獣耳の男に絡まれました
短いのでもう1話あります。
「いや……あの……何か用ですか……?」
悠花は、通じないと分かってはいたが声をかけた。男の、雰囲気が怖かったからだ。嘲りや侮蔑の目ではない。しかし、何をされるのか分からない強さがあった。
「……――」
「わたし、こっちの言葉が分からなくてですね……」
何かを言われたが、理解できない。この男の身分が高そうなのは理解したので全力で逃げたいが、腕を掴まれていてそうもいかなかった。
「えっと……手、離してもらっていいですか?」
怖い。一座に居た熊の獣人は随分と力持ちだった。もし目の前の男にそれくらいの力があるのなら、すぐに腕くらい折られてしまう。
「離して……」
「…………」
怖くて、声が震えそうになる。この世界には理不尽な暴力がまかり通っているのだ。いつそれがまた、自分に襲いかかってこないとは限らない。
男はしばらく悠花を見下ろしていたが、急に腕を掴んだまま歩き始めた。
「えっ、どこへ……!」
何を言っても、聞いてはもらえない。悠花は引きずられるように、男に付いていかざるを得なかった。目の前には男の背中と、揺れるしっぽ。いつも見ているレリーフが、横をすごい速さで通り過ぎていくようだった。そして――……。
「―――――――――――」
「え、わたしの部屋ですけど……」
男は部屋の戸を開けると、悠花を放り込んだ。そして乱暴に戸が閉められる。
「は!?」
『―――――――』
戸の向こうで男の声がし、すぐに戸に向かって何かをする音がする。戸から何かを剥がす音、打ち付ける音だ。
「え……まさか、ドアが開かないようにしてる……?」
慌てて戸を押しても、もうびくともしない。
「嘘でしょ……!?」
いったい自分が何をしたと言うのか。偉い人の何かに障ったとでも言うのか。
「……もう、訳が分からない……!」
暴力を振るわれなかっただけマシなのかもしれない。それでも、監禁に逆戻りだ。悠花はその場に座り込んだ。
どれほどそうしていただろうか。部屋の前は、元のように静まり返っている。
(また、出られなくなった……)
開くのは、食事や日用品が入れられる小窓だけだろう。戸を打ち付けた上に兵糧攻めまではされないと思いたい。不安で小窓を見つめていた悠花は、日が落ちて小窓が開いたことにほっとした。
(良かった……さすがに殺されはしないみたい……)
何があるのか分からない世界だ。不安が常に付きまとう。
(ダメだ……今日はもう、寝よう……)
悠花は食事もそこそこに、恐怖の疲れからクッションに身を沈めた。
「で、やっぱり出られない訳ですが……」
制服のようなものを着た男に連れて行ってもらっていた散歩も、これから行けるかどうかは怪しい。戸も、開くはずもなかった。
「う~……」
気分は沈むが、何かはしていたい。悠花は日課のストレッチと筋トレをこなし、歌い始めた。
(やっぱり、落ち着く……)
頭を空っぽにして、ただの楽器のようになれる瞬間。何も意識せずに高音を出せた時。音の出し方を身体に叩き込み、そこに詩を乗せて叙情的に織っていく。歌えなかったものが歌えるようになるのは楽しい。その歌が自分の身体に馴染み、歌いこなせるようになるのが楽しい。音楽は、悠花の孤独な想いを癒やしてくれる。
「――Ah! Emilia, Emilia, Addio, Emilia, addio! (ああ、エミーリアよ、さようなら)――……」
高音が思ったとおりに出ると気持ちがいい。
「……はぁ」
もやもやが、少し晴れた気がする。悠花は少し満足して水を飲んだ。
曲はヴェルディの『オテッロ』より【柳の歌】




