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落語【声劇台本書き起こし】

落語声劇「紙入れ」

作者: 霧夜シオン


落語声劇「紙入かみいれ」


台本化:霧夜きりやシオン@吟醸亭喃咄ぎんじょうていなんとつ


所要時間:約30分


必要演者数:3名

      (0:0:3)


※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。

よって性別は全て不問とさせていただきます。

(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)


●登場人物


新吉:貸本屋かしほんや生業なりわいにしている男。

   あちこちに出入りしており、お得意先の一つのおかみさんと良い仲

   に。小綺麗こぎれいで若い男。


おかみ:新吉しんきちが出入りしている店の奥さん。

    女の立場を最大限利用して、道ならぬ恋愛を満喫まんきつする、

    ちょっとれている人。


旦那だんな新吉しんきちが出入りしている店の旦那だんな

   ある日、とまりで出かけたが用が早く済んだため、日帰りに。


兄い:新吉しんきちの兄貴分。

   新吉しんきちに商売上の心得こころえいている。


語り:雰囲気を大事に。



●配役

新吉:

おかみ:

旦那・兄い・語り・枕:


※:枕、兄いは1セリフのみです。



枕:落語のまくらというものは、はなしのサゲに関係することが多いです。

  そのまくらの中で一つや二つは、川柳せんりゅう引合ひきあいに出る事もあります。

  廓話くるわばなしですと女郎買じょろうかい、居候いそうろうの話には居候いそうろう川柳せんりゅう、といったように、

  落語と川柳せんりゅうは切り離せない、ふかーい関係があるんです。

  あの短い中に様々が感情がうたい込まれている。すごいもんですな。

  で、その中でも一番多い題材は…。

  ……。

  えー、下品なお話になりますが、どうか、失礼ごめん下さい。

  川柳せんりゅうで最も多い題は、なんと間男まおとこ、つまり姦通かんつうものなんです。

  …トンネルのお話じゃございません。大昔の話ですので。

  おかみさんが亭主ていしゅ以外の男と関係を持つ歌、これが一番多い。

  有名なのに、

  「町内で 知らぬは亭主ていしゅ ばかりなり」

  てぇのがあります。これはもう万国共通ばんこくきょうつうと言えましょうな。

  中には意味深いみしんなものもあります。

  「間男まおとこと 亭主ていしゅと なり」

  というのがありましてですね……ごほんごほん。

  本来ですと、このまま次へスッと移るんでございますが、

  今回特別にこの歌の意味を、こと克明こくめいに説明してみたいと思います。

  間男まおとことおかみさんがよろしくやってるとこへ亭主ていしゅみ込んで来て、

  「間男まおとこ動くなッ! かさねておいて四つに斬り捨ててやるッ!」

  と長いのをギラリ引っこ抜く、つまり刀のでございますな。

  間男まおとこもいきなりですので、何かをぶら下げてるらしいんです。

  ……。

  これ以上は申し上げられません。電波が全国拡散しちゃう時代です。

  ま…、どうしてもお聞きになりたい方は、のちほど個別にご連絡いただ

  けましたら、別料金にて”しみじみ”とご説明申し上げます。

  今しも、姦通かんつう相手から届いたふみながめている間男まおとこがいまして。


新吉:弱ったなぁ…あすこのおかみさんから手紙もらっちゃったよ…。

   今夜は旦那だんなが帰らないから来てくれ、ってかい…。

   行けるわけねえじゃねえか。

   あすこの旦那だんなにゃあ、ひとかたならぬ世話せわになってんだ…。

   

旦那:新吉、困った事があったらわきへ行かねえで、俺のところに来いよ!

   どんな相談にも乗るからな!


