1―3
「引っ越し?」
それはリズにとって寝耳に水だった。目をぱちぱちさせるリズにベルモット家のフレッド、イルダ、クリフはニコニコしながら頷く。
「そうなの。せっかくの機会だし思い切ろうかって」
「どちらに引っ越されるんですか・・・?」
「ショーケンよ」
「ショーケン・・・ですか」
リズはぼそっと呟きながら俯く。ショーケンはオストールの西の端にある小都市だ。小都市とはいえど農民が多く暮らしている田舎だと聞いたことがある。
「それで、リズはどうする?」
「え?」
「引っ越し先についてくる?私たちはどちらでもいいわよ」
リズはニコニコしているベルモット家の皆を見回した。彼らはこれから引っ越して新しい生活が始まるのを楽しみにしている。そしてそれは“家族”で一緒に行くことができるからだ。その家族の中にリズは入っていない。
ついて行きたいと言えば連れて行ってくれるだろうが、リズはもうすぐ17になる。少々心許ないが独り立ちできる年齢だ。
それにショーケンへ行けば翻訳の仕事ができなくなってしまう。田舎で畑を耕すのも不可能ではないがリズの身長は平均より低めで細身、農作業を手伝っても逆に足手まといになる。生粋の人見知りなので接客すら危うい。田舎で農作業も接客も難しいとなると、他に稼ぐ手段を探すのはとても大変だと予想できた。
ならばショーケンへは行かず、王都で一人暮らしをしながら翻訳の仕事を続けるのが一番だ。ベルモット家も久しぶりの家族水入らずで楽しい新生活をスタートさせることができるだろう。
ただし独り立ちには一つだけ問題があった。それは翻訳の仕事は不定期で収入が安定せず、高価な王都の家賃を払うのは難しいということ。
翻訳の仕事を諦めて他の街へ引っ越すならば、当然ある程度最初に纏まった資金が必要になる。しかし今までの収入のほとんどは衣食住の費用としてベルモット家に渡していたため、リズは貯金らしい貯金を持っていなかった。
どうしよう、と困り果てるリズ。
返事をできずにいるとフレッドが声をかけてくる。
「まあまあ、今すぐ決める必要はないよ。ここを出るまでしばらく時間があるからそれまでに考えるといい」
「・・・はい」
リズは小さく頷いて頭を下げた。
いずれにせよ、今まで危険を冒してまで助けてくれたこの人たちを煩わせるのはやめよう、と心に決めたのだった。
ひとり暮らしをするにあたって一番問題になるのは家賃。できるだけ安い場所を探してみようと相場を調べたが、リズは価格を見た瞬間に目を逸らしてしまった。やはり翻訳の仕事だけで払うのは難しいので翻訳の仕事をしながら副業で稼ぐしかない。
生きるためなのだから苦手だのなんだの言っている場合ではなかった。それでもどうしても王都に住み続けるのが嫌ならお金を貯めて出て行けばいい。庶民なら皆やっていることなのだからリズにもできないはずがない。
腹を括ったリズはさっそく副業になりそうな職を探して街を出歩く。普段は家に引きこもりがちなので太陽の光が眩しく白い肌をジリジリと焼くような感覚があった。
あっちへフラフラこっちへフラフラと足を運んではみたものの、誰にも声をかける勇気がなくただ店の前を素通りするだけ。そして結局は行き慣れたオズモンド出版の目の前まで足が勝手に運んでしまった。
己の情けなさにガックリしながらも扉を開けて中へ入れば、日陰のヒヤッとした涼しさにほっと安堵のため息を吐き出す。
「あ、リズちゃん、ちょうどいいところに!」
「こんにちは・・・・。あ、仕事ですか?」
「そうそう仕事!」
にかっと笑うオズモンドさんの手にはやたら立派な便箋が。仰々しいほどの金の紋様や花の絵柄にリズは首を傾げる。
「なんですか?それ」
「城からだよ!」
ぴっとリズの動きが止まる。嫌な予感しかしなかった。
「もしかして、語学の教師を探しているっていう・・・」
「そう!召喚状!」
「召喚状・・・!?」
リズは慌てて便箋を受け取ると雑に千切って中の用紙を取り出した。宛名は自分の名前が、そして中にはミタニア王国エレノア王女の語学教師として城勤めを命ずると書いてあり、リズは愕然とした表情で頭の中を真っ白にした。
推薦状や紹介状なら断れるが召喚状となれば話は別だ。これは要請ではなく命令なので強制力がある法の中でも最も強い措置。ゆえに拒否ができない。
オズモンドが推薦してリズの名前を挙げた手前、病気などやむを得ぬ事情を理由に断ることもできないだろう。だからこそ破格の給料、そして破格の待遇が約束されている。
つまり召喚状の内容を簡単に言い換えるならば、いい仕事を与えてやるから有無を言わずに来い、ということ。
「うそ・・・」
「良かったなあ」
「でも、無理です・・・どう考えても」
顔を真っ青にするリズにオズモンドは苦笑する。
「そんなに緊張しなくても。あんまりできないようだったら向こうさんから断られるさ」
