5-2
馬に乗っている間、エレノアの両手はしっかりとゼフィールの腰元に回されていた。しがみついている、という表現がぴったりなほど張り付いている。
しかしご機嫌なエレノアとは対照的にゼフィールの眉間の皺はいつもより5割増し。
「天気に恵まれたわねえ~」
エレノアの言う通り今日の気候はとても穏やかだった。柔らかな風と日差しは暖かく、木々に芽吹いた春の緑葉は瑞々しく香りも豊か。
馬に揺られながら景色を楽しんでいると鮮やかな色をした小鳥を見かけた。城でもたまに飛んでいるが森の中の小鳥は風情があって鳴き声にも癒される。
「それでね!私がその鹿を狩ろうとしたら横からシオンがやってきて邪魔したのよ!だから勝負は引き分けだって主張したのにシオンが―――」
エレノアの口は馬上でも絶好調だった。後ろからぺちゃくちゃと喋り続けるエレノアにゼフィールの反応は無い。ここまで喋り続けられては普通の人でも大変だろう。
「・・・あれも一種の才能ですかね」
クロウのぽつりと漏らしたような言葉にリズは小さく頷いた。エレノアの相手が無視しても気にしない強さは彼女だけの特別なものだ。更にずっと喋り続けることができるのだから、立て板に水というよりも立て板に濁流。話題の豊富さも喋り続ける根気もすごい。
ゼフィールの馬の速度はエレノアという同乗者がいるにしては速かった。
「すごい!広いわね!」
鬱蒼とした木々を抜けると一気に視界が開け、薄い水色が広がる湖が見えてくる。水底が透き通っており、陽の光を反射してキラキラと輝く様は幻想的だ。
馬の足が止まるやいなや、待ちきれないエレノアは飛び降りて湖に向かって駆けだす。
「姫様、危ないですよっ・・・!」
リズは慌てて追いかけようとするも自力では馬から降りることができず、わたわたしながら遠ざかっていくエレノアの背中を見守るしかできない。
エレノアは笑いながら振り返った。
「大丈夫よ、誰もいないんだから!―――ってあたっ!イッターーー!!」
言わんこっちゃない、と誰もが思った。エレノアは急にバランスを崩すと立ち止まって片脚を抱える。
「どうなさいました!?」
慌ててエレノアに駆け寄るクロウとベン。彼女が抱えている足を見ると足首の横に小さな赤い穴が2つできていた。
「ヘビ!ヘビ!」
エレノアが指差す場所には緑と茶の混じった模様をした蛇が。一番最初に気付いたベンが即座に剣を抜き、頭に向かって立てにそれを振り下ろした。
頭と胴が泣き別れになった蛇はもう動くことはない。ただし、エレノアが噛まれた傷口からは出血が止まらない。
「姫様!大丈夫ですか・・・!?」
真っ青になったリズは馬の上で慌てていたが、クロウが先に行ってしまったため一人取り残されていた。すぐにでも駆け付けたいのにどうやって降りればよいのかわからない。
男たちに取り囲まれ処置をされているエレノアを見ていることしかできず、困り果てたリズはなけなしの勇気を振り絞ってずるずると馬の背中を滑り降りる。ところが、それなりの高さがあるため上手く着地できずにベシャッと鈍い音を立てて地面へ尻もちをついてしまった。
クロウとベンはエレノアの所へ行ってしまっているため、側には馬の手綱を木に括りつけていたゼフィールしかいない。
「だ、大丈夫か・・・」
初めてゼフィールからかけられた言葉にビクリとリズの体が飛び跳ねる。
「・・・平気です」
声を掛けられたリズは痛む足を無視して焦ったように立ち上がると、スカートについた土を手で払って俯いたまま返事をする。
そして逃げるようにエレノアの元へ向かえば、ベンが傷口の周りを指で摘まんで血を絞り取っていた。近くには無残な姿の蛇の死骸があり、リズはそれを避けながら恐る恐るエレノアの側へ行く。
「姫様、ご無事ですか?」
「大丈夫よー、平気平気」
元気そうに見えるがベンが血を搾り取っているので毒性のある蛇だったのだろう。リズは怖くなって顔色を悪くした。
「あ、あの・・・大丈夫なんでしょうか」
もし何かあったらと最悪な想像をしてしまい、ベンへ訊ねる。
