6-2
「リズ?リズ?どうしたの?」
授業中、ぼーっとしていたリズはエレノアに声を掛けられてはっとした。
「・・・すみません」
謝るリズの表情は暗い。エレノアはペンを片手でくるくるしながら訝しげにリズの顔を覗き込む。
「何かあったの?」
「いいえ、少し、寝不足で」
今までエレノアには両親の事以外は全て話していた。黒い薔薇の手紙も見せたし、たくさん恋愛について語り合ってきた。けれども昨夜のことだけは言えない。
「大丈夫ですよ。翻訳を続けてください」
両親が鬼の形相であの世から見下ろしている気がした。リズの心はリズだけのものだが、死者にはどこまで見通すことができるのだろう。
窓の外の空を見ながらリズはまた昨夜のことを思い出す。あの後、一番に襲ってきたのは罪悪感だった。パーティーの時と同じように、惹かれてはいけない人に惹かれてしまったという事実が重く圧し掛かる。そして今回はエレノアへの罪悪感も。
自分がとんでもないことを考えているという自覚はあった。ゼフィールは愛する両親を殺した人で、リズにとってどれだけ恐ろしい存在かわかっている。もしリズがハーバートの娘だと知られたら、ゼフィールの意志ひとつでリズはあっさりと殺されてしまう可能性がある。あのプラチナブルーの瞳に冷たく見下ろされて、今度は両親ではなくリズの命が奪われる。
なのに。
「本当に大丈夫なの?今日のお茶の席でもずっと黙りっぱなしだったじゃない」
「大丈夫ですよ。本当に・・・眠いだけですから」
どんな顔をしてゼフィールに会えばよいのかわからなかった。リズはいつも以上に黙って俯き、目を合わせないようにしていたが不自然過ぎただろうか。
(早く手紙がくればいいのに。そしたらすぐにでもあの人に相談するのに)
リズはこんなに手紙が早く来るよう願ったことはなかった。ゼフィールのことで自分の中だけに押し込めたモヤモヤを言葉にして吐き出せるとしたら文通相手の彼しかいない。彼なら仮面パーティーで起こったことも知っている。
「じゃあ今日はもうお仕舞いにする?」
「駄目ですよ」
授業を終えようとするエレノアに、リズはぴしゃりと言い切る。エレノアはちぇーっと残念そうに唇を尖らせた。
寝不足なはずなのに脳は冴えて眠れない夜が続いた。一日に二冊ほど読み終えてしまうので、借りても借りても次を借りなくては読む速度に間に合わない。本が無いとゼフィールの事ばかり考えて気が狂ってしまいそうだったリズは、何がなんでも新しい本を用意しなければならなかった。
しかし日中は朝からエレノアのマナーの授業に同伴し、昼食後はお茶の準備で厨房へ、そしてお茶の後は語学の授業があるため本を借りに行く時間がなかなかとれない。リズは考えた結果、昼食を取って厨房へ入るまでの僅かな時間を使って本の間へ行くことにした。ゆっくり選ぶことはできないが仕方ない。
エレノアに断りを入れると、リズは早歩きで本の間へ入る。昼食の後の時間は別棟の職員が来ることもあるので一番人が多い時間帯。できるだけ俯いて顔を見られないように気を付けながら、三階まで登って借りていた本を手早く戻していく。急がなければならないのに、相変わらず座りが悪い脚立の所為で時間がかかって仕方がない。
「・・・リージア?」
その名を呼ばれたのは何年振りだろうか。リズは驚きに目を見開いて隣に居た男性を脚立の上から見下ろす。
濃いオレンジ寄りの金髪に、リズと同じ緑の瞳。
「・・・ジェイスお兄様?―――きゃっ」
脚立が大きくグラつき、バランスを崩したリズは本棚にしがみ付く。倒れそうになった脚立の方は彼が支えてくれたおかげでひっくり返らずに済んだ。リズは差し出された手を取り、ゆっくりと脚立を一段一段降りていく。
「い、生きているとは思わなくって・・・!なんで教えてくれなかったんだ!」
ジェイスは震える手で掴んでいたリズの手をぎゅっと握りしめた。リズは表向きは死んだことになっているため、彼、リズの従兄であるジェイス・ラスターはリズの生存を今の今まで知らなかったのだ。
