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ベンの手にあったフランスパンにリズは声にならない悲鳴を上げた。棄てたと思っていたのに何故ここにあるのだろう。
「かってーな!これ食えんのか!?」
ベンは腕の全ての筋肉をフル活動させ二つに折ろうとしたが、リズの作った硬過ぎるフランスパンはビクともしない。パンをバスケットへ忍ばせた犯人であるエレノアは嬉々として喋りだす。
「それはリズの新作よ!硬くて包丁が入らないの!」
「棄てたのになんで持ってきたんですか・・・!」
「だって便利そうじゃない?枝をかき分けたり穴掘ったり」
せっかく作ったのに棄てるのはもったいない!と有り難い言葉ではあるがリズはあんまり嬉しくなかった。食べるつもりで作ったのに穴堀りで使われるのなら、まだ潔く棄てられた方がマシだったかもしれない。
「貸せ、俺が食べる」
ゼフィールが手を延ばしベンの許可もなく奪い取ると、持っている全ての力を使ってパンを千切ろうとした。
「やめてください!そんなもの、たとえ千切れたとしても食べたら死んでしまいます!」
「そうよ!歯が折れちゃうわ!」
クロウにエレノアに、散々な言いよう。しかしこれを食べたら無事で済まないのは事実だ。飲み込めたとしても確実に消化は不可能。
「食べる!」
意地になっているのかゼフィールは諦めない。全ては、リズの作ったパンを食べるために。
「陛下・・・やめてください、無理です・・・」
リズはそこで、初めてゼフィールへ声をかけた。直接会話するのはずっと避けていたが、自分の作ったフランスパンのせいでゼフィールの体に何かあったらと思うと声をかけずにはいられなかった。
ゼフィールの指が一瞬ピクリと動いたが、なおも力は込められたまま。しかしいつまで経ってもパンがどうにかなる気配はない。
「貸しなっ!陛下より俺の方が力はあるからな」
フランスパンは再びベンの手へと渡った。ベンの言う通り一番可能性があるのは彼だろう。
ベンは再び太く大きな手でがっちりと掴み二つに折ろうとした。それでも音ひとつ立てないパンに、今度は両端を握り、片膝を立てると太ももに向かって勢いよく振り下ろす。
ゴン、と音がした。
「あがあああぁぁぁぁぁ!!!」
ベンの絶叫と共にゴロリと地面へ落ちるフランスパンの形はなにひとつ変わっていない。変わりに、ベンの太ももの骨が異常をきたした。
激痛に患部を押さえながらゴロゴロ転がるベン。
「大丈夫!?今すごい音したわよ!」
「骨が!骨があ!」
「とにかく動かないでください!すぐに固定して!」
クロウの指示でベンの太ももには布が巻き付けられガチガチに固定されていく。その間、みんなの顔色は悪かった。まさかフランスパンが凶器になるなんて・・・。
オストールいちの武人を負傷させた問題のフランスパンはエレノアが拾い上げる。
「もう、無茶するからよ!」
「これは責められませんよ。人骨を折るフランスパンなんて聞いたことありません・・・」
リズの肩身は狭かった。ベンが手当てされている間は申し訳なさそうに小さくなっていたが、クロウの見立てでどうやら折れてまではいないようだと聞いて少しホッとする。
護衛の役目を果たせなくなったベンは、固定を終えるとみんなよりひと足先に馬に乗って帰ってしまった。
「あらら・・・いいのかしら?私は全然構わないけど」
いざという時の戦力はベンをあてにしていたため他に兵を連れてきていない。エレノアとゼフィールの逢瀬を極力邪魔しないため、という配慮もあって少人数での遠乗りだ。
しかし肝心のベンがいなくなった今、このまま帰らずに残っていてもよいのか。
クロウは困ったような表情をして答える。
「仕方ありません、いざとなったら私と陛下で対応します。できるだけ早く食べてできるだけ早く帰りましょう」
「まあ、クロウさんまで剣を使えるの?意外ね」
ゼフィールは兵と比べても遜色ない体格だが、クロウは文官らしい体つき。あまり鍛えているようには見えない。
「オストールの貴族は男女ともに幼少期より護身術を習っていますので」
へえ、とエレノアは面白そうに声を上げた。
「じゃあリズも習ったの?いいとこのお嬢さんでしょ?」
急に自分に注目が移ったリズは、ピクリと小さく震えてから恐る恐る口を開く。
「いえ・・・私はあまり・・・」
「そうなの?リズは体が小さいし、可愛いから悪い人に狙われそう。習ってみたら?」
