落語声劇「紙入れ」
落語声劇「紙入れ」
台本化:霧夜シオン@吟醸亭喃咄
所要時間:約30分
必要演者数:3名
(0:0:3)
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
●登場人物
新吉:貸本屋を生業にしている男。
あちこちに出入りしており、お得意先の一つのおかみさんと良い仲
に。小綺麗で若い男。
おかみ:新吉が出入りしている店の奥さん。
女の立場を最大限利用して、道ならぬ恋愛を満喫する、
ちょっと熟れている人。
旦那:新吉が出入りしている店の旦那。
ある日、泊りで出かけたが用が早く済んだため、日帰りに。
兄い:新吉の兄貴分。
新吉に商売上の心得を説いている。
語り:雰囲気を大事に。
●配役
新吉:
おかみ:
旦那・兄い・語り・枕:
※:枕、兄いは1セリフのみです。
枕:落語の枕というものは、噺のサゲに関係することが多いです。
その枕の中で一つや二つは、川柳が引合いに出る事もあります。
廓話ですと女郎買い、居候の話には居候の川柳、といったように、
落語と川柳は切り離せない、ふかーい関係があるんです。
あの短い中に様々が感情が謳い込まれている。すごいもんですな。
で、その中でも一番多い題材は…。
……。
えー、下品なお話になりますが、どうか、失礼ごめん下さい。
川柳で最も多い題は、なんと間男、つまり姦通ものなんです。
…トンネルのお話じゃございません。大昔の話ですので。
おかみさんが亭主以外の男と関係を持つ歌、これが一番多い。
有名なのに、
「町内で 知らぬは亭主 ばかりなり」
てぇのがあります。これはもう万国共通と言えましょうな。
中には意味深なものもあります。
「間男と 亭主抜き身と 抜き身なり」
というのがありましてですね……ごほんごほん。
本来ですと、このまま次へスッと移るんでございますが、
今回特別にこの歌の意味を、こと克明に説明してみたいと思います。
間男とおかみさんがよろしくやってるとこへ亭主が踏み込んで来て、
「間男動くなッ! 重ねておいて四つに斬り捨ててやるッ!」
と長いのをギラリ引っこ抜く、つまり刀の抜き身でございますな。
間男もいきなりですので、何か抜き身をぶら下げてるらしいんです。
……。
これ以上は申し上げられません。電波が全国拡散しちゃう時代です。
ま…、どうしてもお聞きになりたい方は、後ほど個別にご連絡いただ
けましたら、別料金にて”しみじみ”とご説明申し上げます。
今しも、姦通相手から届いた文を眺めている間男がいまして。
新吉:弱ったなぁ…あすこのおかみさんから手紙もらっちゃったよ…。
今夜は旦那が帰らないから来てくれ、ってかい…。
行けるわけねえじゃねえか。
あすこの旦那にゃあ、ひとかたならぬ世話になってんだ…。
旦那:新吉、困った事があったら脇へ行かねえで、俺のところに来いよ!
どんな相談にも乗るからな!
新吉:って、我が子のように可愛がってくれてるんだ。
行けるわけがねえよ…。
でもなぁ…手紙の最後に、
おかみ:今夜来てくれない時は、こちらにも覚悟があります。
新吉:って書いてある…穏やかじゃねえよ…。
あのおかみのこった、行かねえと後が怖いに決まってらぁ。
兄いが言ってたな…、
兄い:いいかァ、新吉。
お得意先のご内儀に可愛がられなくちゃダメだぞ、
可愛がられてりゃ、仮にしくじっても取りなしてくれる。
男というものは女の言う事をちゃんと聞くものだけど、
女はそうはいかない。
いったんしくじったら、いくら旦那が取りなしても許しちゃくれな
いから、ご内儀には可愛がられてろよ。
新吉:って言われてるしなぁ。
行かねぇと、しくじっちまうかなぁ…
でも行っちゃあ済まねえしなぁ…。
弱ったなぁ…うぅぅぅん……。
…そうだ、ちょっと行って、すっと帰って来よう。
それならいいだろ。
語り:妙に落ち着かない心持ち、
浴衣を着たまま湯に入っちゃったようなへんてこな気持ちです。
人目を忍んで旦那の家へ。
お目当てはもちろん旦那にあらず、今や遅しと待ちくたびれている
、そのおかみさんでございます。
新吉:よし、辺りに人はいねえな…。
【戸を三回叩く】
おかみ:【ささやく】
…こっちだよ、入って。
【二拍】
遅いじゃないか。
新吉:…おかみさん、ご無沙汰してます。
おかみ:新さん、あたしの手紙を読んでくれたんだね。
新吉:あの…手紙を読んだんでこうしてうかがったわけなんですが…、
実は今日はおかみさんに、折り入ってお話したい事があるんです。
おかみ:まぁ、この人は他人行儀だねえ。
新さんとあたしの仲じゃないか。
なんだい、その折り入ってお話って言うのは?