新吉:って、我が子のように可愛かわいがってくれてるんだ。

   行けるわけがねえよ…。

   でもなぁ…手紙の最後に、


おかみ:今夜来てくれない時は、こちらにも覚悟かくごがあります。

   

新吉:って書いてある…おだやかじゃねえよ…。

   あのおかみのこった、行かねえと後がこわいに決まってらぁ。

   兄いが言ってたな…、


兄い:いいかァ、新吉しんきち

   お得意先とくいさきのご内儀ないぎ可愛かわいがられなくちゃダメだぞ、

   可愛かわいがられてりゃ、仮にしくじっても取りなしてくれる。

   男というものは女の言う事をちゃんと聞くものだけど、

   女はそうはいかない。

   いったんしくじったら、いくら旦那だんなが取りなしても許しちゃくれな

   いから、ご内儀ないぎには可愛かわいがられてろよ。


新吉:って言われてるしなぁ。

   行かねぇと、しくじっちまうかなぁ…

   でも行っちゃあ済まねえしなぁ…。

   弱ったなぁ…うぅぅぅん……。

   …そうだ、ちょっと行って、すっと帰って来よう。

   それならいいだろ。


語り:妙に落ち着かない心持こころもち、

   浴衣ゆかたを着たまま湯に入っちゃったようなへんてこな気持ちです。

   人目ひとめしのんで旦那だんなの家へ。

   お目当めあてはもちろん旦那だんなにあらず、今や遅しと待ちくたびれている

   、そのおかみさんでございます。


新吉:よし、あたりに人はいねえな…。

   【戸を三回叩く】


おかみ:【ささやく】

    …こっちだよ、入って。

    【二拍】

    遅いじゃないか。


新吉:…おかみさん、ご無沙汰ぶさたしてます。


おかみ:しんさん、あたしの手紙を読んでくれたんだね。


新吉:あの…手紙を読んだんでこうしてうかがったわけなんですが…、

   実は今日はおかみさんに、ってお話したい事があるんです。


おかみ:まぁ、この人は他人行儀たにんぎょうぎだねえ。

    しんさんとあたしのなかじゃないか。

    なんだい、そのってお話って言うのは?

    …あ。

    分かってますよ、またお小遣こづかいが足りないってんだね?


新吉:あぁいえ、そうじゃないんですよ。

   実は…あっしとおかみさんがこういう事になっちゃってる、

   これが世間せけんの人に知れたらどうしよう、そう思うと近頃ちかごろ

   夜もろくろく眠れないんです。


おかみ:まあ、しんさんは男のくせに気が小さいねえ。

    お前さん、あたしとこうなってる事を世間せけんの人に知れたらどうし

    ようって、誰かにしゃべるかい?しゃべりやしないだろう?

    あたしだって言いやしませんよ。

    世間せけん様からめられる事をしてるんじゃないんだもの。

    こういう事をしたからって、おかみから褒美ほうびがもらえるわけでも

    ないんだから。

    女中じょちゅうの方は大丈夫。

    そでの下をしっかりにぎらせて、みんな知らぬ顔の半兵衛はんべえになってる

    んですから。

    しんさんは言わない、あたしも言わない、女中じょちゅう半兵衛はんべえ

    世間せけん様は知りようがないじゃないか。

    大丈夫だよ、安心おしよ。


新吉:…知れなきゃ大丈夫だって言われちまうと、それまでなんでござい

   ますけど…。

   ただ…ふだん可愛かわいがってもらっている旦那だんなの顔に、

   どろっちまっているような気がしてならねえんです。


おかみ:もう、しんさんがそんなに気を使うことないんだよ。

    うちの人だって、外へ出れば適当てきとうに羽を伸ばしてますよ。

    あたしゃ知ってるんだよ。

    知っているけどその事をこれっぽっちも言ったことが無いんだよ

    。

    大丈夫、安心おしよ。


新吉:でも…近頃ちかごろあっしは、旦那だんなの顔をまともに見られなくなってきちま

   って…。


おかみ:まぁ何だい、この人は。

    二言目ふたことめには旦那だんな旦那だんなって、旦那だんなたてにとってさ。

    …わかった。

    しんさん、お前さん本当はそうじゃないね?

    他にいいのができたんだろ?

    で、あたしみたいなババアは邪魔になるからお払い箱。

    あぁ~わかりましたよ。

    しんさんがその気だったらそれでいいよ。

    ただし、あたしにも覚悟かくごってものがあるんだ。

    今までの事ぜーんぶ、洗いざらい、うちの人にしゃべっちゃうから!

    あたしが嫌だ―、嫌だーって言ってるのを無理無体むりむたいおさえつけて

    、ことおよんだ、って!


新吉:そ、そんなこと言われたら、えらいことになります!


