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還る日を待つ緑の庭

作者: 雨傘 はる
掲載日:2026/05/29





胸いっぱいに吸い込んだ緑の風が、身体を芯からふるりと沸き立たせた。

突き抜けるような青い青い空。遠い地平線、敷き詰められた芝生の上を滑る雲の影。


────ああ。わたしは今、確かに息づいている。








病の発症と結婚がほぼ同時だなんて、我ながら数奇な運命だと思う。

佐野 葉七(はな)、三十と少し。代々百貨店を営む、佐野一族の出戻り娘。


実家は一応まだ裕福な方だが、時代の移り変わりと共に事業の路線変更を余儀なくされ、今はまだ革新途中だ。

佐野の本家の長女である葉七は、十八で政略結婚をしたが、離縁されて苗字を戻した。


家業には関わらず、普通の会社勤めをしていたが、佐野の名を持つ以上は再び政略結婚をするのだろうなとは思っていた。

けれど。


氷結(ひけつ)病です」


会社の健康診断で再検査となり、大病院にかかったところ、耳慣れない診断名が付いてしまった。

はあ、と、気の抜けた返事をしてしまい、医師は怪訝な表情だったが。


少しずつ体温が失われ、体内から凍りつくように徐々に身体機能が低下し、最終的には心の臓が停止する奇病────『氷結病』。

原因や治療法はわかっておらず、世界でも数十人という稀な病。感染するものではなく、発症者に関連性はない。

症例が少ないため、進行速度や詳しい病状は参考程度だが、発症して数年以内で死に至るというのが通説だ。


────ううん……まあ、仕方ないのでは。


夫と離縁してからの日々は、特に苦でも楽でもない、ひたすらに平坦なものだ。

早く終えたところで、持つべきものもない葉七に、失くすものもない。抵抗なく受け入れることができた。


ところが、だ。

奇病の宣告を受けて落ち着いていたのは本人だけで、家族たちは大変動揺し悲観した。まあ、それもわかる。


しっかり者の長女は、母や兄妹に頼られる存在ではあったし、気難しい父との仲もよい。

諦観しきった娘を大層可哀想がった両親は、膨大な人脈と伝手を辿り、葉七の縁談をまとめてしまった。


氷結病は、有効な治療法はないが、気休めながら温暖な気候での療養が推奨されている。

両親が見つけてきたのは、南方の町外れで物書きの仕事をする、妻に先立たれた年上の男性との縁談。


佐野の家門との縁続きになったところで、葉七が死ねばつながりは薄れるだろうに、なぜか相手は了承したという。

それなりの結納金は納めても、仕事もできずただ療養するだけのお荷物だというのに。


まあそれでも、泣きながら喜ぶ両親に否と言えるわけもなく、葉七は早々に退職して嫁ぐことになった。

今のところ、これといった症状はない。手足の冷え性は元々なので、気温よりも体感温度が少し低いくらいの差異だ。


とはいえ、どれだけのペースで症状が悪化するかはわからないので、縁談が決まった翌月には南方へと出発した。

電車と車を乗り継いで、三日。


「ここ……?」


手渡されたメモの住所に向かう道は、村のような集落を越えた、まだ向こう。

地平線まで見渡せるほど広大な草原の真ん中に走る、明らかに人の手による一本の砂利道の先だという。


見渡す限り、草花と森。そして、生活圏では建物で遮られていた、広く深い空。

まるで天国への入り口のような一本道を歩き、たどり着いたのは背の高い木々に囲まれた赤い屋根の家だった。


古きよき雰囲気の、横に広がる平屋。

庭には白い玉のような石が敷き詰められ、花壇には色とりどりの花々。木箱の郵便受けと、紐を引くタイプの呼び鈴。

どこか懐かしさと恋しさを誘う佇まいに、思わず感嘆の息が漏れた。


呼び鈴を引くと、りりん、と風鈴のような可愛らしい音がする。

がらりとスライドした引き戸から顔を覗かせたのは、見上げるほどの長身の、四十代くらいの男性。

ぼさっと長めの髪を適当に後ろに撫でつけ、フレームのない眼鏡をかけている。


「いらっしゃい、奥さん」


気だるそうな口調が、それでも柔らかな歓迎の台詞を紡ぐ。

少々猫背気味に葉七を見下ろして、糸目の目尻に皺が寄り、男は微笑んだようだった。


「初めまして、旦那様」


うん。大丈夫なんじゃないかしら。

ひどく当たり前のように迎え入れる男の空気に、ふと肩の力が抜けた。


やっていけると思う。生きている限りここで、死ぬまでここで。

猫背で糸目で眼鏡の旦那様と、きっと二人で。









葉七は姓を改め、来栖(くるす) 明郷(あけさと)の妻となった。


夫は物書きとしては高名なようで、想像したよりずいぶん忙しそうに見えた。

日がな一日書斎に籠っている日もあれば、編集担当者と打ち合わせをしたり、資料を集めるため数日留守にすることもある。

とはいえ、まめまめしく予定を共有してくれるため、作る料理が無駄になることも、想定外の事態に慌てることもない。


一度、夫に『なぜ死にゆく自分と結婚したのか』と問うたことがある。

彼はきょとりと首を傾げ、『死にゆくのは皆同じだよ』と答えた。


夫にとって、葉七は〝奇病の妻〟ではない。名家からの縁談を、光栄だと引き受けたに過ぎないという。

再婚同士の縁なのは、却って嬉しかったと笑っていた。


そんな夫は、葉七に何かを求めることは一切なかった。


「好きに過ごして構わない。あなたがしたいことを、したいように」


招き入れた初日にそう言った通り、夫は何一つ文句を言うこともなく、逆に希望を口にすることもない。

ただ、自身の予定を律儀に報告して、その上で葉七は好きに過ごせと言う。


困った葉七は、ひとまずの家事を引き受けた。

元々通いの家政婦がいたため、その補佐をする形で料理や洗濯をし、あいた時間には周囲を散策してのんびり過ごした。


妻の務め────つまりは、子作りのための行為を求められることもなく、葉七には個室が与えられている。

いや、子を成せるとは思えないし、たとえ成せても生まれるまで生きていられるものか。


だとしても、まったく触れ合いのない夫婦とは……?