「んー、まあそんな大した毒は持ってねえよ。念のためだな」
「そうですか・・・」
リズはほっとして緊張に強張らせていた体から力を抜いた。
「普段は大人しい奴なんだがなあ」
「私が踏んじゃったからよ。驚かせちゃったみたいね」
「もう、だから言いましたのに・・・」
リズの口から文句が出るのは仕方がない。ちゃんと直前に気をつけろと言ったにも関わらず走り続けたのだから。
ちょうど馬を繋ぎ終わったゼフィールがやってきた所で、クロウが顔を上げて声をかける。
「陛下、一応解毒剤を」
「大袈裟ねえ。なんともないわよ?」
「大人しく飲んでください」
ゼフィールの腕に嵌めていた銀の平たい腕輪は、指で摘まむとカパッと軽い音を立てて薄い蓋が開いた。腕輪の中から出てきた白い粉を見てエレノアは眉をしかめる。
「どうなってるのそれ」
「ただの仕込み用の腕輪ですよ。市場でも流通してます。いいから飲んでください」
クロウに促され、ゼフィールの手首に嵌った腕輪から直接注ぎ込むようにして粉を口に含んだエレノア。吹き出しかけたが両手で口を押えて涙目になりながら飲み込む。
「まっずい!」
「まあ薬ですから・・・」
「これ本当に効くの?」
「幅広く効果のあるものなので大丈夫でしょう。飲まないよりマシです」
ふーんとエレノアは未だに口の中に苦みが残っているのか口をもごもごさせる。よく喋る彼女が黙っているので誰も何も言わず、不自然なほどしんと静まり返った。
そしてその沈黙を破ったエレノアの言葉は
「お腹空いたわ!ご飯にしましょ!」
いつも通りだった。
「えー?クロウさん独身だったの?」
広げたシートの上でサンドイッチを片手にエレノアは意外だと目を丸くした。王佐という地位ならば引く手数多だろうに、と。いつもゼフィールの隣に居るため目立ちはしないが、見目も悪くないし背だって低くはない。
「ええ、特に予定もありません」
「恋人は?」
「いませんよ」
そっけなくも律義に答えるクロウに「へー」とエレノアは声を上げる。
「ベレー家って有名な貴族じゃない。両親はなにも言わないの?」
「仕事が忙しいので家庭は維持できないだろうと諦めているようです。それでも昔はうるさかったですけど、もういい歳ですし」
「いい歳ってまだまだ適齢期真っただ中でしょ」
「今年で30になります」
エレノアは落としそうになったサンドイッチを慌てて握り直した。見た目はゼフィールとそう変わりないのに一回り違うらしい。
「詐欺だわ」
「・・・すみません」
「褒めてるのよ。若く見えるって羨ましいわ」
ねえ?とリズは同意を求められて控えめに頷いた。若く見えるのは女性にとっては大変羨ましいこと。それにしてもクロウは若見えの度が過ぎているが。
「でもその年でロマンスがないってのも寂しいわねぇ。紹介してあげましょうか?」
「結構です」
「遠慮しなくていいのに。あ、リズは駄目よ。もう相手の方が居るんだから」
ねー、と再び求められた同意にリズは頷けずに固まる。恋人など作った覚えはないし片想いの相手すらいない。
「私に恋人は・・・」
「恋人ではないけど初恋の人はいるじゃない。ほら、手紙の―――黒薔薇の君!」
グフッと乾いた音を立てたゼフィールはパンを喉に詰まらせて苦しそうに呻いた。胸を叩いて水を飲んだが変な所に入ったらしく咳込み続ける。
エレノアは気にせずにニコーっといい笑顔でリズを見た。
「文通してるのよねー」
「・・・」
リズは困って曖昧に笑った。ロマンスというほどではないが文通しているのは確かなので否定もできない。初恋、というのもエレノアにとってはポイントが高いのだろう。
「黒薔薇ってなんですか?」
クロウが尋ねるとリズではなくエレノアがキラキラした目で語り出す。
「昔ね、リズが小さい頃、迷子になっている時に男の子が黒い薔薇をくれたんですって!素敵じゃない?」
「・・・それ、ただの失礼な人じゃないですか。どこが良かったんです?」
普通なら黒い薔薇など縁起の悪いものを贈ろうものなら非難されてしかるべき。
