるしかなかったんです。私がいると、向こうの家にも迷惑が掛かってしまいますからね。だから、失踪したという理由で、かつてお世話になっていた大阪の音楽教壇に居座っていました」

「それで先日、ここに引っ越して来たんですか……」

「ええ、そうです」

この人も、今まで苦労していたんだな。

「沙耶子、とても頑張っていました。中学の頃の文化祭では、ピアノ伴奏までして」

「へぇ。あの子がピアノの伴奏を。それじゃあ、私があの子にピアノを教えたのも、無駄にはならなかった様ですね」

 なるほど。

 沙耶子のピアノの才能は、この人からというわけか。

 部屋を見回すと、中心にはピアノ、壁には幾つもの楽器が据え付けられている。

「そういえば、ここで何か音楽関係の仕事でもするんですか?」

「ええ、そのつもりです。ピアノ教室でも始めようかと」

「そうですか」

 俺は立ち上がる。

「そろそろ、帰ります。今日はありがとうございました」

「いえいえ。ああ、そうだ。よかったら、これを食べて行って下さい」

 クッキーと紅茶を差し出された。

 俺は苦笑しながら、渋々とそれを食べた。


  ♪


 気が付けば、フリーター生活にもだいぶ慣れていた。

 バイトの幅を増やす為に、車の免許まで取った。

 仕事以外で、あまり乗る事はないのだが。

 そういえば、隼人は大学に進学し、現在は大学一年生だ。

 俺も、高校に生き続けていれば、大学へ進学できたのかもしれない。

 いつもの様にバイトを終え、沙耶子のいる病室へ行った。

 やはり見る光景はいつもと同じ。

 ベットの上で穏やかそうに眠る沙耶子の姿。

 それだけだ。

「……沙耶子……」

 そう呟いた時だ。

 彼女の目が、ゆっくりと開いた。

 俺は驚きの余り、看護婦の呼び出しブザーを押す事も忘れていた。

「沙耶子……良かった。本当に良かった!」

 喜んでいる俺を余所に、沙耶子は虚ろな目で俺に問う。

「あなた……誰?」


 何もかもが、うまくいくとは限らない。

 沙耶子は、今までの記憶を失っていた。

 隼人は、そんな沙耶子を見て悲観していた。

 俺が、しっかりしなくては。

 そう思った。

 俺が折れたら、沙耶子は誰にも救われない。


 

