環境に慣れてきました
悠花の1日は、代わり映えしない。朝食のベルが鳴るのを6時半として、そこから1日は24時間なのだと知った。だが夜空を見て知っている月の横に知らない月っぽいものがもう1個あり、考えるのをやめた。『月 2つ』で検索しても出て来ないものは、見なかったことにした。
鉄仮面の牢の前は、日に日に充実している。鉄仮面がおとなしいこともあり、人恋しさに悠花はそこで食事をする。部屋から引きずっていった絨毯は、大きいものを鉄仮面にあげた。どうせ誰も来ないのだ。絨毯くらいあげてもバレないだろう。椅子も頑張って1脚を地下に運んだ。ときには絨毯以外にも座りたいからだ。
食事の時は鉄仮面に、取止めもない話をする。忘れるのが怖くて、全て日本語で。分かっているのか分からないからなのか、鉄仮面は悠花の話をじっと聞いてくれた。
朝食を食べた後は、部屋で運動をする。たっぷり汗をかいた後は、シャワーと洗濯だ。
(今度、鉄仮面さんの服も洗ってあげようかな……)
服が乾くまでに渡せるものならいくつかある。きっと鉄仮面も、同じ服では気持ち悪いだろう。明日晴れたら服を洗ってあげようと、悠花は心に決めた。
昼食の後は、歌だ。あまりのショックで数日できていなかった歌を、悠花は再開していた。
ピアノは無い。だが、アプリがある。欲しい音を鳴らして、ゆっくりと喉を温めていく。半音ずつ、じっくりと高音まで。喉から頭蓋に響くように。地面をしっかりと意識した安定感で。
この部屋に閉じ込められて良かったことは、その環境だ。石造りの部屋は、音を響かせる。部屋を歩きまわって見つけた一番響く場所で、悠花は音を紡ぎ出した。
「――Star vicino al bell’idol che s’ama,(愛しく美しい偶像の傍らにいることは) ――……」
声楽曲の中では易しい、イタリア語の曲。喉が、身体が、歌う喜びに満ちていく。
「――è il più vago diletto d’amor(愛がもたらす、ほのかな喜び)! ――……」
どう声を出せば響くのか。どう身体を使えば、無理なく高音が出るのか。忘れないよう、思い出していく。
「――Sta lontan da colei che si brama,(恋しい彼女から離れていることは) ――……」
ゆったりとした、優しい曲。だが悠花にはまだ、足りないように思う。
「――è d’amor il più mesto dolor(愛の最も辛い苦難)! ――……」
声は出た、と思う。でも納得はいかない。
(声の出し方、身体の使い方……感情)
旋律に、詩が乗る。それが歌だ。詩を伝えるための旋律だ。自分のはまだ『歌』ではないと、息をつく。
(そういえば……先生が、『旋律は詩に合わせてある』って言ってたな……)
『喜び』という詞は時に高音で。時に装飾されて。旋律によって何を、どんな言葉を強調したいのか。
「……この際だから、納得行くまで仕上げてみよう」
試験も、課題もここには無い。万一夢だったとしても、これだけの明晰夢なら起きても身になるものがあるだろう。悠花は単語のひとつひとつを辞書で調べ始めた。
翌日。悠花は鉄格子の前で己の間抜けさに頭を抱えていた。
(どうして気付かなかったのわたし……!)
今日の悠花は、鉄仮面の服を洗おうと、意気揚々と使えそうな布と一緒に地下に降りてきていた。そこで服を脱いでもらおうとし――手枷に気付いたのだ。
(脱げるわけないじゃん……!)
「すみません、わたしが間抜けなばかりに……!」
鉄格子の前でうなだれる悠花に、鉄仮面がどこかおろおろとした様子を見せる。
「これを羽織ってもらって、その間に服を洗おうと思って……」
鉄仮面のシャツの端を握り、タオルと交換する仕草を見せる――伝わるかは分からないが。だが幸いにも意図は伝わったらしく、鉄仮面はびしりと固まった。
「あ、いや、臭いとかじゃなくてですね……!!」
埃っぽく、風通しの悪い地下室で、どう説明していいのか分からない。悠花がわたわたしていると、鉄仮面は不意に仮面の下に己の指を差し入れた。
「!?」
かすかな音がして、鉄仮面の手を血が滴っていく。
「すみませんそんな傷付けるつもりは……!」
自分の不用意で奇行に走らせたのかと思ったが、そうではないらしい。鉄仮面が壁際まで行き、己の血で何かを書いていく。
(何かの……図?)
円は分かる。だがその中に書かれた文字のようなものは全く分からない。やがてそれが書き上がったのか、鉄仮面が図の上に手をやった。
「!!」
手のひらの下の図から薄青い燐光が迸り、そこから広がり出た燐光の枝のようなものが鉄仮面を取り巻く。
「鉄仮面さん!?」
枝に囲まれた中に風が吹いたのか、鉄仮面の黒髪がふわりと浮き上がった。悠花が慌てて鉄格子を掴んだ途端、光る枝が消え失せる。
「え……?」
今見たものは、何だったのか。ぺたぺたと己の身体を確認し、鉄仮面が戻ってくる。
「指……! 指なんともないですか!?」
鉄格子の向こうへ手を伸ばし、鉄仮面の手を掴んだ。
「え……?」
だが、そこには何の傷もない。手を持ち上げ、怪我をしたはずの指をどの角度から眺めても、傷は見当たらない。
「なんで……?」
呆然と金色の瞳を見上げると、鉄仮面は悠花に掴まれていない方の手で、さらさらと何かを書く仕草をした。
(つまり……何かを書く必要があった……?)
「ちょっと待ってて……!」
鉄仮面をその場に残し、自分の部屋まで駆け上がる。切れた息を整え、リュックの中から筆記道具を出すと、悠花はまた階段を駆け下りた。
「これ……これ使って……」
ノートとペンを渡し、『もう一度』と壁を指差し、ノートを指差す。意図が伝わったのか、鉄仮面は破られたページに同じような円と何かを書き付けると、手をかざした。
「…………」
同じように図が光り、燐光の枝が鉄仮面を取り巻く。
「それ、なんの意味が……」
そう言いかけ、燐光の消えた薄暗い地下室で、鉄仮面のシャツがさっきよりも白く見えた。
「え……?」
まじまじと見てみても、気になったくたびれ加減が消えている。
「つまり……」
鉄仮面は、この図を使うことによって、汚れを落とすことができるのだろうか。
「めっちゃ便利そう……」
だが、どういう仕組みになっているのかは全く分からない。
「もう一度、書いて」
使ったばかりのページは、燐光に呑まれて無くなっている。もう一度ノートに図を書いてもらうと、悠花はそのページを指で小さくするような仕草をした。
「小さくても、使える?」
図、小さい、あなた。それだけを伝えると、鉄仮面が頷く。
「わたしが、書いても、あなたが使える?」
書く動作と、鉄仮面に渡す動作。だがそれには首を傾げられた。
(まあ、同じ図が書けるかどうか……)
そう考えて、ふと気がついた。
(スマホに撮ったものをなぞってみたら同じになるのでは……?)
こういう実験はわくわくする。
「わたし、これ書いてきてみる」
図を見せ、書く動作をし、自分を指差す。伝わったかどうかは分からないが、いい暇つぶしにはなりそうだった。
Star vicino
イタリア語の古典歌曲。多分声楽志望の高校生~大学1年生くらいが学ぶ曲。
ルイージ・マンチャ作曲。
どれくらい古典かって言うと17世紀後半ぐらいの作曲。
日本語訳は、黒澤が訳したものです。