リズは喜びに大きな声を出しそうになるが、他にも人がいることを思い出して慌てて小声で話し出す。
「あ、あの、リズ・ベルモットと申します・・・」
リージアの名を名乗ることは許されない、五年前に奪われてしまったのだから。
事情を察したジェイスも小さな声で話し始める。
「リズ・・・今はリズっていうんだね。そうか、無事だったんだ」
よかった、と抱きしめられて、リズはぎゅっと強く抱き返した。兄弟も同年代の知り合いもいなかったリズにとって、ジェイスは唯一の友人であり家族のような存在だ。親同士が仲が良かったので幼い頃はずっとジェイスと一緒に遊んだり勉強したりしていた。ほとんど兄妹と言っても過言じゃない。
「ベルモット・・・ベルモット商会の?」
「はい、ベルモット家にお世話になっています」
「そう・・・。もう二度と会えないかと思っていたよ」
私も、とリズは泣きそうになり涙を堪えながら呟く。まさかまたジェイスに会える日が来るなんて思わなかった。
両親を失い行き場を失った当時、リズは最初にラスター家に頼ることを考えた。しかしハーバートの妻の実家であるラスター家は既にゼフィールの手にかかった後で当主とその妻が亡くなり大混乱。自分たちのことだけで精いっぱいでとてもリズが頼れる状況ではなく、結局リズはラスター家に頼ることは出来なかったのだった。
幼いジェイスは生き残ってラスター家を継ぐことを許されたと噂で知ったのは、ベルモット家に落ち着いてからずいぶん後の話だ。
ジェイスもリズと同じく両親を失い大変な思いをしたはず。
「本当に生きてるんだね・・・」
涙ぐむ目で見つめられて、リズは少し恥ずかしそうに微笑む。
「でも何故城に?こんな所にいたら駄目だ、ゼフィールに殺される」
「あっ・・・、エレノア王女の語学の教師として勤めていて・・・」
教師?とジェイスは繰り返す。その表情は納得いかない、とでも言いたげ。実際にリズは自分でも危険だと思っていたし、来たくて城に来たわけではなかった。しかし今ではエレノアとも打ち解けて毎日が楽しくこの仕事を気に入っている。
「大丈夫ですよ、問題ありません」
「そう・・・ならいいけど」
よしよし、と頭を撫でられて目を細めるリズ。そのままジェイスと話していたかったがそろそろエレノアが厨房へ入る時間だ。ゆっくりしている暇はない。
「あの、私これから仕事なので・・・」
「そう。またここへおいで。この時間ならだいたいここにいるから」
「はい」
リズはジェイスと手を振って別れると、エレノアが待っているはずの部屋に小走りで向かった。そして手ぶらの自分に気がついて「あ」と声を出す。
・・・本を借りるのを忘れた。
昼食後のひと時、リズは本の間までこっそりとジェイスに会いに行くようになった。話を聞けば、ジェイスはラスター家の当主として領土を統治しながら城の別棟で役人としての仕事もしているらしい。
誰にも聞かれないように、四階にある一番奥のテーブルに肩を並べてクスクスと笑い合う。
「ジェイスお兄様はお変わりないようですね」
「そうなの?残念だなあ、かっこよくなったって言ってほしかったよ」
「まあ」
多くの時間を共有してきた仲なので話が尽きることはない。人見知りなリズも打ち解けた仲であるジェイスには心を許し、たくさん会話することができた。
それでもゼフィールの事だけは話せない。
「どうしたの?」
急に静かになったリズに、ジェイスは顔を覗き込むようにして訊ねてくる。
「いえ、何も・・・」
ゼフィールはリズの両親の敵であると同時に、ジェイスの両親の敵でもある。ジェイスの両親である先代ラスター卿を葬ったのはゼフィールなのだ。ラスター卿はハーバートを積極的に支持し彼を支えていた右腕でもあったため処刑せざるを得なかったのだろう。
リズがゼフィールにどんな感情を抱いているか、もしジェイスが知ったらどう思うだろうか。我を忘れるほど怒り狂い、優しい顔立ちを鬼のようにして罵るだろうか。売女、恩知らず、狂人だと。
自分でもまだ認めたくなくてあがいているのに言葉にして言えるわけがなかった。
