潔癖症毒殺事件(解答編)
【ここまでのあらすじ】
chapter 01:六畳一間のアパートで甲斐性無しの真下八雄を刃物で刺した妻の小枝は、夫の返り血を浴びた服と凶器を捨てるために玄関を施錠して窓から外出する。
証拠品を始末した妻は、合鍵を持つ大家と玄関から室内に侵入すると、血まみれで倒れる夫の第一発見者を装って、大家に警察への通報を依頼した。
彼女は大家が通報している間に、外出した窓を施錠して密室を作り上げたのだった。
「アルくんは、どうやって密室事件を解決したの?」
「最初の事件は、妻が大家に濡れ衣を着せるために仕組んだトリックだとわかります。なぜなら大家が現場を離れている時点で、密室トリックが成立しませんからね」
「そうか、密室じゃないなら奥さんが犯人よね。強盗なら、わざわざ密室にして逃亡しないわ」
化粧品メーカーの祥子さんは化粧品のサンプルを整理しながら、俺が退屈凌ぎに聞かせている自慢話に食いついてきた。
彼女が小売店に発送するために梱包しているのは、今期新作の試供品でファンデーション、アイライナー、口紅など一回使い切りで新色がセットになっているものだ。
梱包が終わった試供品を墨猫ヤマトで小売店に発送するのは、アルバイトに雇われた俺の仕事である。
「そうなんですよ。祥子さんの言うとおり、大家が密室を作る道理がなければ、妻の犯行以外にあり得ないのです」
「でも、そんな事件はテレビで報道されなかったわ」
「結果的に未遂で終わりましたし、夫のDVが犯行の引き金だったとわかりました。条所酌量の余地があれば、更生の可能性を考慮して大々的な報道を控えてもらいました」
「アルくんは優しいんだね……お姉さん、惚れちゃいそうよ」
課長の肘掛け椅子に凭れた俺は『やりきれない事件でした』と、肩をすくめてため息を吐いた。
chapter 02:カツアゲされていた下級生のサラを助けた俺は、チャイニーズマフィアの一人娘に逆恨みされて、助手のアガサを誘拐されてしまう。
誘拐犯となった三人組のリーダー麻除は俺に嫌がらせするために、無理難題で身代金の受渡し場所を指定してくる。
俺が誘拐犯の出題する受渡し場所を特定しなければ、人質となった助手の監禁場所に辿り着けずに、助手のアガサは餓死してしまうのだった。
「アルくぅん、誘拐の話も聞かせてよ」
「良いですよ。ただし香子さん、誘拐事件は報道されていませんので、ここで聞いた話はご内密に」
「はぁい」
まだ販売前のヘビイチゴポッチー激辛を咥えた香子が、タイヤ付きの椅子を足で漕ぎながら近付いてくる。
そういえば先ほど女子トイレを覗いたとき、鏡の洗面台に置かれていた空箱が同商品だった。
彼女は所構わず試供品の菓子を食べ歩いているのだが、菓子好きの彼女だからこそ、菓子メーカーの新規開拓が成功したのかもしれない。
「誘拐事件は、犯人の指定する身代金受渡し候補地全部に、現金をばらまきました」
「え、いくらかかったの?」
「ざっと600億円」
「アルくぅん、おっかねもちぃ!」
「ええ、お金持ちです」
「アルくぅんは想像力が豊かだし、作家さんでも目指したら?」
史上最大の誘拐事件は金の力でもみ消したので、香子は俺の作り話だと信じていない様子だ。
事件が明るみにならなかったのは、警察の隠蔽やKISSの情報操作が秀逸だった証であり、本来ならば万事上手く言っていると喜ぶべきなのである。
しかし俺が解決した密室殺人未遂事件や誘拐事件の手柄を、与太話だと信じてもらえないのは少々つまらん。
「金奈良くんの実家は、あの金奈良家なのかい?」
「俺の名前は金奈良亜留、巷では名探偵アルと呼ばれています」
窓の外を眺めていた課長の四輝は、聞き耳を立てていた様子で、今さら俺が総資産6那由多円の大富豪の御曹司だと気付いたようだが、金奈良なんてふざけた苗字の奴が当家以外にいるなら連れてきてほしい。
まあ金に困らない大富豪の嫡子が、時給850円の短期バイトに応募してくるとは考えもしなかったのだろう。
「アルくぅん、本当にお金持ちなの?」
