6-1【落ちていく】
お風呂を済ませる前、時間ができたリズは明日の授業の準備をするためにいくつか本を借りに行った。ついでに自分がずっと読みたいと思っていた異国の本を何冊か借りる。
教師の仕事はエレノアの行動力に振り回され大変ではあるが、エレノア自身は気さくでいい人なので毎日が新鮮で楽しかった。なんでも人に話してしまう口が軽いところも「絶対に他の人には言わないでくださいね」と頼めばエレノアはちゃんと秘密を守ってくれた。身分は違うが友人のように接してくれるエレノアはずっと友達のいなかったリズにとって貴重で大事な存在。
「あ・・・」
リズはふいに窓の外を見て、月明かりで幻想的なキングズガーデンに懐かしさが込み上げる。リズは昔ここで黒い薔薇をくれた男の子に出会った、初恋の思い出の場所だ。
暖かく心地よい風に、少し散歩してみようか、とリズの足が外へと向かう。日中は庭師や使用人たちがよく通りかかるが、夜ならば人がいないからきっと大丈夫。
祝賀会が行われるキングズガーデンの敷地は広い。渡り廊下の横には広大な広場、その奥には綺麗な花や植物が植えられている植物園がある。おそらく幼いリズが迷ったのは植物園の奥の方だろうと、子どもが喜んで入って行きそうな低木が並ぶエリアへと向かった。子どもの背丈だと周りが見渡せず簡単に迷ってしまいそうなここは探検に最適だろう。
(ここ・・・かな)
リズがたどり着いたのはどこからもちょうど死角になっている場所。植木が城が見えるはずの方角を見事に隠していて、子どもなら来た道が分からなくなってしまう。
端の方にはリズの記憶にうっすらとあったベンチも置いてあった。たしか、ここに座って泣いていたはず。
リズは本をベンチに置くと、その隣にゆっくりと腰を下ろした。後ろを振り返ると昔と変わらず黒い薔薇が生えており息を飲む。縁起が悪い花だから死角になるこの場所が最適なのだろうか。
あの時はとにかく不安で怖くて涙を流していたが、今は懐かしさのあまり目頭に涙が浮かぶ。ここへ来た頃、まだ両親は健在でリズは普通の貴族の娘だった。広い城の庭に興奮して無邪気に好きな所を歩き回り、そして、あの黒い薔薇をくれた男の子に出会った。
もう、記憶の中でも遠い昔の話。それが懐かしくて少しだけ悲しい。
―――次の瞬間、懐かしさに浸っていたリズの横で何かが動いた。はっとして隣を見れば置いていた本の上に何かが乗っている。
ゲコッ
カエルだ。
「ひっ・・・!」
リズは瞬間にベンチから飛び上がって後退る。ゲコッと再び鳴いたカエルはリズの握りこぶしより少し小さなサイズで体にイボがあった。妙にグロテスクで気持ちが悪い。
「やだっ・・・もう!」
本を取りたいのに本の上にカエルが鎮座しているため取れない。リズは情けない悲鳴を上げながらじりじりと後退っていく。
すると、今度はドンッと音を立てて背中が何かにぶつかった。慌てて振り返れば、目を丸くして驚いているゼフィールの姿。
「ひいいいぃぃぃ!」
まさかこんな時間にこんな所でゼフィールと鉢合わせるとは思っていなかったリズは、更に情けない悲鳴を上げて逃げるためにベンチの本を取ろうと後ろを振り返る。しかしそこにはまだ居た。
ゲコッ
「ひいいいいぃぃぃ!」
「お・・・落ち着け・・・」
ゼフィールはたじたじの様子で困ったような声を出す。パニックになっているリズを落ち着かせようと声をかけるが、リズは返事をすることなくカエルが本の上から移動したと同時に、急いで本を抱えるとゼフィールに背を向けて全力で走った。
ところがリズはここ数年、まともに走ったことはない。
早々に足がもつれてリズの体が地面に倒れる。静かな夜にビタン!といい音がよく響いた。
「無事か・・・!?」
静かに去るべきだと思っていたゼフィールも、リズが顔面から転んだものだから声を掛けずにはいられない。
リズは痛さよりもこの状況に目に涙を浮かべて上半身を起こした。
「今、顔から行かなかったか・・・」
そういえば鼻が痛い、と言われて気づいたリズは座り込んだまま両手で鼻を抑えた。腕を先について顔を庇ったつもりだが、鼻は庇いきれず強打してしまったらしい。目の前にゼフィールが来てもリズは逃げられずに両手で顔を覆い続けた。
「鼻血は?」
「だ、だいじょぶ、です・・・」
さすがに怖いよりも恥ずかしさの方が勝る。見事な転げっぷりを披露してしまったリズは耳を赤くして俯いた。
「そうか」
ゼフィールは少し離れた所にあった本を拾って、リズの前に座り直すとそれを差し出してきた。途端にリズは全身から血の気が引いて小さな悲鳴を上げる。
「本っ!」
リズの手から離れた本は地面の上をスライドして少し離れた所まで行ってしまっていた。転んだ直後のことなので記憶が定かではないが、たしかザリザリと音を立てていたのでそれなりに傷がついていると思われる。
「借り物なのに・・・!」
暗いのではっきりと傷を確認することはできないが、これは本の間のものであってリズのものではない。貴重な本に何かあったらどうしようと、リズは赤くなっていた顔を今度は青くして必死に本を確認する。
「気にしなくていい」
「でも・・・」
城のものを損傷させて平気でいられるほど図太くはない。
「どうしよう・・・っ、傷が・・・」
あまりの動揺ぶりに小さく口角を上げたゼフィールは再び口を開いた。
「持ち主がいいと言っているのだから、問題ない」
端的な言葉に今度はリズは黙った。本は城の主であるゼフィールのものだ。そのゼフィールに構わないと言われては反論するのは難しい。
その時、リズは顔を上げてゼフィールの目を見てしまった。
「あっ・・・」
しまった、と気付いた時にはもう遅かった。リズはゼフィールの顔を見ないようずっと気を付けていたのに。
リズはゼフィールの顔を見たらどうなるのかずっと前から知っていた。だって、初めて彼と会った時に、激情に自分では考えられないほどの行動をしてしまったのだから。
―――惹かれてしまうのは、わかっていた。
「・・・どうした?」
硝子のような緑色の瞳を大きく開いて動かなくなったリズに、ゼフィールの息が止まる。視線を逸らさなければならないのに身体が言うことを聞かない。
「・・・なんでもありません」
リズは呆然とした表情でぎゅっと本を抱え込むと、立ち上がって静かにその場から離れた。
ゼフィールは付いて来ない。
(どうしよう・・・)
彼のプラチナブルーの瞳を見るとパーティーの時の口づけを思い出してしまい、あの身体が痺れるような感覚を鮮明に思い出してしまった。
忘れようと努力していたのにこれでは水の泡だ。また彼に手を延ばして情けを乞うてみたくなる。一晩だけの関係でも構わないから、どうか想いに応えてほしい、と。
だけど今回は前とは違う。リズは既に彼が誰だか知っている。
「・・・最悪、よね」
いっそ誰かこの場で叱りつけてほしい。あの男は両親を殺した男だぞ、気でも狂ったのかと、大声で罵ってほしい。そうしたら少しは頭が冷めるかもしれないのに。
リズはじんじんと痛む鼻と両腕に顔をしかめながら、早足で部屋へと戻って行った。