 数年間、使われる事のなかった沙耶子の体は、リハビリなしに動ける様な状態ではなかった。

 彼女のリハビリを終えた後、沙耶子は隼人の家で、彼の妹として暮らす事になった。

 俺も、隼人も、それを望んでいたから。


 二週間程して、沙耶子は再び高校へ通う事を決意した。

 勿論、学校は沙耶子が以前通っていた所だ。

 沙耶子にとって、知り合いも誰もいない学校。

 良い友達が出来ると良いのだが……。



 沙耶子には今までの記憶がない。

 俺や隼人にとって、それは悲しい事だ。

 しかし、沙耶子にとっては今の生活が幸せな筈。

 なら、今のままで良いのではないだろうか。

 そんな考えが浮かんでいた。


 隼人の話によると、沙耶子にとって目標ができたそうだ。

 宮村想太という彼女の先輩で、放課後に二人でピアノとヴァイオリンを演奏しているという。

 良かった。

 沙耶子にとって、頼りになる人が出来たのなら安心だ。




 地元のファーストフード店で、偶然にも蓮に会った。

 二人で椅子に座り、ポテトを摘まむ。

「久しぶりだな、綾人。今は、何をやってるんだ?」

「バイトだ。でも、沙耶子の目が覚めたから、少しだけバイトの量を減らしたんだけどな」

「そうか。本当に良かった。沙耶子ちゃんの目が覚めて。じゃあ、晴れて感動の再会ってわけか」

 蓮はニヤニヤしながら俺を見る。

「ああ。そうだな……」

 言い出せなかった。

 今、俺や沙耶子が置かれている境遇。

 そして、隼人の存在を。

 本当の事を何も話せない。

 そんな自分が、情けなくて憎らしくて仕方がなかった。




 それぞれが穏やかに日常を過ごしている。

 そんな矢先、悲劇は起こった。

 沙耶子が学校からの帰り道に不審者に襲われ、病院に運ばれたという知らせが入った。

 俺は急いで車を走らせ、病院へ向かった。

 幸い、命に別状はなかった様で、外傷は擦り傷程度だった。

 しかし、沙耶子と一緒にいた彼女の先輩、宮村想太は肩に重傷を負ったらしい。




 暫くして、沙耶子が目を覚ました。

 しかも、彼女の口振りから察するに、記憶は完全に戻っていたのだ。

 医者の話では、何か大きなショックを受けると、忘れていた記憶が戻る事があるという。

 病室のベットで沙耶子は半身を起こし、俺にしがみ付いた。

「……怖かったよ」

 沙耶子の声は震えていた。

 余程、怖かったのだろう。

 俺の体にしがみ付く彼女の頭を、優しく撫でてやった。



 沙耶子は昨日あった事について、何かを語る事はなかった。

 昨日の夜、二人を襲った不審者の事も分からないうちは、沙耶子を一人で外に出す訳にはいかない。

時計を見ると、バイトの時間が迫っていた。

 隼人の携帯に、沙耶子の事を伝え、俺は病院を後にした。




 バイトを終え、沙耶子の事を確認する為に隼人に電話を掛けた。

 数回のコールが鳴る。

 しかし、隼人が電話に出る事はなかった。

 いつもなら、すぐに電話に出てくれるというのに、一体どうしたのだろう。

 根拠のない、それでいてとてつもなく嫌な予感がした。


 病院へ行くと、沙耶子は眠っていた。

 看護婦の話によると、突然気が狂ってしまい、鎮静剤を打って大人しくさせたそうだ。

 更に、病院のどこを探しても隼人が見つからない。

 携帯に電話を掛けても、繋がる事はかった。

「どこに行ったんだよ……隼人……」




 隼人が死んだ。

 その唐突な知らせが俺の耳に届いたのは、一週間後の事だった。



  ♪



 精神的な治療やカウンセリングを終え、沙耶子は退院した。

 それは二月の中旬の事だった。

 病院の入り口に車を停車し、俺は沙耶子を迎えた。

「退院、おめでとう」

「うん、ありがとう」

 沙耶子は、あの日以来、笑う事はなくなった。

 そんな沙耶子の目は、どこか虚ろだった。

 隼人の住んでいた家に沙耶子を送り、俺は自分の家に帰宅した。

 悲しくてたまらなかった。

 たった数年間で、俺達は大切な物をなくしたから。



 数日後、沙耶子に電話を掛けた。

「ピアノ教室?」

「ああ、行ってみないか? ここから近いし」

 先日、沙耶子は学校を辞めた。

 このままではいけないと思った俺は、沙耶子の祖母が経営するピアノ教室へ、彼女を連れて行く事を考えたのだ。

 勿論、沙耶子はそこに自分の祖母がいる事なんて知る由もないが。


 その家の表札は、『ピアノ教室』という看板で隠されていた。

 俺達がここに来る事は予測済みだったのだろうか。

『どうぞ。上がって下さい』

 スピーカーから聞こえる声に言われた通り、俺達は家に上がった。

 部屋の中は、前に来た時と何も変わっていなかった。

「そこに座っていてください」

 奥の部屋から、老婆の声が聞こえた。

 言われた通り、俺達は窓際の椅子に座る。

「ちょっと、待っていて下さいね。今、飲み物とお菓子を持って来ますから」

 なんとなく、分かっている。

 あの人の出す物といえば、あれしかない。

「おまたせ」

 トレイには、やはりあの苦い紅茶とクッキーが乗っている。

 俺は軽く溜息を吐き、沙耶子の事を話した。

 老婆は察してくれたのか、自分が沙耶子の祖母であると感付かれる様な言動は見せなかった。

 そんな二人の会話を、俺は黙って聞いていた。

「今、ここで教わっている生徒は、まだ四、五人しかいないんです。あなたの様な経験者がいてくれると、私にとっての音楽の幅も広がって、とても助かるんですよ。どうでしょう? 暫くはお試しという事で」

