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一段一段、ゆっくりと導かれるように階段を下りていく。足元に注意を払わなくてはならないのに、リズの視線はゼフィールから離れない。
ゼフィールは何度も後ろを振り返り、リズの無事を確認しながら手を引いた。
不思議な気分だ。あんなに恐れていたゼフィールを怖く感じない。一段下りるたびにより強くはっきりとプラチナブルーの目を見つめることもできる。苦悩や罪悪感も次第に麻痺して、頭の中がボーッとするようになった。
繋いだ手は優しいのに、熱い。ただ手が触れ合っているだけなのに、まるで全身を撫で回されているかのような快感に襲われる。
「たしかこの辺りだったな・・・」
1階右中央の本棚に着くと手はそっと離された。ゼフィールが本を探している間、リズは顔を真っ赤にしてまだ感触が残っている手を握り込む。心臓の音がうるさすぎてゼフィールに聞こえてしまいそうだ。
「リズ?」
「はっ、はいっ・・・」
気づいた時には名を呼ばれ、ゼフィールは少し離れたところに居た。ボーッと突っ立っていたリズは我に返ると慌てて彼の後を追う。
その時、あれ?と気がついた。
(陛下は私の名前を覚えてくださっていたのね・・・)
エレノアの付き添いで会うことは多かったが、今までゼフィールがリズを気にした様子はなかったので名前も覚えていないのではないかと思っていた。少なくとも興味は持っていなかったはずだ、と。
しかし、ちゃんと名前で呼んでくれている。まるで昔からそうやって呼んでいたかのように、当たり前に。
「あった。これだ」
ゼフィールが手に取った本にリズは「あ」と声を出した。ずっと探していたものだ。
「リズはシュヘメールが好きだったな。それとガズランも」
「はい・・・。何故それを?」
ゼフィールの前で好きな本を話した覚えはなかったのに何故知っているのだろうと、リズは不思議そうに訊ねる。
ゼフィールは一瞬だけ動きを止めると、本の中を軽く改めてからリズヘ差し出した。
「勘だ」
「そうですか・・・」
小首を傾げながらも本を受けとる。表紙を開けば中にはみっちりと直筆の文字が並んでいた。最近は原版にインクを塗って押し付ける大量生産品を多く見かけるが、リズは印刷された本よりも直筆の本の方が好きだった。味わいがあるし、何より種類が豊富。
「・・・ありがとうございます」
リズは本を閉じるとランタンを持っていない方の腕でぎゅっと大事に抱え込んだ。
「他には?」
「へ?」
思いがけない言葉に、リズは少々間抜けな声を出す。
「他に探している本は?」
「え、えっと・・・」
リズは必死に考える。その間ゼフィールが黙って待ってくれているから、余計に早く言わなければと焦ってしまった。
「えっと、・・・チヒトリの・・・絵柄に似た絵本はありますか?模造作品でも・・・」
「絵本?」
「はい・・・」
子どもっぽすぎただろうかと恥ずかしくなって俯くリズ。ゼフィールは少し考え込んだ後、奥の方にある本棚へと向かった。
歩幅が広く足の速いゼフィールにリズはランタンを抱えて早足でついていく。
「チヒトリとはレンブランのことか」
「はい。レンブランの名の方が有名でしょうか」
「そうだな。レンブランの絵画なら居城の廊下に絵画が飾ってある」
「えっ・・・!」
レンブランは絵本作家として有名な人物なので、リズはレンブランが絵画を遺していたことを知らなかった。実際、彼の絵画は金銭に換算できないほど貴重なもの。
「気になるなら見に行くといい」
「でも・・・居城の出入りは・・・」
「好きにしていい。―――エレノア王女も連れていけばいい暇潰しになるだろう」
ゼフィールの住む居城は一部の限られた人しか入ることを許されていない。そこにリズも、エレノアも好きに出入りしていいらしい。
「ありがとうございます。姫様も・・・お喜びになります」
「あの娘が芸術に興味を示すとは思えないがな」
リズは苦笑した。たしかにエレノアは芸術の知識も興味もからきしだろう。そうではなく、リズが言ったのは居城の出入りの許可のことだった。エレノアが居城の出入りを許されたと知ったら大喜びするだろう、と。
「この辺りだが・・・」
ゼフィールは本を手に取って中を確認すると、絵が見えるようにページを開いたままリズへ見せた。
「贋作でよければ」
「あっ、ほんとだ・・・」
