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リズが目を覚まして最初の食事は玉ねぎのスープにパンをヒタヒタに浸したものだった。久しぶりに胃に入れることを考えて消化しやすいものを用意してくれたのだろう。
リズは寝室にある机を借りてひと口づつゆっくり食べ進めていると、突然ノック音とともに扉が開いた。
「リズ!?目を覚ましたってホント!?」
エレノアだ。リズは「え」と目を大きくする。
「ひ、姫様?」
「心配したのよ、もーっ!」
「お国に帰られたのでは?」
エレノアの留学期間は三ヶ月と聞いていた。もう既に帰国しているはずなのになぜ、とリズは仁王立ちするエレノアに訊ねる。
「延長したの!
そんなことより!リズよ!」
少し怒っているような口調に、リズはスプーンを置くと唇を引き結んで目を伏せた。
「陛下は怒らないでしょうけど私は怒るからね!心配したんだからっ!」
「はい・・・」
「参加しなくて良かったわ!目の前で見たら私大パニック起こしてたわよ!」
エレノアはリズの婚約式に参加したいとゼフィールへ再三頼んだが、婚約式は伝統行事で他国から人を招くものではないから、という理由で断られていた。式が終わった後にこっそりリズに会いに行こうと思っていたが、まさか式の途中で事件が起ころうとは。
しかもその内容が"リズがゼフィールに盛られた毒を代わりに飲んだ"と聞かされ、エレノアは飛び上がるほど驚き心配で夜も眠れなかったのだった。
エレノアはハアと疲れきった様子でベッドへ座る。
「それで、体はもう大丈夫なの?」
「はい、なんともありません」
本当は少しだけ喉が痛かったがこれ以上心配させまいと伏せておいた。
「なんで危険なことをしたの?陛下を助けたかったなら飲むのを止めるだけで良かったんじゃない?」
「なんででしょうね・・・」
リズは改めて自分の行いを思い起こした。
あの時、ジェイスの言動の違和感とラスター家に出入りしていた毒味役の男を見て、もしかしたら、と勘のようなものが働いた。ゼフィールが飲む前に進言すればよかっただけのはずが、なぜかリズはグラスを引ったくって飲み干してしまった。
「証拠も何もありませんでしたし、どうお止めすればよいのかわからなくて・・・」
「本当に毒が入ってるのか自分で飲んで確かめたってこと?だからって普通飲まないでしょ」
「そうですね・・・」
エレノアの正論にぐうの音も出ない。
「じゃあ解毒の邪魔をしたらしいじゃない?それはなんで?」
「・・・」
リズは口を固く結ぶとエレノアから視線を外す。待っても待っても話そうとしないリズにエレノアは強い口調で催促した。
「リズ?」
黙るなんて許さない。心配させておいて何も語らないなんて許さないとエレノアは目を三角にしてリズを睨みつけた。
そんなエレノアの表情をちらりと見たリズは長い時間をかけ、逃れられないと悟るとようやく話し始める。
「私・・・」
声が震える。
「私、助からなくていいって・・・思ったんです」
「リズ!?」
なんてことを!と怒るエレノアに、リズは両手で口元を覆いながら続ける。
「ごめんなさい・・・。でも私、幸せだったんです、あの時・・・」
毒を飲み倒れるとゼフィールが抱き抱えてくれた。もう二度と触れられることはないだろうと思っていた彼の腕の中で、リズはゼフィールの体温を感じながら、声を聞きながら、これが人生で最後の幸せな時かもしれないと思った。
それはエレノアにしか話せない、リズの本音。
「息ができなくて苦しかったのに・・・死ぬのは怖かったのに、幸せだと思ってしまった・・・。もうこれで十分だと満足して諦めてしまいました」
助かったところで残るのは、ジェイスに裏切られたという事実と自分がゼフィールにとって危険でしかないという現実。
「そして結局、私が生きている限り陛下に危険が及ぶなら、私は死んだ方がいい。私がいなければ陛下の地位を脅かす驚異は国内にはいなくなるはずだと」
愛する人を自分のせいで危険な目に遭わせるくらいなら、愛する人の腕の中で死んだ方がいい。あの時のリズはそう考えたのだ。
エレノアは口を開きかけたまま絶句する。
「どうかしてますよね、私。お城に居たとき、何度も頭がどうにかなってしまいそうだと思ったことはあったけれど・・・とっくに狂っていたんですね」
遺されるゼフィールの気持ちをおざなりにして安易な選択をしてしまった。リズがゼフィールを庇って死ねば、彼がどれだけ傷つくか簡単に想像できたのに。
助かりはしたが、毒を飲んで悶え苦しむ姿はトラウマを植え付けるには十分な悲惨さだっただろう。ゼフィールの目の前で自死しようするなんて頭がおかしくなっていたとしか思えない。
絶望感を漂わせて言うリズに、エレノアはスゥッと鼻で息をして大きく吐き出した。
「狂ってるわけじゃないわよ。それはね・・・」