「良いんですか?」

「ええ、勿論」

「ありがとうございます!」

 沙耶子は、とても嬉しそうだ。

 こんな彼女を見たのは久しぶりだ。

「それでは、明日からここに来てください。他の生徒さんとも、顔を会わせたいので」

「はい!」

 いつか、沙耶子は気付く日が来るのだろう。

 この老婆が、自分の祖母だという事に。

 友人や恋人とは違う、自分にとって最も近い存在。

 家族。

 きっと、沙耶子はその温もりを知る筈だ。




  ♪




 数日分の洋服や必需品の入った旅行鞄と、大金の入った分厚い財布。

 戸締りを確認し、自宅を後にした。

 降り注ぐ日射しは、夏の訪れを予感させている。


 今日、俺は雫に会いに行く。

 ようやく決心が着いたのだ。

 いや、もしかしたら、ここ数年で失くした物が多過ぎて、寂しくなっただけ。

 だから、そんな寂しさを紛らわす為だけに会いに行くのかもしれない。

 本当のところは、自分にはよく分からない。


 新幹線に乗り三時間程。

 その後に数本の電車を乗り継ぎして、目的地に着いた。

 駅から出ると、すぐ側に海が見えた。

 とてもよく潮が香ってくる。

 さすが田舎だ。

「たしか、駅に迎えが来てる筈……」

 辺りを見回すと、一台の車が海沿いの道路に停まっている。

 赤くてコンパクトな外車。

 たしか、あれは親父が使っていた愛車だ。

 駆け寄ってみると、やはり側には親父がいる。

「親父」

 俺が呼ぶと、彼はこちらを振り向く。

「おう、ようやく来たか」

「どうして、ここにいるんだよ? 野球はどうした?」

「休養だよ。まあ、お前を屋敷に送ったら戻るけどな。とりあえず、乗れよ」

 俺は親父の隣の助手席に座った。

 外車ならではの激しいエンジン音が掛かり、海沿いの道路を走る。

「なあ、親父。どうして、ここにいるんだ? 家に案内する為だけに、ここに休養を貰って来たんじゃないんだろ?」

「まあな。久しぶりに、お前に会いたかったんだ。雫にも最後に会っておきたかったからな」

 雫。

 きっと、もう長くはないのだろう。

「あいつ、元気にしてたか?」

「ああ、元気だったよ。後先が短い事を知っていても、あいつは頑張っていた。綾人、お前に会う為にだ。他にも理由はあるがな」

 他の理由。

 そんな事は気にならなかった。

 ただ、俺の事を考えてくれていた。

 それだけで充分に嬉しかったのだ。



 来るまで着いた場所。

 そこは大きな敷地を占める館だった。

 海沿いにある為、とても日当たりが良い。

 親父は門の前で車を停めた。

 車から出ると、気持ちの良い潮風が頬を撫でた。

「ここが、雫が療養中の……」

「ああ、そうだ。ここは少し街から外れているが、少し歩けばコンビニやスーパーもある。買い物をする時は、そこへ行け。まあ、家政婦がいるから必要はないと思うが」

「分かったよ」

「じゃあ、俺は東京の方へ戻るから。後は頼むな」

 そう言うと、親父は車で海沿いを走って行った。

「ここに……雫が……」

 門を開け庭に入った。

 女優の母親とプロ野球選手の父親。

 その実力は、こんな屋敷一つを簡単に手に入れてしまう物なのだ。

 石で固められた道は、真っ直ぐに玄関に続いていた。

 玄関で、インターホンを押す。

 少しの間が空き、立て開きの大きなドアが開いた。

 そこにいたのは、年的に四十程の女性がいる。

 おそらく、家政婦だろう。

「烏丸綾人さんですね?」

「はい」

「雫様がお待ちかねです」

 上の階の一番奥の部屋に案内された。

「どうぞ」

 とだけ言うと、家政婦は持ち場へ戻ってしまった。

 ここに、数年間もの間想い続けた雫がいる。

 ドアノブに手を掛け、ドアを開けた。

 部屋に入った瞬間、一人の少女と目が会った。

 ベットに座り、半身だけを起こしている。

 長くて黒い髪、白くて細身な容姿。

 それらは、どうしてか沙耶子の面影を連想させた。

 それでも、ここにいるのは雫だ。

「雫……」

 雫は一瞬だけ驚いた様な顔をして、俺に微笑んだ。

「お帰り、お兄ちゃん」

 彼女の言葉を聞いた瞬間、涙が溢れて来る。

 視界が歪む。

「おいで。お兄ちゃん」

 俺は彼女の胸に飛び込み、泣いた。

 今までの悲劇。

 雫の妊娠と中絶。

 沙耶子の受けた虐め。

 それを機に俺が起こした暴力沙汰。

 沙耶子が屋上から落ちた事。

 光圀の一件。

 隼人の死。

 そして、沙耶子との決別。

 それら全てを吐き捨てる様に、涙と共に流す様に、俺は声を上げて泣いた。

「お兄ちゃん。けっこう泣き虫だね」

「うるせぇ。今まで、辛い事が多過ぎたんだよ」

 かつて、俺は何もかもを失った。

 でも今は、ここに雫がいる。

 雫だけが、俺にとっての最後の希望だ。

 いつかは俺の前からいなくなってしまうのだろうけど、今だけは一緒にいよう。

 遠くない未来、雫の死が俺達を分かつまで。


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