7-4
緩やかな風に木の葉が揺れる。庭は植木に囲まれて城の明かりが届かず、月の淡い光だけで照らされていた。
ベンチに座って俯いているリズの視界に、足音と共に黒の靴を履いた大き目の足が現れる。
「・・・少し、昔を思い出していました」
リズは書きかけの手紙を膝の上に置き、静かに言った。
「だいぶ忘れてしまっていたようです。それでも、ちゃんと思い出せるものなのですね」
不思議とよみがえる昔の記憶はこの場所のせいだろうか。それとも、この手紙のせいなのか。
「一番大切なことを忘れていたんです。思い出して、封蝋に黒い薔薇が使われていた理由がやっとわかりました。思い出以上に大事な意味があったんですね」
「・・・リズ」
許しを乞うように名を呼ぶゼフィールの顔は暗がりの中でも分かりやすいほど絶望に満ちている。
一方でリズは目の下が少し赤いものの、ゼフィールを顔を見て小さく笑った。
「まあ、酷いお顔ですよ」
「・・・怒っていないのか?」
「怒るようなことではありませんから」
「普通は、怒ると思う」
信頼して全てを打ち明けていた相手が自分の親を殺し何もかも奪っていった人だなんて簡単に受け入れられる事実ではない。
更に、リズは手紙で告白してしまっている。ゼフィールが好きだということを。
リズは少し困ったように笑って口を開いた。
「そうですか。でも、私は腹も立ちませんし、ガッカリもしませんでした」
手紙の送り主がゼフィールだったらいいのにと思っていた訳じゃない。想像したこともなかった。
ただそうだったのかと、妙に納得してしまっただけ。ハーバートの娘であることも知っていて当然だったな、と。
リズはどこか遠くを見ながら淡々と続ける。
「まずは・・・陛下にはお礼を申し上げなければなりませんね」
「お礼を言われることなどなにもしていないっ」
「命を助けていただきました。それから、手紙も」
本来ならばとうに失っていたはずの命だ。ゼフィールがリズを見逃したおかげで、生きて今ここに居る。
しかし、ゼフィールにとってその感謝は到底受け入れられないものだった。そもそもゼフィールがハーバートを討つことをしなければ、リズは今でも両親と幸せに暮らしていただろう。
「・・・俺はリズの両親を手にかけた。それが正しい行いだったかなんて、今でもわからない。もっと別の方法があったかもしれない」
ハーバートの治世はたったの3年、彼が王として相応しい人物かどうかを評価するには短すぎた。ゼフィールが即位して支持されているのは結果論だ。あのままハーバートの治世が続いたらオストールが豊かになっていた可能性もあった。
胸を張って自分の行いが正しかったなんて言えない。だからリズにもずっと合わせる顔がないと思っていた。謝罪する権利もないのだと。
「陛下・・・」
リズはゼフィールの目を見て口を開く。
「・・・わかっています。でも、陛下が助けた人もたくさんいたはずです」
ハーバートがゼフィールを押し退けて王座を奪うと、一番最初に抗議したクロウは投獄されている。続いて抗議したクロウの兄も同じく投獄され、彼は劣悪な環境の中で病を患い、妻と幼い子どもを遺して亡くなっている。同じような目に合った人は貴族だけでなく国民も含めたなら数えきれないほどいるだろう。
リズは全て、ベルモット家に落ち着いてからそのことを知った。
「陛下も、お辛い立場だったことと存じます。若い身空で、たくさんの人の期待を背負って戦わなくてはならなかったのですから」
「リズに気を遣ってもらう資格はない。そもそも、俺の父が即位したことから間違っていたかもしれない。だから・・・」
ゼフィールの父が第一子であるハーバートを押し退けて即位したのは、ゼフィールの祖母が先妻の息子―――つまりハーバートの即位を拒否したからだと言われている。ハーバートの恨みの根源を突き詰めれば、最初に火種を起こしたのはゼフィールの祖母と父かもしれなかった。
「誰が正しいかなんて、神様にしかわかりませんよ」
リズの静かな言葉にゼフィールはそれ以上続けるのをやめて俯く。リズの言う通り、誰が正しいかなど誰にも判断できない。みんなそれぞれの正義を抱えて戦っているだけなのだから。
そして偶々、ゼフィールとリズは正反対の立場に立たされ生まれてきた。これは変えようのない運命。
「お慕いしております、陛下」
「リ―――」
「後悔のないように、今のうちに言っておかないと。両親には後で手を合わせて謝っておきます」
リズは穏やかな表情で微笑んで言った。しかしその目尻は哀しそうに下げられていて、ゼフィールは最後の覚悟をした。
「私、ジェイスお兄様の求婚をお受けします」
リズの小さな口から紡ぎ出された言葉はゼフィールの予想していた通りだった。静かに目を伏せる。
「・・・そうか」
「・・・はい。本当はずっとそうしなければと思っていたんです。ただ、なかなか決心がつかなくて」