エレノアの言葉にゼフィールが頷きかけたが、クロウに睨まれたので中途半端な角度のまま動きを停止させた。
リズは困ったような顔をして話し始める。
「五歳くらいの頃、一度木刀を持たせて貰ったことがあるんです。身を守るための剣術を、と両親に言われて。
でも私、先生に言われた通りにできなくて、振り上げた時に自分の頭を強打してしまって・・・」
ああ・・・、と一同は遠い目をして察した。なんとなく気づいていたが、リズは運動能力が普通の人よりいささか低い。
「ものすごく大きなたんこぶを作ってしまって以来、護身術のようなものは教えてもらえなくなりました。情けない話ですが・・・」
「いいのよいいのよ、リズはそのままで。可愛いからきっと男が身を呈して守ってくれるわよ」
よしよし、とリズはエレノアに頭を撫でられ、頷けばいいのか否定すればいいのかわからず苦笑いをした。
エレノアはリズに話を聞いて満足したのか、今度は「私はねー」と聞かれてもいないのに自分のことを語り出す。
「ミタニアでもいいとこの男子は剣やってる人が多いわねー。まあうちはみんな狩りやってたから、私でも弓なら使えるわ。馬ではなくて鹿に乗って狩るのよ」
「鹿って乗れるんですか・・・?」
「ええ、乗れるわよ。飼い慣らさないと難しいけどちゃんと人に懐くし賢い生き物なの」
想像していたよりずっと逞しい育ちにリズの口を半開きにして感心した。オストールの両家子女は日夜勉強に励むのが良いとされるので、狩猟を許していたミタニア王家の教育方針はオストールの価値観とずいぶん違う。
「こんな感じの湖で遊ぶことも良くあったわよ。夏は水辺が涼しくて最高なのよね」
「遊ぶ?」
「例えば・・・石を投げたりだとか」
エレノアは立ち上がると湖に向かって歩を進め、足元に落ちていた小石を拾った。片手で持っていたフランスパンを後ろに振りかぶると、真上に投げた石が落ちてくるタイミングに合わせてフランスパンを思い切り振る。
カーン、と音がして石が飛んで行った。リズはすぐに見失ってしまったが、やがてずいぶん離れたところでポチャンと音を立てて水が跳ねる。
「本当は太い木の棒を使うんだけど、これいいわね。当てやすいわ」
満足そうにフランスパンを見て頷くエレノア。リズの作ったフランスパンは硬いが軽くて振りやすい。
「そうだ、勝負しましょ。誰が一番遠く飛ばすか競争ね!」
突然何かの勝負が始まった。断るにも断れず、まずはクロウがフランスパンを受け取って湖の岸の前へ立つ。
「飛ばせばいいんですよね?」
「そうよ!」
クロウは先ほどエレノアがやったと同じように、手ごろな石を見つけるとフランスパンを振って石を遠くへ飛ばした。しかし当たり所が悪かったのか距離はエレノアが飛ばしたより半分くらいしかない。
クロウはむっと口をへの字にする。
「難しいですよ、これ」
「でしょー!次陛下ね!」
クロウにフランスパンを渡されたゼフィールはしばらく手元を眺めた後、期待の籠った視線に大きなため息を吐いて立ち上がる。
ゼフィールは石を選ぶことなく適当に足元にあるものを拾い、適当に打った。それでも力があるからかエレノアより少し遠いところまで軽々と飛んでいく。
「すごいじゃない、負けたわ!次リズね!」
「私もですか・・・?」
当たり前でしょ!と言われ、戦々恐々とするリズは俯いたままゼフィールからフランスパンを受け取る。色々と複雑だがゼフィールのようにさっさと打ってさっさと終わりたい。
リズは岸の前へ行くと、軽そうな石を片手にフランスパンを振った。しかし上に投げたはずの石が明後日の方へ飛んで行ってしまい、パンとは接触せずにコロコロと離れた所まで転がって行ってしまった。
「ん~、もう少し大きな石の方が的が大きくて打ちやすいんじゃない?」
エレノアから新しい石を受け取り、リズは小さく頷く。
「それから振る時はこう!前に出すだけじゃなくて、ちゃんと勢いよく最後まで振り切らないと飛ばないわよ!石は私が投げるから今度は両手で握ってみて!」
フランスパンの振り方を習い、いざもう一度。言われた通りちゃんと両手で構えて、エレノアが投げて寄越した石を目掛けて勢いよく振った。
しかしパンの勢いが良すぎてリズの体がついていかず、振り回した勢いで足がもつれてしまう。
「きゃっ・・・きゃあ!」
か細く小さな悲鳴を上げたリズはバランスを崩して倒れ込んだ。―――湖の方へ。





