潔癖症毒殺事件
俺の名前は金奈良亜留、同級生のアガサと、後輩のサラを助手に雇って名探偵をやっている者だ。
しかし最近、金の使い方で一番助手のアガサと仲違いしている。
「坊や……じゃなくてアル、肩叩き終わったから一万円おくれよぉ」
「麻除の肩叩きも、なかなか上手くなったではないか」
「じゃあ、二万円に値上げしておくれ」
「まあ考えておく」
「ケチ」
アガサ誘拐事件の犯人だった麻除には、父親に性根を叩き直してほしいと私立金奈良高校に転入してきて以来、僕の忠実な部下として働いてもらっている。
チャイニーズマフィアの一人娘として悪行の限りを尽くしていた彼女には、アガサやサラのように優秀な助手として助言できるような知性も知識もないので、主に肩叩きや鞄持ちの雑用を頼んでいた。
他にも学生生活をエンジョイするため、校内や通学路で帯同させないKISSの代わりに、周辺警護の用心棒にも重宝している。
「教室で現金のやり取りは、いい加減にしなさいよ。そもそも何で肩叩き一回で一万円なの? 相場ってものがあるでしょう」
「まあまあ、そんなこと言ってもアガサに頼んでも、肩を叩いてくれないじゃん」
「当たり前です。どこの世界に、同級生の肩叩きしてお金を稼ぐ人がいるのですか」
「ここにいるじゃん?」
俺が背後に立っている麻除を指差すと、さすがのアガサも空いた口が塞がらない様子で机を叩いた。
「何でもかんでも金、金、金って、アルは金だけの男ですか?」
「アガサ委員長、これは私とアルの契約なのさ。相場、相場って騒ぐけどさ、あんたは一万円もらってもアルの肩を叩かないけど、私は一万円もらえば肩を叩くわ。需要と供給なんだから、雇い主に余計な入れ知恵はやめておくれよ」
元スケバンの用心棒は心強い反面、事ある毎に報酬を要求するので、同じクラスのアガサが目にする度に『月給にしなさいよ』と、意見してくる。
俺の金銭感覚が狂っているから、麻除みたいな小悪党が街に蔓延るのだと、俺の手を引いて廊下に連れ出した。
「世の中には、お金で解決してはいけない問題もあると、この前言いましたよね。アルは、私の忠告を理解していません」
「肩叩きの報酬が問題なら、駅前のマッサージ屋は違法なのか? 麻除の父親が経営する個室マッサージ屋は、一時間で三万円らしいぞ。しかもオプション料金なんてのもあって、フルオプション本番ありなら十万円以上かかる。麻除の肩叩きは、相場より安いくらいではないか」
「ち、違います、それは肩叩きとは、根本的に違うマッサージです」
「どんなマッサージなんだよ?」
「そ、それは……その女性が男性をマッサージしてですね……その気持ちよくしてあげる」
「ならば、麻除のマッサージと変わらんじゃないか」
アガサは、いつになく真剣な目で俺の両肩を掴むと、
「具体的にはいえませんが、絶対に違います」
「は、はい……わかりました」
有無を言わさぬ勢いで、俺に顔を近付けて睨んだ。
俺の金銭感覚が狂っているなんて、今さらアガサに指摘されなくても気付いているが、どうやって直して良いのかわからない。
「アルには、一万円を稼ぐ大変さを知ってもらうべきかもしれません。金奈良高校はアルバイトが禁止ではありませんし、本校の生徒ならば仕事を探すのも苦労しないでしょう」
「仕事ならばゼニナーラコンツェルンの投資顧問で、秒で億を稼いでいるぞ」
「そういう仕事ではなくて時給を稼ぐ……良いわ、私がアルの職場を決めてあげます。アルが汗水垂らして、お金の大切さをわかるまでは口を聞いてあげませんからね」
「そんなぁ、アガサがいなかったら探偵業はどうするんだよぉ」
「とりあえず一万円、一万円を稼ぐまでは探偵業は休業です」
