最後の切り札
「――――、―――――?」
(これは……恥ずかしい……)
牢の中で天井を見上げ、フィンヴィールは鉄仮面の中で顔を赤らめていた。ちゃぷちゃぷという水音は、フィンヴィールの足元から聞こえている。
(気持ちは良いのですが……これは……)
『清浄』の魔法を使っているのだから、身綺麗なのは間違いない。それにも関わらず、フィンヴィールの洗えるところを洗うと言い出した番に、フィンヴィールは逆らえなかった。牢の前に持ち込まれた手桶に湯。重いそれを、わざわざ自分の部屋から持ってきてくれた番の優しさには震えそうになるくらいに嬉しい。だが、婚約もまだなのにそんな事をさせてしまって良いのかと思ってしまう。
「……っ……」
石鹸を泡立てた小さな手が、丁寧に足を洗っていく。フィンヴィールは貴族だ。召使がいれば、こうしてフィンヴィールの身を整えることもある。だが、番はどうか。髪を結い、濡れたタオルで身体を拭けと、細々と世話をしてくれる。それは、純粋に番の好意なのだろう。
「…………」
鉄格子の隙間から小さな手を入れて、番が丁寧に洗っていくさまを眺める。指の間に入り込んだ細い指の感触がくすぐったい。小さく聞こえる鼻歌は、聞き覚えのある曲だった。
(幸せ、ですね……)
早く言葉を交わしたい。番の好きなところをいくつもあげて話したい。アガリスでの日々は酷いものだったと、笑って。
「…………」
だが、そんな日は来るのだろうか。日々が穏やかであればあるほど、フィンヴィールは先の見えぬ闇に胸が沈んだ。
そして、ついにその日がやってきた。
身体がようやく回復してきた頃、フィンヴィールは三度連れ出されたのだ。
「ほら出ろトカゲ!」
「……っ……」
手枷を引かれ、たたらを踏む。ここしばらく、番が自分の食事を分け与えてくれていなければ、また無様に倒れるところだった。
早朝の空気は、すでに秋。じきに冬がやってくるだろう。いくらここ、アガリスが温暖だとはいえ、地下牢は冷え込む。番が持ってきてくれた毛布も踏まれ、泥に塗れていた。
温かな、番が少しでもフィンヴィールが快適なようにと整えてくれたものは全て踏みにじられ、それを見るのが辛い。きっと番は牢の有り様を見て、胸を痛めるのだろう。
(また、心配をさせてしまう……)
牢の前の、番の定位置。そこも兵たちは、土足で構わず踏み荒らしていく。いつもそうだ。フィンヴィールがそれを見て眉を顰めるのを見て嗤う。救えない相手だとは思うが、今は従わざるを得ない身であることが悔しい。髪を結っていたハンカチは、兵士の足音が聞こえた時点で解き、ポケットに隠した。番の持ち物など、兵士たちにとっては格好の玩具にされてしまう。
前も目ざとく髪を結っているハンカチを見つけられ、目の前で破られた。それを見て悲しむフィンヴィールを見て、アガリスの兵たちは笑っていたのだ。番はフィンヴィールが何も持っていないことに気がつくと、新しくハンカチをくれた。
「…………」
兵士たちの、下卑た目。今までより一層酷いそれに、フィンヴィールは今度の敵を察した。
(今度こそ……)
「領土拡大は打ち止めですなあ」
「なに、今までの何倍かも分からぬ国土を得たのだ。これからもトカゲには重しとして活躍してもらわねば」
仲間は、どれだけ来てくれるのだろう。もう、番さえ救えればそれでいい。揺れる荷馬車の上で、最後の希望をひたすら考える。寒さも、喉の乾きも、痛みさえも、もう気にはならなかった。
数日後、フィンヴィールを連れた軍は、広大な平原へと到着した。しかし、アガリス軍以外には人影すらない。
「おい、確かにここで決着を付けると」
「そのはずですが……」
人間は適当なことを言っているが、フィンヴィールには分かる。ここを指定したのがガリュオンなら、どの程度の軍団が来るのかが。
