殿方が前に出すぎず、絶対に離れない位置にいる理由を、社交界はまだ知らない
須磨子は、歩きながら何度目か分からないため息をついた。
もちろん、幸せなほうの。
「悠真様……」
名前を呼ぶだけで、胸の奥がきゅっとする。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
――つい数日前まで、
“婚約者として相応しい距離”というものを、あれほど意識していたはずなのに。
今は。
普通に隣を歩いているだけで、
指先が触れそうになるたび、心臓が跳ねる。
「お疲れではありませんか?」
悠真が、少しだけ歩調を緩めて尋ねてくる。
その声が、やたらと優しい。
「い、いいえ!
全然ですわ!」
須磨子は慌てて背筋を伸ばした。
――だって今日は、
デートなのだ。
はっきりそう言われたわけではない。
だが、これはどう見ても、どう考えても、どう言い訳しても――
デートである。
悠真は、須磨子の様子を横目で確認しながら、内心で小さく息を吐いた。
―― 可愛い。
いや、知っていた。
須磨子様が可愛いことなど、今さらだ。
だが今日は、
いつにも増して無防備だ。
歩く距離。
視線の上げ下げ。
名前の呼び方。
全部が、
「信頼してます」と言っている。
―― 困るんだが。
そう思いながらも、
悠真は須磨子との距離を、ほんのわずかも離そうとはしなかった。
むしろ、無意識に守る位置取りをしている。
背後。
横。
視界に入る人影。
全部、確認済み。
その光景を、少し離れた場所から、四対のオペラグラスが捉えていた。
「見て見て見て!!」 「悠真様、須磨子様に微笑んでます!!」 「距離が!距離が近いですわ!!」 「手、手が触れそう!!」
きゃーっ、と抑えきれない悲鳴が上がりそうになり、
四人は慌てて口元を押さえた。
(/∇\)キャ
「……あれはもう、婚約者というより」 「新婚では?」 「いいえ、蜜月ですわ」 「尊い……」
オペラグラス越しに映るのは、
あまりにも自然で、
あまりにも甘く、
あまりにも周囲が見えていない二人だった。
須磨子は、ふと足を止めて空を見上げる。
「今日は……とても穏やかですわね」
「そうですね」
悠真は即答した。
―― 邪魔が入らなければ。
須磨子の視線が空にある間、
悠真の目は、すでに周囲を一巡していた。
その時だった。
少し離れた通りの向こうで、
不穏な気配が、静かに立ち上がったのは。
---
オペラグラスを下ろしながら、四人のうち一人が声を上げた。
「ああ、こちらに歩いていらっしゃいますわ!」
「まあ……!
それはいけませんわね」
彼女は声を潜めて続けた。
「せっかくのデートですもの。
わたくし達はお邪魔しないように、場所を変えなければ!」
全員一致で頷き、
きゃっ、と小さく身を翻す。
―― その判断自体は、正しかった。
正しかったのだが。
移動しようとした、その一歩が、
ちょうど悪かった。
「おい」
低く、粘つく声。
四人の足が、同時に止まる。
「こんなところで、何してるんだ?」
振り向いた先にいたのは、
数人の男たちだった。
身なりは粗末。
だが、目つきだけが無駄に慣れている。
―― 須磨子様ではない。
―― 悠真様でもない。
それを確認した瞬間、
男たちの視線が、四人娘を値踏みするように舐め回した。
「お嬢さん方、いい服着てるじゃねえか」
「こんなところで、護衛もなしとは不用心だな」
「……まあ、運が悪かったってやつか」
「……わたくし達は、すぐに立ち去りますわ」
「立ち去る?