最初にリズの頭をよぎったのは逃げること。召喚状を無視して、着の身着のまま逃げる。しかしリズを推薦したオズモンドはベルモット家の取引先、オズモンドの顔を潰せばベルモット家にも迷惑をかけることになる。
そして今リズはベルモットの名前を借りて生活している。召喚状を無視して逃げたならどのみちベルモット家に多大な迷惑をかけることになってしまう。
しかし城に行ってハーバート・フリーデンの娘だとバレるのはさらにまずい。突然現れた王位継承権を持つ者の存在に政局は大混乱、ベルモット家どころか国中に迷惑をかける事態になりかねない。
(どうしよう・・・)
リズはもう一度召喚状に目を通した。契約期間は三ヶ月、つまり三カ月間出自を隠し通せば何事もなく多額の給金を貰って城を出ることができる。その後は王都で暮らすもよし、新天地を探して王都を出るもよし。自由になれる。
リズは再び召喚状を一文字も見逃さないよう目を通し、小さくため息を吐いた。リズを城に招いてしまうくらいだから向こうはリズの境遇に気付いていない。
なんとかなるだろうか。いや、なんとかするしかない。
「・・・わかりました。行ってきます」
「おう、気をつけてな。帰ってきたらたくさん話聞かせてくれよ」
「はい」
リズは召喚状を握りしめたまま外へと出た。
頭痛がして吐きそうだが、希望があるとすればそれはただの語学教師だということ。指導するエレノア王女はともかく、庶民の身で国王と顔を合わせる機会はないだろう。さっさと城へ行って給金を貰ってさっさと帰る。その間に余計なことをしなければいい。
リズはしばらくその場に立ち尽くし、少し経ってようやくゆっくりと歩き始めた。
「ひとり暮らししようと思います」
リズの答えにベルモット家の人々は小さくため息を吐いた。ほっとしたのだろう。フレッドは牛乳瓶を置いてうむ、と深く頷く。
「そうか。何か困ったことがあったら言いなさい」
「はい・・・ありがとうございます」
城へ呼ばれていることは伏せておいた。リズの境遇を知っている彼らを混乱させたくはない。
「必要なものは準備できるのかい?」
「はい。給金がありますから」
「オズモンドによろしく言っておいてくれ」
「はい」
リズは彼らの目を見ることができず俯くばかり。これから城に行かなければならないことを考えると恐ろしくて堪らないが、生活がかかっているのだから後に退くこともできない。
リズは階段を登って自分の部屋へ行くと、机の一番上の引き出しから手紙の束を取り出した。何度も何度も繰り返し読み続けたそれは全て内容を覚えている。当然城へも持っていくつもりだ。
「・・・手紙書かなきゃ」
引っ越した後に手紙がここへ届いたら困ると、リズは文通相手へ一報を入れるために紙とペンとインクを取り出した。
『急な知らせをお許しください。ベルモット家はショーケンへ引っ越すことになりました。私は召喚命令が下ったため城へ行かなければなりません。私としてもお金が必要なのでこのお仕事は有り難くお受けしようと思います。
どうぞ今後の手紙はこの家にはお送りにならないようお願いします。城へ行った後の住まいについてはまた改めてご連絡いたします』
リズは今までの手紙のやり取りから、王都と文通相手の住まいの距離をなんとなく予想していた。王都から相手の住んでいる場所まで、手紙で片道一週間程度かかる距離だと思われる。
つまりこの手紙が届くのは一週間後で、その頃にはリズは既に城で働き始めている。本当は不安な気持ちを書いてしまいたかったが八方塞がりなこの状況で弱音を吐いたら決心が鈍ってしまいそうだった。言ったところでどうにもならないし、行ってみなければなにもわからない。それで不安なことがあれば、またその時に気持ちを手紙に書けばいい。
リズは雑に手紙を折り畳むと、一番お気に入りの赤い蝋を持って階段を降りた。
リビングの棚を漁りどの印璽にしようか迷っていると、イルダがダイニングから出てきた。
「引っ越し先の連絡かい?」
「はい・・・まだ決まってませんが、一応・・・」
「そう。手紙の人によろしくね」
リズはこくりと小さく頷く。
「一人暮らしは初めてだろう。変な男に捕まらないように気を付けなよ。特に手の早い男にはね」
イルダは親切心から言っているのだろうが、今のリズは痛い言葉だった。どう反応してよいかわからず苦笑で返す。
「落ち着いたらあたしらにも手紙を書くんだよ」
「はい・・・書きますね」
じゃあね、と笑顔で踵を返すイルダ。住まわせてくれた上にここまで気にかけてくれるなんて本当に優しい人たちだ。
ここに住んだ5年間を思えば、大した思い入れもないと思っていたのに寂しく感じてくる。ベルモット家の人々やオズモンド、文通相手など、人に恵まれていたからだろう。穏やかで静かな日々を過ごすことができた。
いつかはベルモット家に恩を返したいなと考えながら、リズは封蝋の紋様は何にしようかと印璽を再び選び始めた。