おかみ:【笑いながら】

    バカだね、言いやしませんよ。

    いいかいしんさん、よーくお聞き。

    あたしだってね、こういう事をこれから先ずーっと続けていこう

    って思ってるわけじゃないんだよ。

    しんさんに本当に好きな人ができた時にはね、

    熨斗のしを付けてきれーいにわかれてあげますよ。

    それまでの事なんだからさぁ。

    ねぇーえ?


    【ポンと手を叩く】

    そうそう、しんさんウナギが好きだったね。

    おく支度したくがしてあるんだよ。

    これから二人で”お相撲すもう”を取るんだから、

    たっぷりせいをつけなくちゃ…ね。


新吉:う、あ…お、おかみ、さん…!

   【つばをのむ】


おかみ:そんなに離れてないでさあ、もっとこっちへお寄りよ、

    ねぇーえ、しぃんさぁん。


新吉:あ、ああぁ…!


語り:かめこうよりとしこう男惑おとこまどわすシナつくり、におい立ったるれたに、

   男のさがが色めき立つ。

   「よく聞けば 猫の水飲みずのむ おとでなし」

   というのがありまして。

   ……。

   …これは説明しにくぅございますので、説明なしで参ります。

   ですから、お気づきにならない方はどんどん置いていかれますので

   、そのお覚悟で。

   はなのうちは二人ふたぁりでもってゴダゴダゴダゴダなんか言ってたんですが

   、しばらくちますとこれがふくみ笑いか何かに変わっていく。

   そしていよいよこれから最高潮さいこうちょうへーー


新吉:あぁッ、おかみさん、おかみさんんッ…!


おかみ:しぃんさぁん、うふふ、いやん、いやん、あっ、ああんーー


旦那:【戸を叩く】

   おぅい、いまけぇったぞー。

   今日はけぇらねえつもりだったんだが、用が早く済んだんで、

   けぇってきた。

   けてくれー。

   寝ちまったのかい?

   【戸を叩きながら】

   おーい!

   けないかー!


新吉:【声を落として】

   !!っお、おかみさんッ!

   たいへんだ、旦那だんながお帰りになりましたよ! 

   ほら言わないこっちゃない!

   だから今日ここへ来るのは嫌だったんだ!


おかみ:【声を落として】

    しんさん! 戸棚とだな開けてどうしようってんだい!

    なに同じところをぐるぐるぐるぐる回ってんの!

    フンまりの金魚じゃあるまいし!


    柱へ登ってどこへ行こうっての、お前さんは!

    そっちに行ったってダメだよ、バカだね!

    こっちへおいで、 裏から逃げるんだよ!

    大丈夫、あとであたしが話をするからね…!


語り:こうなりますと男より女のほうが、ずーっときもわってきます。

   男をうまーく逃がしといて、さほど立て付けが悪くもないのに

   わざとはばかりの音を、ぎいーばたんっ、と外に聞かせるように

   たてる。

   つまり今まではばかりに入っていたというふうに見せかけるんでござ

   いますな。

   そしてこれもすっとける事の出来できおもての戸を、わざと手間取てまどって

   がちゃがちゃがちゃがちゃがねの音を外へ聞かせておいて、

   おもむろにゆっくりと戸をけます。


おかみ:…あら、お帰りなさいまし。

    いえね、お帰りが無いって聞いてたのと、

    ちょっと頭が痛かったものだから横になってて…。


旦那:なに、頭が?

   大丈夫なのかい?


おかみ:えぇもうそれは良くなりました。

    あ、おみになるんでしょ?

    ただいまお支度したくをいたしますから。


語り:いっぽうすんでのところで難をのがれ、走りに走って我が家の近くま

   で来た新吉しんきち

   胸は早鐘はやがねを打ち、冷や汗だかあぶら汗だかわからないいやぁーな汗を

   ぬぐいつつ、そっと後ろを振り返る。


新吉:はあ、はあ、はあ、はあッ……!!

   あぁぁ…びっくりしたァ…あぁ驚いたァ…!!

   見つからなくて良かったァ…!