リズの存在はゼフィールの側にいるだけで害になる。だからゼフィールの穏やかな治世を願うなら彼から離れるしかなかった。そして自分自身の穏やかな人生を手に入れるためにも、ジェイスとの結婚は最良の道だと思っていた。
「でもこれがいい切っ掛けになりました。
私、陛下にいただいた言葉を全部持って行きます。お会いできないのは苦しいけれど・・・幸せに・・・なれると思います」
ずっとゼフィールに支えられてきたが、そろそろリズは一人立ちしなくてはならない。ゼフィールから貰った手紙は一字一句間違えず全てリズの頭の中にあった。心から信頼し、愛した人の言葉だ。これから先の人生の糧になる。
ゼフィールはしばらく黙り込むと、顔を上げて口を開いた。
「少し・・・ついてきてくれないか」
ゼフィールに連れられてやって来たのはゼフィールの私室だった。広さはなく、調度品は最低限に抑えていてスッキリと纏められている。
彼は部屋の奥の寝室と思われる部屋に消えると数分もしないうちに戻ってきた。両手に抱えられているのは木箱。
「あまり残っていないが・・・」
ゼフィールが木箱をテーブルの上へ起き蓋を開ければ、中にはごちゃごちゃと色々なものが詰め込まれている。リズはそっと近寄って箱の中で縦に入れられていた本を手に取った。
―――レンブランの絵本。
「これ・・・」
昔リズが持っていたものだ。他にも、よく見ればリズの父が愛用していた羽ペンや母が大切にしていた宝石類もある。
これは全てフリーデン家が所有していた品だった。かつては貴族として品は数えきれないほど所有していたが、特に高価なものを集めてこの木箱に詰め込まれていたらしい。使用されていた形跡はなくリズが知っている当時のままで残されている。保管方法はこの価格帯のものにしては少し雑だけれど。
「嫁ぎ先に持っていくといい」
「えっ・・・!?」
リズは仰天して小さく飛び上がった。
「い、いただけません・・・。私には分不相応です」
「元々はリズとご両親のものだ」
持ち主に返るだけ、とゼフィールは言う。
しかしここにあるものは家の一軒二軒で済む値段じゃない。「はい、いただきます」と簡単には言えなかった。
「でも・・・」
「一度に処分しなければフリーデン家との関連は疑われないだろう。俺の部屋に置いておくよりもリズの手元に渡った方が故人も喜ぶ」
ゼフィールはリズの手から本を優しく奪うと木箱の中へ仕舞い、蓋を閉めて箱ごとリズに手渡した。リズは受け取った木箱の重みに、両親との思い出を受け取ったような気がして唇を噛む。
「・・・ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
元々ゼフィールが無理矢理奪ったものだ。返すことができたのもほんの一部。
「でも、処分することもできたのに、大切にとっておいていただいたから・・・」
「・・・そうか」
ゼフィールは今度は素直に頷いてリズの瞳を見つめると、熱く二人の視線は交わった。
「遠く離れても君を想っている。これからも」
「・・・ありがとうございます。私も陛下を想っております、いつまでも」
これがきっと最期の逢瀬。
「陛下?手紙は見つかりましたか?」
珍しく開きっぱなしの扉に、クロウは不思議そうに眉をしかめて声をかけながら近づく。しかし返事はなく、入れ替わりに部屋から飛び出して来たのはリズ。
早足で去っていく彼女の背中を唖然として見てから、急いで部屋の中にいるゼフィールの方を向いた。彼は静かにテーブルの横に立ち尽くしている。
「陛下・・・!?」
怒りの滲むクロウの声色にゼフィールはどこか遠くを見たまま静かに言った。
「・・・別れの挨拶をしただけだ」
「えっ」
「リズは、ジェイスと・・・」
その続きは言葉にならない。
クロウは話を聞いてもなお険しい顔のままだ。
「それはいい話でもありませんでしたね。まさかラスター家に嫁ぐことになるなんて」
「ジェイスはリズをとても大切に思っている。彼女が人見知りなのも、人目に晒されるのが嫌いなのも、十分にわかっている」
ジェイスはリズが手紙で書いていたように優しく誠実な人物だった。お庭番に調べてさせても彼は人畜無害で素行がよく、リズを大切にできる人だと判断した。
野心家でもないので繊細なリズを表舞台へ引きずり出す真似はしないだろう。生き残った最後の家族を政治の駒にする鬼のような仕打ちはしないはず。
ラスター家の領地でリズは穏やかに暮らすことができる。
それが嬉しくて苦しくて、まるで時が止まってしまったかのよう。
「・・・もう、いいだろう」
暗に出ていけと言うゼフィールの力ない声に、クロウは開きかけの口を閉ざしてしぶしぶ出て行った。
これでよかったんだと何度も何度も自分に言い聞かせる。心を殺す。
ゼフィールは何度も苦しい思いをしてきたが、これが一番辛くて一番やりきれない出来事だった。