「そう?何か困ったことはない?」
「はい、姫様にはとてもよくしていただいていて・・・」
教師以上に仕事は多いが不満はない。むしろとてもいい経験をさせてもらっていると思っている。
「そうか。あの君が教師かあ。感慨深いね」
「私も自分で驚いています、無理だと思ったのになんとかやれていて・・・。やっぱり環境は人を変えますね」
「そうだね」
ジェイスはにこっと笑うとリズの黒い髪を撫でた。昔からのジェイスの癖だ。
「変わったのは僕じゃなくてリズの方だね。中身だけじゃなくて・・・ずいぶん綺麗になった」
「ありがとうございます」
「もう17だもんなあ。貴族ならそろそろ婚約していてもおかしくない時期だけど、恋人は?」
リズは即座に首を横に振った。そんなものいるわけない、と。
ジェイスは再びにこっと笑ってリズの髪を撫でた。
「じゃあ僕と結婚しよう?」
「・・・え?」
何かの聞き間違いかとリズはきょとんとした顔をしてジェイスを見た。彼はクスリと笑うと話し始める。
「だから、結婚。リズは城を出たらどうするか決めてないんだよね?」
「はい・・・」
「どこに行くにせよ、君が生きているってことはオストールにとってとてもマズイいんだよ。それはわかるよね?」
リズはゆっくりと頷いた。ゼフィールに対抗しうる王位継承者はリズしかいない。つまり、ゼフィールを王座から引きずり下ろしたい一部の貴族にとってリズは喉から手が出るほど欲しい人物だ。生きていることを知られたら大騒ぎになり、結果的にゼフィールやオストールに多大な迷惑をかけてしまう。
「もしゼフィールを支持しているドゥーベやベレーにリズの存在が知られたら、たぶん、秘密裏に殺されることになる」
リズは顔を青くしながらも頷いた。ゼフィールに敵対する勢力がリズを望んでいるということは、ゼフィールを支持する勢力にとってリズはこの上なく邪魔な存在。
「だから僕の妻として領地に引きこもるのが一番安全なんだよ。僕は当主だから議会に出なくちゃいけないけど、妻の帯同は必要ないから領地から出なくていい。キングズガーデンの祝賀会もラスター家の中の誰かが参加すればいいんだから、リズが出てくる必要はない」
ジェイスが言いたいことはリズにも理解できた。ただの庶民では貴族の刺客に対抗する術がない。しかし、ラスター家に入ってしまえば彼らはリズに手を出し辛くなる。領地に引きこもり二度と城に来る必要はなく、世間の目から離れて穏やかに暮らすことができるだろう。
「でも・・・」
ジェイスは大切な家族のような存在だけど、恋をしているわけではない。情熱もなく結婚するなんて思いきったことをする度胸はリズにはなかった。
「好きじゃなくてもいいんだよ。僕のことは嫌いじゃないよね?」
「好きですよ。でも、恋ではない」
リズははっきりと言って下を向いた。リズはもう既に身を焦がすような強い感情を知ってしまっている。だから、恋ではないと断言できる。
「いいんだよ、それでも。
ただ分かってほしい、今の立場がどれだけリズにとって危険かってこと。僕と結婚するのが一番安全で現実的に幸せになれる可能性があるってこと。だってリズは恋をしたとして、その人に事情を話すことができる?」
リズは思い切り首を横に振った。
もしハーバートの娘だと世間にバレたら、もし子どもができて新たな王位継承権を主張できる存在が生まれてしまったら。リズが結婚をするためには大きな壁を何度も乗り越えなくてはならない。その全てを理解して生涯を共にしてくれる伴侶を探すのはとても難しい。
ジェイスはリズの頭を何度も撫でながら優しい声で言った。
「意地悪を言ってごめんね。だけどせっかく生きてたんだ、守ってあげたいよ・・・今度こそ」
一人息子のジェイスにはもう家族はいない。リズにも。結婚するならば傷を舐めあうような関係になるだろうが、それが一番幸せに生きていく道なのかもしれない。
リズも、頭ではちゃんとわかっていた。
「返事は急がないし、しばらく考えてみてよ」
ジェイスの言葉にリズはゆっくりと頷いた。