…あ。
分かってますよ、またお小遣いが足りないってんだね?
新吉:あぁいえ、そうじゃないんですよ。
実は…あっしとおかみさんがこういう事になっちゃってる、
これが世間の人に知れたらどうしよう、そう思うと近頃、
夜もろくろく眠れないんです。
おかみ:まあ、新さんは男のくせに気が小さいねえ。
お前さん、あたしとこうなってる事を世間の人に知れたらどうし
ようって、誰かに喋るかい?喋りやしないだろう?
あたしだって言いやしませんよ。
世間様から褒められる事をしてるんじゃないんだもの。
こういう事をしたからって、お上から褒美がもらえるわけでも
ないんだから。
女中の方は大丈夫。
袖の下をしっかり握らせて、みんな知らぬ顔の半兵衛になってる
んですから。
新さんは言わない、あたしも言わない、女中は半兵衛、
世間様は知りようがないじゃないか。
大丈夫だよ、安心おしよ。
新吉:…知れなきゃ大丈夫だって言われちまうと、それまでなんでござい
ますけど…。
ただ…ふだん可愛がってもらっている旦那の顔に、
泥を塗っちまっているような気がしてならねえんです。
おかみ:もう、新さんがそんなに気を使うことないんだよ。
うちの人だって、外へ出れば適当に羽を伸ばしてますよ。
あたしゃ知ってるんだよ。
知っているけどその事をこれっぽっちも言ったことが無いんだよ
。
大丈夫、安心おしよ。
新吉:でも…近頃あっしは、旦那の顔をまともに見られなくなってきちま
って…。
おかみ:まぁ何だい、この人は。
二言目には旦那旦那って、旦那を盾にとってさ。
…わかった。
新さん、お前さん本当はそうじゃないね?
他にいいのができたんだろ?
で、あたしみたいなババアは邪魔になるからお払い箱。
あぁ~わかりましたよ。
新さんがその気だったらそれでいいよ。
ただし、あたしにも覚悟ってものがあるんだ。
今までの事ぜーんぶ、洗いざらい、うちの人に喋っちゃうから!
あたしが嫌だ―、嫌だーって言ってるのを無理無体に抑えつけて
、事に及んだ、って!
新吉:そ、そんなこと言われたら、えらいことになります!
おかみ:【笑いながら】
バカだね、言いやしませんよ。
いいかい新さん、よーくお聞き。
あたしだってね、こういう事をこれから先ずーっと続けていこう
って思ってるわけじゃないんだよ。
新さんに本当に好きな人ができた時にはね、
熨斗を付けてきれーいに別れてあげますよ。
それまでの事なんだからさぁ。
ねぇーえ?
【ポンと手を叩く】
そうそう、新さんウナギが好きだったね。
奥に支度がしてあるんだよ。
これから二人で”お相撲”を取るんだから、
たっぷり精をつけなくちゃ…ね。
新吉:う、あ…お、おかみ、さん…!
【唾をのむ】
おかみ:そんなに離れてないでさあ、もっとこっちへお寄りよ、
ねぇーえ、しぃんさぁん。
新吉:あ、ああぁ…!
語り:亀の甲より年の劫、男惑わすシナ作り、匂い立ったる熟れた実に、
男の性が色めき立つ。
「よく聞けば 猫の水飲む 音でなし」
というのがありまして。
……。
…これは説明しにくぅございますので、説明なしで参ります。
ですから、お気づきにならない方はどんどん置いていかれますので
、そのお覚悟で。
端のうちは二人でもってゴダゴダゴダゴダなんか言ってたんですが
、しばらく経ちますとこれが含み笑いか何かに変わっていく。
そしていよいよこれから最高潮へーー
新吉:あぁッ、おかみさん、おかみさんんッ…!
おかみ:しぃんさぁん、うふふ、いやん、いやん、あっ、ああんーー
旦那:【戸を叩く】
おぅい、いま帰ったぞー。
今日は帰らねえつもりだったんだが、用が早く済んだんで、
帰ってきた。
開けてくれー。
寝ちまったのかい?