今さら?」
「お、お下がりなさいませ……!」
「声、震えてるぞ」
「い、いえ……!」
「ほら。
足、止まってる」
声が、自然と震える。
―― まずい。
誰もがそう思った。
だが同時に、
―― 助けを呼ぶわけにはいかない。
ほんの少し先に、
須磨子様と悠真様がいらっしゃるのだ。
こんなことで、
あのお二人の時間を邪魔するなど、
あってはならない。
「その……」 「失礼いたしますわね」
勇気を振り絞って、
一歩、横に避けようとした。
―― その瞬間。
「おっと」
男の一人が、進路を塞いだ。
「逃げるこたぁねえだろ」 「ちょっと話し相手になってくれよ」
距離が、詰まる。
四人娘の顔色が、はっきりと変わった。
「……っ」
誰かが、小さく息を吸い込む。
―― ここで叫べば、
―― 須磨子様に気づかれてしまう。
―― でも。
迷いが、視線に滲んだ、その時だった。
少し離れた場所で、
空気が変わった。
須磨子は、ふと足を止めた。
「……悠真様?」
彼の視線が、明らかに一点に固定されている。
「何をごらんになって……?」
その問いかけに、悠真は答えなかった。
ただ、須磨子の背中に、そっと手を添える。
それだけで十分だった。
須磨子は、その視線の先を追った。
---
――気づくのが、ほんの少し遅れただけだ。
悠真は、須磨子の横顔を一瞬だけ見てから、
視線を前に戻す。
―― 遅い。
内心で、舌打ちする。
最初から感じていた。
視線。
気配。
不用意な動き。
―― ああ、最悪だ。
悠真の表情は変わらない。
だが、内側では、完全に火が点いていた。
―― この(デートの)邪魔者どもが。
須磨子様の時間を。
須磨子様の穏やかな顔を。
壊そうとした。
それだけで、
十分すぎる理由だった。
須磨子の視線が、ゆっくりと動く。
最初に見えたのは、
見慣れたドレスの色。
次に、
少し不自然な距離。
そして――
「……まあ」
思わず、小さく息を呑んだ。
通りの向こう。
四人の令嬢たちが、数人の男に囲まれている。
その立ち位置。
視線の向き。
逃げ場のなさ。
須磨子は、状況を一瞬で理解した。
「まあ、大変……!」
声に出たのは、ほんの一瞬の動揺。
だが、次の瞬間には、
須磨子はすっと背筋を伸ばしていた。
視線が鋭くなる。
柔らかだった表情から、
迷いが消える。
「悠真様」
振り返らずに、名を呼ぶ。
「少しだけ、お時間をいただいても?」
問いかけの形をしているが、
その声には、すでに決意があった。
悠真は、短く息を吐く。
「――もちろんです、須磨子様」
その返答と同時に、
須磨子は一歩、前に出た。
靴音が、静かに石畳を打つ。
「あなた方!」
凛とした声が、通りに響いた。
男たちの視線が、一斉にこちらを向く。
「わたくしの大切な友達に――」
一拍、置く。
「何をなさっているの?」
その声音は、決して大きくない。
だが、
場の空気を切り裂くには、十分だった。
その時だった。
「おいおい、そんなに睨むなよ」
男の一人が、いやらしく笑った。
「別に取って食おうってわけじゃねえ」
「ちょっと話し相手になってもらうだけだ」
距離が、さらに詰まる。
四人娘の肩が、びくりと震えた。
「……参りますわ」
須磨子の声は、驚くほど静かだった。
だが。
次の瞬間。
彼女の足が、一歩、踏み込む。
「な――」
男が言葉を発するより早く、
須磨子の身体が、しなやかに回転した。
腕を取る。
体重を預ける。
重心を崩す。
鈍い音。
「ぐっ――!?」
男の一人が、地面に叩きつけられた。
同時に。
悠真が、無言で動いた。
須磨子の死角に回り込もうとした男の前に、
いつの間にか立っている。
言葉はない。
視線だけで、十分だった。
次の瞬間、
男の身体が、横に吹き飛ぶ。