「ええ、お金持ちです」
並の金持ちならば『いやぁ、うちなんてまだまだですよ』と謙遜するものだが、金奈良家より資産を持っている人間など地球上にいないので、下手に謙遜して素性がばれたら、単なる嫌味にしか聞こえない。
ゆえに否定しない。
「香子はお菓子も好きだけど、お金持ちはもっとだぁいすき」
香子は食べかけのヘビイチゴポッチーを俺の唇に当てると、色目を使ってきた。
これは俺の男としての魅力なのだろうか、それとも金の力がなせる技なのか。
俺が彼女が差出すピリ辛のポッチーを咥えながら、そんなことを考えていたとき、事務所の扉が開いて鶯谷警部と駿菜の連れてきたアガサが飛び込んできた。
「アル、いったい何をしてるんです?」
アガサは肘付き椅子に凭れたまま、香子にポッチーを食べさせてもらっている俺を見て呆れ顔で言った。
「いやいやいやっ、べつに頼んだわけじゃないからね! 香子さんが、勝手に食べさせているだけだからね!」
「ちゃんと働いているかと思えば……美人OLを侍らせてハーレム気分ですか」
「ち、違うっ、俺は今日まで馬車馬のように働いたって!」
アガサが指を鳴らすので、椅子から飛び降りて土下座した。
俺から毒殺事件の報告を受けた助手が、押っ取り刀で駆けつけたところ、椅子に踏ん反り返ってナイスボディの香子にポッチーを食べさせられているのだ。
助手は同僚を毒殺した犯人がいる現場で、容疑者からポッチーを食わされている危機感の無さに憤慨している。
「そんなことよりアルくん、事件当時の状況を教えてくれんかね?」
「わかりました……鶯谷警部」
俺は何事もなかったかのように立ち上がると、膝の埃を払って容疑者である四輝、祥子、香子の前に歩み出た。
事件の被害者である希林玲紋は同僚の女性社員たちと退社時間5分前、帰宅準備のために机を離れており、課長はアルバイトが最終日だった俺のところで雑談に興じていた。
被害者が毒殺されたのは、女性社員が身支度していた女子トイレだと考えられる。
現場の状況を整理すると、まず菓子メーカーを担当している香子は喫煙により嫌煙家の被害者とトラブルがあり、化粧品メーカーを担当している祥子は、彼女たちを残して先にトイレを後にした。
祥子がいなくなった後、香子の証言によると鏡に向かっていた被害者が、喉元を押さえて苦しみ出して、そのまま女子トイレが飛び出して絶命したとのことだ。
「女子トイレの遺留品は、飲料水の空缶、お菓子の空箱、被害者の化粧ポーチ……それに洗面台で揉み消された煙草の吸い殻ですな」
俺が電話でアガサに報告した同じ内容を鶯谷警部に伝えると、警部は口紅のついた吸い殻をピンセットで摘み上げた。
「うむ、缶飲料に毒物を混入すれば四輝課長にも犯行が可能ですな。被害者の上司であり、同じ飲料メーカーを担当しているなら、口実をつけて毒入り飲料を飲ませるのも容易い」
「け、警部さん、ちょ、ま、待ってください。潔癖症の彼女は、いつも缶飲料の飲み口を拭って飲んでいましたし、未開封の缶飲料に毒なんか混入できませんよっ」
「いいえ、わかりませんぞ。缶に小さな穴を空けて毒を混入してから、ハンダで穴を塞げば可能じゃありませんか」
鶯谷警部は『アルくんも、そう思うだろう?』と、目を閉じて彼の推理を聞いていた俺に同意を求めたが、俺は既にアガサから犯人とトリックを解説されているのだ。
俺の役目は、衆目を集めて華麗に犯人を言い当てることであり、警部の的外れな推理などに耳を貸す必要はない。
「確かに警部の推理でも、玲紋さんに毒入り飲料を飲ませられるでしょう。しかし鶯谷警部の見立ては、見当外れです」
「なぜだい?」
「なぜ?」
「私の見立てが、なぜ見当外れなんですか」
「ちょ、ちょっと待っていろ、いま助手の意見を聞いてくる……アガサ、こっち来い!」
俺に呼びつけられたアガサが、うんざりした顔で近付いてくるので、小さく畳んだ一万円を胸ポケットに挿し込んでやった。
一万円が一週間のアルバイトで稼いだ金額だと思えば、くれてやるのが惜しくなるのだから、俺は助手の作戦に踊らされている気がする。