   猿股さるまた一枚で着物きもの小脇こわきかかえて走ってたんだから…。

   見られる格好かっこうじゃねえよ。

   今日は行くのそうと思ったんだよ…虫が知らしたんだなぁ…。

   いや、考えてみるとだいぶ前からだよ。

   こないだも友達に顔色が悪いだの、変な事に首つっ込んでるんじゃ

   ねえのか、寿命じゅみょうちぢめるぞ、とか心配されたんだ。

   あの時からだよ…なるほど、悪いこたァ出来ねえもんだ。


   …やめたやめた! きっぱりりがついた。

   これ以上は本当に寿命じゅみょうちぢめちまう。

   さ、うち帰って寝よう…っとその前に忘れ物はねえだろうな。


   煙草たばこ入れは…ある。紙入かみいれは…、


   …、…、…はッッ、しまったッ!


   あすこの家の火鉢ひばちの横に置いてきちまった!

   あの紙入かみいれは、旦那だんなからもらったものなんだ。

   見つかっちまったら一大事いちだいじだ。

   それにあの中にゃ、おかみさんからの手紙が入ってんだ…!


おかみ:今日うちの人が帰ってこないから、まりにいらっしゃいな。


新吉:あぁぁ…大変だ…!

   今のうちに逃げちゃおうか…!?

   それなら明日じゅうには江戸えどを出れる…!


   …でも、紙入かみいれが見つかったと決まったわけじゃねえ。

   なのに早合点はやがてんして逃げちまっちゃあバカバカしいよな。

   なにかたしかめる方法は…、

   !そうだ、朝早くに旦那だんなの家に行ってみよう。

   ええと…、


   おはようございます。


旦那:何だッ、てめぇは新吉しんきちかッ!!

   今頃いまごろよくものこのこ来やがったなァ!!

   ずうずう々しいもんだ!

   そこに直れッ! 張り倒してやる!!


新吉:ご、ごごごめんなさーーいッ!!


   と、最悪の場合こうなるだろうけど、

   それから逃げたって間にあうよな。

   何より黙って逃げちゃあ卑怯ひきょうだ。

   たとえ一言ひとことでも、ごめんなさいってあやまった方が、改悛かいしゅんじょうがみられ

   る。

   情状酌量じょうじょうしゃくりょう余地よちがある。

   運が良ければ執行猶予しっこうゆうよが付く。

   もっと運が良ければ無罪むざいだ。

   うん、そうだ、あっしの考えは正しいぞ…!


語り:正しくとも何ともありゃしません。

   さあ家へ帰ってさっさと布団ふとんへ入ったんですが、

   これァ寝られるもんじゃあございません。

   ウトウトっとしたかと思うと、閻魔えんま様に血の池地獄いけじごくへばーーんっと

   たたきこまれる夢を見る。

   うなされてパッと目がめたりして、


新吉:!!!!ッッッッ!!

   っはぁ、はぁ、はぁ…ゆ、夢…、あぁ、びっくりした…。

   あぁ…寝られねえなぁ…。

   寝たいんだけど寝られねえや…。

   どうしてこんなことになっちまったんだ…。


   …そうだ、アレぁ去年の七月だ。

   おかみさんが夏風邪なつかぜひいて寝込ねこんだって耳にしたんだ。

   うちの商売が貸本屋かしほんやだってんで、しょっちゅう旦那だんなに注文を受けち

   ゃあ家に届けてたんだ。

   そういう義理もあるから、ちょいと見舞みまいにうかがったら、

   おかみさんが一人で寝ているところに行っちまったんだ。


おかみ:ねぇしんさん、あたしもただこうやってぼーっと寝てるのが退屈たいくつ

    しょうがないんだよ。

    だから何か本を持ってきておくれよ。

    ただね、あたしゃうちの人みたいに、剣豪けんごうものだのなんだのって

    武張ぶばったものは嫌ですよ。

    読んですぐわかるようなものがいいよ。

    浮世風呂うきよぶろとか、東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげとか、


    …わかってるね?


新吉:ちょうどあの時、の悪い事に人には内緒ないしょの本が一冊あったんだ。

   為永春水ためながしゅんすい作の、 春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ

   それ持っておかみさんとこ行って見せたんだ。

   そしたら一目見ひとめみて、


おかみ:やだよしんさん、あたしにこんな本見せて。

    バカにするにもほどがありますよ!


