8-3
二人は文通をやめたため、必然的にポットの手紙を運ぶ仕事はなくなった。
完全に二人の道は分かれてしまった。ポットはゼフィールとリズが別れを決意した次の日、ハチに刺されてしまったかのように両目が腫れて密かに思いを寄せていたお庭番の女の子にドン引きされた。大通りを歩いても誰も気づかないくらい溶け込めるのに、誰も彼もがポットの顔を見た途端にぎょっとして無言で距離を取った。
リズはラスター家のタウンハウスに移り、ジェイスと笑い合いながら過ごしている。それでも彼女の笑顔は以前よりずっと寂しそうで、見守らなくてはならないのになんだか目を逸らしてしまいそうになる。
ジェイスのいない時間は部屋の窓から遠くに見える城をぼーっと眺めていて、その視線の悲しさにポットは嗚咽を漏らしそうになって耐えるのが大変だった。
リズの護衛を任されているため、ポットにはゼフィールの様子はわからない。
だけど。
(陛下、絶対参ってるよな・・・)
ポットには確信があった。リズが去った後のゼフィールの悲愴さたるや、目を覆い隠したくなるものがあった。彼はリズ以上に参っているだろうし辛いはず。
時間は薬になるというが想いが消えるわけではない。特にこの二人の場合はお互いの幸せを考えて別れを決意したのだから余計に忘れられないだろう。
ジェイスと結婚してリズは穏やかな暮らしを手に入れるが、本当にこれで良かったんだろうかとポットは考えてしまう。例え後に悲劇を生むとしても添い遂げた方が結果的に二人は幸せになったんじゃないだろうか、と。
確かに敵は多い。だけど味方がいないわけじゃない。
もっと頭の中をお花畑にして愛に生きられたなら、二人は周りを巻き込みながらも手を取って離さなかっただろう。しかし二人とも真面目過ぎるがゆえに安易な選択はできなかった。もっと若くて勢いがあればできたのかもしれないが、二人は短い人生の中でもそれなりに修羅場を経験していてそれなりに精神が成熟していた。
いろんな条件が重なって、結局運命ってものは二人を引き離すことにしたのだ。
これは神様に文句を言えばいいのか。天に唾を吐きかけても己の頭にしか落ちないけれど、文句のひとつでも言いたい気分だ。
リズは今日も窓から外を眺めている。時折唇を指で触れては、すっと手に力を無くして唇から指を離す。そして何度も思い出しながら記憶に大事に仕舞い込むように、じっと城を見つめる続けるのだ。
(お願いだから誰か代わってくれ!)
ポットは心の中で声に出せない悲鳴を上げる。
見てらいれない。リズに感情移入してしまって見守り役なのに黙って見守っていられない。お庭番として失格だと分かっていても、さすがに5年間見守り続けて来た子の幸せは祈りたかった。
(誰か代わってくれー!)