「いいですか。缶飲料に異物を混入するため一度開封すると、気圧が抜けてしまいます。飲料メーカーを担当していた被害者がプルトップを倒したとき、気の抜けていることに気付かないでしょうか」
「玲紋さんは、開封に気付かなかったかもしれんだろう」
「では潔癖症の被害者が、女子トイレで飲食すると思いますか」
「香子さんならトイレでもポッチーを食べそうだが……いや、普通はしないな」
「では、そういうことです」
アガサが話を切り上げようとしたので、肩を掴んで引き戻した。
「まてまて、現場が女子トイレなら飲食で毒殺できない理由はわかったが、へそ曲がりの鶯谷警部は、煙草の吸口に毒が塗られていたとか言うぞ」
「被害者が喫煙者なら、その可能性も疑うべきです。でも被害者は嫌煙家で、喫煙者の容疑者と険悪だったと言っています」
「玲紋さんが嫌煙家とは、犯人の偽証かもしれない」
肩に置いた手を払ったアガサは、玲紋が嫌煙家との証言が、誰の証言だったのか思い出せと助言してくれた。
被害者が嫌煙家で喫煙者の香子と険悪だったから逃げてきたとは――
「アルくん、アガサくんとの打合せは済んだのかい」
俺は鶯谷警部に『トイレでは、毒入り飲料や菓子で殺すのが難しい』と、前髪をかきあげてクールに返答した。
「では真犯人は、煙草の吸口に毒を塗って被害者に吸わせた香子ですか」
「鶯谷警部、玲紋さんが嫌煙家だと証言したのは喫煙者の香子さんではありません。二人が険悪なムードだと、先に女子トイレを出てきた祥子さんです」
「それでは、いったい誰が犯人なんですか」
祥子は、被害者と香子がトラブルを抱えていたと思わせたくて、余計な一言を口走ったのだろう。
「犯人は、臼家祥子お前だ!」
ジョジョ立ちで祥子を指差す俺に、鶯谷警部も劇画調の表情で『な、なんで祥子が犯人なんだい、だって彼女は先に現場を離れている』と、驚きを禁じ得ない様子だ。
俺はジョジョ立ちのまま顔を手で覆うと、指の隙間から視線を泳がす祥子を睨んでいる。
「トイレの洗面台に空缶を置いたのは、灰皿代わりにしようとした香子さんの仕業で、菓子の空箱はトイレのゴミ箱に捨てようと持ち込んだだけかもしれない。口紅のついた煙草も、香子さんのものだと証言がある。だから、それらの遺留品に深い意味はぁない」
「しかしアルくん、香子が犯人じゃなくても祥子が真犯人とは限らんぞ」
「問題は、玲紋さんの化粧品ポーチが洗面台に残されていたことだ。つまり被害者は帰宅前、女子トイレで化粧直ししていったってぇわけだぜ!」
「ま、まさか、毒は口紅に仕込まれていた……だが潔癖症の被害者が、他人から渡された口紅を素直に使うかね」
「鶯谷警部、玲紋は潔癖症だからこそ未開封の試供品を手にしたんですよ。しかも口紅の新色サンプルであれば好みの色もあったでしょうし、同僚から『仕事だから試してくれ』と言われて断れるものでもありません」
「アルくんの推理が、いつになく冴えている! しかも饒舌だ!」
鶯谷警部が遺留品の化粧品ポーチを机上にひっくり返すと、口紅の試供品サンプル新色8色のうち、パウチ包装された薄い桃色の1色だけ使用済みになっていた。
「被害者は、確かに祥子が扱っている口紅のサンプルを使った形跡があるが……アルくん、パウチ包装された未開封の口紅にどうやって毒を混入したんだね。また助手と打合せするかい」
「それも、助手と打合せ済みです。口紅のサンプルはパウチ包装で、フィルムを剥がさなければなりませんし、全色に毒を混入すれば鑑識にもバレてしまいます。だから毒は、サンプルを掬って唇に塗る簡易包装の化粧ブラシに塗布していたのですよ」
「そうか、毒をブラシに塗布しておけば何色を塗ろうが構わない。それにサンプルセットのブラシならば、祥子の手元に同じものが大量にある」
「女子トイレから出てきた玲紋さんがブラシを手にしていたのなら、駆け寄ったときに別のブラシと擦り替えが出来ます」
しかし鶯谷警部は祥子の手荷物検査をしたが、毒の塗布された化粧ブラシが見つからなかった。