【戸を叩きながら】
おーい!
開けないかー!
新吉:【声を落として】
!!っお、おかみさんッ!
たいへんだ、旦那がお帰りになりましたよ!
ほら言わないこっちゃない!
だから今日ここへ来るのは嫌だったんだ!
おかみ:【声を落として】
新さん! 戸棚開けてどうしようってんだい!
なに同じところをぐるぐるぐるぐる回ってんの!
フン詰まりの金魚じゃあるまいし!
柱へ登ってどこへ行こうっての、お前さんは!
そっちに行ったってダメだよ、バカだね!
こっちへおいで、 裏から逃げるんだよ!
大丈夫、あとであたしが話をするからね…!
語り:こうなりますと男より女のほうが、ずーっと肝が据わってきます。
男をうまーく逃がしといて、さほど立て付けが悪くもないのに
わざとはばかりの音を、ぎいーばたんっ、と外に聞かせるように
たてる。
つまり今まではばかりに入っていたという風に見せかけるんでござ
いますな。
そしてこれもすっと開ける事の出来る表の戸を、わざと手間取って
がちゃがちゃがちゃがちゃ掛け金の音を外へ聞かせておいて、
おもむろにゆっくりと戸を開けます。
おかみ:…あら、お帰りなさいまし。
いえね、お帰りが無いって聞いてたのと、
ちょっと頭が痛かったものだから横になってて…。
旦那:なに、頭が?
大丈夫なのかい?
おかみ:えぇもうそれは良くなりました。
あ、お吞みになるんでしょ?
ただいまお支度をいたしますから。
語り:いっぽうすんでのところで難を逃れ、走りに走って我が家の近くま
で来た新吉。
胸は早鐘を打ち、冷や汗だかあぶら汗だかわからない嫌ぁーな汗を
ぬぐいつつ、そっと後ろを振り返る。
新吉:はあ、はあ、はあ、はあッ……!!
あぁぁ…びっくりしたァ…あぁ驚いたァ…!!
見つからなくて良かったァ…!
猿股一枚で着物小脇に抱えて走ってたんだから…。
見られる格好じゃねえよ。
今日は行くの止そうと思ったんだよ…虫が知らしたんだなぁ…。
いや、考えてみるとだいぶ前からだよ。
こないだも友達に顔色が悪いだの、変な事に首つっ込んでるんじゃ
ねえのか、寿命ちぢめるぞ、とか心配されたんだ。
あの時からだよ…なるほど、悪い事ァ出来ねえもんだ。
…やめたやめた! きっぱり踏ん切りがついた。
これ以上は本当に寿命ちぢめちまう。
さ、家帰って寝よう…っとその前に忘れ物はねえだろうな。
煙草入れは…ある。紙入れは…、
…、…、…はッッ、しまったッ!
あすこの家の火鉢の横に置いてきちまった!
あの紙入れは、旦那からもらったものなんだ。
見つかっちまったら一大事だ。
それにあの中にゃ、おかみさんからの手紙が入ってんだ…!
おかみ:今日うちの人が帰ってこないから、泊まりにいらっしゃいな。
新吉:あぁぁ…大変だ…!
今のうちに逃げちゃおうか…!?
それなら明日じゅうには江戸を出れる…!
…でも、紙入れが見つかったと決まったわけじゃねえ。
なのに早合点して逃げちまっちゃあバカバカしいよな。
なにか確かめる方法は…、
!そうだ、朝早くに旦那の家に行ってみよう。
ええと…、
おはようございます。
旦那:何だッ、てめぇは新吉かッ!!
今頃よくものこのこ来やがったなァ!!
図々しいもんだ!
そこに直れッ! 張り倒してやる!!
新吉:ご、ごごごめんなさーーいッ!!
と、最悪の場合こうなるだろうけど、
それから逃げたって間にあうよな。
何より黙って逃げちゃあ卑怯だ。
たとえ一言でも、ごめんなさいって謝った方が、改悛の情がみられ
る。
情状酌量の余地がある。
運が良ければ執行猶予が付く。
もっと運が良ければ無罪だ。
うん、そうだ、あっしの考えは正しいぞ…!
語り:正しくとも何ともありゃしません。
さあ家へ帰ってさっさと布団へ入ったんですが、
これァ寝られるもんじゃあございません。
ウトウトっとしたかと思うと、閻魔様に血の池地獄へばーーんっと
叩きこまれる夢を見る。
うなされてパッと目が覚めたりして、
新吉:!!!!ッッッッ!!
