鉄仮面の面倒を見ることにしました
「…………」
抱え込んでいたスマホのバイブレーションで目を覚ます。
(朝……)
鉄仮面はまだ、牢の床に伏せたまま動かない。
(朝食を受け取って、戻ってこよう)
今、彼に必要なのは栄養だ。食事は悠花のものと交換すればいい。部屋に戻って待ち構えていると、いつものようにベルが鳴る。引き上げた縄の重さは、確かに鉄仮面が戻ってきたのだと実感させた。食事を持って戻ると、その気配にぴくりと鉄仮面が動く。
「あ、起きました?」
悠花の声に鉄仮面は跳ね起き――……。
「……っ……」
背中が痛むのか、息を漏らした。
「安静にしててください! 図がいるならこれ! お水はここ!」
端的に指示をする悠花を金の目が見つめ、そしてか細い吐息とともにそれが細められる。鉄仮面はコップを掴むと水を一気に飲み下し、そして悠花にコップを差し出した。
「おかわりですね、どうぞ。朝ごはんもありますよ」
コップに水を入れて返してやり、そして鉄仮面が紙片を消費するのを眺めた。
(どういう原理かは分からないけど、何度も使うと怪我も治るんだ……)
あの図は、なんと便利なものだったのか。作り置きしておいた紙片の殆どを使い切り、やっと鉄仮面は立ち上がった。
「お?」
そしてそのまま、悠花に向かって優雅に一礼する。
「……ふふ。元気になって、良かったです」
その仕草に、悠花は思わず笑みを零した。手枷はあるが、その優雅さは伝わる。そして、悠花への感謝の気持も。
「さあ、ご飯にしましょう。食べた方がいいですよ」
ぎゅうぎゅうと鉄格子の隙間からクッションを押し入れ、壁に持たれてもらう。そして悠花は、自分用の食事を確認した。いつもの柔らかなパンに卵料理、今日はスープも付いている。怪我人にはぴったりだ。
「スープはまだあったかいので、冷めないうちに。まずはパンをどうぞ」
バターを塗ったパンを渡そうとすると、鉄仮面が手で制する。
「怪我人に拒否権は無いですし、今の鉄仮面さんをほっといて自分だけこれ食べるの心苦しすぎて無理です」
今でも食事を分けることはあったが、今日はいつもとは違うのだ。傷は治ったかもしれないが、疲弊しているのは間違いないだろう。鉄仮面にパンを押し付けてしまい、悠花はさっさと硬いパンを口にした。
(顎が……顎が鍛えられる……)
味気のない、硬いパン。さすがにこれを今の鉄仮面に食べさせるのは憚られる。
(とは言え、わたしの食事量だと足りないよね……)
自分の分を全てあげてしまっても、鉄仮面が普段食べている量には足りない。量を補うには、この硬いパンも食べなければいけなくなる。
「……あ、スープ」
スープに漬けておけば、少しは柔らかくなるだろう。悠花は自分が食べるだけのパンを取ってしまうと、残った硬いパンを小さくちぎってスープへと放り込んだ。
「あ、パン食べ終わりました? じゃあ、次は…………」
卵料理を渡そうとして、手が止まる。お皿が鉄格子を通り抜けられる筈がない。
「ほんと……設計者仕事して……!!」
だが、これは鉄仮面に食べさせたいのだ。それなら方法は1つしか無い。
「……すみません、もっと近くに来てもらっていいですか」
鉄仮面の手を掴み、近付くようにと指示を出す。
「えーと、……口を開けてください……」
皿ごと渡せないのなら、スプーンで渡すしかない。鉄仮面も戸惑ったようだったが、皿と、スプーンと、悠花を何度も見て、大人しく顎を上げた。
(……意外と綺麗な顔してる……?)
