9―1【婚約式】
連日の暑さからすれば今日は比較的涼しい日だった。雲が多く強い陽射しが遮られる中、ゼフィールは部屋の窓から人の多くなってきたキングズガーデンを見下ろす。
ずいぶん離れていたけれど、ゼフィールはリズがどこにいるのか一目ですぐに気がついた。貴族にしては簡素な白いドレスを着た彼女は黒い髪を綺麗に結い上げ、オレンジがかった金の髪の男と何か話している。
派手に着飾った女性は多くいたし今まで嫌というほど見てきたが、リズの美しさは清く、他の追随を許さないほど神々しかった。すらりとした身体は女性らしい丸みも帯びていて、その彼女を腕の中に抱けばどんなにか幸せになれるだろうと思う。
手に入らないからこそよく見えるのだろうか。ゼフィールにその答えはわからないが、純然たる事実としてあるのは、美しい彼女にもう二度と触れることは許されないという現実だけだった。
―――リズはジェイスと結ばれる。
静かに息を吐き出して、ぐっと拳を握る。
「陛下、そろそろお時間です」
「・・・わかっている」
目を逸らして逃げることはできない。国王として貴族の祝賀会に参加するのは義務だ。
愛する女性が他の男と結婚する様を見届けねばならないなんて酷だが、最後に美しいリズの姿を間近で見て幸せになる様子を見届けられるのはよしとすべきか。
ゼフィールは重い溜息を吐き出して踵を返すと部屋を出て会場へと向かう。
胃をギリギリと締め付けるような痛みはもう鈍ってしまっているが、苦しくて嬉しくて、頭の中は複雑な感情で埋め尽くされていた。
タウンハウスで過ごした二ヶ月間はあっという間だった。
婚約式に向けてリズたちが用意したのは己の衣装だけ。キングズガーデンでの祝賀会は主催が国王になるため、自分達の婚約式だというのに他は何もせずに済んだ。そして準備に追われることなく実感がわかないまま、気がつけばこの日を迎えてしまっていたのだった。
「いよいよだね。今日のリズは最高に綺麗だよ。本当に見違えるくらい綺麗」
よしよしと、ジェイスはいつものようにリズの頭を撫でた。
「ありがとうございます・・・」
「大丈夫?」
リズは緊張した表情で俯いたまま頷く。
キングズガーデンの広場は幼いリズの記憶の通りに人で埋め尽くされていた。オストールの八の貴族とその分家の人々だ。
議会で貴族が城に集まる機会を狙ったため、これでもジェイス曰く「スカスカ」らしいのだが、リズにとっては大勢の人目に晒されなければならないことには変わりない。
リズの出自に関して城での噂が貴族たちの耳にも届いているのか、リズは始終周りの人々から探るような視線で見られている。特にドゥーベ家とベレー家の関係者からの視線は厳しく、花嫁らしく着飾ったリズは真っ青になって足を震わせていた。
「リズ・・・大丈夫だからね。絶対に守るから」
ジェイスも緊張している面持ちでリズの顔を覗き込むと、決意の籠った声で言う。
「今日で最後だから。もう怖いことはおしまいだよ」
「ジェイスお兄様・・・」
「明日から世界はガラリと変わるから。大丈夫、僕に任せて」
ジェイスが大丈夫と言っているのはリズを落ち着かせようとしているというよりもまるで自分に言い聞かせているかのようだった。彼のピリピリとした緊張感はリズにも伝わって、不安になった彼女はジェイスの手を強く握る。震える繋いだ手は、リズの所為なのかジェイスの所為なのかはわからなかった。
誰も話しかけてこない。お祝いの席だというのに遠巻きにされているジェイスらは、貴族社会の勢力関係をそのまま表している。