配慮なのかどうか、どう受け取っていいのか、葉七は測りかねていた。


「旦那様」


夕食を共に食べながら、一口ずつ味わうように箸を動かす夫は、穏やかな雰囲気で一つ頷き先を促した。


「わたしは、あなたとどのような夫婦であればよいでしょうか」


ほとんど閉じているように見える糸目が、眼鏡の奥でぱちりと瞬く。箸を置いた夫は、不思議そうに首を傾げた。


「夫婦であってくれればいい。あなたが、ここでゆっくり過ごせれば」


「共寝は、必要ありませんか」


問いかけるのは、少々勇気が必要だった。

知らず知らずのうちに緊張に肩を強ばらせる葉七に、またぱちりと驚いたように瞬きをした夫が、慌てて咳払いをする。


「いや、あの……僕たちは、出会ったばかりだから」


「はい」


確かに、葉七がこちらへ来て、ひと月ほどではある。


「ゆっくりで構わない。急く必要はない」


「……そう、でしょうか」


葉七の奇病のことを、夫は知った上で娶ったはずだ。

ならば、残りの時間が長くはないことも、知っているのではないのか。


新妻と呼ぶには年増すぎる妻には、食指が動かないか。

もしくは、奇病を移されると懸念しているのか。あるいは単純に、好みの見目ではないのか。


ぐるぐると思い悩む葉七に気づいたのか、そっと薄い唇が苦笑した。


「奥さん、心配はいらない。あなたは魅力的だ」


「……」


「けれど、そう。互いを知って、自然と触れてみたいと思う時が訪れる。その時を待ってみたいんだ」


今はまだ、互いの名と表面の肩書きしか知らない。

もっと深く知り合えたなら、心を伴った衝動が来ると、そう言いたいのか。


「あなたに必要なのは、休息だと思う。欠けた心を元に戻そうとしては無理が来る。穴を埋めるのではなく、新しく付加する方が自然だと、僕は思うよ」


「欠け……」


「忘れたり、隠したりする必要はないんだよ。それも含めて、あなただから。僕だって、でこぼこの心を抱えて、今ここにある。あなたが新しい一つになっているよ」


「……」


「ゆっくりなさい、奥さん。たくさん深呼吸をしてごらん。じっくり景色を眺めて、自然の中に身を溶かしてごらん。心の輪郭が見つかるかもしれないよ」


抽象的で、曖昧な助言にも思える。

けれど、無意識に見ない振りをして、隠していた傷が疼くような気がして、思わず目を逸らした。


後ろめたいのは、図星だからだ。


本当はずっと傷ついて、痛みを訴える傷跡がある。真新しい傷も。

子ができないからと離縁されたこと。世にも珍しい奇病で余命わずかなこと。


でも、佐野一族の頼れる長女として生き、名だたる家の妻だった〝佐野 葉七〟でなければと。

ずっと、平気な振りをして、背筋を伸ばし続けてきた。


どんな状況でも冷静に、どんな時にも毅然と、凛と立つことが価値と信じている。

間違ってはいないだろう。ただ、すべてで〝そうある〟ことが、果たして正解なのか。


「真面目さは美徳だ。美しさは身を守り、落ち着きは佇いを飾る。あなたは素晴らしい」


知り合って間もない夫は、和やかにお茶をすすって微笑む。


「素晴らしい自分を褒めて、甘やかしておあげなさい。それだけ尊いことだよ」


ああ。どうして。


「奥さんは、とても素敵な人だ。僕は幸せ者だね」


この人の妻である自分が、誇らしい。








夫の助言に従って、葉七はじっくりと自分と向き合うことにした。

思考に溺れそうになれば、彼の元へ行き話をしたり、ただ隣でぼうっとしたり。


そうしているうちに、葉七は夫と一緒にいる空気をとても好ましく、落ち着くものと感じるようになった。


彼は常に安定して穏やかで、締め切り前に萎れてよれよれになることはあれど、苛立ちや疲労で当たったりしない。