リズが顔を上げると、エレノアの強い視線と交わる。
「それはリズがどうしようもなく陛下のことが好きってことよ。ただそれだけ」
「・・・それだけ?」
本当に?と不安そうに言うリズ。
エレノアは苦笑しながらも自信満々で頷いた。
「それだけ!」
陽が半分ほど沈んでしまった頃、急いで部屋に戻ったゼフィールが最初に見たのは一人テーブルについて座っているクロウだった。
「リズは?」
「今は眠っていらっしゃいます。姫様としばらく話し込まれていたので疲れたようです」
「そうか・・・」
ゼフィールは大きなため息を吐くと、ドカリとソファに腰を下ろす。目が霞むので目頭を抑えて後ろにもたれ掛かった。
「陛下も少しお休みになっては?昨日からほとんど寝ていらっしゃらないでしょう」
「いや、いい」
「若い方はいいですね、元気で。私はもう徹夜では体が持ちません」
「急に年齢感を出してくるな・・・」
「30になりますから」
苦笑して自虐的に言う。
「30ならばまだ若い内では?アンリエッタなど最近腰が痛いとブツブツ言っていた」
「あの方の腰痛はほぼベン将軍のせいでしょう」
「確かに」
昼間の剣幕が嘘のようにスラスラと会話する二人。
しかし二人は再び対立しようとも本題を避けられないとわかっていた。先に切り出したのはクロウ。
「それで、これからどうするおつもりですか?」
「・・・」
ゼフィールは沈黙する。
話し合わなくてはならないのはジェイスの処遇、そしてリズのこれからのこと。
「リズさんの婚約者はいなくなりましたよ。それで、あなたはどうするおつもりですか?」
「意地悪な聞き方をする」
ゼフィールの望みなどクロウはとうに知っているだろうに。
「はっきりさせなくてはならないことです。ジェイスは捕らえられました。結果、彼女は居場所を失い、出自を疑われているという最悪の状況です」
今、リズが城を出て行けば十中八九危険に晒される。ジェイスという後ろ楯はいなくなり、リズは再び居場所を失ってしまった。
だからといってゼフィールがリズを手に入れられるかというと、そう話は単純ではない。まず貴族たちはゼフィールとリズの婚姻に猛反発するだろう。そしてリズは周囲から厳しい視線を受ける環境に晒され続け、繊細な彼女がどこまで耐えることができるかはわからない。
「いっそのこと囲ってしまおうとは思われないのですね」
リズを人目に晒さず、城の奥に大事に大事に隠しておくことも国王の身では不可能ではない。
ゼフィールは奥歯を噛んで苦々しげに言った。
「俺自身が不自由な身で苦労しているんだぞ。リズに同じような思いをさせたくはない。・・・本人が望まない限りはしない」
愛し合っているうちはまだいい。しかし、もしリズがゼフィールへの恋愛感情を失う時が来たなら、途端にただの軟禁生活と大差ない暮らしが待っている。城の奥に囲って守ることが結果的にリズを苦しめることになるかもしれない。
もちろん、リズが望めばゼフィールは諸手をあげて迎え入れるつもりだが。
「じゃあどうするんですか。まさか、ジェイスを逃がして彼女を差し上げるつもりですか?」
「馬鹿を言うな。やるか」
ジェイスは既にリズの期待を裏切った。ゼフィールの期待もだ。リズを幸せに出来ない奴に任せるわけがない。
「それでは彼女は宙にぶら下がっているようなものですよ」
「わかっている。リズが決断するまで・・・待つ」
クロウはゼフィールの言葉に少し呆れるように言う。
「ま、妥当でしょうね。口説いてなし崩しに手に入れようとしないあたり、ずいぶん紳士的なことで」
「紳士?まさか・・・紳士なものか」
ゼフィールは眉間の皺を深めてどこか遠くを睨みつける。
「ジェイスが捕らえられて俺は喜んだ。これでリズの居場所はなくなった。だから今度はもしかしたら・・・リズは俺を選んでくれるのではないかと。・・・―――最低だ」
吐き捨てるように言うゼフィール。
ゼフィールは確かにリズの幸せを願っていたのに、ジェイスに奪われずに済んだことを嬉しく思ってしまった。リズがどれだけ傷ついているかわかっているのに彼女の不幸を喜んでしまった。今度は自分がリズを手に入れられるかもしれないから。
それは紳士からは程遠い、悪魔のような思考。
「そうですか?私なら普通に"幸運だ"って思いますけど」
「はっ!?」
ゼフィールは口を大きく開き愕然とした表情でクロウの方を向く。
「罪悪感とかはないのか!」
「ないです」
スパッと言い切ったクロウに、ゼフィールは己の葛藤は他人にとってそんなに簡単なものなのかと遠い目をする。
そんなゼフィールにクロウは呆れたように言った。
「つくづくあなた方は生き辛そうな性格でいらっしゃいますね」
真面目が過ぎる。
もしこの場にエレノアがいたなら、彼女は「まったくよ」と大きく頷いてクロウに同意しただろう。