「な、なんだこいつら――!」
「おい、待て!」
慌てて距離を取ろうとした男の背後から、
須磨子の声が、きっぱりと響いた。
「逃がしませんわ」
足払い。
受け身すら許さない角度。
「ぎゃっ!」
残った男たちは、
完全に混乱していた。
―― おかしい。
―― 淑女のはずだ。
―― ただのお嬢様じゃ――
「……ま、待て!」
一人が、須磨子の顔を凝視し、
はっと息を呑んだ。
「こ、こいつ……!」
目が見開かれる。
「……あの、やべぇお嬢だ……!」
その一言で、
空気が一変した。
「西園寺……!」
「噂の……!」
「や、やめとけ!」
「関わる相手じゃねえ!」
次の瞬間。
男たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
静寂が戻る。
須磨子は、軽く息を整え、
ゆっくりと手袋を直した。
「……大丈夫でしたか?」
須磨子のその一言に、
四人娘は、ようやく我に返った。
一拍。
そして――
「す、須磨子様……!」
「い、今の……!」
「ご覧になりました……?」
「息が……ぴったり……!」
興奮を抑えきれず、
それでも決して声を荒げぬよう、
四人は互いの腕をそっと掴み合った。
(/∇\)キャ
「まるで……」 「舞踏のようでしたわ……」
「殿方が前に出すぎず、
でも、絶対に離れない位置で……」
「……あれが、大人の恋……」
駆け寄ろうとしたところで、
須磨子はふっと微笑む。
「まあ。
お怪我がなくて、何よりですわ」
その横で、
悠真はようやく肩の力を抜いた。
須磨子の方を見て、
ほんの一瞬だけ、表情が緩む。
―― 無事で、よかった。
それだけだった。
♡―♡―♡―♡―♡―♡―♡
西園寺家のサロンには、柔らかな日差しと、甘い紅茶の香りが満ちていた。
その一角が、やけに賑やかだった。
集まっているのは、いつもより少しだけ若いお嬢様方。
年齢も家格もばらばらだが、共通点が一つある。
――全員、昨夜の「噂」を知っている。
ひそひそ声のはずなのに、
その熱だけは、ふわりとこちらまで届いてくる。
「……ご覧になりました?」
「ええ、昨日の――」
「もちろんですわ」
「まあ……あれほど息の合ったお二人だなんて……」
扇子の陰で、頬を染める声。
カップを持つ指先が、落ち着かない。
「護身術、ですって」
「しかも殿方が……前に出すぎず……」
「でも、絶対に離れない位置で……」
そこまで言って、全員が一斉に、ため息をついた。
「……あれが、大人の恋……」
「燃えるようで、でも上品で……」
「強くて、優しくて……尊い……」
話題は、自然と二つに分かれていく。
――これからの淑女に必要な護身術。
――そして、それを分かち合える殿方への憧れ。
須磨子がそっと視線を向けると、
少し離れたテーブルで、
若い令嬢たちが身を寄せ合っていた。
オペラグラスこそないが、
あの熱量は、昨日と同じだ。
須磨子は、カップをソーサーに戻した。
「今日は、ずいぶん賑やかですわね」
その向かいで、
西園寺夫人は静かに紅茶を口に運ぶ。
「最近は、刺激の強い話題が好まれますのね」
西園寺夫人は、そう言って微笑んだ。
須磨子の問いには、正面から答えない。
(――まあ)
視線は厳しく、口元は静かに。
だが、その目の奥には、
娘の成長を見守る者だけが知る、確かな愉悦が宿っている。
(時代は、動くものですもの)
一方、その頃。
街外れのファストフード店のバックヤードで――
「……くしゅん!」
突然のくしゃみに、悠真が眉をひそめた。
「……?」
理由は分からない。
ただ、なぜか背筋が少しだけ寒い。
(……須磨子様は、無事だろうか)
そんなことを考えながら、
彼は何事もなかったかのように仕事に戻るのだった。




