突然人が押しかけて来ました
その日、朝食を終えた悠花の耳に珍しい音が響いてきた。
「え?」
部屋の戸が開く音である。
「は? えっと、あの……」
入ってきたのは制服のようなものを着た男――だけではない。その男の後ろから、何人もの女が入ってきた。
「え? 何!?」
そして事態が飲み込めない悠花を、引っ張って連れて行く。
――何で!?
連れて行かれた先で、悠花は訳が分からないまま呆然と身体を預けていた。空気には湿気と、花の香りが漂っている。
悠花が連れてこられたのは、大きな浴場だった。ここにこんな施設があったことすら知らなかったが、随分な大きさで湯船に浸かっている人もいる。悠花は抵抗虚しく服を剥かれ、浴場の中でも小さな、花を浮かべた湯船に入れられていた。
「何で……いきなり、こんな……」
理由が何も分からない。呆然としていると、肩を引かれて湯船の縁に頭を付ける格好になった。
「何を……」
訳が分からないまま目元にタオルが乗せられ、髪に湯がかけられる。
――何でいきなりこんなサービスが!?
髪に触れられる、細い指は心地良い。頭皮を揉み解すようなそれを味わったのは、随分昔のことのような気がする。思わず悠花の口から吐息が漏れた。
髪を洗われ、香油を擦り込まれる。薔薇の香気は、悠花をうっとりとさせた。こちらに来てからというもの、髪の手入れはあまりできていない。長さも伸びた髪は、硬い手触りをしていた。一座に居る頃は、どうせカツラを被るのだからと深く考えずに居られたし、今もどうせ他人に会わないのだからと思っていたが、ケアができるに越したことはない。髪の手入れが終わり、温まった悠花は、今度は台に寝かされていた。
「……だから何で?」
肌に滴る、香油の感触。滑った肌を、女の手で思い切り押される。これはいわゆるエステではないのか。気持ちは良いが、自分がどうしてこんなことをされているのかがさっぱり分からない。
――女子寮みたいだから、こんなサービスがあるってこと……!?
悠花は歌を歌っている。それがきっと、悠花に望まれている労働なのだろう。だとすれば、これは福利厚生なのかもしれない。
――いやそんな事ある!?
暴力が日常茶飯事で、人権など存在しない世界だ。どう考えてもおかしい。結局悠花は香油でゴリゴリ揉まれ、痛みと心地良さで寝落ちした。
「ほんと……何だったの……」
午前中から風呂に入れられ、洗われ、揉まれ、脱毛までされてピカピカの悠花である。気持ちは良かった。それは間違いない。裏の事情でも無いのなら、また受けたいくらいの至福のひと時だった。
時間は既に夜。このまま部屋に帰されるのかと思ったが、そうではない。悠花はまた別の場所へ案内されていた。
(……広い……)
ここにやってきた当初も思ったが、随分と広大な場所だ。悠花が歩いたことのない場所だけでもどれだけあるのかと思う。浴場までも少しあったし、そこからは随分と歩いている気がする。吹き抜けの廊下の向こうには、星明りが。暗い廊下は色とりどりのランプの明かりが灯っている。
(何かめちゃくちゃ雰囲気がある……)
おとぎ話の中を歩いているようだった。ただ、自分がどこに連れて行かれるのかはあまり分かっていない。しかし、悠花を取り囲んでいた女たちは笑顔だったので、あまり怖い気持ちはなかった。
「え……ここが目的地……?」
大きな扉の前には、槍を持った兵士が居る。扉の素晴らしい装飾は、ランプの明かりで陰影を際立たせていた。扉が開き、中に入れと促される。
(今度は何なんだ……)
おずおずと足を踏み入れ、自分の部屋とは比べ物にもならない、大きくて豪奢な部屋に首を傾げる。――と、誰かが悠花に声をかけた。
「―――」
「あ……」
それは、あの獣耳の男だった。
(わー、雰囲気あるー)
いつもよりは寛げた服で、窓際のクッションにもたれて水煙草を吸っている。
(もしかして、この人めちゃくちゃ偉い人なのでは……?)