リズが感じるのは孤独感や閉塞感。彼らはリズの父の行いを過去のものとせず、それぞれ未だに怒りや憎しみを燻らせていた。そしてその恨みの行方は彼らの態度が物語っている。
表向きは処刑されたことになって姿を消していたリズはともかく、生き延びて彼らの恨みを一身に受け続けていたジェイスはどれほど辛い想いをしてきたのだろう。
「大丈夫・・・大丈夫・・・すぐに終わる」
呪文のように繰り返すジェイス。
「あ、あの・・・ジェイスお兄様、ご無理なさってませんか?」
人見知りなリズはいざ知らず、普段は陽気で人当たりの良いジェイスまで緊張に神経を尖らせている様を見てリズは不安になってくる。
「無理なんかしてないよ。僕はずっとずっとこの日を待ってたんだから」
「・・・はい」
「信じてるんだ。今まで苦労した分報われるって」
ゆっくり視線をリズへ向けたジェイスに、リズは首を傾げながらジェイスを見上げた。
「僕たちの幸せを取り戻そう」
「え・・・?」
そうこうしているうちに本城の方からゼフィールがやって来た。彼を囲む衛兵の人数は物々しかったが、国王らしく着飾ったゼフィールに誰も彼もが口を閉ざして出迎える。ゼフィールが到着するとようやく皆は下げていた顔を上げて、同時にこれが婚約式の始まりの合図となった。
しかし、ゼフィールの姿を直視することができず下を向くリズ。ゼフィールに見せる最後の姿は笑顔でありたいのに、緊張と苦しさで上手く表情が作れない。心臓を刺すような強い痛みは歯を食いしばって噛み殺す。
「・・・ジェイス・ラスター、並びにリズ・ベルモットの婚約式を執り行う」
ゼフィールの声が響いた。
心臓がバクバクと激しく音が鳴る中、リズは何も考えずに足元の石畳を見つめていると視界に人の足が映り込む。反射的に顔を上げれば、突然ゼフィールから差し出された薔薇の花束にリズはきょとんと目を丸くした。
「おめでとう」
差し出された薔薇の色は―――黒。
国王より花嫁に差し出された黒い薔薇の花束に、周囲の人々は唖然とした様子で沈黙する。中には小馬鹿にしたようにクスクス笑っている人もいた。黒い薔薇はつまり“死”を意味する。ゼフィールより渡された黒い薔薇はハーバートの娘に対しての宣戦布告として受け取られたのだ。
しかし、リズは緊張に強張らせていた顔をふっと笑顔にして、その花束を両手で受け取った。瑞々しい花弁と深く濃い黒が美しい。
「ありがとうございます」
みんなに理解されずとも、誰に馬鹿にされようとも、二人は構わなかった。二人の大事な花言葉は二人の心の中にあって通じ合っている。
幸せになってほしいというゼフィールの強い想いを受け取ったリズの笑顔に、ゼフィールは少しだけ悲しそうな顔で、安堵したように微笑んだ。
ワインボトルは次々と開けられるが、主催者であり主賓であるゼフィールが口をつけなければ誰も飲むことはできない。みんなはそれぞれの手にグラスを構え、ゼフィールが最初の一口目を飲むまでしばらく待たされることとなった。
(これ、飲まなきゃ駄目かしら・・・)
酒にあまり強くないリズは渡されたワイングラスに気を重くしながら、静かにゼフィールのためにグラスが用意されるのを待っている。
しかし隣のジェイスが持っているワインがふるふると細かく揺れていることに気づき、リズは不思議そうな顔で彼を見上げる。まだ震えが止まらないなんてよほど緊張しているのだろうか。それともジェイスもお酒に弱いのだろうか。
「ジェイスお兄様・・・?」
「・・・大丈夫、怖いんじゃないよ。楽しみなんだ」
奇妙な返答にリズは不審そうに眉をひそめて首を傾げる。
そして同時に、ゼフィールの為のワインが注がれ、毒味役の男がそれを口に含んで確かに飲み下した。
(―――あ。)
