7-3
心地の良い春の夜、日中はずいぶん暑くなったが陽が落ちると涼しくて過ごしやすい。
リズは夜までに多少起き上がれるようになったため、汗を流そうといつも通りに大浴場へと向かった。そして部屋へ戻る途中、背後からアンリエッタに呼び止められる。
「ちょっと先生、これ拾ったんだけどさ、中見たら先生の名前が書いてあったから」
リズは首を傾げながら差し出された紙を受け取る。皺をいくつか作ってあるこれは雑に折り畳まれた紙―――手紙だろうか。しかしどこにも宛名や差出人の名前が書かれていない。
不思議に思って開いてみると、中に書いてある文章にリズの目がみるみる大きくなった。
『自分ではどうにもならない気持ちがあることは僕にもよくわかるよ。亡くなったリズのご両親がどう思っているかは知りようがないけれど、僕が君の親ならばリズが一番幸せになる道を選んでほしいと思うだろう。だから』
―――彼の手紙だ。
この完璧な癖のない文字も、内容も、彼の書いたものだと疑い様がなかった。しかし中身は書きかけで、いつもは書かれている宛名も封蝋もない。完成された手紙ではなかった。
たしか、これは拾ったとアンリエッタは言っていた。
「待ってください・・・っ!」
リズは遠くに行っていたアンリエッタの元へ駆け寄り、息が上がって肩を上下させながら詰め寄る。
「これ、どこで拾ったんですか!?」
「その紙ならベンを追い回してる時に本城の中で拾ったものだよ」
リズは表情を凍らせて動かなくなった。
「どうした?大丈夫かい?」
「・・・はい」
絞り出すように返事をすると、アンリエッタは不思議そうな顔をしながらも背を向けて去って行く。
リズは手紙をぎゅっと握った。
―――いる。文通相手の彼が、城の中に。
心臓がバクバクと激しく音を立てながら全身に鳴り響き、背中にツーッと冷や汗が伝った。視界がグラグラし始めて、リズは身動きが取れずその場で踏み止まるように立ち尽くす。
リズはずっと、彼の正体を答え合わせするつもりはなかった。彼を心から信頼していたから彼がどこの誰でも構わないと思っていたからだ。たとえ世間で疎まれている人であろうと、罪人であろうと、リズにとって大した問題ではなかった。
だけど、意図せず彼の正体を掴む手がかりを手に入れてしまった。なんの心の準備もなく突きつけられた事実に、リズは震える手でもう一度手紙を開く。
ずっとずっと待ち続けていた手紙の返事。相変わらず彼は優しくて、リズを責めるような文言は書かれていない。
リズはしばらくじっとその文字を見つめると、不意に手紙を折り畳んで歩き出した。
ゼフィールは兵舎の勲章式を終えて執務室へ帰ると、いの一番に椅子にかけられていた上着へ手を伸ばした。
しかし、すぐ異変に気付く。
ポケットに入れていたはずの手紙がない。
返事を書くのに難航していたゼフィールは、気分転換に兵舎の部屋で続きを書こうと思いつき上着に入れて持って行った。しかし場所を変えても思いつかず没にしたが、兵舎では捨てられなかったので再びポケットに仕舞っておいた。その後、日中の陽射しが強かったため上着をベンに預け、先に本城へ持って帰っておくよう頼んでいたのだが・・・。
ベンが途中で抜き取ったか。それともどこかで落としたのか。
宛名はなかったが中にはリズの名前が書いてある。もし、リズの手に渡ったら―――。
ゼフィールは全身から血の気が引いて執務室を飛び出した。ベンは既に本城には居ないだろう。一番先に向かったのは近くにあるクロウの執務室。
「クロウ、手紙を見かけなかったか」
ノックもなくいきなり扉を開いて現れたゼフィールに、机に向かって座っていたクロウは不審そうな目で見上げる。
「どうしました?手紙?」
「そうだ、書きかけの・・・」
