第7章 燻る火種
登校日のない朝は、少しだけ時間の流れが違う。
アイラは自室のデスクに座り、ORPHEUSのゴーグルをかけた。
視界が暗転し、次の瞬間には学習空間が立ち上がる。
今日の課題は、基礎数理と言語処理。
音声によるガイドが淡々と流れる。
——理解度、正常。
——推奨学習時間、二時間。
アイラはゴーグルの下で、いつものようにノートを広げた。
画面上で完結する学習を、わざわざ紙に書き写す生徒は少ない。
でも、そうしないと落ち着かなかった。
ペン先が紙を擦る音だけが、部屋に残る。
その静けさを破ったのは、視界の端に浮かんだ通知だった。
『セナ:今日いける?』
『セナ:ZERO HAVEN、ちょっと大変なことになってる』
『セナ:詳しくは学校で話すけど』
(また……)
アイラは一瞬、手を止める。
“謎のR10”。
切り抜き。
再生数。
それらの単語が、嫌でも頭をよぎった。
返事を打とうとして、やめる。
今は、勉強だ。
そう自分に言い聞かせて、視線をノートに戻す。
その時、別の通知が入った。
『ユウト:あのさ』
『ユウト:この前言ってた下の階の人、また会った』
(まだ交流してるんだ……)
『アイラ:え、普通に?』
『ユウト:うん』
『ユウト:でもさ、あんま詳しく言わない方がいいって』
そこから先は、少し間が空いた。
『ユウト:なんかさ』
『ユウト:変な人じゃないんだけど』
『ユウト:変な世界の人、って感じ』
アイラは、それ以上聞かなかった。
聞いたところで、分からない。
分からないことを増やすと、考えすぎてしまう。
——自分は、そういう性格だ。
昼前。
リオはキッチンで、珍しく手間のかかる料理をしていた。
鍋を火にかけ、タイミングを測り、味を確かめる。
「今日、やけに本格的だね」
アイラが声をかけると、リオは振り返った。
「たまにはね」
「学校ない日だし」
「いつも学校ある日でも完璧だけど」
「それはそれ、これはこれ」
曖昧な返事だった。
リオは、最近よく笑う。
セナやユウトと話すようになってから、特に。
それが、少しだけ不思議だった。
「……仲良くなったよね」
アイラが言うと、リオは一瞬だけ考えてから答えた。
「そうかな」
「でも、楽しいよ」
「ふうん」
それ以上、言葉は続かなかった。
嬉しいのか。
寂しいのか。
どちらなのか、自分でも分からない。
午後。
ORPHEUSを外すと、部屋の静けさが一気に現実になる。
遠くで、公共ロボットの稼働音が重なって聞こえた。
その数は、やはり多い。
気にしないようにしても、視界に入る。
音が耳に残る。
そして——
玄関のロックが、乱暴な音を立てて外れた。
アイラは、反射的に顔を上げた。
「……え?」
ドアが開く。
久しぶりに見る母親だった。
髪は乱れ、目の下には濃い隈。
服は皺だらけで、どこかよその匂いがする。
「……あんたたち」
母親は部屋に入るなり、視線を走らせた。
リオ。
部屋。
窓の外。
巡回ロボットの光。
そのすべてを見て、顔色が変わる。
「……多すぎる」
「……なにが?」
「ロボットよ!!」
母親は突然声を荒げた。
「見て分からないの!? 異常でしょ!?」
「この数、この巡回、この頻度!」
アイラは、何も言えなかった。
「また何かやったんじゃないでしょうね!?」
「ねえ!?」
「まさか、あんた——」
母親の視線が、リオに突き刺さる。
「——この子のこと、どこかにバレたんじゃないでしょうね!?」
空気が、一気に冷えた。
「……違うよ」
リオが、やわらかく言う。
「何も起きてない」
母親はリオの言葉に反応しない。そうなって1年以上経つ。
「あなたに言ってるのよ!アイラ聞いてるの!!」
母親は、頭をかきむしる。
「もう嫌……」
「ほんとに、もう嫌なの……」
「なんで、私ばっかり……」
その言葉は、
誰に向けたものなのか分からなかった。
「ねえアイラ」
母親は急に声の調子を変えた。
「私、再婚するかもしれないから」
「……は?」
「相手、デモで知り合った人」
「凄く私の事を考えてくれるの」
アイラは、ゆっくりと母親を見た。
「……お父さん、生きてるんですけど?」
「……だから何?」
「離婚、してないよね」
母親は、答えなかった。
その沈黙が、すべてだった。
「……もういい」
アイラは、視線を逸らした。
母親は、それ以上何も言わず、
ふらふらと奥の部屋へ消えていった。
アイラは、胸の奥が冷たくなるのを感じていた。
その夜。
アイラはベッドに横になり、天井を見つめていた。
外では、青いランプが行き交っている。
規則正しく。
感情のない秩序で。
「……リオ」
「なに?」
「……なんでもない」
リオは、少しだけ間を置いてから言った。
「大丈夫だよ」
「ちゃんと、考えてる」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
その時ー
アイラのゴーグルに、セナからの通信が割り込んだ。
『……アイラ』
『ちょっと、やばい』
「なにが?」
『数字が……止まらない』
セナの声は、明らかにおかしかった。
『再生数』
『同接』
『フォロワー』
『……勝手に増えてる』
「え?」
『俺、何もしてない』
『切り抜きも、消してないけど……』
『でも、勝手に広がってる』
ゴーグル越しに見えるセナの視界。
配信管理画面。
数字が、更新されるたびに跳ね上がっていく。
『通知が……』
『止まんねえ』
「セナ、落ち着いて」
『無理だって!!』
『俺、ただ配信してただけだぞ!?』
『なんでこんな……』
セナは、画面を閉じようとして、手を止めた。
『……コメント欄』
そこには、見慣れないユーザーの言葉が並んでいた。
『R10はどこ?』
『次いつ出る?』
『隠してるだろ』
『ウマハラ倒したやつ』
『……俺』
『俺、もう戻れない気がする』
セナの声が、震える。
『なあアイラ』
『これ、炎上だよな……?』
答えは、分かっていた。
だが、誰も言葉にできなかった。
画面の向こうで、
数字は増え続ける。
止まる気配はない。
それはもう、
人の手を離れた現象だった。