「……おい、あれ……」
やがて、兵の1人が空を見てぽつりと呟いた。
(来ましたか……)
大空に広がる、おびただしい数の竜。まさに空を埋め尽くすその数は、人間であれば恐怖するだろう。だからこの平原を指定したのだろう。狭い場所では、ほぼ全軍を連れて来るには苦労する。
「お、おい、出ろッ!」
「……っ……」
怯えた兵士が、フィンヴィールを盾にするべく引きずり出す。
「魔力を戻せ!」
「はっ!」
(……保険をかけましたか……)
普段なら身体が軽くなるはずの魔力は、ほんの少しが戻されただけ。これでは立っているのがやっとだ。アガリスは、フィンヴィールを人質にしてガリュオンの軍を帰したいのだろう。
やがて竜たちはアカリス軍の真上へとやってきて、次々に人の身に形を変えて大地へと降り立った。
「フィンヴィール様……!」
ガリュオンの兵士たちから悲鳴が上がる。自分たちの中で最も強い将軍が、痩せ細り、傷だらけで拘束されていてはそうもなるだろう。ガリュオンを出たときの、壮麗な軍装も、手入れされた黒銀の髪も、今はない。ただ奴隷のように枷に繋がれ、胸には赤黒く呪令の杭が光っている。
「トカゲ! どうにかしろ!」
「そうだ! お前はアガリスに飼われたのだ!」
人間の言葉に、竜たちが殺気立つ。
「フィンヴィール様、どうして……!」
答えたくても、フィンヴィールの声は無い。
「こいつは自らの意思でアガリスに居るのだ! 用が済んだのなら帰れ!」
「フィンヴィール様! お答えください!」
自由意志なら、仕方ないとみなされる事もある。竜が国を出て、番のもとで暮らすことは少なくないのだ。それでも、他国にあまりに迷惑をかけるようであれば、ガリュオンが潰しに来る。アガリスも、ガリュオンが出てきた今が引き際だと思っているのだろう。
それに、竜は仲間思いだ。フィンヴィールが人質にされていることは明らかで、攻撃ができないでいる。極端な話をしてしまえば、フィンヴィールがアガリスの人質で居る限り、ガリュオンはアガリスに攻撃することは無いだろう。もしフィンヴィールにガリュオン軍を攻撃しろと命令されていれば、呪令の杭のせいで殺せない魔術師以外を潰し、その後に急いで番が殺される前に迎えに行かせることもできたのだ。狡猾な一手を選んだアガリスに、今まで以上に怒りが湧く。
(しかし、これでやっとあの娘を助けることができる……)
部下の顔一人ひとりを見れば、自分が居なくても軍はきちんと機能しているのが分かる。思い残すことは無い。
(私の、全てを賭けて……)
「……っ…………が、あ、あ……!」
使ってはいけない魔力すら注ぎ込んで、喉にかけられた呪のみを喰い破る。杭には触れない。これを感知する魔術師は、城にも居るからだ。城の方にはまだ、フィンヴィールが監視下にあると思わせておかなければいけない。
「アガリスの王城! 西の塔! そこに我が番が居る!!」
久しぶりに張り上げた声は、呪いの影響もあり喉がひび割れるように痛んだ。だが、そんなことは気にしてはいられない。
「呪いをかけろ!!」
「がっ、ぐああぁっ……!」
呪令の杭から恐ろしい痛みが走り、フィンヴィールは悲鳴をあげた。だが倒れゆく視界の端で、部下が赤い竜となって飛び去っていく。
(彼なら、きっと……)
「……哀れな、我が番を、どうか…………」
救ってくれ、と誰にも聞こえぬ声で呟いたのを最後に、フィンヴィールは灰銀の髪をなびかせて意識を闇に落とした。
そしてこの日、アガリスという国が地図から消えた。
これで一章が終了です。
二章からは夜のみの更新になります。
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