アガサの決心は固く、翌日には試供品やノベルティグッズの企画会社のデスクワーク時給850円、放課後から三時間、平日一週間の短期アルバイトを見つけてきた。
一日三時間で2550円であれば、月から金まで働いて一万円以上の稼ぎだと文句をつけたところ、税金を差っ引いたらそんなもんだと、けんもほろろ言い返された。
※ ※ ※
「アルくん、コーヒー入れてちょうだい」
「へい!」
「アルくんの美味しいコーヒーが飲めなくなると思うと、お姉さん寂しいわ」
「あざっす!」
人間の順応性には驚きを禁じ得ない。
試供品とノベルティグッズの企画会社でアルバイトを始めた初日こそ、俺にとって無給に等しい小銭のために、なぜお茶汲みやコピーを取らなければならんのかと、職場を放棄して逃げ出そうかと思った。
しかし本日はアルバイト最終日、俺の煎れたコーヒーを臼家祥子さんに褒められると、腰を45度に曲げて頭を下げて感謝する。
化粧品のノベルティグッズを企画している祥子は、さすがに化粧品メーカーに出入りするだけあって、なかなかの美人だったが、職場の皆に言わせると化粧が上手いだけらしい。
「アルくぅん、試供品のお菓子食べる? コーヒーと一緒に、みんなにも配ってあげて」
「承知しました!」
俺の名前を甘い声で『アルくぅん』と呼ぶのは、菓子メーカーとの打合せを終えて外回りから帰社した天井香子さんだ。
俺に豊満な胸を押し付けるように狭い給湯室に入ってきた香子は、試供品に小分けされたクッキーをカウンターに置いた。
香子は『バイト続けなよぉ』と、もともとお茶汲みだった彼女が菓子メーカーの新規営業に成功して、短期アルバイトを募集した経緯がある。
俺がアルバイトが辞めれば、またお茶汲みは彼女の仕事になるので、仕事を続けるように誘惑しているのだろう。
「アルくん、コーヒーまだ?」
祥子が痺れを切らしたのか、給湯室に香子と二人で籠もっている俺を呼んでいる。
「香子さん、祥子さんが俺のこと呼んでますから……いきますね?」
「あんな女の命令は、聞かなくていいわよ。祥子は、妻子持ちの浮木課長と浮気してるんだから」
「祥子さんが?」
俺のアルバイト先である事務所には祥子、香子のほか、社員が二人いる。
浮木四輝課長は、もう一人の営業部員である希林玲紋さんと一緒に飲料メーカーを担当している。
白髪まじりの中年男性が、アラサーとはいえ美人の祥子と浮気しているとは、にわかに信じ難い話ではあるが、そう聞けば仕事中に二人が目配せしているところを見かけることがあった。
「玲紋さんは、コーヒー飲めないんじゃないんですね?」
「うん、私はこれ飲んでるから」
玲紋が試供品の缶コーヒーを見せてプルトップを倒すと、ペコンと乾いた音がした。
飲料メーカー担当の彼女は営業先の飲料水を飲んでいるから、俺が煎れたコーヒーを飲む必要もないのだが、せっかく一週間で身につけたスキルであれば、一回くらい飲んでくれても良いと思う。
彼女は祥子や香子と比べると、どうも人付き合いにフレンドリーさが欠ける。
可愛げがない。
「金奈良くん、彼女の分も僕がもらうよ」
「二杯も?」
「捨てるのは、勿体無いだろう」
「俺は構いませんが、給湯室に空缶が山のようにありましたが、今朝から何杯目ですか?」
「ああ……新商品の試飲で、いろいろ試しているんだよ」
四輝と玲紋は営業先の飲料メーカーから試飲を頼まれたらしく、今朝からジュースやコーヒーをたらふく飲んでいるようだ。
ならばアルバイトが煎れたコーヒーなんて、気にせず断れば良いものを、女ばかりの職場では過剰な気遣いも要求されるのだろう。
アガサの言うとおり、金を稼ぐのは容易ではないのだな。
「彼女は、潔癖症なんだよ」
「玲紋さんが?」
「ああ、だから金奈良くんのコーヒーだけ飲まないわけじゃないんだ」