まさか、とクロウは目を見開いて顔色を悪くする。手紙と聞いてゼフィールが探しているとなると、思い当たることはひとつしかなかった。
「だから申し上げたじゃないですか!」
今は小言を聞くつもりはない。ゼフィールは無視してクロウの執務室を去ると、居城の廊下を大股で歩き出す。どこかに落ちてやしないかと見て回ったがどこにも見当たらない。侍女や衛兵、すれ違った人すべてに訊ねたが誰も何も知らなかった。
しかし、手がかりは突然訪れる。
「手紙?あのぐしゃぐしゃになった紙のことでしょうか」
思い当たる人が現れた。本城の新入りの侍女にゼフィールは強面で詰め寄る。
「見かけたのか!」
「は、はい・・・。アンリエッタさんが持っていらしたので・・・」
侍女は肩をすくめてビクビクしながら答えた。ゼフィールは途端踵を返して早足でアンリエッタがこの時間帯にいそうな場所へと向かう。嫌な汗に手を固く握りしめ、衛兵たちに不審な目で見られても構わず大急ぎで歩く。
「アンリエッタ!」
なんの前触れもなく突然厨房に現れたゼフィールに、アンリエッタのみならず皿洗いをしていたシェフたちもみんな目を丸くしてゼフィールを見る。
立ったまま夕食の残りを食べていたアンリエッタはその尋常じゃない様子にフォーク片手に動きを止めた。
「へ、陛下・・・?」
「手紙はどこだ」
「手紙って・・・あの皺だらけのかしら」
「そうだ」
ゼフィールがごくり、と息を飲む。
「あれならベルモット先生に渡したよ。名前が書いてあったから」
「―――っ!」
終わった、と思った。
庭で、女の子が泣いていた。
日中は雨が降っていたため、急きょ夜間に成人祝いが行われた。主役はゼフィールの知り合いではなく、子どもにとっては大して面白くもない集まりに、早々に飽きたゼフィールは祝いの席を抜け出してぶらぶらと歩きまわっていた。知り尽くした庭も夜は全く違った雰囲気で、暇つぶしに悪くないなと思いながら。
そしてしばらくすると、庭の奥の方でベンチに座りながら泣いている黒い髪の女の子を見つけた。普通泣き顔はぐちゃぐちゃに歪んで醜いものだが、この子はきゅっと固く口を閉ざしたまま真顔で目から大粒の涙をボロボロと流している。
きっと成人祝いに参加していた貴族の子が迷ったのだろう。ゼフィールは大人を呼ぶべきか迷ったが、人がいる広場はここから結構な距離がある。人を呼びに行っている間、暗いこの場所に小さな女の子をひとりにするのは可哀想で、ゼフィールはこの場を離れるに離れられず女の子の方へと近づいた。人を呼ぶよりもこの子を広場まで連れて行った方がいい。
「迷った?」
女の子の前に行って声をかけると、彼女は顔を上げて緑色の目を真ん丸にしながらゼフィールを見上げて来た。しかしいくら待っても返事がない。
「・・・大丈夫?」
再び声をかけても、彼女は涙を流しながらビクビクするだけ。ゼフィールは困って周りを見渡したが、やはりこの辺りに人の気配はなく大きなため息を吐き出した。
「君、見かけない顔だけど貴族の子だろう。ご両親のところまで連れて行くから、ついてきてくれないか」
両親、という言葉にピクリと反応した。しかしそれでも一言も発さないのでだんだんイライラしてくる。
「はあ・・・なんで喋ってくれないんだ・・・」
困り果てるゼフィールは脱力して独り言のようにつぶやく。
すると、女の子はそこで初めて口を開いた。
「知らない人と、しゃ・・・喋ったらだめ・・・って、お父様たちが・・・」
なるほど、両親から止められていたのか、と納得するゼフィール。こんな時までいいつけを律義に守る彼女に、ゼフィールはできるだけ怖がらせないよう優しく訊ねた。目つきが悪いと言われることもあるので、優しく言わなければ女の子はまた怖がって口を閉ざしてしまうだろうと思ったから。
「どうして?」
「し、執事に・・・いたずらされかけて・・・」