新吉:って振りかぶったからぶつけられるのかと思ったら、

   そのまま布団ふとんの中へしまっちゃったんだよな。

   そこへ雨が降ってきやがった。

   をおかずにピカッ、ガラガラッ! ピシーッ!と雷が鳴った。

   そしたらおかみさんが、


おかみ:しんさん、かみなり様が鳴ってきてこわいから、蚊帳かやっておくれ。


新吉:ずいぶん古風こふうな事するなあと思ったけど、おかみさんの頼みだから

   蚊帳かやァ引っ張り出してったんだ。

   そしたらおかみさん中へ飛び込んで、


おかみ:くわばらくわばら…


新吉:なんてとなえてる。

   こっちだって薄気味うすきみが悪いから部屋のすみにいたら、

   蚊帳かやの中からおかみさんが、


おかみ:ねえしんさん、

    そんなところにいてかみなり様におへそを取られるといけないから、

    お前さんもこっちへ入んなさいよ。


新吉:って言ったんだ。

   かみなり様は鳴りやまねえし、こっちだって気味きみが悪いから中へ入った。

   で、しばらくたがいの顔を見合みあってたら、

   こんなこと言いだしたんだ。


おかみ:しんさん、二人でにらめっこしててもつまらないから、

    お相撲すもう取ろうか。


新吉:指相撲ゆびずもうですか?


おかみ:そうじゃないよ。

    男は相撲すもう取って女は相撲すもう取っちゃいけないって法はないだろ?

    で、しんさんが十両じゅうりょうで、あたしが大関おおぜきだよ。


新吉:そんなわけの分からねえ話はありませんよ。

   何だって女のおかみさんが大関おおぜきで、男のあっしが十両じゅうりょうなんです?


おかみ:あたしの方が、腰の使い方がれてるからね。


新吉:うめぇこと言いやがったなぁって思ったね。

   はっけよいのこったのこったのこったってやってるうちに、

   びせたおしで負けちゃったんだよなあ…。

   決まり手が悪かったねぇあれは…。

   おかみさんの身体があっしの身体の上にうわーっとのしかかってき

   た。

   外そうとしたら、鬢付びんつけのにおいがぷんと鼻を突いて…へへ…。

   そいつに誘われてあっしの手が、おかみさんの…中にすーっと…。

   その間にもおかみさんの手が、あっしのをこう、でまわしてて…

   へへへ…寝らんねえなあ…。


語り:って一晩中ひとばんじゅうもんもんとしてりゃあ寝られるわけがない。

   やがてからすカァで夜が明ける、往来おうらいに人が目立つようになる。

   旦那だんなの家の前までやってきたが、とても入れるもんじゃあない。

   そらもう敷居しきいたこうございます。

   ましてや入るきっかけなんざ、これっぽっちもない。

   そんなにうろうろ行ったり来たり行ったり来たりしていますと、

   そりゃあ中からも丸見まるみえなわけでして。


新吉:うぅ…入ろうにも…入れない…。


旦那:?誰だァ?

   さっきからうちの前を行ったり来たりしているのは。

   まっくるしいなぁ。

   おーい、誰なんだい?

   へぇるんだったら、スーッとへぇってくれよ!


新吉:!!

   【ゆっくりと戸を開けてぼそぼそしゃべる】

   ぉ、ぉはよぅござぃます…。


旦那:?新吉しんきちじゃねえか。

   こっちへへぇれよ。

   …こっちへへぇれよ!

   おぅッ、あとを閉めろィ!


新吉:ッけさしといてください。

   け出しいですから。


旦那:いいから、閉めたらそこへ座れ。

   【キセルを一服吸って煙を吐いている】

   ふぅぅーーーッ。

   ……新吉しんきちィ!

   おめぇそんなこっちゃ、【キセルをポンと叩いて灰を出す】

   しょうがねぇじゃねえか!!


新吉:!!ごめんなさい!

   二度としませんから!

   勘弁かんべんしてください!!


旦那:俺の頼んだ宮本武蔵みやもとむさしの本はどうなったんだよ!?

   巌流島がんりゅうじまで佐々木巌流ささきがんりゅうとチャンチャンバラバラ、

   どうなったんだ、あの本は!?


新吉:【あからさまにほっとした顔で】

   !? …っは、はぁ…。

   本ですかぁ。


旦那:本ですかって…忘れちまったのか?