薄い唇。この地下でも白さの分かる、歯並びの良い口元。そこにスプーンを持っていきながら、鉄仮面の下の顔を想像してしまう。全貌は分からないものの、この造形の良さに金色の眼は随分と美形なのではないだろうか。だが、その素顔は鉄仮面に覆われている。不思議なことに、紐も何もなく仮面だけが顔に張り付いているのだ。
(いつか素顔を見るチャンスでもあればいいけど)
見てがっかりしてしまうのか、それとも想像以上なのか。いつかそんな日がくれば良いと、曖昧な夢想をする。卵料理を食べさせ、スープに浸したパンを食べさせ、その合間に自分の口に硬いパンを放り込んだ。
(これからは、全部はんぶんこしよう……)
鉄仮面用のパンの美味しくなさに、今まで自分だけ美味しいものを食べていた罪悪感が刺激され、悠花は密かに誓った。
「今日はここにいますね」
持ち込んだ、電源もなにもないけど光るランプ。お気に入りのクッションに楽譜。これだけあれば、普段と変わらずに過ごすことができる。服が無くなり、目のやり場に困る状態だった鉄仮面にはショールを羽織ってもらったので、視界にも優しい。さすがに思い切り歌うのは憚られたので、今日は新しい曲の下読みだ。
「――Ombra mai fù di vegetabile, cara ed amabile, soave più(かつてこれ程に、愛しく、優しく、心地よい木陰は有りはしなかった) ――……」
短い、だが優しげな曲。歌ったことはあったが、その時よりもずっと真剣に向き合っている。
(木陰の説明、って端的に言っちゃうとそうなんだけど……)
端的すぎると、情緒もない。それを言ってしまえば、イタリア語の曲など殆どが恋愛の詩として片付けられてしまう。
(1行目は木陰のこと、2行目は全部その説明で……)
詩と言葉の意味とを見比べていると、ふと視線に気が付いた。
「……どうかしました?」
楽譜から顔を上げると、金色の目が悠花を見つめている。
「ああ、これですか? 楽譜です。わたしは、歌うことが好きなので」
知らない歌が、興味深いのだろうか。悠花は鉄仮面に向かって楽譜の中身を見せてみた。
「歌は好きです。自分の声が響いていくのが、それを聴いてもらうのが。……まあ、コンクールで優勝できるほどでは無いんですけど……」
去年までの目標は、音大に入ることだった。今年からの目標は、在学中に賞を取ることだった。今ではその目標が叶えられるか分からないことに思い至り、気分が沈む。
「…………」
「……ん?」
悠花の表情が陰ったのが分かったのか、鉄仮面が格子をコツコツと叩いた。そして悠花に向かって、指を1本立てて見せる。
「……ありがとうございます。歌は、好きなんです……」
頭の中を空にしたい。悠花はその場に立ち上がった。
「――Ombra mai fù ――……」
調べて頭に入れた単語の意味が、旋律に乗るように。ゆったりとしたロングトーンを、腹と下半身で支え、声を頭蓋に響かせる。
余計な感情は、何も入れたくはない。ただ、旋律と詩だけを大切にしたい。
短い曲は、すぐに歌い終わった。ほっと息を吐き、スカートの端をつまむと鉄仮面に向かって腰を落として礼をする。鉄仮面は手枷をはめられた手の指先だけで、拍手をしてくれた。
鉄仮面だって、ここに閉じ込められている以上何もできないのだ。自分の歌程度で喜んでもらえるのなら、気持ちがいい。こうして悠花は、地下で過ごす時間を楽しむようになった。
Ombra mai fù
ゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデル作曲。
オペラ『セルセ』より。イタリアの古典歌曲のひとつ。
木陰の事を歌った優しいアリア……と思いきや、この木へのガチ恋を歌った、ちょっとやばいアリア。でもこのアリアの場面の後、人間の女性に一目惚れするので最後までやばい人な訳では無い。
タイトルロールの王様が歌うアリアで、昔はカストラートという去勢された男性ソプラノ歌手のための曲だった。最近は女性歌手が歌うことが多い。当時の雰囲気で聞きたいなら、男性ソプラノ(ソプラニスタ)の演奏を聞くのが良い。カストラートは性ホルモンは無いけど成長ホルモンはあるので、女性よりも肺活量があり、とんでもない技巧で歌うことができた。
でも去勢してしまうと結婚できる権利も無くなってしまう。中国の宦官の去勢とは、残っている部分の違いがある。一流歌手になれずに身を持ち崩したカストラートは、貴族女性の遊び相手などで糊口をしのいでいたらしい。
カストラートの歌声は録音が残っているので調べれば聞けると思いますが、伝説的なカストラート歌手と比べると技巧的には微妙。おばあちゃんが歌ってるみたいに聞こえる。
日本語訳は黒澤が訳したものです。