っはぁ、はぁ、はぁ…ゆ、夢…、あぁ、びっくりした…。
あぁ…寝られねえなぁ…。
寝たいんだけど寝られねえや…。
どうしてこんなことになっちまったんだ…。
…そうだ、アレぁ去年の七月だ。
おかみさんが夏風邪ひいて寝込んだって耳にしたんだ。
うちの商売が貸本屋だってんで、しょっちゅう旦那に注文を受けち
ゃあ家に届けてたんだ。
そういう義理もあるから、ちょいと見舞いにうかがったら、
おかみさんが一人で寝ているところに行っちまったんだ。
おかみ:ねぇ新さん、あたしもただこうやってぼーっと寝てるのが退屈で
しょうがないんだよ。
だから何か本を持ってきておくれよ。
ただね、あたしゃうちの人みたいに、剣豪ものだのなんだのって
武張ったものは嫌ですよ。
読んですぐわかるようなものがいいよ。
浮世風呂とか、東海道中膝栗毛とか、
…わかってるね?
新吉:ちょうどあの時、間の悪い事に人には内緒の本が一冊あったんだ。
為永春水作の、 春色梅児誉美。
それ持っておかみさんとこ行って見せたんだ。
そしたら一目見て、
おかみ:やだよ新さん、あたしにこんな本見せて。
バカにするにもほどがありますよ!
新吉:って振りかぶったからぶつけられるのかと思ったら、
そのまま布団の中へしまっちゃったんだよな。
そこへ雨が降ってきやがった。
間をおかずにピカッ、ガラガラッ! ピシーッ!と雷が鳴った。
そしたらおかみさんが、
おかみ:新さん、雷様が鳴ってきて怖いから、蚊帳釣っておくれ。
新吉:ずいぶん古風な事するなあと思ったけど、おかみさんの頼みだから
蚊帳ァ引っ張り出して釣ったんだ。
そしたらおかみさん中へ飛び込んで、
おかみ:くわばらくわばら…
新吉:なんて唱えてる。
こっちだって薄気味が悪いから部屋の隅にいたら、
蚊帳の中からおかみさんが、
おかみ:ねえ新さん、
そんなところにいて雷様におへそを取られるといけないから、
お前さんもこっちへ入んなさいよ。
新吉:って言ったんだ。
雷様は鳴りやまねえし、こっちだって気味が悪いから中へ入った。
で、しばらく互いの顔を見合ってたら、
こんなこと言いだしたんだ。
おかみ:新さん、二人でにらめっこしててもつまらないから、
お相撲取ろうか。
新吉:指相撲ですか?
おかみ:そうじゃないよ。
男は相撲取って女は相撲取っちゃいけないって法はないだろ?
で、新さんが十両で、あたしが大関だよ。
新吉:そんな訳の分からねえ話はありませんよ。
何だって女のおかみさんが大関で、男のあっしが十両なんです?
おかみ:あたしの方が、腰の使い方が慣れてるからね。
新吉:うめぇこと言いやがったなぁって思ったね。
はっけよいのこったのこったのこったってやってるうちに、
浴びせ倒しで負けちゃったんだよなあ…。
決まり手が悪かったねぇあれは…。
おかみさんの身体があっしの身体の上にうわーっとのしかかってき
た。
外そうとしたら、鬢付けの匂いがぷんと鼻を突いて…へへ…。
そいつに誘われてあっしの手が、おかみさんの…中にすーっと…。
その間にもおかみさんの手が、あっしのをこう、撫でまわしてて…
へへへ…寝らんねえなあ…。
語り:って一晩中もんもんとしてりゃあ寝られるわけがない。
やがて鴉カァで夜が明ける、往来に人が目立つようになる。
旦那の家の前までやってきたが、とても入れるもんじゃあない。
そらもう敷居が高うございます。
ましてや入るきっかけなんざ、これっぽっちもない。
そんなにうろうろ行ったり来たり行ったり来たりしていますと、
そりゃあ中からも丸見えなわけでして。
新吉:うぅ…入ろうにも…入れない…。
旦那:?誰だァ?
さっきからうちの前を行ったり来たりしているのは。
目まっくるしいなぁ。
おーい、誰なんだい?
入るんだったら、スーッと入ってくれよ!
新吉:!!