   商売しょうばいのねえ野郎だな。

   あのな、年と共にだんだん物忘れが激しくなってくるんだよ。

   はええとこ続きを読ましてくれねえと、前の話のすじをみんな忘れちま

   うんだ。

   今日持って来るか明日持って来るかと、こっちは今か今かと待って

   んじゃねえか。

   いつまでったって持って来やがんねえ。

   ったく、商売しょうばいのねぇ野郎だな。

   しっかり…、どうした?馬鹿に顔色が悪いじゃねえか。

   体の具合ぐあいでも悪ぃのか?


新吉:い、いえ、至って丈夫じょうぶです。


旦那:じゃ、商売のつまずきか?


新吉:い、いえ、順調です。


旦那:おかしいじゃねえか。

   【指を折りながら】

   体が丈夫で、

   商売が順調で、

   しくじるほど酒を飲むわけじゃなし、

   勝負ごとに手を出すわけじゃなし。

   あと残ってんのは何だい。

   ……あ、

   【小指を立てたまま】

   女か?

   無理はねえ、無理はねえ。

   その男っぷりでなりが小綺麗こぎれいで、金の使いが綺麗きれいときてるんだ。

   女がほっとくわけがねえやな。

   どんな女ができたんだよ?

   言ってみな。

   芸者の女かなんかと良い仲になったのか?

   

新吉:い、いえ、そうじゃありません。


旦那:まさかお前ぇがもりっこにれるわけはねえな。

   ふうむ…。

   !わかった!【膝を叩く】

   いよいよ年貢ねんぐおさどき、俺に高砂たかさごやかなんかを頼みに来たと、

   こういうわけか!


新吉:そ、そうじゃありませんで。


旦那:この野郎、はっきりしねえな。

   はっきりこれこれこういうわけ……、!

   …新吉しんきち、俺ぁおめえに一言ひとこと言っとくけどな。

   いいか、ぬしある花には手を出すなよ。

   おめえはいいか分かんねえけど、相手がかわいそうだ。   

   こういうことは決してするもんじゃ——


新吉:【↑の語尾に被せて】

   !あっ…そ、それが、その…手遅れです…。


旦那:なに、手遅れです…?

   できちゃったのか!?

   人の女房にょうぼうと枯れ木の枝は、登りつめたら命がけ、

   って言葉ァ知らねぇのか?

   かーっ、しょうがねえ野郎だな。

   …で、相手はどこのかみさんだ?


新吉:あ、お、おたくのかみさ——ちゃちゃちゃ、

   いえその、おたずねでございますからお答えいたしますが、


旦那:なんだ、変な言い方だなおい。

   で、誰なんだ?


新吉:そ、そ、それが、そ、その、

   ふだん可愛かわいがってもらってる旦那だんなのかみさん、でして…。


旦那:なに、ふだん可愛かわいがってもらってる旦那だんなのかみさん…?

   はっはは、よくある話ってやつだな。

   じょうにほだされたりなんかして、うん。

   で、どうした?


新吉:じ、実はあの、そのおかみさんから手紙をもらいまして。

   今日うちの人が帰ってこないからまりに来い、

   っていう手紙をもらったんです。


旦那:で、なにか?

   おめえがいいのふりをして

   のこのこ出かけて行ったと、こういうわけか?

   ふうん…で、どうした?


新吉:そしたらあの、帰ってこないって言ってた旦那だんなが…途中で急に帰っ

   て来ちまったんです。


旦那:バカだねおい。

   おめえな、そういう危ねぇ橋を渡ろうって時にはよぉーく下調したしらべを

   してから出かけるもんだ。

   【声を落として】

   じゃあなにか?

   その旦那だんなに見つかっちまったのか?


新吉:……見ましたか?


旦那:?? なんだいその、見ましたか、ってなおい。

   俺が聞いてんだよ。


新吉:【↑の語尾に被せて】

   いやあの、うまく逃げたんですが、

   あんまりあわててたもんですから、そこの家へ紙入かみいれ忘れて来ちまい

   まして。

   その、旦那だんなからいただいた紙入かみいれなんで。

   その中には、おかみさんからもらった手紙が入ってるんです。


旦那:ッ馬鹿だねこいつは。

   そういうものはな、もらって読んだら破いて捨てちまうか、

   燃やしちまうかのどっちかにするんだよ!

   【声を落として】

   ! じゃあなにか?

   その手紙を読まれたのか?


新吉:……読みました?