しかしあの時黒い薔薇だったのはたまたま近くに生えていたからだ。それに暗くて色がはっきりと見えなかった可能性もある。
「・・・優しい方だったので」
「優しい人は黒薔薇なんて贈りませんよ」
リズのぼそぼそとした小さな声をかき消すかのように、クロウは冷たくピシャリと言い切る。エレノアはむくっと頬を膨らませた。
「もう!リズの大事な思い出なんだからそんなに言うことないでしょ!」
「・・・そうですね」
すみません、と素直に謝るクロウに「お気になさらず」とリズが言う。
あ、そうだ。とエレノアは急にゼフィールの方を向いて口を開いた。
「陛下の初恋はいつ?相手は?」
ここは未来の結婚相手として聞いておきたいところ、と意気込むエレノア。しかしまだ喉の違和感が拭えず苦い顔をしているゼフィールは、質問に答える気はないのか口を開こうともしなかった。
「教えて教えて!好きな女性のタイプだけでもいいから!」
今回は大好物の恋愛絡みの質問なので簡単には退かない。
エレノアの期待のこもった熱い視線に根負けしたゼフィールはようやく話始めた。
「特にない」
「えー?今までに素敵だと思った女性の一人や二人はいるでしょう?」
「・・・ない」
「あえて言うなら?」
エレノアのしつこい問いにゼフィールはたっぷりと間を置いてから苦々しげに口を開く。
「・・・しつこくない女」
途端に、エレノアがパーッと目を輝かせる。
「へえ!自分と似たタイプが好きなのかしら」
暗に自分と正反対の女がいいと言われていることに気づいてないのか、エレノアは上機嫌でニコニコといい笑顔だ。リズはエレノアに「もう少し引いてみた方がいいのでは?」と進言すべきか迷って口を開けては閉じてを繰り返した。明らかにゼフィールはエレノアの押しが強すぎて嫌がっている。このままではゼフィールに嫌われかねないが、リズが言ったところでエレノアはどこまで真剣に聞いてくれるか。
「ひ、ひめさま・・・」
「じゃあリズくらいねー!今のとこ脈がありそうなのは」
意を決して出した声をかき消したエレノアの発言に、リズは目を見開いて驚きの声を上げる。
「そんなっ、脈だなんて・・・」
「あるわよ。だって好きでもない子に何年も手紙を送ったりしないでしょ?」
「ただの文通ですよ。口説かれているわけではありませんし」
「そう?この前見せてもらったけどリズにベタ惚れだと思ったわ」
ベタ惚れ?とリズは首を傾げて考える。大切な人だと言ってもらったことはあるけれど、なにか決定的な言葉をもらったことはない。なにより名乗らないのだから男女の関係になりたい意図はないはず。
「そうでしょうか・・・。匿名ですし可能性は低いと思います」
「でも事情があるって言われたんでしょ?好きだけど親に決められた婚約者がいるとか、特殊な立場だとか、明らかに何か問題を抱えているんだわ。だから好きだって言えないだけよ、きっと」
リズはエレノアの言葉に再び深く考え込んだ。
「もし仮に・・・、仮にそうだとしても、つまり脈がないということになりますよね?」
「あら、そんなのわからないじゃない。もしかしたら突然現れて求婚されるかもよ?駆け落ちなんて展開も有り得るでしょう?」
夢見がちな発言にリズは苦笑する。ラブロマンスの小説なら有り得るだろうが、現実でそんな展開はそうそう起こらない。
再びむせて咳込んでいたゼフィールにエレノアは眉を八の字にして水の入ったコップを差し出した。
「陛下ったら、また変なところに入っちゃったの?急いで食べるからよ」
しょうがない人ねー、と咳込むことになった原因が自分の発言だとは知らないエレノア。
ゼフィールは引ったくるようにコップを奪うと一気に飲み干す。
「大丈夫?」
「・・・なんでもない」
エレノアに心配され、クロウからは厳しい視線を向けられ、ゼフィールは不服そうな顔で低い声を出した。すると次の瞬間。
「なんじゃこりゃー!!」
突然の大声に一同の体がビクリと震える。今までひとり黙々と食べていたベンの絶叫が森で何重にも響き渡った。