【ゆっくりと戸を開けてぼそぼそ喋る】
ぉ、ぉはよぅござぃます…。
旦那:?新吉じゃねえか。
こっちへ入れよ。
…こっちへ入れよ!
おぅッ、あとを閉めろィ!
新吉:ッ開けさしといてください。
駆け出し良いですから。
旦那:いいから、閉めたらそこへ座れ。
【キセルを一服吸って煙を吐いている】
ふぅぅーーーッ。
……新吉ィ!
おめぇそんなこっちゃ、【キセルをポンと叩いて灰を出す】
しょうがねぇじゃねえか!!
新吉:!!ごめんなさい!
二度としませんから!
勘弁してください!!
旦那:俺の頼んだ宮本武蔵の本はどうなったんだよ!?
巌流島で佐々木巌流とチャンチャンバラバラ、
どうなったんだ、あの本は!?
新吉:【あからさまにほっとした顔で】
!? …っは、はぁ…。
本ですかぁ。
旦那:本ですかって…忘れちまったのか?
商売っ気のねえ野郎だな。
あのな、年と共にだんだん物忘れが激しくなってくるんだよ。
早えとこ続きを読ましてくれねえと、前の話の筋をみんな忘れちま
うんだ。
今日持って来るか明日持って来るかと、こっちは今か今かと待って
んじゃねえか。
いつまで経ったって持って来やがんねえ。
ったく、商売っ気のねぇ野郎だな。
しっかり…、どうした?馬鹿に顔色が悪いじゃねえか。
体の具合でも悪ぃのか?
新吉:い、いえ、至って丈夫です。
旦那:じゃ、商売の蹴つまずきか?
新吉:い、いえ、順調です。
旦那:おかしいじゃねえか。
【指を折りながら】
体が丈夫で、
商売が順調で、
しくじるほど酒を飲むわけじゃなし、
勝負ごとに手を出すわけじゃなし。
あと残ってんのは何だい。
……あ、
【小指を立てたまま】
女か?
無理はねえ、無理はねえ。
その男っぷりでなりが小綺麗で、金の使いが綺麗ときてるんだ。
女がほっとくわけがねえやな。
どんな女ができたんだよ?
言ってみな。
芸者の女かなんかと良い仲になったのか?
新吉:い、いえ、そうじゃありません。
旦那:まさかお前ぇが守っこに惚れるわけはねえな。
ふうむ…。
!わかった!【膝を叩く】
いよいよ年貢の納め時、俺に高砂やかなんかを頼みに来たと、
こういうわけか!
新吉:そ、そうじゃありませんで。
旦那:この野郎、はっきりしねえな。
はっきりこれこれこういうわけ……、!
…新吉、俺ぁおめえに一言言っとくけどな。
いいか、主ある花には手を出すなよ。
おめえはいいか分かんねえけど、相手がかわいそうだ。
こういうことは決してするもんじゃ——
新吉:【↑の語尾に被せて】
!あっ…そ、それが、その…手遅れです…。
旦那:なに、手遅れです…?
できちゃったのか!?
人の女房と枯れ木の枝は、登りつめたら命がけ、
って言葉ァ知らねぇのか?
かーっ、しょうがねえ野郎だな。
…で、相手はどこのかみさんだ?
新吉:あ、お、おたくのかみさ——ちゃちゃちゃ、
いえその、お尋ねでございますからお答えいたしますが、
旦那:なんだ、変な言い方だなおい。
で、誰なんだ?
新吉:そ、そ、それが、そ、その、
ふだん可愛がってもらってる旦那のかみさん、でして…。
旦那:なに、ふだん可愛がってもらってる旦那のかみさん…?
はっはは、よくある話ってやつだな。
情にほだされたりなんかして、うん。
で、どうした?
新吉:じ、実はあの、そのおかみさんから手紙をもらいまして。
今日うちの人が帰ってこないから泊まりに来い、
っていう手紙をもらったんです。
旦那:で、なにか?
おめえがいい間のふりをして
のこのこ出かけて行ったと、こういうわけか?
ふうん…で、どうした?
新吉:そしたらあの、帰ってこないって言ってた旦那が…途中で急に帰っ
て来ちまったんです。
旦那:バカだねおい。
おめえな、そういう危ねぇ橋を渡ろうって時にはよぉーく下調べを
してから出かけるもんだ。
【声を落として】
じゃあなにか?
その旦那に見つかっちまったのか?
新吉:……見ましたか?