定時を回った女性社員が帰宅の身支度で席を外すと、四輝が事務作業している俺に話しかけてきた。
玲紋がコーヒーを飲まなかった理由はわかったが、わざわざ今日で職場を去る短期アルバイトに伝える必要もない。
「金奈良くんが成人なら、飲み屋で慰労会でも開くんだけどね」
「いえいえ、お気遣いなく。一週間のアルバイトなのに、そこまでしてもらったら気が引けます」
「そうかい、じゃあ元気でね」
そう言いながら四輝は、女子トイレから出てきた祥子の背中を見ている。
俺に話しかけたのは、美人の部下とアフターファイブを過ごしたための帰宅時間の調整だったのか。
人は見かけによらんな。
そんなことを考えていたとき、女子トイレから青ざめた顔で出てきた玲紋が、ニ歩、三歩、足元がおぼつかない状態で床に倒れた。
「アルくぅん、救急車! 救急車! 玲紋が急に苦しみだして、私は何が何やら!?」
玲紋を追うようにトイレから出てきた香子は、鏡に向かっていた同僚が喉を押さえて苦しみ出すと、呼び止めるのも聞かずに外に飛び出したと言う。
俺は口角に泡を溜めている彼女の脈を計るが、既に死亡しているようだ。
死んだ状況から薬物死が疑わしいが、アガサから青酸カリだった場合、香りを嗅ぐのは危険だからと止められている。
玲紋が毒殺されたのなら、よほど特殊な遅効性の毒物でもない限り殺害現場は男子禁制の女子トイレしかない。
「失礼します!」
女子トイレに入った俺は、鏡の前に置かれた飲料水の空缶、菓子の空箱、たぶん玲紋の化粧ポーチ、それに微かだが煙草の香りを確認した。
社内禁煙なので彼女たちの誰かが、仕事終わりの一服を男子禁制の女子トイレでしていたようだ。
「皆さん、玲紋さんは喫煙していますか?」
「アルくぅん、トイレで喫煙してたのは私だけど、玲紋は吸っていなかったわ」
トイレの個室で喫煙していたのは香子で、祥子の証言によると、嫌煙家の玲紋と険悪な雰囲気になったので逃げたらしい。
「金奈良くん、救急車を呼んだけど、やっぱり警察にも通報した方が良いよね?」
「課長さん、玲紋さんは何者かに毒殺されています。しかも状況から見て、外部の犯行とは言えません」
「な、なんだって! 金奈良くんは、ぼ、僕らの中に犯人がいると言うのかい?」
「ええ、犯人はこの中にいます! 名探偵アルの目は誤魔化せないぜ!」
俺は、四輝、祥子、香子を一人ずつ指差すと、課長が明らかに動揺して挙動不審に見えた。
「とりあえず、お前だ!」
理由はわからんが、何食わぬ顔で浮気している四輝ならば、犯人に相応しい気がした。
「しょ、職場で人が死んだんだよ? 責任者の僕が、動揺しても不思議じゃないだろう」
「そりゃそうですね……では、やっぱりお前だ!」
理由はわからないが、何食わぬ顔で妻子持ちの上司と浮気している祥子ならば、犯人に相応しい気がした。
「なんでよ、私は玲紋より先にトイレから出たわ。どうやって、玲紋に毒を飲ませたのよ?」
「そうなんですよね……じゃあ、お前しかいない!」
理由は二人より明確で、嫌煙家の玲紋と喫煙で口論していた香子ならば、殺害動機もしっかりしている。
何より、彼女しか残っていない。
「アルくぅん、そんなことで私は人殺しなんてしないよぉ」
香子は豊満な胸を押し付けるように、俺の腕にすがってきたので犯人ではない気がする。
と言うか名探偵アルは、頭脳労働が苦手なのだ。
さっそくアガサに電話した俺は、現場の状況と人間関係を伝えると、優秀な助手は難なく犯人とトリックを言い当てた。
「犯人はわかりましたが、警視庁の到着を待ちましょう」
警察が到着する前に謎解きして、犯人に逃走されても面倒だ。
俺はアガサにも現場に駆けつけるように指示すると、課長の肘掛け椅子に腰を下ろして脚を組んだ。
解答編につづく。