リズはその毒味役の男に見覚えがあった。ラスター家のタウンハウスから城を眺めていたリズは、何度か彼がラスター家を出入りするところを見たことがある。
それは単なる勘のようなもの。なんの確証もなかった。
リズは自分のワイングラスを投げ捨てると花嫁のドレスを振り乱しながら走り、ゼフィールの手に渡ったばかりのワイングラスを無理やり奪い取る。
「リ―――っ」
ゼフィールが声をかける前に、グラスに注がれていたワインはリズの口の中に消えていた。突然花嫁が国王のワインを奪って飲むという奇行に、思考がついていけないみんなは口を半開きにして固まっている。
リズの手からストンと抜け落ちる空になったグラス。
続いて続くのは、パリンと硝子が割れる甲高い音。
「リズ!?」
ゼフィールの絶叫が響いた後、リズは両手で喉を抑えて顔を青く変色させた。―――息ができない。
苦しそうな表情で倒れ込んだリズを震える手で抱き上げるゼフィールは狼狽えて呆然とした。
「ど・・・どうして・・・」
何が起こったのかわからない。頭の中では理解しているはずなのに心が目の前に起こっていることを拒否している。まるで夢の中の出来事のように麻痺した思考で「あっ」「がっ」と声にならない声を上げて苦しむリズを見つめるゼフィール。
「陛下!早く解毒剤を!」
「・・・っわかっている!」
遠くから聞こえて来たクロウの叫び声に、我に返ったゼフィールはリズを片手で支えたまま己の手首に手を延ばした。
ところが。
「離せっ!」
先にリズがゼフィールの銀の腕輪を手で掴んで離さない。息ができずひゅーっとか細く鳴る喉に苦しみながらも、リズの細い腕からは考えられないほどの強い力で握り込まれていた。ゼフィールが引き剥がそうとしてもビクともしないほど。
―――それはリズが解毒を拒否するという明確な意思表示だった。
これでは蓋が開けられない。時間がないのに。
ゼフィールが必死に掴まれたリズの手を引き剥がそうとしている間にも、一秒一秒と無情に時は流れていく。
リズの喉からは徐々に音が消えていった。顔は更に青白くなり、酸素を求めるかのように口をはくはくとさせて体が痙攣し始める。
「離せって言ってるだろ!!」
ゼフィールの焦りと怒りの声に反応したのはリズではかった。
横から伸びてきたのはクロウの腕。彼が両手でリズの腕を押しのけると、ようやく、ゼフィールは腕輪の蓋を開けることができた。
腕輪ごと口の中へ突っ込む勢いで粉を注ぎ込まれ、ゼフィールの指が粉をリズの口内から喉へと乱暴に押し込む。
「リズ・・・頑張ってくれ。頼むからっ・・・」
喉に押し込められた薬と指にリズは生理的なえずきを繰り返し、やがて全身から力を失ってダラリと四肢を投げ出して意識を失う。
リズの呼吸はほんの僅か。
まだかろうじて息はある。後は運とリズの生命力との勝負だが、この解毒剤はリズの毒にどれほど効果があるのかゼフィールは確信が持てない。
「早く医者を・・・追加の解毒剤の用意をっ」
「もう手配済みです」
クロウの冷静な言葉に、ゼフィールは腕の中で意識を失っているリズを見つめる。青白い顔と苦しそうに眉が潜められた表情に心臓が止まってしまいそうだ。
何が起こっているのか理解できず呆然としている周囲の人々に見られながら、ゼフィールはリズの頬を優しく撫でながら何度も話しかけた。
「リズ、リズ、もう少しだ。もう少しで楽になる。すぐに医者が来るから・・・それまで耐えてくれ。きっと大丈夫、助かるから」
どんな問いかけにもリズはピクリとも動かない。
どうか彼女を助けてくれと、ゼフィールは何度も何度も神に祈り続けた。