くしゃくしゃの髪を揺らして笑う目の下が、どんなに黒くても。


実家や婚家で、少なからず気性の激しい人たちに苦労したからか、元来平坦な気質の葉七は心底ほっとした。

会話がそう多いタイプでない二人でも、無言すらも心地よく過ごせる。


相変わらず葉七は家事をし、ゆったりと過ごした。時間の経過を目で見ることができるほど。

夫も忙しそうにしながらも、共に過ごす時間を優先してくれる。


穏やかで、緩やかな日々。


「あ……」


とある朝、いつも通り鍋を持とうとしたところで、手元がぶれて落としてしまった。派手な音が響く。


────左手が……。


どれだけ力を込めても、どんなに意識を集中させても、手首から先の感覚が鈍い。

穏やかな日々に忘れかけていた奇病の侵食を、葉七は呆然としながら自覚した。


「奥さん!? 今、大きな音がしたが!」


音に駆け込んできた夫は、床に座り込む葉七の前に腰を下ろし、顔を覗き込んだ。

眼鏡の奥の糸目が、見開いている。よほど心配させてしまったようだ。


やっと我に返った葉七は、なんとか笑みを張りつけた。


「触れていただけませんか」


「え……?」


ついこぼれたのは、自分でも想定外の言葉。

けれど、口にした途端、納得した心地にもなる。

そう、そうだ。ここ最近はきっと、ずっとそう思っていたのかもしれない。


「この手が感じられる間に、あなたに触れたいです」


はしたないかもしれない。でも、優しいこの人が拒絶しないことはわかっていて、葉七は右手を伸ばした。


硬直してしまった夫の頬は、少しかさついて乾いていて、それでいてとてもあたたかい。

無精髭がちくちくする。ところどころ傷や凹凸があり、それなりの年月を積み重ねてきた、老いと経験が感じられる。


ひどく安心した葉七は、泣き笑いのように表情を崩した。


「よかった。まだ、わかります」


瞬間、ぐっと引き寄せられたかと思えば、あっという間に広い胸の中にいた。

ドクドクと波打つ音は二つ。大丈夫。まだ、大丈夫。生きている。


「葉七さん」


初めて、名前を呼ばれた。


「葉七さん、僕の奥さん。大好きだよ」


「……わたしも、明郷さんが大好きです」


あなたの空気が。あなたの言葉が、心が。あなたの住むここが。

葉七は今、確かに生きて、幸福だ。








幾度かの、春が巡り。

また夏がきたことを、葉七は新緑の香りで知った。

真白に染まった視界には映らないが、近づく慣れた足音の歩幅に自然と笑みが浮かんだ。


「明郷さん」


ずいぶん細い声だが、まだ名を呼べる。日課のように安堵して、彼のかさついた手が頬に触れるのを待つ。


「葉七さん、僕の奥さん。庭に出てみないかい? 風が気持ちいいよ」


「はい」


意外と力強い腕が、ソファに預けた身体を抱き上げてくれる。

老いには勝てない、なんて口では言いながら、こっそり鍛えているのだと、家政婦が教えてくれた。


庭に出ると、胸いっぱいに吸い込んだ緑の風が、身体を芯からふるりと沸き立たせた。

広大な青い空も、遠い地平線も、芝生の上を滑る雲の影も、もう見ることは叶わない。


それでも。


────わたしは今、確かに息づいている。


柔らかく穏やかな夫の傍で。この命が凍り尽きるその瞬間まで、ここで。







お粗末様でございましたm(*_ _)m

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― 新着の感想 ―
奇跡が起きてくれはしないかと、ラストを読んで思いました。 もし奇跡が起きないのならば、どうか、最期の時まで、二人が幸せでありますように。
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