ん?とゼフィールは喉から声が漏れた。話が読めない。女の子はたどたどしくも必死に言葉を紡いだ。
「わ、わたしは狙われやすいって、知らない人と、おとこのひとと、喋ったらだめって。家からも出たらだめって・・・」
端的な説明だったがすぐに理解できた。この子はたぶん、男性からそういう目で見られ易いのだろう。主張は少ないが整った顔立ちは可愛らしく、ゼフィールの知っている同年代の子たちよりもずいぶんと大人しい。ゆっくりとした口調は穏やかで優しい声色をしていて、何をしても許してくれそうな緩やかな雰囲気がある。
きっと、幼い子が好きな一部の男たちにとって格好の獲物だ。気の毒な話ではあるが。
だからこの子の両親はわが子を守るために、知らない人とできるだけ喋るなと言いつけている。子を思う親としては当然の対応だろう。
「だったらこんな所に一人で来たら駄目だ」
「・・・ごめんなさい」
少し言い方がきつかったのか、彼女は再びめそめそと泣き出してしまう。
ゼフィールはポリポリと人差し指で頬を掻く。今まで泣いている女の子を慰めたことも無ければ慰める方法も知らず、どうすればよいかわからず困ってしまった。
前に父から薔薇を貰って大喜びしていた母のことを思い出して、とりあえず適当にそこらに生えている薔薇を雑にもぎ取り、無言で押し付けるように女の子へ差し出す。
びっくりした女の子は泣くのも忘れて、遠慮がちにゆっくりと薔薇を受け取った。
ところが。
「いたっ・・・」
薔薇の棘で女の子の柔らかい皮膚は簡単に傷つき、指からじんわりと赤い血が滲みだした。しかも渡した薔薇が黒い色をしていることに気が付いてゼフィールは焦る。
「わ、悪かった・・・」
急いで取り返そうとしたが、女の子は怪我をしたにも関わらずぎゅっと薔薇を握りしめて離さない。ずいぶん痛そうだが目から止めどなく流れていた涙は止まった。
「手、痛いだろう?ごめん、違う花をあげるからそれは・・・」
「・・・これがいいの」
消えそうなくらい小さいのに、譲らないという頑なな意思のこもった声。
「でもその薔薇は棘が硬いみたいだし、色も黒いから良くない」
「駄目なの?」
「駄目というか・・・縁起が悪いから。花言葉も“呪い”とか“恨み”とか」
死を連想させる花なので人に贈ったら『死ね』と言っているのと同義だ。間違いなく嫌われる。女の子は少しの間考え込んで、遠慮がちにゆっくりと口を開いた。
「じゃあ・・・他の花言葉にして」
「えええぇ・・・」
とんだ無茶振りが来た、とゼフィールの口から不満の声があがる。しかし女の子は緑色の瞳をキラキラさせながら可愛らしい顔で見上げてくるので、ゼフィールは困惑しながらも必死に脳を働かせる。
「んー・・・、じゃあ・・・『君の幸せを祈る』」
これなら人に贈る花としてふさわしい花言葉になる。泣いている女の子に渡すにも問題ない。
「どうだろう?」
ゼフィールの問いに彼女は嬉しそうににっこりと笑った。
「・・・うんっ」
真顔の泣き顔もお人形のようで可愛いけれど、笑うといっそう可愛らしい。
ゼフィールはこの可愛らしい女の子に少しだけ胸をときめかせながら、同時にこの子の将来がちょっとだけ心配になった。
彼女の前に膝をつき、目線を同じ高さにしてから話す。
「これは2人だけの秘密だ」
「2人だけ?」
「そう。普通はよくない花だから。・・・だから、俺たちだけの秘密の花言葉。誰にも言ったらだめ」
贈り合うのは2人の間だけだと強めに念を押す。そうじゃなければ幼い彼女は喜んで他人に贈ってしまいかねないから。
「わかった。秘密にする。『君の幸せを祈る』は私たちだけの秘密の花言葉なのね」
「・・・うん」
「わたし、この黒い薔薇が一番好き」
「・・・そうか」
目が合うと女の子は微笑む。その笑顔はゼフィールが今まで見てきた中で一番美しい笑顔だと思った。