「アルくんは私を犯人にしたいみたいだけど、玲紋の唇から毒が検出されても、それは香子にもらったポッチーに塗布された毒かもしれないでしょう? 詰めが甘いんじゃない、名探偵くん」
「うう……しかし玲紋さんが使った化粧ブラシが見つからないのだから、絶対に祥子さんの犯行に違いない」
「証拠もなく、当て推量で犯人にされたら堪らないわ」
祥子のボディチェックでも証拠品が見つからず、膠着状態のまま時間だけが過ぎて行く。
そんな緊迫した雰囲気の中、墨猫ヤマトの集荷人が『今日の荷物は、これだけですか』と、アルバイトの俺に声をかけてきた。
祥子の片眉が一瞬だが、墨猫ヤマトの集荷人を見てピクリと反応した。
「そうか、犯罪の証拠は小売店に発送する荷物に紛れ込ませましたね」
「えっ、な、な、なにを言ってるのかしら? お、お姉さん、なんのことかわからないわ」
「祥子さん、そんなわかりやすく動揺されましても……完全に当りですよね」
「あ、あの娘が悪いのよッ、玲紋が浮木四輝課長に色目を使って誘惑したのがッ、そもそも悪いのよッ! アルくんッ、私の課長を誘惑した泥棒猫はッ、死んで当然だと思わない!?」
「思わない」
半狂乱で騒ぎ出した祥子は、俺の両肩をがっしり掴んで同意を求めてきたが、そもそも妻子持ちの四輝と浮気している時点で彼女は泥棒猫だし、潔癖症の玲紋が課長に二股されているわけもない。
「すまん祥子……玲紋とは、一度きりの関係だったんだ」
「課長ッ、二股してたんかい! おめぇの節操の無さが、この事件で諸悪の根源だ!」
「俺の節操がないばかりに、祥子に玲紋を殺させてしまった。祥子、本当にすまなかった」
人は見かけに寄らないが、妻子持ちの四輝は何食わぬ顔で祥子と玲紋、二人の部下と二股浮気をしていたらしい。
こうして潔癖症毒殺事件は解決したが、俺の恋愛観に少なからず爪痕を残す、やりきれない結末だった。
※ ※ ※
短期アルバイトを終えた俺は後日、働いて稼いだ金でアガサを喫茶店に誘った。
一週間とは言え一緒に働いた男女が痴情のもつれで殺人事件を起こしたのだから、俺にとって後味の悪い事件である。
金を稼ぐために労働する難しさを教えてくれた助手には、汗水垂らして働いた稼ぎで、好きなものを食べさせてやろうと思った。
「あの課長さん、不倫の清算に祥子の嫉妬を利用したのかもしれないわ」
「四輝課長が、祥子に玲紋さんを殺させた?」
「もしくは、三人目の女が唆したのかもね」
「香子さんが祥子に? アガサ、事件の裏を疑えば切がないぞ。どんな理由があれ、祥子さんが真っ当に生きていれば人なんか殺さない」
「あら、祥子にはずいぶん冷たいのね。女性に優しいアルのために、祥子の犯行動機を推理してあげたのよ」
アガサはフルーツパフェにスプーンを挿して一口すくうと、それをゆっくり運んで味わっている。
「アガサは、俺が麻除に一万円をほいほいくれてやると、なんで目くじらを立てるんだ? 嫉妬か?」
「私がアルと麻除に嫉妬っ!?」
むせ返ったアガサが、胸を叩いて肩で呼吸を整えると、少し照れた顔で人差し指を突き立てた。
「同じ一万円でも、麻除の肩叩きはボッタクリですが、私のアドバイザリー料金は破格の安さです。私の亡くなった父は私立探偵だったのですが、殺人事件の犯人を捕まえた報酬が一万円だと知ったら草葉の陰で泣きますよ」
「そう言われてみれば、確かに破格の安さだよな……あ、もしかして助手の手当を値上げしろってこと?」
「アルには、お金の価値を知るべきだと言っています。そもそも私は、お金がほしくてアルの助手をしていません」
「お金じゃなかったら、なんで俺の助手なんかしている?」
「理由は、そのうち話します」
パフェに乗っているメロンを持ったアガサが『苦手だからあげる』と、俺の口に押し込んだので話をはぐらかされてしまった。
俺は助手が口にした私立探偵だった父親の素性を、興味本位でKISSの駿菜に調べさせたところ、彼女の父親である目里井洒呂久は事件の捜査中、何者かに殺されていた。