ポットは屋根裏から毎日心の中で叫ぶ。しかし当然、誰も助けに来てくれることはなかった。
リズのいなくなっても恒例のお茶会は継続された。しかしゼフィールは以前にも増して喋らず相槌も打たない。食欲がないのかほとんど手つかずで、いくら話しかけられても無視する様子はエレノアが出会った当初に戻ったかのようだった。
無言で部屋からゼフィールが出て行った後、エレノアは両肘をついて大きくため息を吐く。
「はあ、今日もダメかあ・・・」
「気を落とさないでください。陛下はちゃんとお茶会に参加していますし、それだけでもすごい事なんですから。他の女性だったらひと睨みして後は無視ですよ」
クロウの慰めの言葉にエレノアは「そう?」とどこか納得できない顔で口を開いた。
「本当にこれで良かったの?」
「どういう意味ですか?」
「リズのことよ。だって陛下ったら前にも増して生きた人形みたいになっちゃってるじゃない」
クロウは少し考えてからゆっくりと答えた。
「さあ、良かったと思いますよ」
「私情入ってないって言える?」
「・・・いいえ。王佐として公平な視点から物を申すようにしておりますが、私も人間なので」
クロウはハーバートが政権を握っている間は牢の中で過ごした。同じくクロウの兄も牢の中で過ごし、彼は亡くなっている。ハーバートに対する個人的な恨みがないと言ったら嘘になる。
正直な答えにエレノアは鼻で思い切り息を吸って口から吐き出す。
「私は余所者だから政治についてどうこう言うつもりはないわ。だけどリズは友達だもの。陛下も・・・もう友達みたいなものよ。陛下の様子を見てたら本当にこれでよかったのかしらって思っちゃうわ」
「どうでしょうね」
クロウだって今のゼフィールを見て心を痛めないわけではない。大切な友人の恋を応援できなかったという後ろめたさだってある。
「だけど・・・どうなるかわからないこそ、二人は考えて悩んで答えを出したんでしょう」
「そりゃそうだけどさあ・・・」
エレノアはぼーっと天井を見つめる。
「世知辛いなあって思っちゃうのよ。恋愛ってこんなに難しいものなんだって改めて見せつけられたと言うか・・・」
とっくに恋愛を諦めている身でも、友人が恋をして悲しんでいる姿を見ると自分も悲しくなってくる。どうしてあげることもできない自分の無力さとか、世の中の無情さを思い知らされる。
ゼフィールとリズの場合は両想いだったから余計にやりきれない。
「ええ、気持ちはわかりますよ」
「本当にわかってる?」
「わかっています。私だって別れさせたかったわけではありませんから」
「嘘」
「嘘ではありません」
「嘘」
「嘘ではありません」
「嘘」
「・・・はあ」
しつこいエレノアに失礼だと分かっていても思わずため息が漏れてしまった。クロウは嫌そうに顔をしかめながら話し始める。
「陛下は・・・ゼフィール様は今までたくさんの苦労を重ねています。昔は普通の少年だったのに、今では見る影もないほど疲れ切っている。
それは私たちが彼を焚きつけて来たからに他なりません。王座に何の執着も無かったあの方を、我々が正義を掲げ免罪符にしていい様に使ってきたんです。―――利用したんですよ」
その言葉の重みはエレノアにはわからなかったかもしれない。しかしクロウは構わずに続けた。
「そしてあの方は今も我々に縛り付けられたまま、己の自由も心も失ってしまったんです。そんな時に現れたのが彼女でした」
リズの存在はゼフィールに一人の人間としての感情を取り戻させた。大事に想ったり心配したり、そういう当たり前のことができたのは相手がリズだったからだ。
「リズ様も、いい方でしたよ。少し危なっかしい所もありましたけど、優しくて気立ての良い方でしたから。陛下が王でなければ結ばれていたでしょう」
「でも結ばれなかったのね、陛下が王様だから」
「はい。臣下としては一番に国の安寧を考えなければなりません。だから二人を引き離したくはなかったけれど、賛成はできませんでした。
それでも陛下に幸せになってほしいという思いはありました。これは本当です」
エレノアは静かにクロウの言葉を吟味してから、じわじわと小さく微笑んだ。
「ま、そういうことにしておいてあげるわ」
「・・・どうも」
「友人の恋を応援してあげられないなんて私たちもお互いに辛いわね」
「そうですね」
これからゼフィールはどうなってしまうのだろうと思うとエレノアは考えてしまう。リズが居なくなったゼフィールを支えるのはあまりにも荷が重いから。