リズはそっと受け取って近くで絵をまじまじと見つめる。崩れた線と色使いはまさにリズが探していたレンブランの絵柄。本物を丁寧に模写した贋作は非常によく出来ていた。
ここまでそっくりなものが見つかるとは思わなかったリズは、近くのテーブルへ本を置くと懐かしそうに見入る。
「昔、持っていて・・・」
リズはレンブラン本人の絵本を8歳の誕生日に両親から貰ったことがあった。貴族の娘らしく価値あるものは数多く所有していたが、リズはその本が一番のお気に入りで一番大切にしていた。もちろん両親を亡くして本も失ってしまったけれど。
リズは言ってからはっとする。ゼフィール相手に昔の話をしてしまうなんて・・・。
一時、しんと静まり返る。
「・・・そうか。大切にしていたんだな」
「・・・はい」
リズはゼフィールの優しい声色に安堵し、緊張で張りつめていた息を静かに吐いてから頷いた。
後ろを振り返ってゼフィールの目を見る。
「私の好きな本をお教えしましたから・・・、今度は陛下が好きな本を教えてください」
リズは本を抱えて部屋に戻った後、魂の抜けたような表情をしてベッドに座り込んでいた。
ゼフィールと別れて一人に戻ると一気に現実に引き戻される。何故あの時彼を呼び止めたのか、何故好きな本を訊ねるような真似をしたのか、自分の言動が理解できない。
惹かれてしまうのは、まだ理解できた。リズだって普通の女性なのだから好きな人くらい現れるだろう。それがたまたまゼフィールだっただけで、気持ちを誰にも打ち明けず無かったことにすればまだ許されるかもしれない。
だけど、分別のある大人なら、自分の大切な人を殺した人とどうにかなろうという気にはならない。
それなのにゼフィールといる時のリズは完全に彼に取り入ろうとしていた。どうやって彼を引き留めるか考えて、どうやって気を引くのかを考えていた。己の罪深さを完全に無視してとても愚かな行為をしてしまった。
そしてたぶん、同じような状況になればまた同じようなことを繰り返すのだろう。いや、もっと直接的な言葉を吐いてゼフィールにすがりついてしまうかもしれない。リズは過去の行いで自分の浅ましさもいやらしさも知っている。
そして仮面パーティーの時から、リズの気持ちは一切変わっていなかった。
あのプラチナブルーの瞳にもっと自分の姿を映したい。彼の大きな手で腰を撫でて、足に触れて、割り開いてほしい。そうしたらすぐにでも受け入れるのに。しがみ付いて離さないのに。
(とんでもない淫乱だわ・・・)
自分がものすごく汚いもののように感じた。
自分で自分をひどく軽蔑する。大切な両親の思い出を汚すような真似をした、救いを求める価値もない人間。エレノアにもジェイスにも合わせる顔などない。
こんな感情を抱えたまま、これから先どうやって生きていけばいいのだろう。
リズは立ち上がって机に向かうと、まっさらな紙を取り出してペンを握った。まだ文通相手の彼からは前回の返事が来ていない。返事もないのにまた送りつけるなど、文通としてはルール違反かもしれないが、それでも書かずにはいられなかった。
『あなたにこうやって手紙を書くのは何度目になるでしょうか。私は今、自分に酷く失望しています。』
手が震えて字が崩れたが、僅かな月明かりを頼りにリズは先へ先へとペンを走らせる。
『おそらく仮面パーティーでお会いした時から、私は彼のことを好きになってしまったようです。
何度自分を戒めようとしてもできないほど自分の感情を操ることができなくなりました。きっと誰にも理解できないでしょう。私も認めるのが辛いです。たくさんの人を裏切り踏み躙る行為など一生かかっても償いきれない。私には耐えられないのです。
それからあなたには従弟のジェイスお兄様に結婚を申し込まれたことをお伝えしなくてはなりません。ジェイスお兄様はとても優しく誠実な方で、あの方に出会う前の私ならば喜んで受けていたと思います。
どの選択が正しいかはわかっています。どうすべきかわかっているのに、現実を見たくなくていつも本の世界に逃げてしまう。そんな弱い自分が情けなくてとても恥ずかしいです。』
まるで悲鳴をあげているかのような内容だった。リズは一度も読み返すことなく折り畳んでしまう。
これで文通相手の彼にも嫌われてしまうかもしれない。そう思うと一瞬躊躇したが、やはりこの手紙は送ることにした。
リズはそろそろこの感情を受け止めなくてはならない。そのためには一番信頼している彼の言葉が今一番必要なものだと思ったからだ。