旦那:?? なんだいその、見ましたか、ってなおい。
俺が聞いてんだよ。
新吉:【↑の語尾に被せて】
いやあの、うまく逃げたんですが、
あんまり慌ててたもんですから、そこの家へ紙入れ忘れて来ちまい
まして。
その、旦那からいただいた紙入れなんで。
その中には、おかみさんからもらった手紙が入ってるんです。
旦那:ッ馬鹿だねこいつは。
そういうものはな、貰って読んだら破いて捨てちまうか、
燃やしちまうかのどっちかにするんだよ!
【声を落として】
! じゃあなにか?
その手紙を読まれたのか?
新吉:……読みました?
旦那:この野郎、いちいち話をはぐらかしてやがんな。
俺の方が聞いてんのにあーでもねえ、こーでもねえって言いやがっ
てホントに。
おかみ:おまえさーん、お客様ですか?
旦那:あ?
あぁ新吉が来たんだよ、朝早くからな。
そうだ、おめえもこっちに来なよ!
おもしれえ話を持ってきたんだよこいつが!
おかみ:なんです? おもしろい話って…。
あら新さん、いらっしゃい。
新吉;お、おはようございます、おかみさん。
旦那:こいつよ、女ができたんだってさ。
ふだん可愛がってもらってる旦那のかみさんと、
ねんごろにゃーごろ良い仲になったんだとよ。
そしたらそのかみさんから手紙をもらったんだと。
今日うちの人が帰ってこないから泊まりにいらっしゃい、
とかなんとか。
こいつ、いい間のふりしてのこのこと出かけてったら、
途中で旦那が帰って来たってんだよ。
おかみ:あらあら…、新さん、それで見つかっちゃったの?
新吉:ぁ、いえ、その…。
旦那:うまく逃げたらしいんだけどよ、
あんまり慌てて逃げるはずみにな、
お前ぇもよく知ってんだろ。
俺がこいつにやった、紙入れだよ。
あろうことかその家に忘れて来ちまったんだと!
おかみ:あらぁ新さん、だいぶ慌ててたのねえ。
旦那:で、その紙入れの中にはそこのおかみさんからもらった、
手紙が入ってんだと!
こいつ、バレたんじゃねえか読まれたんじゃねえかって、
青くなってガタガタガタガタ震えてやがんだ。
おかみ:…新さん、この人はもう…。
朝っぱらからくだらない話を持ってきてさぁ…。
なに言ってんだい、いいかい?
亭主の留守に新さんのような若い男を引っ張り込んで、
美味しい事をしようっていう女じゃないか。
そこに抜かりはないと、あたしゃ思うよぉ。
もし仮にあたしがそうだったなら、お前さんを逃がしておいて、
すぐに表の戸を開けると思うかい?
あたしゃそうは思わないね。
もとの部屋に取って返して、何か忘れ物がないかとよぉーく見て
回るわよ。
そんな大事なものがあったら、命とりじゃないか。
しまっておいて、あとでそーっと新さんに返すと思うよお。
ねぇ、おまえさん?
旦那:お? おぉそうだとも。
よしんばそこで紙入れ見つけたってな、
てめぇのかかぁ寝取られるような亭主じゃねえか。
そこまでは気がつかねえだろうよ。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
桂歌丸
古今亭志ん朝(三代目)
立川談志(七代目)
・用語解説
紙入れ:今でいう財布。
間男:不倫相手の男の事。
猿股:腰から股のあたりをおおうズボン形の男子用下着。
鬢付け:主に日本髪で、髪を固めたり乱れを防いだりするのに用いる
固練りの油。
浮世風呂:式亭三馬が書いた滑稽本で、
文化6年(1809年)から文化10年(1813年)にかけて刊行。
東海道中膝栗毛:1802年(享和2年)から1814年(文化11年)に
かけて刊行された、十返舎一九の滑稽本。
弥次さん喜多さんの弥次喜多珍道中の方を知っている人
のほうが多いかもしれない。
為永春水:1790年(寛政2年) - 1844年2月11日
(天保14年12月23日))は、江戸時代後期の戯作者。
春色梅児誉美:江戸時代の人情本。為永春水作。春色梅暦とも表記する。
梅暦とも略称される。
四大奇書の一つで大いに流行したが、天保の改革で目をつけ
られ、風俗を乱すとして春水は捕えられ、絶版を命じられた。
高砂:この作品おける高砂とは能の代表的な演目で、かつて結婚式の際に
よく歌われていた。