「困ったわあ・・・」
「・・・そうですね」
またリズといた時のようなゼフィールに戻って欲しい。だけどエレノアもクロウもリズの代わりにはなれない。
難しい問題だ、とそのまま二人はしばらく黙り込んでしまった。
リズの宛がわれた客室は大通り側にあり、窓から城を眺めることができた。またラスターの庭や正門も見えるため、リズは午後になるとなにをするでもなくぼーっと窓の外を眺め、ジェイスの馬車が到着すると部屋から飛び出てエントランスへと向かう。
「おかえりなさいませ」
「ただいま、今日も変わりなかったかな」
「はい」
このような挨拶も最初は照れていたが、一カ月も経つと慣れてくる。
ジェイスはリズを見てにっこりと笑うと、手にしていた分厚い紙の束をリズへ渡した。
「これ、頼まれていたものだけど」
「ありがとうございます」
「そんなに頑張らなくていいんだよ?」
上着を脱いでリビングホールの大きなソファに座りながらジェイスは苦笑する。彼が今手渡したのは各領地の税率や回収率、各産業の統計などが表になっているものだった。リズが領地運営を手伝うための勉強を始めたのは一週間前から、そしてとうとう本格的な数字の勉強まで始めるようになってしまった。
そのやる気が有難いやら心配やらでジェイスは複雑だ。
「普通当主の妻だったら良くて領地の慰問くらいだよ?あとはパーティー開いたり、手紙のやり取りとか、そんなものなのに」
貴族の女性は主に社交を担うのが定石。稀に夫の仕事を手伝う婦人もいるが、勉学を庶民に普及させたり医療の充実のための活動をしたりと、夫の手が届きにくい福祉面で活躍している。リズのように本格的に数字を持ち出す女性は聞いたことがない。
リズはジェイスの隣にゆっくりと座ると、申し訳なさそうに眉を八の字にしながら口を開いた。
「私も社交面でお役に立てたらよいのですが、噂になってしまった以上は表に出られませんし・・・。孤児院などへの慰問もあまりお役に立てないかと・・・」
「そうだね、リズは極度の人見知りだからなあ」
しみじみとジェイスは昔を思い出しながら言う。
「すみません・・・本当に情けない話ですが・・・」
「謝ることないよ、リズが人見知りなのは周りの大人たちの所為でもあるし」
「そうでしょうか」
「覚えてないかな?僕も一時期リズに怖がられて近づいてもらえなかったことあったよね」
「はい・・・そんなこともありましたね」
なんとなく覚えているリズは頷く。
リズは昔から変な大人に狙われやすかった。4歳の時には執事に服を脱がされそうになり、5歳の時にはシェフに体をベタベタと触られ、その後間もなくフリーデンの分家の子息から下着を奪われそうになった。次々と起こる事件にリズの両親は危機感を覚えたのだろう。リズを家の中へ閉じ込めるとリズに関わる使用人を最低限度に絞り、人との接触を可能な限り減らした。そしてリズは毎晩「この世の男の人は全て悪者だと思え」と何度もしつこく言い聞かせられ、ジェイスももしかしたら悪者なのかもしれないと思ったリズはしばらくジェイスを怖がっていたのだった。
「それまでは懐いてくれてたのに急に嫌われて悲しかったなあ」
「嫌っていたわけでは・・・」
「そっか、良かった」
ジェイスは横を向くと隣に座っているリズの頭を優しく撫でる。
「無理しないでね、リズは何もせずにのんびり過ごしてもいいんだからね」
「ありがとうございます。でも私、実はやりたいことがいっぱいあって・・・」
リズは恥ずかしそうにしながらも饒舌に話し始めた。
「領地の運営のお仕事も興味がありますし、空いた時間に本を書きたいなと思って」
「本?」
「はい。以前翻訳の仕事をしていた時からなんとなく考えていたのですが、人の言葉ではなく自分の言葉を形にしてみたいなと思っていたんです。何を書くかまだ決めていないんですが・・・」
へえ、とジェイスは面白そうに目を見開いて微笑んだ。
「いいね、リズは人前で喋るのはあまり得意じゃないけど書くのは得意だもんね」
「得意かどうかはわかりませんが・・・楽しそうだなって」
前から漠然と考えていたことも、領地での新しい暮らしが始まることで具体的な夢になった。ラスター家のタウンハウスで過ごす暇な時間もどんな内容の本にしようかと考える絶好の機会だ。
「もし書き終えたら僕に一番に見せてね」
「はい、お願いします」
約束、とジェイスとリズは手を重ねて笑い合った。