どう考えても扱いがVIPだ。それに普段の服も装飾が多い。さすがに王様レベルではないだろう。そんな身分の高い者が、自分に用があるとは思わなかった。
「――」
煙を吐き出し、男が立ち上がる。手招きをしているので、付いてこいと言っているようだった。素直に付いていくと、その先には天蓋の付いたベッドがあった。その縁に男が腰を下ろす。
「――」
(分からん……)
何を求められているのか、悠花は必死に考えた。ここはベッドルームである。
「あ……」
それ以外に何があると言うのか。悠花はやっと自分が連れてこられた意味を理解した。
(……歌だな……?)
大方眠る前のリラックスタイムの手伝いとかそういうものだろう。
(……理解した。完全に理解した)
このいつも不機嫌そうな人も、思い切り眠れば多少は表情が変わるかもしれない。悠花は背筋を伸ばすと、男に向かって舞台の上に居たときのように優雅に礼をした。衣装は全く違うが、男にもそれが伝わったのだろう。表情が少し動いたのが見えた。
(発声はしてないから、最初はスローテンポで……)
音源はない。しかし身体は歌を覚えている。悠花は息を吸うと、歌い始めた。
「――Ombra mai fù di vegetabile, cara ed amabile, soave più(かつてこれ程に、愛しく、優しく、心地よい木陰は有りはしなかった) ――……」
石造りの部屋に、声が響く。自分の部屋よりもずっと響く声が気持ち良い。悠花は喉を確かめるように、徐々に本気を出していった。
短い歌がすぐに終わり、息を吐く。声の調子は悪くない。
(やっと本気が出せる……寝かし付け成功率100%だった実力が……!)
一座で子供たちを寝かし付けるのは、いつしか悠花の仕事になっていた。悠花が歌うと、確実に眠るのだ。散々調べた子守歌が、今また役に立とうとしている。
「――Die Blümelein sie schlafen(小さな花々は眠っている) schon längst im Mondenschein,(もう、月明かりの下で) ――……」
ドイツ語の、古い子守歌。明るく、素朴な旋律だ。
「――sie nicken mit den Köpfen auf ihren Stengelein.(細い茎の上で頭を垂れて)――……」
歌が好きだったあの子たちは元気にしているだろうか。踊り子も。懐かしい日々が、胸のうちに蘇る。
「――Schlafe, schlafe, schlaf du, meine Kindelein(眠れ、眠れ、眠れ、我が子よ)!――……」
最後の一音まで歌い終わると、ぼふりという音がした。
「お?」
見れば、男がベッドの上に倒れ込んで眠っている。
「……わたし、凄くない?」
(子供には寝かし付け率100%だったけど、まさか大人にまで効くとは……)
夜も更けて、小さい子を寝かし付けていたからそういう結果になるのだと思っていた。しかし今、あの気難しそうな男は熟睡しているように見える。
「……さすがに、寝不足で不機嫌だった人が寝落ちしたってだけだよね……?」
そんな魔法のような力が、自分にあるはずはない。
「でもわたし、いい仕事したってことだよね……」
この男の就寝前のリラックスタイムのBGM要員。その役目は立派に果たせたのではないか。悠花は満足気に息を吐いた。
「……で、これどうしよ」
ここからどう帰ればいいのかも分からない。悠花はとりあえず、部屋の前に居た人に声をかけた。悠花がこんなに早く部屋を出てくると思わなかったのか、兵士がぎょっとした顔をする。
「あのー、寝ちゃったんで帰りたいんですけどー……」
部屋の奥を指差すと、兵士が慌てて確認しに行き、ベッドに倒れ込む男を見て顔色が変わった。しかし寝息が聞こえることに気付いたのか、ほっと息を吐く。
「わたし、帰りたい……」
部屋の外を指差すと、兵士は男と自分を見比べ、そして鈴で制服のようなものを着た男を呼び出した。
(まあ、不眠が治って良かったね……)
行きと同じように男に自室まで案内されながら、悠花は熟睡した男を思い出していた。
【Die Blümelein sie schlafen】
ドイツの民謡。
旋律は17世紀末からあるが、この詩が付けられたのは1840年。
ブラームスも歌曲として編曲している。




