脱出を考えはじめました
(うーん……)
怖い女性襲撃事件から数日。悠花は本腰を入れて脱出方法を考えていた。
(できれば2人で逃げたいけど……)
だが鉄仮面の牢の鍵も、手枷の鍵も持ってはいない。協力できるのならしたいが、最悪独りで逃げることも考えなければいけないだろう。
(まあ、問題はどうやってここから出るかだけど……)
唯一の出入り口には鍵がかけられ、自分の部屋以外の下階のドアも開きそうにはない。
(出口がない……)
この国の人間が、悠花を逃がすつもりが無いだろうということもなんとなくは理解した。悠花が外に現れた時、兵士たちはまず武器で脅そうとしていたのだ。その槍先を突き付けられなかったのは、悠花が塔へ戻る意思を見せたからだろう。
「……分からないから、今日はここまで……」
時間はあるのだ。分からないことは先延ばししておけば、明日の自分が何かを考えつくかもしれない。
(とりあえずできるのは身体を鍛えることと、鉄仮面さんにいくつか図を渡しておくことかな……)
あの図があれば、この間のようなひどい怪我がそのままになることはないだろう。あとでポケットにでも詰め込んでおいてもらおうと、悠花は図の内職を始めた。
「――Heilge Nacht, du sinkest nieder nieder wallen auch die Träume(聖なる夜よ、お前が降りてくると、夢も波立ち始める) ――……」
夜を想う、優しい旋律。ドイツ語が、やっと舌に馴染んできた。
「――wie dein Mondlicht durch die Räume durch der Menschen stille Brust(月光が部屋を通り過ぎて行くように、人々の胸を通り過ぎて行く) ――……」.
観客1人のレッスンは、今でも続いている。歌を歌っているときの、鉄仮面の視線は優しい。その金色の目で、じっと悠花の一挙手一投足を見守っている。気恥ずかしくはあるが、誰かに見られていると思うと背筋が伸びる。反響する石造りの地下に響く声は、何よりも自分を慰めてくれるようだった。
優しい旋律が、自分の耳から入ってきて心を静めてくれる。どうか、観客にも伝わるように――そんな気持ちで歌を紡ぐ。
「――Die belauschen sie mit Lust; rufen, wenn der Tag erwacht(彼らは心地よく耳を傾け、日が目覚める時に叫ぶ) ――……」
朝の、どこか物悲しい夜との別れ。優しく包み込んでくれる夜の、過ぎ去った寂しさを想う歌。
「――Kehre wieder, heilge Nacht! Holde Träume, kehret wieder!(どうか戻ってきておくれ、聖なる夜よ! 安らかな夢よ、どうか戻って来ておくれ!) ――……」
この世界の夜は長い。陽の光が無くなってしまえば、塔から見える場所の殆どは闇に包まれてしまう。言葉は通じないが、この世界の人間がこの詩を知ったらどう想うだろうかと悠花はぼんやり考えていた。
歌が終わり、小さな拍手が聞こえる。小さな世界は、表面上は穏やかだ。だが、塔の外は想像もつかない場所なのだ。言葉も通じなければ、文化も、常識も違う。小さな救いは、鉄仮面は悠花を尊重してくれる事だろうか。会話はない。だが、歌が終われば拍手をくれ、食事の時は悠花の話すことを聞いてくれもする。
「そうだ、これ渡さなきゃ」
唐突に図の事を思い出し、悠花は鉄仮面に数枚の紙片を押し付けた。
「前のよりも小さく書いたんで、折りたたんでポケットにでも」
元の図が手のひら大だとすれば、今度のものは親指と人差し指で円を作った程度の小型だ。渡した紙片を指差して自分の腰のあたりをぽんぽんと叩いてみせると、小型化した意図を察してくれたのか、鉄仮面は律儀にポケットに入れてくれた。
(ジェスチャーだけでも何とかなるものだわ……)
簡単な意思の疎通ができるのが嬉しい。なにより、それが孤独を癒やしてくれる。鉄仮面が穏やかな男で本当に良かったと思う。
(まあ、常に半裸ではあるけど……)
そのままで居られると、目のやり場に困って仕方がない。胸に石が埋まっているのは不思議だが、このファンタジーな世界ならそんなこともあるのだろう。明かりに対して赤い光を僅かに返す、ほとんど黒く見える石。それが均整の取れた身体に埋め込まれているのは、なんとなく見てはいけないような気持ちになってしまう。ショールを渡した自分の判断を褒めたいくらいだ。
(本人のせいじゃないから仕方ないか……)
元々は服を着ていたのだ。本人だって不本意だろう。
(でも……これからここも、冬が来るのかな)
今は夏のようだからまだいい。半裸で居ても問題は無いだろう。だがこれから寒くなってくるのだとすれば、毛布を運んでこなければいけない。
(なんかすっかり、鉄仮面さんの世話が染み付いてきてる)
穏やかで、優しい金色の目。何を考えているのかは分からないが、悪い感情では無いのだろう。そうなればこちらだって良い感情を返したくもなる。
(冬になる前に、2人で逃げられないかな……)
いつかここを出る時は2人で。そんなささやかな計画は、すぐに砕け散った。――また深夜に鉄仮面が連行されていったのである。
Nacht und Träume
フランツ・シューベルト作曲。タイトルがいい。『夜と夢』。
ドイツ語の歌曲はイタリア語の直接的な恋愛まみれみたいな感じではなく、もう少し叙情的だったり啓蒙主義的だったりする。詩が書かれた年代が違うのもあると思う。恋愛の詩も勿論あるが、イタリア語より遠回し。
日本語訳は黒澤が訳したものです。
ブクマと評価ありがとうございます!