旦那:この野郎、いちいち話をはぐらかしてやがんな。

   俺の方が聞いてんのにあーでもねえ、こーでもねえって言いやがっ

   てホントに。


おかみ:おまえさーん、お客様ですか?


旦那:あ?

   あぁ新吉しんきちが来たんだよ、朝早くからな。


   そうだ、おめえもこっちに来なよ!

   おもしれえ話を持ってきたんだよこいつが!


おかみ:なんです? おもしろい話って…。

    あらしんさん、いらっしゃい。


新吉;お、おはようございます、おかみさん。


旦那:こいつよ、女ができたんだってさ。

   ふだん可愛かわいがってもらってる旦那だんなのかみさんと、

   ねんごろにゃーごろ良い仲になったんだとよ。

   そしたらそのかみさんから手紙をもらったんだと。

   今日うちの人が帰ってこないからまりにいらっしゃい、

   とかなんとか。

   こいつ、いいのふりしてのこのこと出かけてったら、

   途中で旦那だんなが帰って来たってんだよ。


おかみ:あらあら…、しんさん、それで見つかっちゃったの?


新吉:ぁ、いえ、その…。


旦那:うまく逃げたらしいんだけどよ、

   あんまりあわてて逃げるはずみにな、

   おぇもよく知ってんだろ。

   俺がこいつにやった、紙入かみいれだよ。

   あろうことかその家に忘れて来ちまったんだと!


おかみ:あらぁしんさん、だいぶあわててたのねえ。


旦那:で、その紙入かみいれの中にはそこのおかみさんからもらった、

   手紙が入ってんだと!

   こいつ、バレたんじゃねえか読まれたんじゃねえかって、

   青くなってガタガタガタガタ震えてやがんだ。


おかみ:…しんさん、この人はもう…。

    朝っぱらからくだらない話を持ってきてさぁ…。

    なに言ってんだい、いいかい?

    亭主ていしゅ留守るすしんさんのような若い男を引っ張り込んで、

    美味おいしい事をしようっていう女じゃないか。

    そこに抜かりはないと、あたしゃ思うよぉ。

    もし仮にあたしがそうだったなら、お前さんを逃がしておいて、

    すぐにおもての戸を開けると思うかい?

    あたしゃそうは思わないね。

    もとの部屋に取って返して、何か忘れ物がないかとよぉーく見て

    回るわよ。

    そんな大事なものがあったら、命とりじゃないか。

    しまっておいて、あとでそーっとしんさんに返すと思うよお。

    ねぇ、おまえさん?


旦那:お? おぉそうだとも。

   よしんばそこで紙入かみいれ見つけたってな、

   てめぇのかかぁ寝取ねとられるような亭主ていしゅじゃねえか。

   そこまでは気がつかねえだろうよ。




終劇



参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)


桂歌丸

古今亭志ん朝(三代目)

立川談志(七代目)



・用語解説


紙入かみいれ:今でいう財布。


間男まおとこ不倫ふりん相手の男の事。


猿股さるまた:腰からまたのあたりをおおうズボン形の男子用下着。


鬢付びんつけ:主に日本髪にほんがみで、髪を固めたり乱れを防いだりするのに用いる

    固練かたねりの油。


浮世風呂うきよぶろ式亭三馬しきていさんばが書いた滑稽本こっけいぼんで、

     文化6年(1809年)から文化10年(1813年)にかけて刊行。


東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ:1802年(享和2年)から1814年(文化11年)に

        かけて刊行された、十返舎一九じっぺんしゃいっく滑稽本こっけいぼん

        弥次やじさん喜多きたさんの弥次喜多珍道中やじきたちんどうちゅうの方を知っている人

        のほうが多いかもしれない。


為永春水ためながしゅんすい:1790年(寛政2年) - 1844年2月11日

     (天保14年12月23日))は、江戸時代後期の戯作者げさくしゃ


春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ:江戸時代の人情本。為永春水ためながしゅんすい作。春色梅暦しゅんしょくうめごよみとも表記する。

       梅暦うめごよみとも略称される。

       四大奇書の一つで大いに流行したが、天保の改革で目をつけ

       られ、風俗を乱すとして春水は捕えられ、絶版を命じられた。


高砂たかさご:この作品おける高砂たかさごとはのうの代表的な演目で、かつて結婚式の際に

   よく歌われていた。



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